2014年 04月 06日
新港埠頭・九号岸壁は、左突堤の北側・・・・・・というより、今風に言えばみなとみらい側の先端部の岸壁で(正確には九、十、十一号岸壁は桟橋になっていて横桟橋と呼ばれていた)、最近になって横浜市が「大桟橋の過密化解消」と銘打って、「かつて欧州航路の客船が発着していた歴史ある九号岸壁に客船ターミナルを整備する」と発表したあの九号岸壁です・・・・・・って、もともとあそこはみなとみらい21整備の時に作られた客船ターミナルがあったような気も・・・・・・??? まあそれはそれとして、「かつて欧州航路の客船が発着していた歴史ある九号岸壁云々」と言われても、後にも先にも新港埠頭で客船に対応している岸壁は四号岸壁だけで、クイーンメリー2の例(横浜寄港に際してベイブリッジをくぐれないために旅客設備が無い大黒埠頭に着岸したら乗客の不評を買って船会社から「もう横浜には行かない」と言われてしまった件)を見るまでも無く今も昔も客船は旅客設備が完備した岸壁を優先的に使用するのが世界の常識だし、客船に対応した桟橋、岸壁が有るにも関わらずそこをあえてそこを使用しなかった、という話はちょっと合点が行かない話なのでいろいろ調べてみると、確かに1934年(昭和9年)に内務省横浜土木出張所が刊行した「横浜港と其修築」の「現在の港湾設備」には、「四号岸壁は北米航路の優秀大型船("優秀船"とは大型客船を意味するのでは無く、客船、貨物船を問わず建造当時の最先端、最高峰の技術を用いて建造された船のこと)の発着場とし、第九、十、十一の連続岸壁は同じく欧州航路日本船が主として使用す」と書かれています。 これは震災前の横浜港は需要に供給が追いつかず、この頃すでに四号岸壁を割り当てられていた北米航路の船ですら時として沖合に錨泊し乗客が通船で乗船することを余儀なくされていたことを念頭にしていたことと、欧州航路には国内外13の船会社が25航路に合計176隻(うち貨客船72隻)を定期就航させてしのぎを削る大激戦区(そのうち国内船会社は2社4航路22隻うち貨客船1航路10隻)であるうえに、国策として国内船会社に欧州航路に定期船を就航させた手前(命令航路と呼ばれ当時の逓信省により運航期間、便数、隻数、船齢その他が細かく定められていた)、あれやこれやと優遇措置を講じる必要があったことなどから、一種のホームアドバンテージとして新港埠頭横桟橋を欧州航路用として国内船会社が優先的に使用出来るように便宜を図ったものだと考えられます。 これを額面通りに解釈すれば、「欧州航路の客船は九号岸壁から出ていたんだな」とも思えますが、前述したように今も昔も"客船は旅客設備がある岸壁を使用する"という万国共通の不文律が存在します。 そこで当時の欧州航路(旅客航路はロンドン航路のみで、リバプール航路、ハンブルグ航路は貨物航路だった)の運航スケジュールを見ると、例えば昭和5年の横浜発ロンドン行きの船は横浜を出港すると、翌日2日目に四日市港、3日目の午前に大阪港、同じ日の午後に神戸港に入港し、その翌日の午後に神戸港を出港し、横浜を出港してから5日目の午前中に門司港内に錨泊して6日目に出港して上海に向かうというスケジュール(神戸までノンストップの便もありその場合は、神戸に翌日入港し二日間停泊した)。 このためこの航路を運航していた日本郵船では、「渡欧船客の特典」として一等、二等船客が希望すれば横浜~欧州の乗船券で、東京、横浜~神戸、門司間を鉄道を利用できる振替乗車券を発行していたために(急行料金や寝台料金は自己負担だった)、横浜から乗船しないで東京を午前中に出る急行で夕方京都で一泊したり、寝台列車で神戸または下関、門司まで行きそこから乗船する人が大部分で、当時の旅行案内書にも「欧州航路は神戸からの利用が便利」と書かれていおり、この頃の旅行記を読むと東京近郊に住んでいても横浜から乗船しないで神戸や門司から乗船する人(荷物だけを横浜から乗せることが可能で一等の場合はあらかじめ荷物を部屋に運び込んでくれた)が多かったようです。 そうなると「欧州航路の横浜~神戸間は、実質的に旅客が乗船していない貨物船状態で運行されていたのだから旅客設備がない貨物用の九号岸壁から出港した」という理屈も成り立つのですが、この話にはさらに先があり、当時、欧州航路のみならずシアトル、サンフランシスコ向けの北米航路などの横浜~門司間の国内区間、特に横浜~神戸間のみに乗船する国内の利用者が多かったそうで、都内や横浜市内の幾つかの女子高校では修学旅行でこれらの航路を利用して関西方面に行っていたという例もあり、特に2月~6月のハイシーズン期は出港の半年前には予約で一杯というほど盛況だったんだそうな。 さらに近代デジタルライブラリーやあちらこちらで当時の絵葉書写真を漁ってみると、新港埠頭九号岸壁から欧州航路の貨客船が出港した記録は、九~十一号岸壁が他の岸壁に先駆けて震災復旧工事が竣工した1924年(大正13年)5月下旬から横桟橋に上屋が完成した1929年(昭和4年)頃に撮影されたと思われる物しか見当たらず(あくまでも公開されている物の話です)、また「九号岸壁から乗船した」と記述した書物も見当たらないのに対して、「欧州航路の船に大桟橋(当時の一般的な書物では、大桟橋をたんなる「波止場」あるいは「桟橋」、新港埠頭を「岸壁」と表記することが多かったようです)から乗船した」と書かれた書物が複数あるうえに、さらに決定的なのは横浜みなと博物館の「日本の客船黄金期」のコーナーにある「2つの客船ターミナル -大さん橋上屋-」の説明文に「大さん橋には、北米航路の外国船や欧州航路、シアトル航路、世界一周クルーズなどの客船がつきました(北米航路以外は国内の船会社も大桟橋から発着していた、ということ)」とあります。 これらのことから、横桟橋を利用していたのは主に欧州航路の貨物船と、約四ヶ月の航海を終えてロンドンから帰ってきてドックでの点検整備(復航帰港後から往航出港まで通常一ヶ月前後あった)を終えた船が横桟橋に移動して、そこでその他の整備を行い(十号岸壁に接岸して岸壁からホースを引き込んで清水補給中の絵葉書がある)、出港数日前から貨物の積み込みを行い(横浜からは主に銅、鮭缶などが積み込まれた)、出港前日または当日に大桟橋に移動(今も昔も岸壁を移動することはよく行われていた)して、今度は生糸や陶器などの高級雑貨類の積み込みを行い、出港2時間前から乗客を乗せて午後三時にロンドンに向けて出港。 また皇族その他のVIPや大規模な視察団などの特別な乗客が乗船する場合は、新港埠頭四号岸壁(この場合には団体専用のボートトレインが臨時運行された)を使用することもあった、というのが実際のところだったようです。 そうなると「かつて欧州航路の客船が発着していた九号岸壁云々」という話は「ちょっと違うよね」という事になりますが、そんな些細なことよりも「歴史性の継承」云々や、「新港埠頭で客船云々」を語るのなら、なにはともあれ規模も設備も大桟橋より豪華で立派な旅客ターミナルがあった四号岸壁をいの一番に語るべきなのですが、それを言い出すといろいろと都合が悪い大人の事情が・・・・・・ などという話はここまでとして、要するに「九号岸壁」と言っても後にも先にも↑の、のこぎり屋根の上屋しか無ったので、1960年頃に九号岸壁の防衝工部分に岸壁を延長するように作られた桟橋部分(正確には桟橋ではなくあくまでも「九号防衝工」なんだそうです)の写真を↓ 撮影当時はこの桟橋は、九号岸壁側には内航船が接岸し、八号岸壁側は、当時、横浜海上保安部に配属されていた巡視船のじまの専用桟橋となっていました↓ *2015/10/20 横浜みなと博物館の大さん橋に関する説明文を追加し、「欧州航路の船は大桟橋から発着した」に記事を加筆修正しました。
by yokohama80s
| 2014-04-06 00:07
| 新港埠頭
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