2013年 02月 17日
かつて終戦後から1982年(昭和57年)に返還されるまでのあいだ、小港町から本牧和田にかけて本牧通りを挟んだ両側にフェンスに囲まれた通称・本牧ベース、はたまた米軍キャンプその他諸々の呼び方をされていた、正式名称「米軍横浜海浜住宅地区(YOKOHAMA BEACH DH-AREA)」という910世帯分の米軍人及び軍属家族向け住宅があった横浜市内で最大規模の米軍施設がありました。 ちなみに施設名称に「横浜海浜(YOKOHAMA BEACH)云々」、エリアワンの案内板には「SEASIDE AREA(ちなみにエリアツー地区は"NASUGB BEACH AREA"→マニラから南に60kmにある海岸・・・・・・にちなんでいるんだと思うヨ・・・・・・たぶん・・・・・・)」とありますが、現在の地図を見ると「いったいどこがビーチやねん!」と言いたくなりますが、昭和42年に本牧埠頭、錦町一帯が埋め立てによって出現する以前は、このエリアワン地区の東側は、本牧十二天の海岸線が広がり(ザックリ言うと、錦町から間門までの産業道路が埋め立て前の海岸線)、その昔、居留地に住む外国人たちがこの地にサマーハウス(夏用の別荘)を建てたのをきっかけに、それ以来、米軍により接収されるまでは海水浴場や景勝地としてとして人気のあった横浜名所のひとつでした。 米軍は、ちゃっかりその海岸線ごと接収してしまった、という次第。 ということで今回は、俗にエリア・ワンと呼ばれていた正式名称"米軍横浜海浜住宅地区一号住宅地"こと本牧通りを挟んだ海側(東側)にあった住宅の写真を。 このエリアワン地区には、庭、家具、家電、暖房完備の4~5LDKの部屋が1棟あたり2~3戸入った建物が 151棟あり、おもに任地に1~2年滞在することに同意した家族持ちの下士官以下の兵卒と軍属が住んでいたそうです(ちなみに本牧通りを挟んで山側のエリアツーこと二号住宅地が士官用住宅だったそうな)。 そしてこれらの住宅は、家族構成によって部屋数が決められ、5歳以上の子供には必ず一部屋が割り当てられ、自家用車については一家族につき一台の所有が認められ、さらに必要に応じて日本人の使用人を雇用することができたそうで(使用人の賃金は日本政府が負担した)、中区史によればこのエリアワン地区には合計427世帯が暮らしていたそうです。 でも国土変遷アーカイブで70年代頃のこのあたりの航空写真を見ると思わず泣けてきます(笑) 一軒一軒が大きいし、家同士の間隔は広いし、庭は広々しているのに対して、金網の外側は米軍住宅1棟分の敷地にギッチギチに家が6~10軒は建っていますから・・・・・・。 *写真は1981年10月~82年7月にかけて撮影。
by yokohama80s
| 2013-02-17 00:03
| 本牧・小港・新山下
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