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週刊 横濱80’s

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2013年 03月 10日

横浜競馬場

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上の写真は、根岸森林公園・・・・・・というより、第2コーナーを抜けてバックストレートに入ったあたりから見た横浜競馬場こと根岸競馬場のスタンドこと馬見場。

向かって左側の塔が3つある小ぶりの建物が今も現存する1929年(昭和4年)に建てられた7階建てで4,500人収容の一等馬見場、右側の塔が2つの大きい方が1988年(昭和63年)に取り壊された12,000人収容の二等馬見場。

ということで、横浜競馬場こと根岸競馬場の沿革などはWikiを見て頂くとして、ちなみに昭和初期頃の入場料が右側の二等馬見場で2円ということですから今で言うとだいたい10,000円くらい、一等馬見場が5円ですから約25,000円とかなり高額。

このため一般庶民には敷居が高かったので、機を見るに敏な人たちがレース開催日になると第一コーナー奥のコースを見下ろせる山元町5丁目あたりの高台斜面にヤグラを組んで板を渡してゴザを敷いて、一人5銭(現在の250円ぐらい)の私設観覧席を作って結構な人気だったとか。

で、お高かったのは入場料だけではなく、馬券も単複各一枚20円(現在の約100,000円くらいで、この券一枚で12レース各1回づつ投票できたそうな)と高額だった為に、当時、違法だったにも関わらずその場で仲間を募り見ず知らずの者同士が数人で一枚の馬券を購入し、レース中は馬券を持っている者が勝ち馬券を持って逃げ出さないように大の大人が数人で仲良く(?)手を握り合っていたそうな。

さらに興味深いのが1レースの配当金に200円(今のレートで約100万円くらい)という上限が設けられていたことで、もしそのレースで200円以上の配当が出た場合には、超過分は「特配(特別配当)」と称して、そのレースの馬券購入者全員(といっても馬券を捨てなかった人)に均等に分配されたこと。

ということで、1940年(昭和15年)の4月27日~5月12日にかけて8日間開催された春季競馬の成績表なるものを見ると、特配が出たレースが9レースありほぼレース開催日1日に1回特配が出たという計算に。

ちなみに4月27日には、第7レースで2円50銭(約1万3千円くらい)、第8レースで14円50銭(約7万3千円くらい)と2レース連続で特配が出て、仮にこの2レースの馬券を買った人は予想がはずれても約9万円弱を手に出来た、という次第(さすがに馬券と入場料が高いから元は取れませんが)。

これらのことや、さらに神奈川県内の自動車登録台数が2千台に満たない時代(ちなみに現在は約4百万台弱)に、レース開催日の桜木町、日ノ出町、根岸一帯は、競馬場へ行く車、帰る車で渋滞した(当時は道路が狭かったということも多分に影響していると思いますが)という逸話から、この時代の競馬はギャンブルというよりも、セレブな方々の社交場という色合いが強かったようです。

しかし戦雲急を告げ始めた1943年に横浜競馬場も閉鎖され丸ごと海軍に売却され、それ以降は、文壽堂印刷工場として観覧スタンド内において海軍向けの地図、海図などを、戦後は米軍向けに地図、部隊報告書、名刺、請求書その他の書類の印刷を行っていたそうです(詳しくは横浜市史資料室の情報誌「市史通信」をご参照ください)。

さてここで文壽堂(ブンジュドウと読む)などという聞きなれない名前が出てきたので、アレやコレやと調べてみると、この会社は元をたどると1880年(明治13年)創業の輸入文具問屋で、その後、銀行や商店などが顧客に配る手帳(名入り手帳)の製造販売で大当たりし、当時はどの手帳も裏表紙を開けると「日本洋式手帳開祖横浜馬車道文壽堂」という文句が印刷されていたとかで、この会社の社長さんは立志伝中の人として当時は有名だったんだそうな。

そしてその後、印刷出版業にも手を広げ、前述のように根岸競馬場のスタンド内を印刷工場にして、千人以上の従業員を擁して、戦時中は海軍、戦後は進駐軍向けの印刷を一手に引き受けていたものの、1948年に戦時中に印刷用紙などを不正隠匿していたカドで摘発を受け(商売敵の妬みやっかみ逆恨みなどによりハメられた、との説アリ)、この結果、この2年後に米軍の印刷業務から外された文壽堂は敢え無く倒産。

この結果、戦前は立身出世の人として有名だったシャチョーさんは三浦半島某所に引きこもり、終戦直後の混乱期に路頭に迷うこととなった約千人もの従業員の再雇用問題に関する請願書が、当時の国会に提出されるくらいの大問題に発展したそうな。

そして文壽堂撤退後は、スタンド内部は米軍の住宅管理司令部に、馬場はモータープール、コース内側がゴルフ場、スタンド前がニートナットクラブと称した遊園地として使用されていたそうです。

という長い長い前置きはここまでにして、これらの写真を撮影した時は、根岸住宅地区の一部が返還されたと聞いて、こちら方面というか、高台というか、いわゆる山手方面は当時、私が勝手に決めた撮影範囲から外れていたのですが、「どんなモンだかちょいと見物してやろう」という物見遊山気分でイソイソと根岸まで出かけました。

そして森林公園の駐車場に車を駐めて、旧コースを時計回りに歩きはじめたのですが、第5消防署を過ぎたあたりから市道の内側の旧コースにあたる部分(要は第五消防署の並びで現在は米軍ハウスは取り壊されて緑地化されているようですbyストリートビュー)には米軍住宅が立ち並び↓

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さらにそのうえそれらの家には人が住んでいる気配がムンムン状態で↓、

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「ここって入ってオッケーだよなぁ」などと訝しみながらもさらに歩いて、最終コーナーを抜けたあたりに市バスの転回場が↓

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どうやらここが米軍根岸住宅地区の入り口のようですが↓

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私の記憶が確かなら、当時は、道路脇にフェンスがあっただけで、このての施設入り口に付き物の警備員の詰所も無ければゲートも無し。

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しかし目指すスタンド廃墟はもうちょっと先。

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スタンドのそばまで行こうと思えば行けそうな雰囲気でしたが、誰が見ても「ここからは米軍用地だよ」というのが明らかな状態だし、スタンド近辺は人の気配がムンムンだし、これではさすがに素知らぬ顔をして忍び込むとナニかとカドが立ちそうな気配を感じて、ちょっと遠慮してフェンス沿いの雑草をかき分けながら接近したのですが↓

横浜競馬場_c0247059_1618484.jpg
*写真はすべて1984年撮影。


ここまでが限界でした(笑)

もっとよく撮りたかったら、山元小学校の方からグル~ッとスタンドの裏手に回り込むとか、毎年7月だか8月のフレンドシップデーになぬ食わぬ顔で紛れ込むとか(現在もマメに第七艦隊のツイッターを見ているとアレやコレやのこのてのイベントの入場申し込みを行なっています)、という手もあったのですが当時は、「数年以内に根岸住宅地区は池子に全面移転する」という話がまことしやかに囁かれていたもので、「別に慌てなくてもあとでゆっくり撮ればいいや」くらいにしか思っていなかったもので・・・・・・

二等馬見場が取り壊されることを知っていたら多少のキケンは顧みず(笑)取る物も取り敢えず再チャレンジしたのですが・・・・・・





by yokohama80s | 2013-03-10 00:02 | 根岸、金沢地区


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