2012年 12月 09日
1942年(昭和17年)に発生したドイツ軍艦爆発事故シリーズの最終回。 今回取り上げるのは、爆発事故を起こしたウッカーマルク、トールが停泊していた8号岸壁の8号上屋。 本来、新港埠頭の左右2本ある突堤の左側(西側)の凹部内側の7号、8号岸壁には、もともと1~3号、5、6号岸壁にあった上屋と同タイプの鉄骨波板張りの上屋が建てられていました。 しかし関東大震災で、左突堤の7~12号の上屋は倒壊し、9~12号岸壁は崩壊して水没。 ちなみに近代デジタルライブラリーで見ることができる、1929年(昭和9年)に当時の内務省横浜土木出張所が発行した「横浜港震害復旧報告書」には、ハンマーヘッドクレーンだけが無傷で海面に建っている姿を写した写真を見ることができます(当時の大蔵省の資料には「五十噸定置起重機も含めて埠頭内の全起重機大破につき使用に堪えず」とあるが、内務省の前記資料の写真キャプションには「無事なる五十噸定置起重機」とある不思議?)。 ということで、右突堤の上屋は4号上屋を新築し、それ以外は修復(修復と言っても、さまざまな資料を見るとどうやら元々あった上屋と同一の建物を元々あった場所に復元する、という意味のようです)、7~12号上屋は左突堤の拡幅にともなってすべて新築することになり、7,8、12号上屋の3棟は1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート1階建ての耐火倉庫として作られました(12号上屋はちょっと遅れて1930年/昭和5年竣工)。 しかし戦時中の1942年にドイツ軍艦爆発炎上事故に被害を受けて7号上屋は倒壊。 一方、8号上屋も全焼の被害を受けましたが、7号上屋が再建されることがなかったのに対して、併設されていた公衆トイレ共々、当時の姿のままで80年代にも存在していたということや、事故当時の時代背景などから考えると、8号上屋が爆発事故で受けた被害はそれほど深刻なモノでは無かったと推測できます。 そういうことから言えば、7号上屋が被害担当艦の如く爆発事故による被害を一身に請け負って倒壊したことと引き替えに、先週の第二分室とともに、この8号上屋も事故後40年経過した80年代にこうして写真に記録することが出来たとも言えるわけで、それを思うと一種、感慨深いものがあります。 と思うのは今になってからの話で、撮影当時はそのような逸話はまったく知る由もなく、ただ単純にマメにペンキを塗りなおしていた新港埠頭の岸壁沿いにあった他のトタンの波板張りの鉄骨上屋に比べて、この8号上屋は廃墟感に溢れていた為に撮影しただけなのですが・・・・・・(笑)
by yokohama80s
| 2012-12-09 00:02
| 新港埠頭
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