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週刊 横濱80’s

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2013年 12月 08日

新港埠頭 三号岸壁の水辺階段(雁木)

現在、赤レンガパークを海沿いに海保の工作船展示館の方に歩いて行くと、ちょうど旧三号岸壁のクビレの部分にある手すりから身を乗り出して海面を覗き込むと崩れかけたいかにも年代物の海へ降りていく階段(このての階段を「雁木」という)が見えると思います。

新港埠頭 三号岸壁の水辺階段(雁木)_c0247059_1881661.jpg
*1982年撮影


この階段は、その昔、横浜にも居た海女さんたちがムール貝を獲りに潜る為に使用していた・・・・・・なんて事実はありません(笑)

とある資料によれば、まだ船が接岸できる埠頭が新港埠頭と大桟橋しか無かった1913年(大正2年)の横浜港への入港船舶数は1,446隻。

そのうち岸壁に接岸して荷物や旅客の積み卸しをしたのが全体の約三割にあたる443隻に過ぎず、残りの七割にあたる1,003隻の船舶は沖合に設置されたブイに繋船しハシケなどで荷役を行っていました。

新港埠頭 三号岸壁の水辺階段(雁木)_c0247059_1885546.jpg
*1986年撮影


そこでハシケの荷物を積み卸しする為に物揚場なる場所が作られたのですが、当時の貨物船には少なからず乗客も乗船していたし、船員は船員でせっかく陸のきらびやかな灯りを目の前にしてモンモンとした時間を過ごして再び四方八方海ばかりの航海に出たら精神衛生上の問題(?)が発生してしまうワケです。

さらに代理店やドック関係者などが荷物の積み卸しや、修理作業その他の打ち合わせの為に沖合に停泊している船に行かなきゃいけないし・・・・・・

ということで、こういう時にオカと沖合に停泊した船の間を行き来する為に利用する渡し船こと通船という、ひらたく言えば海上タクシーのようなモノが存在します(今もあります)。

現在は通関の関係で沖合に停泊した船へ行き来する人が通船を乗り降りする場所は決められていますが(80年代当時は西波止場と大桟橋のたもとにあった)、その昔、震災前頃までは、船が入港するやいなや許可を受けている正式な通船や、無許可営業の通船やらなんやらかんやらが、まるで"なにか"にたかるハエの如く一斉に船に集まって、上陸する船客を奪い合ったんだそうな。

そしてそれらの通船に乗った乗客が、「あそこにつけてくれ」と言うと船をそこにつけてくれたんだそうです。

ところが如何せん通船は10トン程度の小型船(そのまた昔は手漕ぎの和船だったからもっと小さかった)の為に、岸壁に船を横付けしたところでオカははるか頭の上。

岸壁をそれこそヤモリよろしくよじ登らないと上陸出来ないワケで、そういうことにならないように設置されているのが写真の階段。すなわち「雁木」とも呼ばれるモノ。

新港埠頭 三号岸壁の水辺階段(雁木)_c0247059_1883487.jpg
*1986年撮影


新港埠頭には写真の三号岸壁と四号岸壁の間と、記憶が曖昧なのですが八号岸壁の先端の二ヵ所にあったような記憶があります(私の記憶ほど信用できないモノはありませんが(;^^)ヘ..)。

さらにハッキリしたことはどこにも出ていないし、誰も気にしていないようなのでアレなんですが、震災当時の写真を見ると、三号と四号岸壁の擁壁はさほど被害を受けていないように見えることから、この階段が右突堤が建設された1905年(明治38年)当時のものという可能性も無きにしも非ずかも???(←専門家筋によると、この雁木は新港埠頭創建当時のモノなんだそうです)

まあそれはそれとして、私がこれらの写真を撮影した当時は、出港する船に乗船するハーバーパイロット(水先案内人)が、海からパイロットボートでやって来て上陸する際にこの階段を利用していました(最近の埠頭にはソレ用のハシゴが設置されている)。




by yokohama80s | 2013-12-08 00:06 | 新港埠頭


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