2017年 05月 07日
横浜市立図書館のサイトのデジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」に、横浜ゆかりの人物や横浜の会社について調べられる収録資料紹介としていくつかの人名録や商工録を紹介しているページがあります。 ここで紹介されている商工録は、デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」や、国会図書館のデジタルコレクションからPDFでダウンロードすることが出来てたいへん重宝しているのですが、ただひとつ難点があります。 それというのもこれらの商工録は職業別に会社名が掲載されているので、いざ「山下町◯◯番地には何があったのか?」ということを調べようとすると、それぞれの年代の商工録すべてを最初のページからチェックしなければならないということ。 そこであるとき「昭和5年から14年の商工録から山下町を所在地にする会社だけを抜粋して番地順にデータベース化すれば便利だろう」と思い立ち、昭和5年度版の横浜市商工課「横浜市商工案内」と横浜商工会議所「横浜商工名鑑」、横浜商業会議所「The foreign trade directory of Yokohama」から山下町を所在地にしていた企業、店舗をスプレッドシートに打ち込んで、予想よりも簡単に終わってしまったので物足りなくなって(実は実際に打ち込んだのは最初だけで後はチェックするだけ)、市立図書館から仕入れてきた1930年度版「JAPAN DIRECTORY」をチェックしていた時のこと。 「G」の項目に気になる名前が……↓ このときの私の拙い記憶では、「第一次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ人が横浜元町で開業したドイツ風パン屋」というもので、「そう言えば横浜駅西口の相鉄ジョイナス一階にあった店舗兼喫茶店は1998年ごろに店が無くなったし、最近はその噂を聞かなくなったなあ」と思い、ネットで調べてみると、あちらこちらに名前は出てくるものの出てくるのは金沢と福岡の同名他店のことばかり。 ようやく該当する物に行き当たったと思っても、「そういえばあの店はどうなった?」的な話と、「昔、あれを食べた、これを食べた」的な思い出話ばかりで踏み込んだ話が一つも無いという状態。 文献に関しても以下同文。 結局、キーワードを取っ替え引っ替えしてネット検索した結果わかったことは、「第一次大戦時に青島で日本の捕虜となり解放後も日本に残ったドイツ人ウィルヘルム(ヴィルヘルムと表記するものもあり)・ミュラーなる人物が、震災前に明治屋が銀座で営業していたカフェーユーロップの建物を利用してジャーマンベーカリーを開店させた」ということだけ。 そこで第一次大戦時の元捕虜について書かれた本を取り寄せてみたり、図書館で明治屋の社史を閲覧したり、国会図書館デジタルコレクションで閲覧が「 国立国会図書館内限定」となっている文献のコピーをあれこれ取り寄せてみたり……。 そうこうしてようやく探し出したジャーマンベーカリーについて書かれた物は、61年前の1956年(昭和31年)に実業之日本社が発行した雑誌「実業の日本」誌に掲載された "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"(以下、資料①)というインタビュー記事6ページ(実質的には5ページ)と、1963年(昭和38年)に製菓実験社が発行した「製菓製パン」誌12月号"菓業人のプロフィール"(以下、資料②)というグラビア1ページだけ。 ところがこのふたつの記事を読み比べると、資料①でミュラーは「23歳の時に乗り込んだ船でパンや菓子の作り方を習得した」と語っているのに、資料②では「14歳からこの道一筋」というように話が食い違っていたり(人間、年を召すに従ってだんだん話が大きくなるのが常)、資料②では明治食料を明治屋の前身としてしていたり(実際は明治食料は明治屋が設立した子会社)、その他にも歴史的事実と辻褄が合わなくなる部分が多々あるという困った代物。 そこでこのふたつの記事をベースに、歴史的事実とあちらこちらで拾い集めた断片的な情報に推理推測憶測で修正を加えて、横浜のジャーマンベーカリーの足跡について年代別にまとめた物を今週と来週の二回にわけてUPしたいと思います。 あらかじめお断りしておきますが、記事の正確性については、せいぜい当たらずとも遠からず程度なので、その点を充分ご留意の上でお読み下さい。 1919年(大正8年) 今を遡ること98年前のこと。 横浜の明治屋が、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)11月にかけての第一次世界大戦で中国・青島で日本の捕虜となり国内に収容されていた、兵役に就く前は豚肉加工職人だった1879年生まれ40歳のヴァン・ホーテン(Joseph van Hauten)を喫茶部主任兼支配人、同じく豚肉加工職人だった1891年生まれ28歳のヘルマン・ヴォルシュケ(Friedrich Herman Wolschke)を食肉加工主任、菓子職人だった1889年生まれ30歳のカール・ユーハイム(Karl Josef Wilhem Juchheim)を製菓主任として雇い入れ、銀座尾張町新地17番地(現在の銀座5丁目7番地)鳩居堂裏のすずらん通りに洋風喫茶店「カフェー・ユーロップ」を開店させる。 このカフェーユーロップは、ユーハイムが作るピラミッドケーキことバームクーヘンが評判となり、値段は割高だったにも関わらず「ハイカラの味を手軽に味わせてくれる店」、はたまた「銀座一コーヒーの旨い店」として作家をはじめとする当時の文化人たちが集う店として一世を風靡する。 *名前のスペルはこちらのサイトやこちらのサイトから引用しました。 *第一次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ人は4700人。そのうち終戦後も日本に残留することを希望した者170人で、彼らの多くは肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んでドイツの食文化を日本に定着させたほか企業などで技術指導に当たった者もいた。 *1918年11月に第一次世界大戦が終戦したものの、ベルサイユ講和条約締結後も捕虜送還の交渉がまとまらず結局、日本に収容されていた捕虜の本国への送還が開始されたのは終戦から約1年後の1919年(大正8年)12月(翌年の3月まで6回に分けて行われた)。しかし日本残留を希望した者は、それ以前に受け入れ先が決まり次第順次開放された。 *ユーロップ三人衆のヴァン・ホーテンとユーハイムは戦争前からの知り合いで、ヴォルシュケとユーハイムは同じ広島県似の島俘虜収容所に収容された捕虜仲間で1919年(大正8年)3月に広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催された俘虜作品展示即売会でユーハイムがバウムクーヘンを、ヴォルシュケがソーセージを出品しそれが好評だったことが明治屋に雇用されるきっかけとなった。 *カフェー・ユーロップの建物は間口2間、20坪ほどの土地に建てられた地下一階、地上三階建てで地下にソーセージ工場、一階に菓子工場と売店、二階がカフェーユーロップ、三階が製菓主任ユーハイムの住居だった。 *大卒初任給が40円(1円=3500円計算で14万円)の時代にユーハイムの月給は350円(現在の約120万円超)、ヘルマン・ヴォルシュケが250円、ヴァン・ホーテンが200円だった。 1922年(大正11年) 契約期間満了に伴い独立した製菓主任ユーハイムは、横浜山下町60番地Eでロシア人リンゾンが経営していたカフェー・デ・バリースを買い取り洋菓子店「E.ユーハイム」を開業。 (写真右中央に「山下町六十壱番地」と書かれた建物の奥の建物が60番地) ところが翌年に発生した関東大震災により店が倒壊し、ユーハイムは家族を連れて避難船で神戸に移住し1923年(大正13年)神戸市三宮町1-309で洋菓子店「ユーハイム」を開店する。 また同じくこの年で契約期間が満了した食肉加工主任のヴォルシュケは、同年に明治屋が設立した明治食料(株)の肉製品主任として雇用され、横浜・西平沼町2の豚肉加工工場の経営を任されたものの、翌年の震災により工場が焼失閉鎖されたために、当時、品川にあったユーロップ三人衆と同じく第一次大戦時の元捕虜だったアウグスト・ローマイヤー(August Heinrich Lohmeyer)のソーセージ加工場(ローマイヤー)で働いたのち、1927年(昭和2年)に神戸に移りソーセージ製造会社を開業する。 *明治屋百年史によると、この時にヴォルシュケが明治屋と交わした契約内容は以下の通り。 ①明治食料株式会社肉製品主任として勤務する義務を負う ②契約期間は三カ年とし、期間満了後は当事者双方の合意をもってさらに延長することができる ③月給は250円とし、さらに純益100分の七の配当を支払い、家賃、点灯料、暖房費用は会社負担とする ④契約期間中は自己の計算をもって営業をなし、また他の商会の利益のために行動することはできない 1923年(大正12年) 関東大震災によりカフェー・ユーロップ休業(建物は火災で焼失したとの説もあり)。 これによりユーロップ三人衆でただ一人、ユーロップに残った喫茶部主任兼支配人のヴァン・ホーテンは翌年の大正13年に中国に移住する。 一方、同年4月。 日本から遠く離れたドイツでは、1900年にハノーバー近郊ウェーザー河畔にあるホルツミンデンの山里の農家の次男坊に生まれたウィルヘルム・ミュラー(Wilhelm Mueller)という名の青年が、兄とハンブルグに自家製の小麦粉を売りに行った時に、兄の目を盗んで港に停泊していた一番大きい客船、ハンブルグアメリカンラインの世界一周クルーズ船に忍び込み密航を企てる。 その後、密航が発覚したものの船から降ろされること無く船内の厨房で働くことになり、このときにパンや菓子の製造法を習得(資料②ではミュラーは14歳から「この道一筋」とされているが、資料①の方が話が具体的なのでこちらを採用しました←「14歳から云々」の件は、「菓子作りに興味を持ったのが14歳」という意味だと思われます)。 そしてハンブルグを出てから半年後。 南米、上海を経て神戸に着いたミュラーは、本人が語るところによると「日本の山野の風景に感動し、この国なら骨を埋めてもいい」と思ったそうで、船を降ると適当な店はないかと神戸の街中を徘徊して、たまたま通りかかった下山手通2丁目32の1921年にドイツ人が開業したパン屋「セントラル・ベーカリー」(ネット上ではユーロップ三人衆のヴォルシュケを創業者としている物もありますが、この時期は明治屋との契約期間中で東京に居た)に、「看板が横文字だったから」という理由で押しかけ就職し、住み込みのパン職人として雇われ1年あまり勤務する。 *「セントラル・ベーカリー」は"1926 The Directory of Japan"に記載があり、また"昭和2年版神戸市商工名鑑"では代表者名に「前田安太郎」とあります 1925年(大正14年) 神戸の店で一年余り働いたミュラーは、上京して独立することを決意し「セントラル・ベーカリー」オーナーの紹介で明治屋製菓工場(ユーロップ一階)に雇われると、そのまま工場の経営も任され(契約条件は明治食料に雇われたヴォルシュケとほぼ同様と思われる)業販用洋菓子を製造する傍ら、休業中だった工場2階のカフェー・ユーロップを借り受けて営業を再開させる。 *ミュラーはパン職人になって2年弱にも関わらず、セントラルベーカリー退社時点で製パン部門の主任を任されていた。 *1926年(大正15年)職業婦人調査のカフェー一覧にユーロップの名称を確認。 *明治屋は、震災直後の同年秋にに銀座2丁目の現在、銀製品で有名なブランド店がある所にドイツ・クルップ社の酒保で働いていたドイツ人夫婦に経営を任せたカフェー・キリンを開店させていた為に、5丁目のカフェーユーロップは休業したままだったようです。 *「カフェーユーロップはウィルヘルム・ミュラー氏に賃貸して氏経営のジャーマンベーカリーとなり氏は現在も別の場所で盛業中である」明治屋七十三年史・P57より *「その後、ウィルヘルム・ミュラー(大正14年に明治屋の製菓工場で雇用)に賃貸したが、後に彼の経営するジャーマンベーカリーとなった」明治屋百年史・P162より 1928年(昭和3年) 契約期間満了に伴い、明治屋時代に稼ぎ出した2万円(現在の価値で約7千万~1億円)を元手に、明治屋よりカフェー・ユーロップの建物を買い取り、同所にジャーマンベーカリーを開店させる。 *明治屋による業販用洋菓子の製造は、前年昭和2年より銀座2丁目の支店(現在の明治屋銀座ビル)裏に新設した製菓工場で行っていた。 *ミュラーがわずか3年で2万円(現在の価値で7千万円前後)もの大金を稼げたのは、資料①によると「店の忠実な職人であるとともに、他の店から安い原料などを仕入れてきては卸したり、小売に出したりして彼自身でも商売をした」からだそうで、どうやらヘルマン・ヴォルシュケと同じように明治屋の為に個人の裁量で製菓工場を経営する傍ら、同じ建物内のカフェーユーロップを明治屋より借り受け営業することで稼ぎ出したものと思われます。 こうして1928年(昭和3年)に銀座で産声を上げたジャーマンベーカリーは、バームクーヘンやミートパイなどでたいへん人気を博したそうで、ここで作られるこれら洋菓子類は自店で販売するだけではなく、ホテルや喫茶店、レストラン、ダンスホールなどから注文が殺到し、銀座店の菓子工場だけでは注文を捌ききれなくなったことから麹町(当時、ミュラーの自宅があった)に新たに菓子工場を建設します(所在地不明および開設時期不明)。 *「松月の裏側にあるジャーマンベーカリーは美味いコーヒーを飲ませる」1929年(昭和4年)・時事新報家庭部編「東京名物食べある記」より。 *「戦前のジャーマン・ベーカリーは、独特のバームクーヘンや、ミートパイなど、他の店に無いものが揃っていた。 ミートパイは、戦後のジャーマン・ベーカリー(有楽町駅近く)でも、やっているが、昔の方が、もっと大きかったし、味も、しっとりとしていて、美味かった。」1995年・筑摩書房ちくま文庫刊/古川 緑波「ロッパの悲食記」甘話休題より。 -後編につづく- 後編では、戦前から戦中、そして戦後の発展から突然の終焉までの過程をザックリとお送りします。 参考資料 ①1956年(昭和31年)実業之日本社「実業の日本9月発売59巻22号 P88-P93 "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"」 ②1963年(昭和38年)製菓実験社「製菓製パン12月号グラビアページ 菓製業人のプロフィール -ウィルヘルム・ミュラー氏-"」 ③1922年(大正11年)大日本商工会発行「大日本商工録」 P59 ④1923年(大正12年)横浜商工会議所「横浜商工名鑑」 P123 ⑤1926年(昭和2年)中央職業紹介事務局編「職業婦人調査. 女給」 P167 ⑥1927年(昭和2年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1926」P235(/デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」) ⑦1927年(昭和2年)神戸市役所商工課「神戸市商工名鑑」 P119 ⑧1929年(昭和4年)・時事新報家庭部編「東京名物食べある記」 P200 ⑨1929年(昭和4年)吉田工務所出版部「東京銀座商店建築写真集」 P32 ⑩1930年(昭和5年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1930」 P517/横浜市立図書館所蔵 ⑪1958年(昭和33年)明治屋「明治屋七十三年史」 P50 ⑫1987年(昭和62年)明治屋「明治屋百年史」 P162 ⑬1995年・筑摩書房ちくま文庫刊/古川 緑波「ロッパの悲食記」より"甘話休題"/インターネット図書館・青空文庫
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