週刊 横濱80’s

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2014年 11月 30日

南仲通4丁目 スナックビーハイブ

馬車道の一本南側に、馬車道と平行する形で本町通り~南仲通4丁目~弁天通りに抜ける車が一台通るのがやっと、という細い路地があります。

実はこの通り、空襲でこの辺り一帯が焼け野原になり、その後、米軍から返還され再開発が始まった時に、地権の問題から作られた路地だとばかり思っていたのですが、ある日、近代デジタルライブラリーから落とした横浜市史稿の古地図を眺めていたら↓

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*1861年(文久1年)の御開港横浜之図(横浜市史稿附図より)


「へぇ~最初からあったんだ」みたいな……。
ちなみに地図↑の丁目の数字は現在と逆になっていて、「二丁目」が現在の「四丁目」になります、という話はひとまず置いておくとして、横浜開港当時はみなさんご存じのように山下町が外国人居留地だったのに対して、現在の関内は日本人街を形成していました。

そしてここに移り住んだ日本人商人たちは出身地……というか、前居住地ごとにまとまって住み着いたそうで、件の路地というか通りの両側には保土ケ谷商人たちが住み着いて店を構えていたとのこと。

「へぇ~こんな歴史のある路地なら、テキトーに名前を付けちゃえば良かったのに」と一瞬思ったものの、ビルの裏路地に名前を付けてもあんまり意味が無いですよね、ということで↓

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*南仲通側から弁天通方向を見るの図


ちなみに↑の写真左手に写っている建物が日本建築学会が1983年に発行した日本近代建築総覧で戦前に建てられたとされているものの1947年撮影の航空写真でその姿が確認出来ない弁天通4-52の千代田火災保険倉庫で、通りの正面に見える三角屋根の建物が1947年の航空写真でもその姿が確認出来る弁天通4-62の横浜銀行行友会の建物。

「たぶん取り違えたんでしょうね」ということで話を元に戻して、「この通りの両側に開港時には保土ケ谷商人の店が軒を連ねてたんだ~」などと今さら感慨にふけりつつ左手を見てみたの図↓

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*現在も同地で営業している割烹福久


さらに今度は、後ろ(本町通り方向)を振り返って見てみたの図↓

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旧福久ビル


ということで歩みをちょっと進めると「喫茶スラバヤ」があるビルの隣りにあったのが↓

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「おおお~っ!」みたいな。
ってことで、ちょと先から振り向いたの図↓

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今度は正面から↓

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行灯には"ビーハイブ"、ガラス戸には"ビイハイブ"。
どっちの表記が正しいのでしょうか?
まあ「こまかいことは気にするな」ってことなんでしょう。

それはともかく同じ角度から仰ぎ見ると↓

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「おおお~っ!」ってことで、ちょっとアップで↓

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もうちょっとアップで↓

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ビーハイブの2つ隣の区画にあった駐車場(現在も駐車場)からは↓

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ビル越しに県立博物館の大ドームが垣間見えました(撮影当時には駐車場の向こう側……というか塀の向こう側の馬車道側にはガソリンスタンドがありました)。

*写真はすべて1982年撮影。







*12月のUP予定
12月 7日:北仲通 芝居町
12月14日:万国橋より
12月21日:海岸通り
12月28日:相生町2丁目 ローマステーション

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by yokohama80s | 2014-11-30 00:04 | 関内地区 | Comments(0)


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