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2017年 05月 14日
今週は、ジャーマンベーカリーが銀座で産声を上げてから終焉を迎えるまでをお送りします。 1929年(昭和4年) この頃、山下町87番地にも出店する。 *出典:1930・S5 THE DIRECTORY OF JAPAN(どうやらジャーマンベーカリーは商工録類への掲載を拒んでいたようで、商工録類への掲載は東京の店を含めてこれ以外確認出来ません) *横浜のジャーマンベーカリーは銀座のジャーマンベーカリーとは同名他店という可能性も否定は出来ませんが、かといってそれを肯定する根拠も無い以上、その可能性は極めて低いと判断されます。 1930年(昭和5年)~1935(昭和10年) 弁天通1-9の角地に、当時としてはモダンなデザインの二階建てで、洋菓子やコーヒー、洋酒の他に昼食や夕食も出すドイツ風コンディトライ(Deutsche Konditorei)と称した実質的なレストランがオープン……したようなのですが、店が存在したこと以外の詳細は一切不明です。 そこでいろいろな資料を見てみると、昭和6年測図の横浜市三千分一地形図「新港町」でそれらしい建物の記載があることや↓、 ![]() さまざまな商工録によると弁天通1-9には昭和4年に本町4-44に横浜支店が竣工するまで安田銀行弁天通支店があったものの、その後は1-9に所在した商店の記載がないことや、弁天通1丁目を写した写真や絵葉書、航空写真が多数存在するものの、昭和10年以降に撮影された写真までジャーマンベーカリー弁天通店の目印である"飾り卯建"が確認出来ず建物も平屋建てであること。↓ ![]() また山下町の店は「The Directory of Japan 1930」でしかその存在を確認出来ないのに対して、弁天通の店については上記のように写真や都市発展記念館のブログ「ハマ発ブログ」20011年12月9日の記事にある証言などでその存在が確認できることから、安田銀行移転後の昭和5年頃に旧安田銀行弁天通支店の建物にジャーマンベーカリーが入り、昭和10年~11年ごろに通りに面した建屋部分を"巨大な飾り卯建"が目印の二階建てのモダンな建物に建て替えたか、または増改築したものと思われます。 *ジャーマンベーカリー銀座店は、文学作品その他に名前が登場するのに対して、弁天通店に関する文献が見当たらない理由は、弁天通りという場所柄を考えると外国人専用として営業していた可能性が高いと考えられます。 戦前の店舗 銀座5丁目7番地(旧銀座尾張町新地17番地、鳩居堂裏すずらん通りの旧カフェー・ユーロップ) 麹町工場(所在地不明) 弁天通1丁目9番地 確認出来たのは以上の三カ所。 戦争中 資料①でミュラー自らが語るところによれば、「戦時中の銀座店では、店があっても売る物が無く事実上の閉店状態で、昭和19年の空襲により銀座店が焼失したことで山中湖の別荘に疎開した」と述べるに留まり、横浜への進出については一言も言及をしていないのですが、これは当時の状況を考えると不自然に思えます。 それと言うのも、当時、、山手地区には130世帯430人のドイツ人が住んでいたうえに、弁天通から歩いて10分弱のところにある新港埠頭は、1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟締結以降、連合国による大西洋の海上封鎖を突破して喜望峰周りでドイツからやって来るドイツ海軍の封鎖突破船の日本側受入港(1941年~44年までに20隻あまりのドイツ艦艇が三菱重工横浜船渠に入渠してメインテナンスを受けている)であり、その後、イギリス軍の警戒が厳重を極め帰国が困難となると、これらの艦船は帰国を諦め海上輸送能力に劣る日本の為に東南アジア方面からの物資輸送に従事していて、それら艦艇の拠点となっていました。 これらのことを考え合わせると当時、横浜市内で唯一ドイツ人が経営する本格的なドイツレストランだった弁天通のジャーマンベーカリーが、銀座店も含めて閉店していたとはにわかには信じがたく、これらドイツ人相手に戦時中も営業を続けていたと考えるのが合理的だと思われます。 *国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで1946年に撮影された空中写真を見ると弁天通店も空襲で焼失したことが確認出来ます。 *第一次大戦時の元捕虜で日本に残留して食料関係の店を経営していたドイツ人は、食材の入手が困難になるまで店の営業を継続したアウグスト・ローマイヤー(本人は昭和17年以降は病に臥せっていた)や、疎開先の長野でパン屋を開業したヘルムート・ケテル、空襲で焼失するまで元町3丁目の汐汲坂入口でデリカテッセンの店を開いていたフランツ・メッガー(Franz Metzger)、店が空襲で焼失するまで神戸港に寄港するドイツ艦艇にパンの供給を行っていたハインリヒ・フロインドリーブ以外の大部分の者が駐日ドイツ大使館付警察武官兼親衛隊保安部代表として派遣されていたワルシャワの屠殺人と異名を取ったヨーゼフ・マイジンガーによる締め付けを恐れて開戦早々に軽井沢や長野県野尻湖畔などに疎開して事実上の軟禁生活を余儀なくされています。これらのことからミュラーが空襲で店が焼けるまで東京に居たということは、そうする必要があったことを物語っています。 1945年(昭和20年) 日本の無条件降伏により第二次世界大戦終結。 資料①によると、このときミュラーは、「GHQから戦犯として財産を没収されたうえ営業停止処分を受け自身は軟禁された」と語っているのですが、前述したように「戦時中のジャーマンベーカリー弁天通店はドイツ海軍御用達だった」とすると、それが「ナチスへの戦争協力」と見なされて処分を受けたとことになり話の辻褄が合ってきます。 しかし留意すべき点は、GHQによる「ドイツ人追放令」が発布されたのは昭和22年で、これは「ナチス関係者」と「ナチス政権掌握後に来日した者」に対する強制送還処分(ユーハイム夫人と長男家族がこれに該当して強制送還されている)であり、戦時中に営業していた店舗に対して営業停止や財産没収、軟禁という処分があったのかについては不明です。 *アウグスト・ローマイヤーは、ナチ党員となってまで戦時中も空襲が激しくなるまで店の営業を続け、また神戸でパン屋を開いていたハインリヒ・フロインドリーブは神戸に寄港したドイツ海軍艦艇にパンの供給を行っていますが、彼らが戦後、GHQより何らかのお咎めを受けたということは無かったようです(それどころかフロインドリーブは終戦直後に店を再開したものの材料が手に入らず3年ほど米軍キャンプでコックとして働いて糊口を凌いでいる)。 1949年(昭和24年) 資料①でミュラーが語るところによると、前年昭和23年に処分が解けたミュラーは、かつての銀座店の焼け跡に店を再建しようとするが、地主が契約期間が残って居る土地を他の店に又貸しした為に銀座店跡地にはすでに他の店が建てられていた。 そこで訴訟を起こすものの訴えは認められず、やむなく当時の朝日新聞東京本社の裏手、当時の国鉄有楽町駅脇の現在、黄色い看板のドラッグストアがある場所で有楽町店を開店したとのこと。 *終戦後、飲食店の経営が正式に認められるようになったのがこの年から施行された「飲食営業臨時規整法」以降で、これにより安定的に配給が受けられるようになり、この年にそれまで休業を余儀なくされていた戦前に第一次大戦時の元捕虜が開いた食料品店も一斉に営業を再開しています。 *銀座ローマイヤー(昭和24年営業再開)、神戸フロインドリーブ(昭和23年営業再開)、銀座ケテル(昭和24年頃営業再開)、ヘルマン・ヴォルシュケもこの頃に東京都狛江市で店を再開。 *ミュラーの言うことが事実だとすると、資産を没収された人物があのような時代にどうやって店を再開する資金を調達したのかという疑問が生じることや、前述のような社会情勢を考えると終戦後の混乱で自由に商売が出来なかったことを「営業停止(材料が手に入らないからヤミに手を出すと検挙され営業停止になった)」、預金封鎖により銀行から自由に預金を引き出すことが出来なかったことを「資産没収」、戦時中も店の営業を続けていたとしたらGHQによる事情聴取が終わるまで常に居場所を明らかにする必要があったことを「軟禁」とユーモアを交えて例えたのを、資料①のインタビュアーが真に受けてしまっただけのように思われます。 戦後の店舗 1956年(昭和31年)までに開店した店舗(店舗は資料①より、所在地、営業期間はネット情報による) 有楽町ショップ(有楽町駅脇/1948年~1998年) 材木町ショップ(現在の西麻布3丁目1の六本木通り沿いにあった1階が売店、2階が喫茶店/開店時期不明~1970年頃までに六本木交差点付近に移転) 銀座ビーコンコーヒーショップ(日本堂裏の戦前のジャーマンベーカリー旧銀座店があった場所の隣りに出店したジャーマンベーカリーの姉妹店/営業期間不明) 麹町ショップと製菓工場(戦前と同じ場所と思われるが所在地、営業期間不明) 大森ショップ(大森駅西口前/開店時期不明~1973年頃閉店との説あり) 横浜元町ショップ(元町5-201/1950年代前半に開店~2003年) 田園調布ショップ(東急・田園調布駅前/開店時期不明~1998年頃に閉店) 虎ノ門ショップ(所在地営業期間不明) 1956年(昭和31年)以降に開店した店舗 横浜駅名品街ショップ(1階が売店、2階が喫茶店。その後、1973年に名品街がジョイナスに建て替えられたあともジョイナス1階のほぼ同じ場所にあった/開店時期不明~1998年頃閉店) 渋谷特選街ショップ(東急文化会館2階/営業期間不明) 六本木ショップ(材木町店が移転したもの……らしいが六本木交差点付近にあり1階がジャマンベーカリーの売店、2階が同じく喫茶店、3階がジャズ専門のライブハウスが入ったビルにあったこと以外の詳細は不明/1970年頃~閉店時期不明) このほかに喫茶店などの店頭にショーケースを置いて商品を販売する一種の委託販売を行っていたところが複数あったようです。 *戦前の新橋第一ホテル(昭和13年開業の通称:銀座第一、現在の第一ホテル東京)内に"ビーコンコーヒーショップ"があったようなのですが、ジャーマンベーカリーとの関連は不明です。 *ジャーマンベーカリーは、東京地区の店舗は"麻布ジャーマンベーカリー"、横浜地区の店舗は"横浜ジャーマンベーカリー"、姉妹店のビーコンコーヒーショップは"ビーコンコーヒー"というように分社化され、ミュラーが社長を務める港区麻布新堀町7(現在の南麻布2丁目)の(株)インターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニー(IFP)がこれらを統括する本社(運営会社)とされていた。 *南麻布のインターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニーがあったビルにもジャーマンベーカリーの店舗があったようなのですが、「あったらしい」ということ以外は一切不明です。 1977年~1978年 NHKで、元第一次大戦時の捕虜として日本に収容されその後、神戸市中山手通1でパン屋「フロインドリーブ」(ジャーマン・ホーム・ベーカリーが経営)を開業したハインリヒ・フロインドリーブ(Johann Philipp Heinrich Freundlieb)をモデルにしたTVドラマの放映が開始される。 このときモデルになったパン屋の運営会社と名称が似ていたことや、神戸の人のなかには「フロインドリーブ」のことを「ジャーマンベーカリー」と呼ぶ人がいたことなどから、「横浜のジャーマンベーカリーがドラマのモデル」とか、「ジャーマンベーカリーとフロインドリーブは創業者が同じ」、はたまた「横浜のジャーマンベーカリーは神戸が本店」、「横浜ジャマンベーカリーの創業者は第一次大戦時の元捕虜」などの諸説が飛び交う。 これにより多くの人が「戦前にソーセージ屋やパン屋を開業したドイツ人は、おしなべて第一次大戦中に捕虜となり終戦後もそのまま日本に残った人たち」というステレオタイプに陥ってしまったようで(私も偉そうに人さまのことを言えた義理ではありませんが……)、2001年発行の第一次大戦時の習志野俘虜収容所を描いた習志野教育委員会編「ドイツ兵士の見たニッポン」(資料⑪)では、ユーロップ三人衆を紹介した部分で明治屋七十三年史の文章を引用する形で「ユーハイムが去った後のカフェーユーロップは後にヴィルヘルム・ミュラー(習志野)が引き受けジャーマンベーカリーとして再出発した」と、ミュラーが習志野俘虜収容所に収容されていた元捕虜だとしています(ちなみに明治屋の社史には習志野の記載はありません)。 日本交通公社発行「交通公社のポケットガイド44 横浜」昭和57年発行第6版より ジャーマンベーカリー バウムクーヘンでおなじみの、ドイツ菓子の老舗。1階がケーキの売り場、2階がレストラン。ライ麦パンのオープンサンド、ハンバーガーに人気がある<10:00~20:00、月曜休み> ![]() ジャーマンベーカリービル1階右側がジャーマンベーカリーの売店、左側がオンディーヌという靴屋(上の地図は左右が逆)、2階がジャーマンベーカリーの喫茶&レストラン、3階がステーキレストラン・ボナンザ *ドイツ語圏では"Wilhelm Mueller"という名前はありふれた名前のようで、第一次大戦で青島で捕虜になったドイツ人のサイトの名簿を見ると"Wilhelm Mueller"という名前の捕虜が5人、"Willy Mueller"を含めると7人確認出来ます。 *資料⑪の記述の誤りがなかったら、ジャーマンベーカリー創業者のミュラーの名前も、彼が第一次大戦時の捕虜では無かったことも、明治屋との繋がりも知ることは出来なかったワケで、まさに棚からぼた餅、ケガの功名と言うほかありません(藪を突いてみたらヘビが出たとも言えますが……)。 *どうやら70年代に入ってから、ミュラー氏の長男(資料②によるとミュラーは日本人の妻との間に長男が一人いて、彼は1963年時点ではジャーマンベーカリーの営業を担当していた)が会社を引き継いだ……ようです。 1990年前後~1998年 1990年に元町5-201にあった三階建てのジャーマンベーカリーの建物が、現在の上階がマンションの地下1階、地上7階建てのジャーマンベーカリー横浜元町ビル(現・オセアン元町ビル)に建て替えられる。 また1991年(平成3年)にジャーマンベカリーの運営会社がそれまでの(株)インターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニーから(株)ジーウィル、1998年に(株)ジービーと変遷し会社の所在地も川崎市川崎区京町2丁目となる(本社の所在地変更はこれより以前に行われた可能性が高いと思われますが詳細は不明です) 1998年~2003年 1989年から「横浜が選んだ横浜ブランド「ヨコハマ・グッズ横濱001」の認定が始まり、ジャーマンベーカリーの商品が第一期から2001年を除く2003年第十期まで認定されていたが、2003年を最後にジャーマンベーカリーの名前が見られなくなる。 このことからジャーマンベーカリーは、2004年までに終焉を迎えたものと思われます。 ということで、今回の調査で判明したことは以上です。 参考資料 ①1956年(昭和31年)実業之日本社「実業の日本9月発売59巻22号 P88-P93 "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"」 ②1963年(昭和38年)製菓実験社「製菓製パン12月号グラビアページ "菓業人のプロフィール -ウィルヘルム・ミュラー氏-"」 ③1930年(昭和5年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1930」 P517/横浜市立図書館所蔵 ④1930年(昭和5年)横浜市「YOKOHAMA 横浜ガイド」 /デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」 ⑤1936年(昭和11年)東京商工会議所「東京市内商店街ニ関スル調査」 P155 ⑥1937年(昭和12年)横浜商工会議所「横浜市商店街に関する調査」 P91 ⑦1937年(昭和12年)東華書荘・石角春之助著「銀座秘録」 P189 ⑧1958年(昭和33年)明治屋「明治屋七十三年史」 P49-P50 ⑨1982年(昭和57年)日本交通公社発行「交通公社のポケットガイド44 横浜・第6版」 P106-P107/筆者所蔵 ⑩1987年(昭和62年)明治屋「明治屋百年史」 P147-P150、P161-P163、P165-P166 ⑪2001年(平成13年)丸善ブックス・習志野市教育委員会編「ドイツ兵士の見たニッポン 習志野俘虜収容所1915~1920」 P117-P119/筆者所蔵 ⑫2011年(平成23年)光文社NF文庫・石川邦美著「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」 P51-P53、P61、P106/筆者所蔵 ⑬2011年(平成23年)文藝春秋文春文庫・吉村昭「深海の使者 新装版第一刷」 P23-26/ 筆者所蔵 お知らせ このブログを初めてはや5年。 実は先々週をもちまして写真の方がネタギレとなりました。 よって誠に勝手ながら毎週の更新は今回をもって最後とさせて頂き、次回からは気が向いたときに不定期更新させて頂きます。 長い間、当ブログをご贔屓下さいましたことに深く感謝いたします。 #
by yokohama80s
| 2017-05-14 00:00
| その他
2017年 05月 07日
横浜市立図書館のサイトのデジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」に、横浜ゆかりの人物や横浜の会社について調べられる収録資料紹介としていくつかの人名録や商工録を紹介しているページがあります。 ここで紹介されている商工録は、デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」や、国会図書館のデジタルコレクションからPDFでダウンロードすることが出来てたいへん重宝しているのですが、ただひとつ難点があります。 それというのもこれらの商工録は職業別に会社名が掲載されているので、いざ「山下町◯◯番地には何があったのか?」ということを調べようとすると、それぞれの年代の商工録すべてを最初のページからチェックしなければならないということ。 そこであるとき「昭和5年から14年の商工録から山下町を所在地にする会社だけを抜粋して番地順にデータベース化すれば便利だろう」と思い立ち、昭和5年度版の横浜市商工課「横浜市商工案内」と横浜商工会議所「横浜商工名鑑」、横浜商業会議所「The foreign trade directory of Yokohama」から山下町を所在地にしていた企業、店舗をスプレッドシートに打ち込んで、予想よりも簡単に終わってしまったので物足りなくなって(実は実際に打ち込んだのは最初だけで後はチェックするだけ)、市立図書館から仕入れてきた1930年度版「JAPAN DIRECTORY」をチェックしていた時のこと。 「G」の項目に気になる名前が……↓ ![]() このときの私の拙い記憶では、「第一次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ人が横浜元町で開業したドイツ風パン屋」というもので、「そう言えば横浜駅西口の相鉄ジョイナス一階にあった店舗兼喫茶店は1998年ごろに店が無くなったし、最近はその噂を聞かなくなったなあ」と思い、ネットで調べてみると、あちらこちらに名前は出てくるものの出てくるのは金沢と福岡の同名他店のことばかり。 ようやく該当する物に行き当たったと思っても、「そういえばあの店はどうなった?」的な話と、「昔、あれを食べた、これを食べた」的な思い出話ばかりで踏み込んだ話が一つも無いという状態。 文献に関しても以下同文。 結局、キーワードを取っ替え引っ替えしてネット検索した結果わかったことは、「第一次大戦時に青島で日本の捕虜となり解放後も日本に残ったドイツ人ウィルヘルム(ヴィルヘルムと表記するものもあり)・ミュラーなる人物が、震災前に明治屋が銀座で営業していたカフェーユーロップの建物を利用してジャーマンベーカリーを開店させた」ということだけ。 そこで第一次大戦時の元捕虜について書かれた本を取り寄せてみたり、図書館で明治屋の社史を閲覧したり、国会図書館デジタルコレクションで閲覧が「 国立国会図書館内限定」となっている文献のコピーをあれこれ取り寄せてみたり……。 そうこうしてようやく探し出したジャーマンベーカリーについて書かれた物は、61年前の1956年(昭和31年)に実業之日本社が発行した雑誌「実業の日本」誌に掲載された "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"(以下、資料①)というインタビュー記事6ページ(実質的には5ページ)と、1963年(昭和38年)に製菓実験社が発行した「製菓製パン」誌12月号"菓業人のプロフィール"(以下、資料②)というグラビア1ページだけ。 ![]() ところがこのふたつの記事を読み比べると、資料①でミュラーは「23歳の時に乗り込んだ船でパンや菓子の作り方を習得した」と語っているのに、資料②では「14歳からこの道一筋」というように話が食い違っていたり(人間、年を召すに従ってだんだん話が大きくなるのが常)、資料②では明治食料を明治屋の前身としてしていたり(実際は明治食料は明治屋が設立した子会社)、その他にも歴史的事実と辻褄が合わなくなる部分が多々あるという困った代物。 そこでこのふたつの記事をベースに、歴史的事実とあちらこちらで拾い集めた断片的な情報に推理推測憶測で修正を加えて、横浜のジャーマンベーカリーの足跡について年代別にまとめた物を今週と来週の二回にわけてUPしたいと思います。 あらかじめお断りしておきますが、記事の正確性については、せいぜい当たらずとも遠からず程度なので、その点を充分ご留意の上でお読み下さい。 1919年(大正8年) 今を遡ること98年前のこと。 横浜の明治屋が、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)11月にかけての第一次世界大戦で中国・青島で日本の捕虜となり国内に収容されていた、兵役に就く前は豚肉加工職人だった1879年生まれ40歳のヴァン・ホーテン(Joseph van Hauten)を喫茶部主任兼支配人、同じく豚肉加工職人だった1891年生まれ28歳のヘルマン・ヴォルシュケ(Friedrich Herman Wolschke)を食肉加工主任、菓子職人だった1889年生まれ30歳のカール・ユーハイム(Karl Josef Wilhem Juchheim)を製菓主任として雇い入れ、銀座尾張町新地17番地(現在の銀座5丁目7番地)鳩居堂裏のすずらん通りに洋風喫茶店「カフェー・ユーロップ」を開店させる。 このカフェーユーロップは、ユーハイムが作るピラミッドケーキことバームクーヘンが評判となり、値段は割高だったにも関わらず「ハイカラの味を手軽に味わせてくれる店」、はたまた「銀座一コーヒーの旨い店」として作家をはじめとする当時の文化人たちが集う店として一世を風靡する。 *名前のスペルはこちらのサイトやこちらのサイトから引用しました。 *第一次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ人は4700人。そのうち終戦後も日本に残留することを希望した者170人で、彼らの多くは肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んでドイツの食文化を日本に定着させたほか企業などで技術指導に当たった者もいた。 *1918年11月に第一次世界大戦が終戦したものの、ベルサイユ講和条約締結後も捕虜送還の交渉がまとまらず結局、日本に収容されていた捕虜の本国への送還が開始されたのは終戦から約1年後の1919年(大正8年)12月(翌年の3月まで6回に分けて行われた)。しかし日本残留を希望した者は、それ以前に受け入れ先が決まり次第順次開放された。 *ユーロップ三人衆のヴァン・ホーテンとユーハイムは戦争前からの知り合いで、ヴォルシュケとユーハイムは同じ広島県似の島俘虜収容所に収容された捕虜仲間で1919年(大正8年)3月に広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催された俘虜作品展示即売会でユーハイムがバウムクーヘンを、ヴォルシュケがソーセージを出品しそれが好評だったことが明治屋に雇用されるきっかけとなった。 *カフェー・ユーロップの建物は間口2間、20坪ほどの土地に建てられた地下一階、地上三階建てで地下にソーセージ工場、一階に菓子工場と売店、二階がカフェーユーロップ、三階が製菓主任ユーハイムの住居だった。 *大卒初任給が40円(1円=3500円計算で14万円)の時代にユーハイムの月給は350円(現在の約120万円超)、ヘルマン・ヴォルシュケが250円、ヴァン・ホーテンが200円だった。 1922年(大正11年) 契約期間満了に伴い独立した製菓主任ユーハイムは、横浜山下町60番地Eでロシア人リンゾンが経営していたカフェー・デ・バリースを買い取り洋菓子店「E.ユーハイム」を開業。 ![]() ![]() (写真右中央に「山下町六十壱番地」と書かれた建物の奥の建物が60番地) ところが翌年に発生した関東大震災により店が倒壊し、ユーハイムは家族を連れて避難船で神戸に移住し1923年(大正13年)神戸市三宮町1-309で洋菓子店「ユーハイム」を開店する。 また同じくこの年で契約期間が満了した食肉加工主任のヴォルシュケは、同年に明治屋が設立した明治食料(株)の肉製品主任として雇用され、横浜・西平沼町2の豚肉加工工場の経営を任されたものの、翌年の震災により工場が焼失閉鎖されたために、当時、品川にあったユーロップ三人衆と同じく第一次大戦時の元捕虜だったアウグスト・ローマイヤー(August Heinrich Lohmeyer)のソーセージ加工場(ローマイヤー)で働いたのち、1927年(昭和2年)に神戸に移りソーセージ製造会社を開業する。 *明治屋百年史によると、この時にヴォルシュケが明治屋と交わした契約内容は以下の通り。 ①明治食料株式会社肉製品主任として勤務する義務を負う ②契約期間は三カ年とし、期間満了後は当事者双方の合意をもってさらに延長することができる ③月給は250円とし、さらに純益100分の七の配当を支払い、家賃、点灯料、暖房費用は会社負担とする ④契約期間中は自己の計算をもって営業をなし、また他の商会の利益のために行動することはできない 1923年(大正12年) 関東大震災によりカフェー・ユーロップ休業(建物は火災で焼失したとの説もあり)。 これによりユーロップ三人衆でただ一人、ユーロップに残った喫茶部主任兼支配人のヴァン・ホーテンは翌年の大正13年に中国に移住する。 一方、同年4月。 日本から遠く離れたドイツでは、1900年にハノーバー近郊ウェーザー河畔にあるホルツミンデンの山里の農家の次男坊に生まれたウィルヘルム・ミュラー(Wilhelm Mueller)という名の青年が、兄とハンブルグに自家製の小麦粉を売りに行った時に、兄の目を盗んで港に停泊していた一番大きい客船、ハンブルグアメリカンラインの世界一周クルーズ船に忍び込み密航を企てる。 その後、密航が発覚したものの船から降ろされること無く船内の厨房で働くことになり、このときにパンや菓子の製造法を習得(資料②ではミュラーは14歳から「この道一筋」とされているが、資料①の方が話が具体的なのでこちらを採用しました←「14歳から云々」の件は、「菓子作りに興味を持ったのが14歳」という意味だと思われます)。 そしてハンブルグを出てから半年後。 南米、上海を経て神戸に着いたミュラーは、本人が語るところによると「日本の山野の風景に感動し、この国なら骨を埋めてもいい」と思ったそうで、船を降ると適当な店はないかと神戸の街中を徘徊して、たまたま通りかかった下山手通2丁目32の1921年にドイツ人が開業したパン屋「セントラル・ベーカリー」(ネット上ではユーロップ三人衆のヴォルシュケを創業者としている物もありますが、この時期は明治屋との契約期間中で東京に居た)に、「看板が横文字だったから」という理由で押しかけ就職し、住み込みのパン職人として雇われ1年あまり勤務する。 *「セントラル・ベーカリー」は"1926 The Directory of Japan"に記載があり、また"昭和2年版神戸市商工名鑑"では代表者名に「前田安太郎」とあります ![]() 1925年(大正14年) 神戸の店で一年余り働いたミュラーは、上京して独立することを決意し「セントラル・ベーカリー」オーナーの紹介で明治屋製菓工場(ユーロップ一階)に雇われると、そのまま工場の経営も任され(契約条件は明治食料に雇われたヴォルシュケとほぼ同様と思われる)業販用洋菓子を製造する傍ら、休業中だった工場2階のカフェー・ユーロップを借り受けて営業を再開させる。 *ミュラーはパン職人になって2年弱にも関わらず、セントラルベーカリー退社時点で製パン部門の主任を任されていた。 *1926年(大正15年)職業婦人調査のカフェー一覧にユーロップの名称を確認。 *明治屋は、震災直後の同年秋にに銀座2丁目の現在、銀製品で有名なブランド店がある所にドイツ・クルップ社の酒保で働いていたドイツ人夫婦に経営を任せたカフェー・キリンを開店させていた為に、5丁目のカフェーユーロップは休業したままだったようです。 *「カフェーユーロップはウィルヘルム・ミュラー氏に賃貸して氏経営のジャーマンベーカリーとなり氏は現在も別の場所で盛業中である」明治屋七十三年史・P57より *「その後、ウィルヘルム・ミュラー(大正14年に明治屋の製菓工場で雇用)に賃貸したが、後に彼の経営するジャーマンベーカリーとなった」明治屋百年史・P162より 1928年(昭和3年) 契約期間満了に伴い、明治屋時代に稼ぎ出した2万円(現在の価値で約7千万~1億円)を元手に、明治屋よりカフェー・ユーロップの建物を買い取り、同所にジャーマンベーカリーを開店させる。 *明治屋による業販用洋菓子の製造は、前年昭和2年より銀座2丁目の支店(現在の明治屋銀座ビル)裏に新設した製菓工場で行っていた。 *ミュラーがわずか3年で2万円(現在の価値で7千万円前後)もの大金を稼げたのは、資料①によると「店の忠実な職人であるとともに、他の店から安い原料などを仕入れてきては卸したり、小売に出したりして彼自身でも商売をした」からだそうで、どうやらヘルマン・ヴォルシュケと同じように明治屋の為に個人の裁量で製菓工場を経営する傍ら、同じ建物内のカフェーユーロップを明治屋より借り受け営業することで稼ぎ出したものと思われます。 ![]() ![]() こうして1928年(昭和3年)に銀座で産声を上げたジャーマンベーカリーは、バームクーヘンやミートパイなどでたいへん人気を博したそうで、ここで作られるこれら洋菓子類は自店で販売するだけではなく、ホテルや喫茶店、レストラン、ダンスホールなどから注文が殺到し、銀座店の菓子工場だけでは注文を捌ききれなくなったことから麹町(当時、ミュラーの自宅があった)に新たに菓子工場を建設します(所在地不明および開設時期不明)。 *「松月の裏側にあるジャーマンベーカリーは美味いコーヒーを飲ませる」1929年(昭和4年)・時事新報家庭部編「東京名物食べある記」より。 *「戦前のジャーマン・ベーカリーは、独特のバームクーヘンや、ミートパイなど、他の店に無いものが揃っていた。 ミートパイは、戦後のジャーマン・ベーカリー(有楽町駅近く)でも、やっているが、昔の方が、もっと大きかったし、味も、しっとりとしていて、美味かった。」1995年・筑摩書房ちくま文庫刊/古川 緑波「ロッパの悲食記」甘話休題より。 -後編につづく- 後編では、戦前から戦中、そして戦後の発展から突然の終焉までの過程をザックリとお送りします。 参考資料 ①1956年(昭和31年)実業之日本社「実業の日本9月発売59巻22号 P88-P93 "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"」 ②1963年(昭和38年)製菓実験社「製菓製パン12月号グラビアページ 菓製業人のプロフィール -ウィルヘルム・ミュラー氏-"」 ③1922年(大正11年)大日本商工会発行「大日本商工録」 P59 ④1923年(大正12年)横浜商工会議所「横浜商工名鑑」 P123 ⑤1926年(昭和2年)中央職業紹介事務局編「職業婦人調査. 女給」 P167 ⑥1927年(昭和2年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1926」P235(/デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」) ⑦1927年(昭和2年)神戸市役所商工課「神戸市商工名鑑」 P119 ⑧1929年(昭和4年)・時事新報家庭部編「東京名物食べある記」 P200 ⑨1929年(昭和4年)吉田工務所出版部「東京銀座商店建築写真集」 P32 ⑩1930年(昭和5年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1930」 P517/横浜市立図書館所蔵 ⑪1958年(昭和33年)明治屋「明治屋七十三年史」 P50 ⑫1987年(昭和62年)明治屋「明治屋百年史」 P162 ⑬1995年・筑摩書房ちくま文庫刊/古川 緑波「ロッパの悲食記」より"甘話休題"/インターネット図書館・青空文庫 #
by yokohama80s
| 2017-05-07 00:00
| その他
2017年 04月 30日
![]() ![]() 1987年当時の新港橋 ![]() 当時の大桟橋から見た三菱倉庫新港一号倉庫とその奥が同二号倉庫 ![]() 三菱倉庫新港一号倉庫・その1 ![]() 三菱倉庫新港一号倉庫・その2 ![]() 三菱倉庫新港三号倉庫 ![]() 廃線になった山下臨港線から見上げた三菱倉庫新港三号倉庫 ![]() 横浜税関特別通関貨物検査場その1 ![]() 横浜税関特別通関貨物検査場その2 ![]() 住友倉庫横浜支店海岸通倉庫(旧ホルト上屋)・その1 ![]() 住友倉庫横浜支店海岸通倉庫(旧ホルト上屋)・その2 ![]() 30年前の山下臨港線プロムナード象の鼻側入口 #
by yokohama80s
| 2017-04-30 00:03
| 新港埠頭
2017年 04月 23日
![]() 横浜税関第二分室(1925年/大正14年~1931年/昭和6年) Yokohama area security guard office ![]() 起重機車庫(1925年/大正14年~1931年/昭和6年) ![]() 14号踏切脇の公衆トイレ(1925年/大正14年~1931年/昭和6年) ![]() 八号上屋公衆トイレ(1925年/大正14年~1931年/昭和6年) ![]() 新港埠頭変電所(1925年/大正14年~1931年/昭和6年) ![]() リコーインターナショナル横浜支店(築年不明)武相組事務所X ![]() 三号岸壁水辺石造階段(明治38年or大正13年)◯ ![]() 八号岸壁防衝工or防衝堤(1925年/大正14年~1931年/昭和6年)◯ ![]() 50噸定置式電気起重機(1914年/大正3年)◯ ![]() 横浜港駅旅客昇降場(1928年/昭和3年築)X *現存しているプラットホームはまったくの別モノです。 ![]() 横浜港駅 計重台(1928年/昭和3年築)X ![]() ![]() 横浜港駅小口貨物積卸場 (1928年/昭和3年築)X ![]() 新港橋梁(1912年/大正元年)◯ #
by yokohama80s
| 2017-04-23 00:13
| 新港埠頭
2017年 04月 16日
![]() 三号上屋(1911年/明治44年築) *横浜税関第一号、二号、三号上屋は震災で倒壊した為に可能な限り利用可能な元の部材を利用して修復される。 ![]() 五号上屋(1911年/明治44年築) *五号上屋は震災で倒壊した為に可能な限り利用可のな元の部材を利用して修復。 ![]() 六号上屋(1911年/明治44年築) *六号上屋は震災で倒壊した為に可能な限り利用可のな元の部材を利用して修復。 ![]() 横浜税関保税第一倉庫(1913年/大正2年:横浜税関甲号煉瓦倉庫) ![]() 市営公共上屋二号倉庫(1911年/明治44年:横浜税関乙号煉瓦倉庫) ![]() SHINKO NAVY EXCHANGE WAREHOUSE(1927年/昭和2年:新港倉庫新港埠頭A号倉庫) ![]() SHINKO NAVY EXCHANGE WAREHOUSE(1927年/昭和2年:新港倉庫新港埠頭A号倉庫) ![]() 米海軍横浜冷蔵倉庫(1927年/昭和2年:東神倉庫生糸上屋と東神倉庫F号倉庫) ![]() 新港倉庫新港B倉庫(1927年/昭和2年ごろ:新港倉庫C1、C2倉庫) *事務所棟の左がC1、右がC2倉庫 ![]() 新港倉庫新港E号倉庫(1927年/昭和2年ごろ) ![]() 右から反時計回りに八号、九号、十号上屋(1929年/昭和4年新築) *七号上屋も同年の建築 ![]() 十二号上屋(1930年/昭和5年築) ![]() 三井倉庫LM倉庫(1930年/昭和5年築ごろの築と思われる) ![]() (赤枠が戦前建築物) #
by yokohama80s
| 2017-04-16 00:16
| 新港埠頭
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