2012年 11月 25日
1934年(昭和9年)に大蔵省営繕管財局が発行した大正14年度営繕事業年報にある「横浜税関陸上設備震災復旧」の項によると、九~十一号岸壁には鉄骨生子板張り(波板トタン張りのこと)の上屋を、そして七号、八号岸壁には鉄筋コンクリート平屋建ての同規模同設計の上屋を建設した、とあります。 ところが80年代には、8号岸壁には鉄筋コンクリート平屋の上屋があったのに対して、七号岸壁には鉄筋コンクリート平屋建ての上屋などなく、代わりにこの岸壁を接収していた米軍により仮設の簡易冷凍庫が設置されていました。 そこであれやこれやの資料を紐解いてみると、横浜市発展記念館のサイトにある1934年(昭和9年)発行の横浜グラフ四月前半の【「練習船」を送り迎へる!!】という写真には、八号上屋と双子の七号上屋が確かに写っています。 ところが国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システムの1944年に旧陸軍が撮影した航空写真には、七号上屋があった場所にはノコギリ屋根のバラック倉庫らしき物が写っていて、さらに1946年~1956年に撮影された航空写真には、七号上屋があった場所の左突堤中央道路側に衝立状の壁が確認出来るだけで上屋の姿は影も形も見当たりません。 そうなると1934年から1945年までの間に七号上屋が何かの理由で取り壊されたということになりますが、戦前~終戦直後にかけてわざわざ頑丈な鉄筋コンクリートの上屋を取り壊す理由が思いつかないし、このあたりは空襲の被害を受けていないし・・・・・・。 すると1985年に刊行された中区史に、戦時中の昭和17年(1942年)11月30日に八号岸壁で「ドイツ軍艦爆発事故」が起こり上屋が倒壊したという記述が。 しかし普通に考えると、爆発が起きたのが八号岸壁なのだから倒壊した上屋は八号上屋なのでは? ということで、この事故の詳細について書かれた光文社NF文庫・石川邦美著「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」を読んでみると、舳先を沖に向けたいわゆる出船状態で八号岸壁に係留中だったドイツ海軍のディトマルシュン級補給船三番艦ウッカーマルク(全長178m、満載排水量20,858トン)が油槽清掃中の不注意から爆発炎上し、亀裂が入った船体から燃料の重油が流出し新港埠頭の左右突堤の五~八号岸壁に囲まれた凹部の内側は火の海に。 そして爆発した輸送船に並列に、俗に言う"メザシ"状態で係留されていた同じくドイツ海軍の仮装巡洋艦・トール(全長122m、排水量3,862トン)の船尾でまさに積み込み中だった多量の弾薬に引火し大爆発が発生(注:両船の全長及びトン数は出典により様々な数字と単位が錯綜しているため、複数存在する数字のうち岸壁長と船の大きさを比較して私の独断と偏見で妥当だと思われる数値を採用したので、目安程度にお考えください)。 これにより六号、七号岸壁に係留中だった船が次々に爆発炎上し、その結果、七号上屋が倒壊、八号上屋その他付近の倉庫が全焼し、ドイツ軍人61人、中国人捕虜36人、停泊中だったドイツ軍艦の整備や岸壁で荷揚げ作業に従事していたり、外国人船員相手に土産物などを売っていた日本人5名の合計102人が犠牲になるという大事故があったそうです。 さらにこの本には、横浜税関が保管していたという事故直後に撮影された写真が多数掲載されていますが、それを見ると確かに事故が起きたのは8号岸壁で、倒壊したのが七号上屋だということが確認できます。 そこでこれらの写真に写っている七号上屋の壊れ方や、国土変遷アーカーブの航空写真やネット上で見つけ出した戦後、七,八号岸壁を撮影した写真などを参考に想像力たくましく妄想してみると、八号岸壁に係留されていたウッカーマルクの船体が大爆発を起こしたトールより二回りほど大型だったことや、2船とも海側に船首を向けたいわゆる出船状態で停泊しており、誘爆して大爆発を起こしたのがトールの船尾船倉側、すなわち七号上屋側だったことなどの様々な要因が重なって、仮装巡洋艦が誘爆した時にウッカーマルクが遮蔽板の役割を果たした結果として衝撃波と爆風が七号上屋を直撃し岸壁側の壁と天井が吹き飛ばされて倒壊し、辛うじて倒壊を免れた中央道路側の壁と、八号上屋側と万国橋側の壁1/3が1957年に米軍が簡易冷凍庫を設置するまで取り壊されずに衝立のような形で残され、七号上屋跡地は露天の貨物置き場として使われた、ということのようです。 (元の写真はみなとみらい歴史AR・1950年代の横浜港の航空写真から) 一方、最初に爆発、誘爆した2船が停泊していた八号岸壁の八号上屋は、ウッカーマルクの船体が爆発による衝撃波と爆風を遮ったことにより(爆発による急激な気圧変化により上屋の扉は吹き飛んだものと思われます)、一部損傷を被ったものの修復され、みなとみらい21関連工事により1990年代に取り壊されるまで屋根や壁に修復跡を残したままの姿で現存していました。 余談ではありますが、昔、大西洋で通商破壊戦に従事し最大の戦果を挙げたドイツ海軍巡洋艦アドミラル・シェアについて書かれたノンフィクションポケット戦艦という本(冷蔵船デュケサの逸話は秀逸です)を読んだことがありますが、作品中にシェアと共に南大西洋で活動していた仮装巡洋艦トールが、その後、このような運命を辿っていたということや、戦況悪化のためにドイツに戻れなくなったドイツ艦船が日本に協力して太平洋で行動し、その拠点として新港埠頭が使用されていた、という事実と共に(その後、ドイツに無事帰れたのは二隻だけで、残りの船はすべて連合国側により終戦までに撃沈されている)、7号岸壁に上屋が存在しなかった理由に、こんな戦争秘話があったことには正直、驚きを禁じ得ません。 ということで、5日後に1942年の爆発事故からちょうど70年目を迎えるにあたり、国籍を問わずこの事故で犠牲になられた102名の方々のご冥福を、ささやかながらお祈りしたいと思います。 来週は上述した本の118頁に事故直後の写真が掲載されている旧税関第二分室をお送りします(テキトーに写真を何枚かUPするだけですが・・・・・・)
by yokohama80s
| 2012-11-25 00:03
| 新港埠頭
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