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週刊 横濱80’s

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2017年 12月 24日

横浜港駅のナゾ

 かつて新港埠頭内にあった横浜港駅↓

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-1981年撮影-


横浜港駅のナゾ_c0247059_16341722.jpg
-2016年撮影-


については、こちらで、現地の説明板では「屋根を新建材で修復した以外はオリジナル」と解釈出来る文言が書かれているものの、実際には「オリジナルより現在のホーム全長が短い」、「東京側ホーム先端の形状がオリジナルと違う」etc,etc,etc……などから、現存している横浜港駅旅客乗降場とされている建造物は、昭和初期に作られたオリジナルではなく、新港埠頭再開発時に新たに作り直されたモノと独断と偏見(?)で断定したのですが、それを確認するために↓

横浜港駅のナゾ_c0247059_16482951.jpg


このような文献を仕入れ、この本に掲載されている戦前の横浜港駅の写真を眺めたがつしていた時に、ふつふつと沸き上がるさらなる疑問が……

 それは蒸気機関車全盛期には、どんな田舎であっても終着駅には必ず設置されていた設備が↓

横浜港駅のナゾ_c0247059_16582057.jpg
-某地方の某駅の転車台-


横浜港駅には存在しなかったにも関わらず、この駅を発着する列車を牽引する蒸気機関車は必ず進行方向に先頭が向いている、ということ。

横浜港駅のナゾ_c0247059_16551346.jpg
Wiki「横浜港駅」より拝借-


 「それがどうかした?」と言われてしまうとそれまでなのですが、これ、蒸気機関車にはけっこう深刻な問題でして、そもそも蒸気機関車という代物はその構造上、運転室の前方に長いボイラーがあるし、後方には燃料となる石炭と蒸気を作るために必要な水を積み込んだ炭水車があるために、進行方向に機関車先頭部を向けていても進行方向左側に座る機関士からは前方左側しか見えないし、バックで運転しようとすると通常なら進行方向左側に座っている機関士は、進行方向右側に位置することになるので炭水車に遮られて前方が見えないだけでなく、進行方向左側に設置されている信号機がまったく見えなくなるという由々しき事態に(目隠しして運転するのと大差ない状態)。

 このためどんな辺鄙な田舎の駅であろうと終着駅には必ず転車台が設置されていたワケなのですが、新港埠頭の設備図を見ても建設当時……というか震災復興時の書物を見ても、

横浜港駅のナゾ_c0247059_23231276.jpg
-昭和9年版税関設備図より-



はたまた各時代の空中写真を見ても、直径20mもある建造物はその存在どころか痕跡すら確認出来ません。

 ちなみに上図で転車台とあるのは新港埠頭内に三カ所設けられた全長17呎(フィート、約5.1m)の現在、象の鼻地区で保存されているトロッコ軌道用転車台を大型にした鉄道貨車用転車台なのですが、昭和初期の貨車は全長7m強あったことからまったくその役目を果たさなかったようで昭和12年までにはすべて撤去されたようです(参照:大正14年 営繕管財局営繕事業年報、昭和12年横浜税関設備図)。

 と言っても、機関車の向きを換えるのに必ず転車台が必要というワケではなく、レールを三角形に配置して各頂点の分岐の先で折り返すデルタ線という方法があるのですが、設備図や線路配置を確認してみてもそのように接続された線路は見当たりませんし、日本ではこの方法による機関車の方向転換方法はほとんど行われていなかったそうです。

 そうなると横浜港駅に一番近い転車台まで機関車を回送して方向を換えていたことになるのですが、横浜港駅に一番近い転車台は4km以上離れた高島町の高島駅構内にあった横浜機関区の機関庫前にあるものだけ。

 ということはボートトレインは横浜港駅に着くと東京駅に折り返すまでの2時間から3時間の間に、機関車を列車から切り離してバック運転して4kmほど走って横浜機関区の転車台で向きを換えて再びバックで4km戻ってボートトレインの東京駅方向先頭に連結した、ということになるのですが、この方法にも問題が……。

 それというのも蒸気機関車は、余分な蒸気を大気中に気前よく放出してしまう性質上、蒸気を作るのに必要な水を始終補給しなくてはならず(蒸気機関車後部にある炭水車はその三分の二のスペースは貯水タンクだった)、たかが機関車の方向転換をするためだけに機関車単独で往復10km弱を往復させるのは水の無駄遣いだし、さらにバック運転で行き来するには前述のように目隠しして運転するような物なので、連結手というか信号手が機関車の前方にぶら下がりながら往復10km弱を旗を振るか、はたまたあらかじめ進行方向右側に信号機を設置する必要があり、たかが機関車方向転換の為だけにこのような面倒なことをいちいち行っていたとは思えないし……。

 かと言ってボートトレインが東京駅方向に先頭を向けた機関車を最後部に連結するいわゆるプッシュプル式という方法なのですが、記録癖のある"テツ"の方々がそのような国内では珍しい状況を記録していないということは考え難いことから却下。

 残る手はあらかじめ東京方向に先頭を向けた機関車を、ボートトレインとは別の列車に連結して横浜港駅まで持って行ってボートトレインに連結して東京まで列車を牽引し、東京からボートトレインを牽引してきた機関車は、東京方面へ向かう別の列車に連結して横浜機関区がある高島駅まで運んで行った、という方法なのですが……???

 う~ん、わからん!!!

 このことを考え始めると夜も眠れない……というのは冗談ですが、真面目な話、いったいどうやって機関車の向きを換えていたんでしょうか、不思議です(笑)
 

# by yokohama80s | 2017-12-24 00:00 | 新港埠頭
2017年 09月 24日

私家版・昭和5年~14年山下町ディレクトリー

 現在、その道のプロの方々が、「明治ウン年頃の山下町ウン番地になにがあったのか?」を調べる時に絶大の信頼を寄せているのが、1871年(明治4年)に創刊された商工録"THE JAPAN DIRECTORY"。

 この商工録は一部はネットでも見ることが出来ますが(横浜市立図書館に行けばほぼ全巻そろっている)、なによりも一番の利点は番地ごとに企業が記載されていること。
例えば、山下町なら1番地から順番に、発行年の前年に存在した個人宅や商店、企業が全て網羅されています(そもそも外国人向けの書物なのですべて英語表記ですが)。

 しかしこの便利な書物も、1923年(大正12年)の関東大震災であえなく廃刊。

 その後、1925年(大正14年)に"THE JAPAN DIRECTORY"の日本人スタッフにより、"THE DIRECTORY OF JAPAN"として復刊するものの、震災とその後の世界恐慌などにより外国商社の横浜からの撤退が相次いだのが影響して、これも1930年(昭和5年)の発行を最後にあえなく廃刊。

 ということで、昭和5年以降に「山下町ウン番地には何があったのか?」を調べようと思ったら、横浜市が発行していた横浜市商工案内、横浜商工会議所が発行していた横浜商工名鑑とその英語版の"THE FOREIGN TRADE DIRECTORY OF YOKOHAMA"か民間の出版社が発行した各種商工録を参照するしかないのですが、これらがなかなかどうしてクセがある代物。

 というのは、横浜市商工案内は営業収益税年額20円以上、または資本金1万円以上の法人、横浜商工名鑑は営業収益税年額30円以上、または資本金20万円以上の法人のみの掲載で、さらに民間出版社の商工録は当時の電話帳からの丸写しで、屋号ではなく個人名記載が多いしデーターも震災前と震災後が入り交じっているという状態。

 さらなる問題は、これらの商工録は業種ごとに記載されているということ。
 これでは、「何番地になにがあったのか?」を調べるのに、そのたびに各年度の商工録を1ページ目から目を通さないといけないという始末。

 そこで「いちいちいろんな商工録に目を通すのは面倒だ。山下町だけでも表にまとめてしまえ」と作ったのが私家版商工録。

 いちおう出典は、表の最後にまとめてありますが、ざっと↓

私家版・昭和5年~14年山下町ディレクトリー_c0247059_174843100.jpg


こんな感じ。

ということで、表の見方をざっと説明すると

私家版・昭和5年~14年山下町ディレクトリー_c0247059_17492798.jpg


↑表はこんな感じなのですが、一番左の行が番地で、左矢印で赤字で書いてある数字が現在の番地になります。

 その次の列が企業名で、赤字のアスタリスク付きで書いてあるのが、移転先とか移転元その他。

 でその番地の一番上に赤く塗りつぶしてある行が、防火地図などで「堅牢な建物」すなわちコンクリート製のビルや現存している建物名。

 とにもかくにもご覧になれば一目瞭然……だと思います(不明な点はメールかコメント蘭まで)

 ってことで、私家版・昭和5年~14年山下町ディレクトリーご入り用のムキは下記リンクよりご自由にダウンロードしてご活用下さい。






*追記
 このリストは参照文献に記載されている事業所を番地別にまとめたモノに過ぎません。
 よってこのリストが物語る事実は、あくまでも「昭和ウン年に発行されたナントカという書物に記載がある」ということに過ぎず、その時に実際にその事業所がその番地に存在したという証明にはなりませんし、逆に存在しなかったことを証明するものでもありません。
 また昭和5年以降に発行された商工録類は横浜市や商工会議所という公的機関が発行したものですら誤記、誤植が多く見受けられます。
 このためリスト作成にあたりわかる範囲で修正してありますが、正確な情報をお求めの方は開港資料館などの専門機関にお問い合わせされることをお勧めいたします。


# by yokohama80s | 2017-09-24 12:00 | 山下町
2017年 08月 27日

横浜絹織物検査場

 かつて横浜スタジアム前交差点から大桟橋通りを大桟橋方向に向かって最初の通りを入った所の、山下町の224番地に



戦前に建てられたらしい花園橋病院別館の壊れかけたビルがあったことを

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こちらに書いたのですが、この時に問題となったのが、「このビルはもともとは何の建物として建てられたのか?」ということ。

 航空写真や資料その他などから、このビルは、「県営の輸出絹織物検査場として大正15年に山下町に建設されたもの」で当時の名称は「神奈川県横浜絹織物検査場」だった可能性が高い……としたのですが、 ただこの時点では、建設当時のビルの写真が見つからなかったことから、あくまでも「可能性が高い」という程度の話。

 その後、横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」で昭和3年に横浜市が外国人向けに発行したガイドブック「YOKOHAMA  The Gateway to the Orient」という本で輸出絹織物検査場の写真を発見↓

横浜絹織物検査場_c0247059_23344666.jpg
*上から二番目の丸く切り抜かれている写真


さらに国立国会図書館デジタルコレクションからはこんな写真も↓

横浜絹織物検査場_c0247059_23361927.jpg


↑の写真の出典元を記録するのを忘れてしまいましたが、確か横浜市か商工会議所が発行した海外向けに生糸貿易を紹介した書物だったと記憶しています。

 ということで話を戻すと、これでめでたく1980年当時の住居地図には「片岡ビル」として記載」されていた、いまは亡き花園病院別館の建物は、もともとは昭和3年(1928年)に輸出絹織物検査場として神奈川県によって建てられたものと確定。

 ただ建設当時の写真と比べると、ビルの右側にあった煙突が

横浜絹織物検査場_c0247059_23435387.jpg


建設当時の写真にはありません。

 となると、当時の暖房事情やあれやこれやの事情を勘案するにこの煙突は、病院に転用する段階で暖房用ボイラー(セントラルヒーティング)の煙突として後付されたものだろうと思われます。

 どうりで煙突部分が雑な仕上げなワケです。

 これでまたひとつナゾが解けました。
 

# by yokohama80s | 2017-08-27 12:00 | 山下町
2017年 07月 30日

本町ビルの雁首付き通風筒

 その昔、南仲通を挟んで県立博物館の隣りに本町ビルという昭和4年に帝国火災保険横浜支店ビルとして建設されたビルがあったことはこちらで触れているので詳しくはリンクをクリックして頂くことにして以下省略。

 このビルはつい最近まで現存していたので、ネット上に様々な写真が上がっていますが注目されているのは、ニューヨーク的な外付けの非常階段。

 しかし私が気になっていたのは、非常階段の下にあった昔の船に取り付けられていた雁首付きの通風筒↓。

本町ビルの雁首付き通風筒_c0247059_23435825.jpg


 なにやら巷の噂では、この通風筒は、取り壊し寸前の最終形態の時にはすでに撤去されていたらしいのですが、「なぜにしてビルに船の通風筒が?」という疑問が撮影時からず~っとあったワケです。

 ちなみに↓は山下公園に係留されている氷川丸の通風筒。

本町ビルの雁首付き通風筒_c0247059_23465317.jpg


 で話を元に戻しますと、どう見てもこの通風筒、船舶用の物を流用したらしいのは明らかなうえに後付け感がないという代物↓。

本町ビルの雁首付き通風筒_c0247059_23441212.jpg


 仮に、このビルが建てられた当時から存在していたとしたら、「なぜこんな物を?」と長年の疑問だったのですが、横浜市立図書館デジタルアーカイブ"都市横浜の記憶"で実業之横浜社が昭和5年5月15日に発行した雑誌「大横浜」第25巻 第3号 春期特大号を見ていたら、「ビルディング素描」という震災復興で横浜中心部に建設されたビルを紹介したページにこんな記述が。

以下、原文のまま引用
本町ビル(帝国火災ビルディング)
 元の鈴木商店の空き地と正金銀行脇とに挟る帝国火災保険会社の経営する本町ビルディングは地下室と六階の可なり廣い建物である。第一階の弁天橋に向いた所が鎧戸が下りているので何となく景気が悪いが、地下室には最近食堂と酒場トップが帝国食堂の後を受けて開業してをる。一寸覗いて見たら近代歓楽境の響と香ひが高い。まだ知らない人は一度は吸ひ込まれて見るがよからう。
 このビルディングはあらゆる設備が整頓して居るが各階中央の廊下とエレベーターの昇降口が薄暗いのは玉に瑕であらう。二階は帝国火災保険出張所、平和火災海上保険会社支店、朝日スレート販売会社、法学士内田修一法律事務所、大北火災海上保険株式会社支店の事務所によって占められ、三階は郡是製糸株式会社があるだけで、半分以上はあいている。



 当時のこのてのビルは、「暖房完備」とわざわざことわるくらいなので、当然のこと冷房なんか無いのが当たり前。そうなると地下に食堂と飲み屋が入っていたとすると、夏場は熱気がこもってさぞ不快だっただろうことは想像に難しく無く、そうなると地下の換気の為に取り付けられていたのだろう……と思われます。

 でもあの本町ビルの地下が建設当時は"近代歓楽境"だったとは……。

本町ビルの雁首付き通風筒_c0247059_2344253.jpg
 




 

# by yokohama80s | 2017-07-30 12:00 | 関内地区
2017年 06月 25日

新港埠頭旅客ターミナル門柱

 現在、新港埠頭のMARINE & WALK YOKOHAMAなる商業施設の裏手に、昔の新港埠頭左突堤部の大岡川河口側の関東大震災で岸壁が海側に崩壊滑落し、瓦礫を撤去するのもたいへんなのでもともと岸壁があった場所から8間(約14m)海側に杭を打ち込んでその上に板状の鉄筋コンクリートを載せて再建したことから横桟橋と呼ばれた旧九号、十号、十一号岸壁に「新港ふ頭旅客ターミナル」と称する施設があります。

 なにやら現在は、東京オリンピックを当て込んで、どさくさ紛れに「大桟橋を補完する旅客ターミナルを作る」と称して老朽化した桟橋部分を修復中ですが、そこへの入口が↓

新港埠頭旅客ターミナル門柱_c0247059_18405055.jpg


↑のようにあるワケですが、この写真の門柱、「なにか見覚えがあるな……」と思ってふと思い出したのがかつて税関庁舎の脇にあった税関西門

 
新港埠頭旅客ターミナル門柱_c0247059_18461484.jpg


ちなみに↑の写真は↓の写真を

新港埠頭旅客ターミナル門柱_c0247059_18465162.jpg


こちらのサイトでカラー化してみたもの。

 この2枚の写真を並べて眺めたがめつしてみると、雨染みの付き方とか現在の看板より下側に緑青のシミがついているなどから、かつての税関西門も移築して再利用したのは確実と思われます……が、これ、横浜市の"認定歴史的建造物"には指定されていません。

 確かにもともとの門柱の地上に出ていた部分をちょん切って、さらに移設設置する時に地面に埋め込んでしまったりして、原型より30cmほど低くなっているし、特にこれといったデザイン的特徴も無いのですが、横浜市の所有のはずなので所有者の承諾問題も無いし、そもそも横浜市の指定する歴史的建造物なる制度は取って付けたようなハリボテでも指定されるくらい敷居が低いのですから、この門柱も指定してもなんら問題はないはず。

  だったら「誰が損するワケでも無いし、せっかくわざわざ税金使って移築したんだったら"認定歴史的建造物"にでも指定しておけばいいのに」と思うのですが……???

 

 

# by yokohama80s | 2017-06-25 12:00 | 新港埠頭