2015年 09月 06日

常盤町1丁目と住吉町1丁目

 みなと大通り沿いの常盤町1丁目1番地に撮影当時あったのが↓

c0247059_23294234.jpg


1928年(昭和3年)に兵庫県二宮の甲子園ホテルの設計で有名な遠藤新が設計し、当時、皮革製品や馬具の輸入を行っていた宮下商店によって建てられた旧宮下ビルディングがありました。
この建物については、こちら(常盤町1丁目 旧宮下ビルディング)で取り上げたので写真だけザックリと。

c0247059_23385782.jpg


c0247059_2339751.jpg


c0247059_23391751.jpg


c0247059_23392734.jpg


で、そこからみなと大通りを海側に1ブロック行った住吉町1丁目-12、常盤町側カドには↓

c0247059_234314100.jpg


看板がレトロチックな歯医者さんがあって、その隣りには↓

c0247059_234437.jpg


暖炉の輸入販売や絹織物の輸出を行っていた「株式会社 松村商店」として先の宮下ビルと同じ1929年(昭和4年)に建てられた神奈川県庁住吉町分庁舎があり、入船通りに入って現在のベイスター通りこと撮影当時の関内仲通りを左に折れたあたりのビルにあったのが(たぶん)↓

c0247059_23493661.jpg


住吉町1-14コーヒータイム。

そして関内仲通りを市役所方向に進んで、常盤町通りを再び左に折れて東電の変電所の先にあったのが↓

c0247059_2351258.jpg


常盤町1-4サテンドール。

ということで、今回は1981年の常盤町1丁目の写真をお送りしました。

*写真はすべて1981年撮影。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-09-06 00:07 | 関内地区 | Comments(2)
2015年 08月 30日

みなとみらい21

 「みなとみらい21」については今さら説明する必要は無いと思いますので、以下省略ということで^^。

 とにもかくにも、撮影当時の高島埠頭、三菱重工横浜造船所沖の現在のみなとみらい地区の埋立工事が起工されたのが今を遡ること31年前の1984年のこと↓。

c0247059_234241100.jpg
*①高島埠頭三号桟橋先端部より(1984年撮影)


c0247059_23425341.jpg
*②高島埠頭三号桟橋先端部より(1984年撮影)


すでに金沢区に移転してもぬけの殻と化していた三菱重工横浜造船所こと旧横浜船渠沖の埋め立てから始まりました。

 時は流れて3年後の1987年に高島埠頭を訪れてみると

c0247059_17282431.jpg
*③高島埠頭一号桟橋入口あたり(1987年撮影)


c0247059_17284879.jpg
*④高島埠頭一号桟橋(1987年撮影)


人工島部分は、3年前と同じ姿を留めていたものの、桟橋は埋め立てられ、はるか沖合まで陸地となっていて、そこでは2年後の1989年に開催予定だった横浜博覧会の準備真っ最中でした↓。

c0247059_17291362.jpg
*⑤高島埠頭一号桟橋基部より(1987年撮影)


c0247059_17313885.jpg
*⑥高島埠頭一号桟橋より建設中の横浜美術館の建物(1987年撮影)


c0247059_17294996.jpg
*⑦高島埠頭二号桟橋基部あたり(1987年撮影)


c0247059_17295837.jpg
*⑧高島埠頭二号桟橋基部あたり(1987年撮影)


c0247059_121963.jpg
*⑧高島埠頭二号桟橋基部あたり(1987年撮影)


c0247059_17311023.jpg
*⑨高島埠頭南端部(1987年撮影)


c0247059_1732284.jpg
*⑩高島埠頭旧水上消防出張所あたり-④の建物の裏手-(1987年撮影)


c0247059_17345014.jpg
*⑪緑町の現在のカーショップあたり……だと思います(1987年撮影)


c0247059_1736219.jpg
*⑫現在のみなとみらい大通り(1987年撮影)







*来月9月のUP予定
9月 6日:常盤町1丁目と住吉町1丁目
9月13日:常盤町2丁目
9月20日:常盤町3丁目
9月27日:常盤町4丁目

[PR]

# by yokohama80s | 2015-08-30 00:07 | 高島埠頭 | Comments(0)
2015年 08月 23日

艀の看板

c0247059_095490.jpg
1984年撮影


 そのむかし、高島埠頭に繋いであったハシケの近くで必ず目にした看板↓

c0247059_0112381.jpg
1984年撮影


なぜか見るたびに場所が移動しています↓。

c0247059_0114264.jpg
1984年撮影
 

c0247059_0115713.jpg
1984年撮影


c0247059_0121354.jpg
1984年撮影


 そして3年後↓

c0247059_0123594.jpg
1987年撮影


c0247059_0125417.jpg
1987年撮影


看板が作り替えられていました^^。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-08-23 00:06 | 高島埠頭 | Comments(0)
2015年 08月 16日

高島埠頭 その3

 高島埠頭のあれこれについては、過去記事(高島埠頭高島埠頭の市営上屋高島埠頭その2)をご参照頂くことにして、今日は写真だけを。

c0247059_1283262.jpg
*①横浜税関高島埠頭出張所前、現在のすずかけ通り西交差点先のそば屋のあたり(1987年撮影)


c0247059_1284873.jpg
*②税関出張所(1987年撮影)


c0247059_17282242.jpg
*③税関出張所と共立冷蔵倉庫の間から(1987年撮影)


c0247059_1552579.jpg
*④②の写真奥に写っている倉庫(1987年撮影)


c0247059_129835.jpg
*⑤高島駅のレールセンター(1984年撮影)


c0247059_1294797.jpg
*⑥臨港踏切から高島駅方向を見る(1984年撮影)


c0247059_130438.jpg
*⑦高島駅構内はずれの看板(1984年撮影)


c0247059_132474.jpg
*⑧一号桟橋付け根の冷蔵倉庫(1987年撮影)


c0247059_1302651.jpg
*⑨二号桟橋付け根(1987年撮影)


c0247059_1304371.jpg
*⑩二号桟橋と三号桟橋あいだの倉庫(1987年撮影)


c0247059_1305899.jpg
*⑪二号桟橋と三号桟橋あいだの倉庫・その2(1984年撮影)


c0247059_1555176.jpg
*⑫三号桟橋(1986年撮影)


c0247059_1311691.jpg
*⑬埠頭南端東側の船舶用給油所・その1(1987年撮影)


c0247059_1313434.jpg
*⑭埠頭南端東側の船舶用給油所・その2(1984年撮影)


c0247059_1314866.jpg
*⑮埠頭南端東側の倉庫にて(1984年撮影)


c0247059_1322623.jpg
*⑯埠頭南端東側の倉庫にて(1984年撮影)


c0247059_1325173.jpg
*⑰横浜共立倉庫(1984年撮影)




[PR]

# by yokohama80s | 2015-08-16 00:10 | 高島埠頭 | Comments(0)
2015年 08月 09日

横浜機関区機関庫

 その昔、住所で言うと"西区高島1-2"のみなとみらい地区57街区の国道1号とすずかけ通りの交差点カドに機関区と操車場を備えた"高島駅"という貨物駅があったことはこちら(東海道本線貨物支線 高島駅)で触れましたので、以下省略ということにして、とにもかくにも横浜駅東口の中央郵便局と崎陽軒本店の間の、むかしむかしに現在の桜木町駅が横浜駅だった時代の軌道跡……というか、正しくは軌道に沿って作られた道路を高島町方向へ行くとやがて万里橋を渡りさらに進むと国道1号線に突き当たる所に国道を跨ぐ歩道橋がありました↓。

c0247059_023592.jpg
 
*写真①
(現在の国道一号の高島町~東口間は二代目横浜駅当時の軌道跡地をそのまま道路に転用したもの)


 ちなみにむかしむかしに高島町に横浜駅(二代目)があった頃の地形図を、あのてこのてで現在の地形図に落としてみると、どうやら↑の写真の場所はネットで拾ったこの絵葉書写真↓

c0247059_2328546.jpg
*現在の京浜東北線にあたる京浜線の下り線桜木町方向ホームから桜木町方向を見るの図


の撮影場所にあたるようです。
ついでに二代目横浜駅の東海道本線上り線(東京方面)ホームの最前部は、国道一号沿いにある市営バスの高島町バス停のあたりまであり↓

c0247059_17185778.jpg
*左から1927年(昭和2年)、1929年(昭和4年)、1931年(昭和6年)。
(横浜都市発展記念館刊・「地図」で探る横浜の鉄道より)


線路は、そのまま国道一号から東口広場を斜めに突っ切って現在の線路に合流して、当時の神奈川駅(現在、月見橋から線路沿いに青木橋に至る道路が、ちょっと線路から離れて空き地になっている場所にあった……らしい)に到着、というルートを辿っていました。

 そして震災により二代目横浜駅が全焼し現在の場所に三代目の駅舎が作られ、東海道本線の線路も現在のルートに変更された時に、東海道本線と現在の京浜東北線こと京浜線の複々線の広大で細長い軌道跡の跡地利用が問題になったそうなのですが、結局、新駅舎の駅前広場と国道一号の道路として使用されることになり、現在に至る、ということになったそうな(上の昭和6年の地図は軌道部分を書き直しただけなので国道一号の道路幅は二代目横浜駅当時と同じですが、その後の昭和7年の地図では現在と同じ道路幅に書き直されています→横浜市三千分一地形図の昭和7年新港で確認出来ます)

 「どうりでこの区間の道路幅が不自然に広かったワケだ」……と言っても、二代目横浜駅の存在を知ったのはここ最近のことで、これらの写真を撮影した当時にはそのような知識は無かったのですが^^。

 ということで、とにもかくにも階段を上って歩道橋で↓

c0247059_1639516.jpg
*写真②
(青看板と歩道橋の間に街灯が……)


国道一号を渡った所から東京側を見ると↓

c0247059_0243729.jpg
*写真③横浜機関区機関庫
*奥の日産の看板があるビルが先週のスカイビル
その右手に見える鉄骨が建設中の"そごう"こと新都市ビル


横浜機関区の1914年(大正3年)に建てられた扇形の機関庫を望むことができました。

 ということで、歩道橋の階段を降りて国道一号の海側の歩道を東京方向に戻るとこんな感じで↓

c0247059_16512957.jpg
*写真④


c0247059_16514213.jpg
*写真⑤


歩道から機関庫を見ることが出来ました。
 
 でさらに東京方向にちょこっと行くと、機関庫の方に行ける入口があって↓

c0247059_16581711.jpg
*写真⑥


そこを何食わぬ顔で通り抜けた先に↓

c0247059_0251534.jpg
*写真⑦

 
機関庫が。
 
c0247059_0253248.jpg
*写真⑧


c0247059_0254953.jpg
*写真⑨


c0247059_0262190.jpg
*写真⑩


c0247059_0264441.jpg
*写真⑪


c0247059_027334.jpg
*写真⑫


 
*写真はすべて1987年撮影。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-08-09 00:04 | 高島埠頭 | Comments(4)
2015年 08月 02日

初代スカイビル

 横浜駅東口の通称"出島地区"と呼ばれる場所に、屋上に大きな広告塔が乗った円形の展望回転ラウンジがあり、ビル内には元町のユニオンを初めとした70店ほど入った特選街(そんなに店があったとは知りませんでした^^)やらレストラン街、ボーリング場、劇場、サウナや耳鼻科、歯科、眼科、内科医院がそろった診療所、別棟には当時としては珍しかった年中オープンの温水プールとアスレチックジムがある、今風で言うところの複合ビルのハシリのようなスカイビルがオープンしたのが1968年(昭和43年)のこと。

c0247059_15423814.jpg
*1977年撮影の航空写真にいろいろと書き加えてみました。


 ということでオープン当時に小学生だった方は、親御さんに連れられて一度は行ったことがあるけど、それ以降は行った記憶が……、という方も多いのではないでしょうか(何を隠そう、私のことです)

 なにせ今だと西口から東口へ行く時の最短ルートは誰が何と云おうと東西自由連絡通路を行くルートなのですが、その昔にはこの通路は西口側と東口側に改札口があり入場券を買わなければ通れなかった、ということで、スカイビル竣工当時にスカイビルまで行こうとしたら、なにはともあれダイヤモンド地下街の中央階段を降りてすぐの所の崎陽軒の売店を右に折れ、東急ストアを左に見ながら、当時の岡田屋を通り過ぎた先にある1957年(昭和32年)に作られた狭くて薄暗くてジメジメした北側自由通路を通って現在の"きた東口"の東口出口あたりで地上に出て、さらに京急の横浜駅やら旧横浜駅駅舎のアーケードを通って、ようやく東口駅前広場にたどり着き、そこからさらに歩道橋で国道1号線を渡って↓

c0247059_15152351.jpg
*①スカイビルの東口連絡橋・その1


c0247059_15153230.jpg
*②スカイビルの東口連絡橋・その2


c0247059_1523129.jpg
*③スカイビルの東口連絡橋・その3(旧新興倶楽部ビルこと神奈川県匡済会ビルを取り壊した跡……だと思います)


ようやくたどり着く、という、西口利用者からするととんでもなく不便で辺鄙な場所にありました。

 そんなこんなでスカイビルは、「特別な用事が無ければあんな所までわざわざ行かないよね」と言った存在で(重ねて言いますが、あくまでも私自身の話です)、私事で恐縮ですが小学生の頃にはスカイプールのスイミングクラブに週1で通っていたし、70、80年代はスカイビル内の診療所には何かとお世話になっていたのですが、あらためてスカイビルについて思い起こしてみても何も記憶が……。

ということで、スカイビルに関しては平日の人気の無さは一種、不気味なモノがあったというこだけが印象に残っている程度だし(オープンからしばらく経った頃のそごうも酷かったけど)、調べてみても何も出てこないのでスカイビルの歴史をざっくり書き出してお茶を濁そうと思います(笑)

明治中期~後期のいつか
高島嘉右衛門が鉄道開設の為に埋め立てた堰堤の高島通り2丁目の地先に出島地区が埋め立てられる

1952年(昭和27年)
現在のバスの待機所があるあたりが石炭置場を作る為に埋め立てられる。

1957年(昭和32年)
北側自由通路が開通。 
 
1967年(昭和42年)
本館に先駆けて温水プールとジムがあるスカイプール棟オープン


c0247059_157217.jpg
*④スカイプール&スカイジム棟(スカイビル北側)

 
1968年(昭和43年)
元町、銀座などの有名店などが約70店舗(そんなに店があったんだ)入った特選街、スカイ劇場、ボーリング場、最上階の10、11階は上下逆方向にフロアが回転する二層式展望回転ラウンジ(どうりでいつ見ても階上の広告塔が同じ方向を向いるワケだ)がある地下1階、地上11階建てのスカイビルがオープン。
ちなみに西口の岡田屋(現・岡田屋モアーズ)もこの年にオープン。 

1977年(昭和52年)
スカイプール棟と国道1号とのあいだにあった旧新興倶楽部ビル(神奈川県匡済会ビル)が取り壊され、そこに東口再開発によって行き場の無くなった東口バスターミナルが移転。
東口の旧三代目駅舎が取り壊される(このニュースを聞いた時、なぜか悲しかった記憶があります)。


c0247059_15114646.jpg
*⑤東口バス乗り場


1980年
ルミネ、ポルタ開業、東西自由通路の使用開始(北側自由通路がどうなったか記憶にありません^^)


c0247059_1563576.jpg
*⑥スカイビル前ポルタ入口



1983年(昭和58年)
バスターミナルとスカイプールがある場所に横浜新都市ビルを建設する為に(1985年開業)スカイジムとスカイプールは平沼町に移転し(現在のYSCスポーツクラブ)、スカイプール棟が取り壊される(バスターミナルがどこに移動したのか知りません^^)

1992年(平成4年)
建て替えのため初代スカイビルが取り壊される。

1996年(平成8年)
現在のスカイビルがオープン。


c0247059_15165266.jpg
*⑦スカイビル搬入口(プールの脇あたり)


c0247059_15173461.jpg
*⑧築地橋手前、現在の日産本社の対岸
 
 
c0247059_15182121.jpg
*⑨築地橋手前、現在の日産本社の対岸の堤防(堤防の向こう側は帷子川)
 

c0247059_1519414.jpg
*⑩築地橋の舵輪がクラシカルなハシケ(向こう岸の建物は高島駅の第二荷揚場)


c0247059_15203361.jpg
*⑪スカイビルの裏手・その1


c0247059_15205492.jpg
*⑫スカイビルの裏手・その2


c0247059_1521633.jpg
*⑬スカイビルの裏手・その3


 ということで、このあと「スカイプールの移転先って同潤会アパートがある場所だよな」ということで、再び国道1号の歩道橋を渡って中央郵便局と崎陽軒の間の桜木町駅が初代横浜駅だった時の軌道跡(正確には「この道路沿いに軌道が敷かれていた……はず」程度の話なのですが^^)を万里橋方向に行くと↓

c0247059_15364865.jpg
*⑭万里橋を渡ったところ(高島2丁目)


当時、修学旅行御用達だった旅館の看板があり、さらにその先の浅山橋も渡った↓

c0247059_15354773.jpg
*⑮浅山橋を渡ったところ(平沼1丁目)


先の路地を入ったところにスカイプール……というかスイミングクラブ(なにやら"YSC"と呼ぶらしい)があって、その隣が↓

c0247059_15385651.jpg
*⑯平沼1丁目・モンテベルデ横浜(旧同潤会平沼町アパート)


残念でした。
時すでに遅し、同潤会平沼町アパートは跡形も無くなっていました。


*写真はすべて1983年撮影。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-08-02 00:11 | 高島埠頭 | Comments(11)
2015年 07月 26日

新山下橋

 新山下橋とは、船舶貨物輸送のコンテナ化に伴い、本牧埠頭~山下橋~谷戸橋~本町通り~R16を通行する海コンが増加したことによる慢性的な渋滞、排ガスによる沿道周辺の公害問題が社会問題化し、これらを緩和することを目的に山下埠頭~新山下の貯木場~本牧埠頭へのバイパスルートとして1977年(昭和52年)着工され1979年(昭和54年)竣工した橋のこと。

 一般の人にはあまりなじみの無い橋だとは思いますが、この橋は下を船が航行出来るように比較的高さがあるために今も昔も眺望抜群(ベイブリッジのスカイウォークには負けますが)


 ということで、1982年(昭和57年)のある日の新山下橋から見た風景を。

c0247059_23495774.jpg


c0247059_23492685.jpg


c0247059_23481366.jpg


c0247059_23482785.jpg


c0247059_23484356.jpg


c0247059_2348597.jpg


c0247059_1756018.jpg


c0247059_17315278.jpg


 ↑ということで、橋を渡って新山下側に入るとこんな感じのはしけ溜まり(新山下 はしけ溜まり)がありました。

*写真はすべて1982年撮影。





*来月8月のUP予定
8月 2日:横浜駅東口 スカイビル
8月 9日:高島町 横浜機関区の外壁
8月16日:高島埠頭
8月23日:「関係者以外の乗船を禁ず」の看板
8月30日:高島埠頭から見たみなとみらい21建設現場

[PR]

# by yokohama80s | 2015-07-26 00:04 | 山下埠頭 | Comments(0)
2015年 07月 19日

京浜運河

c0247059_1633891.jpg
*①千鳥町の川崎市営埠頭より京浜運河を挟んで対岸の東扇島を見るの図
(京浜運河の神奈川県側はほぼ当初の計画通りに航路幅6~7百m、干潮時水深9メートル、1万トンの船舶が航行及び錨泊可能なように作られている)
 

 京浜運河のあれこれについては、こちらの過去記事(東京港 -プロローグ編-)ですでに触れていますし、ググるとごっそり出て来ますので「以下省略」ということで^^。

 で結局のところ、東京~横浜を意味する"京浜"と名がついているものの浅野らが計画した京浜運河(横浜港から墨田川河口=東京港まで連続した港湾地帯を造成する構想だった)と言えるのは戦前までに完成していた鶴見川左岸から浮島町と東扇島の間のみで↓

c0247059_1624311.jpg
*②東扇島より扇町方面を見るの図
(写真左奥に船が停泊しているあたりが、扇町の三井埠頭と旧日満倉庫の私営埠頭)


c0247059_16304250.jpg
*③東扇島より浮島方面を見るの図
(ここが京浜運河東口こと川崎側の入口)


c0247059_16381048.jpg
*④東扇島の運河入口(川崎航路の京浜運河東口)を示す白灯台


c0247059_16402690.jpg
*⑤首都高湾岸線建設告知の看板(東扇島にて)


c0247059_16415439.jpg
*⑥東扇島拡張工事


東京側は戦争により運河の完成を見ることなく京浜運河事業そのものが事業廃止となり、戦中から戦後にかけて埋め立てられた品川埠頭、大井埠頭、京浜島と勝島、平和島、昭和島を挟む水路にその名前を残すだけとなっています↓。

c0247059_1621207.jpg
*⑦高浜水門と芝浦排水機場
(この水門の向こう側が京浜運河東京側の芝浦側起点になります)


c0247059_16224298.jpg
*⑧京浜島の京浜大橋
(ここが京浜運河の羽田側の入口)


 ちなみに京浜運河の神奈川側は、昭和46年(1971)の大黒埠頭の埋立により鶴見川右岸から横浜港まで水路が延長されたことにより期せずして「横浜港から東京港の間に港湾設備を完備した工業地帯を整備する」という浅野総一郎による京浜運河構想は神奈川県のみ完成した、という見方も出来るのではないでしょうか(川崎側が多摩川河口手前の浮島で東京側と分断されていますが……)

c0247059_223641.jpg
*⑨灯台の右側が京浜運河の横浜側入口


c0247059_16283468.jpg
*⑩大黒大橋からの図
(現在でも鶴見航路ことつばさ橋をくぐった船舶が大黒大橋手前まで入って来ます)


 
*写真はすべて1987年撮影。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-07-19 00:12 | 鶴見・大黒埠頭 | Comments(0)
2015年 07月 12日

鶴見線沿線・浜安善~浅野~新芝浦

 安善駅を出て浅野駅方面に向かってすぐに丁字路に突き当たります。
右に行けば産業道路、左に行けば米軍鶴見油槽所。
ということで、今週はこの丁字路を左に折れて、とにもかくにも安善駅から分岐した米軍油槽所に向かう線路を左手に見ながらコンビナートに囲まれた道を進むと↓

c0247059_001360.jpg
*①


c0247059_263265.jpg
*①


運河を渡り、さらに進んで踏切を渡ると右手にあるのが在日米軍鶴見貯油施設↓

c0247059_005434.jpg
*②


c0247059_012247.jpg
*③


c0247059_1164230.jpg
*④


c0247059_02561.jpg
*⑤


 地図で下調べをした時点で想像がついていましたが、「まあ、こんなもんでしょ」ということで、来た道を戻って
安善駅の踏切を渡って、産業道路に出る道を進んで、最初の信号を左に折れてしばらく進むと丁字路にぶつかるので、そこを左に折れると安善駅のつぎの駅である浅野駅に到着。
 
 この駅には、線路と道路をまたいで旭運河と工場(当時は日本鋼管鶴見製鉄所)を結ぶ天井クレーンの錆びた鉄骨がありますが、そちらは過去に触れた(当ブログ記事「日本鋼管鶴見製鉄所・天井クレーン」)ので以下省略。

 ということで、今度は海芝浦へ向かう、鶴見線海芝浦支線の線路を左手に見ながら5分ほど歩くと見えてくるのが↓

c0247059_0141636.jpg
*⑥


東芝の京浜事業所の白いビル。
私の記憶が確かなら、この↑の写真に写っている3つのビルは戦前に建てられたものだったと思うのですが、あれやこれやの資料には何も書かれていないので「よくわかりません」ということでスルーして、東芝の工場入口の守衛所直前にあるのが、新芝浦駅↓

c0247059_0255015.jpg
*⑦


 でこのさらに先にあるのが、一般乗客は電車を降りても駅から一歩も出る事が出来ないことで有名な……というか、最近ではなにやら駅のホームからの眺めがメディアなどで頻繁に取り上げられたことから人気スポットになり、駅の地主でもある東芝さんが公園まで作っちゃった海芝浦駅があります。
しかしこれらの写真を撮影した当時には、日曜日に鶴見線に乗ろうなんていう酔狂な人はほぼ皆無だったし、日曜は列車本数が極端に少ないことから私は車で来ちゃったし、ということで海芝浦支線探訪はここで終了です^^。

*写真はすべて1986年撮影。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-07-12 00:02 | 鶴見・大黒埠頭 | Comments(0)
2015年 07月 05日

鶴見線沿線・大川~武蔵白石~安善

 JR鶴見線とその沿線の埋立地については、こちらのサイト(ちょこっと鶴見線など)に詳しいですし、最近は「都会の中のローカル線」ということで鶴見線とその支線は人気を博しているようで、ググればごっそりと出てきますので、ご興味のあるムキはそちらをご参照頂くとして、ここでは撮影当時の話などを。

ということで、とにもかくにもまず最初は、当時、クモハ12という旧国電のブドウ色の電車が1両でトコトコ走っていた鶴見線大川支線沿いに白石運河に架かる大川橋を渡った先に大川駅があって、田舎の駅のように歩行者用の踏切を渡って駅前の道路をさらに渡ったところにあったのが↓

c0247059_16432443.jpg
*①大川駅前のバス停


 そしてそのさらに先には↓

c0247059_16401771.jpg
*②昭和電工川崎事業所大川地区あたり


c0247059_16423554.jpg
*③昭和電工川崎事業所大川地区あたり・その2


などがあるものの、予想に違わず工場の壁に囲まれてたいして見る物(写す物)も無いのでUターンして武蔵白石まで来た道を戻ると↓

c0247059_1656494.jpg
*④川崎区白石町1丁目・大川支線・武蔵白石踏切


工場向けの送電線があり……そう言えば、「浅野総一郎はこのあたりの工場の電力確保の為にあっちこっちに水力発電所と送電網まで作ったんだっけ」などと思いながら進んだ先には、当時は大川支線と鶴見線との分岐駅だった武蔵白石駅の都会の駅とは思えないクラシカルな駅舎↓

c0247059_1701636.jpg
*⑤鶴見線武蔵白石駅


 その脇の自転車置き場(?)を横目に見ながら↓

c0247059_1722286.jpg
*⑥鶴見線武蔵白石駅舎脇


5分ほど歩くと隣り駅の安善駅に到着。

c0247059_20144649.jpg


 話は少し前後しますが、川崎市と横浜市の市境を越えた安善駅手前くらいから道路の両側には工場地帯には似つかわしくない住宅が建ち並んでいる一角があります↓。

c0247059_17253885.jpg
*1944年に撮影された航空写真より


 なにやらこの三角地帯にあたる寛政町1~18番地あたりには、大正末頃に浅野セメントや、東京湾埋立会社の従業員住宅と商店などが建ち並んでいたそうな(撮影当時にはまったく気づきもしませんでしたが、現在もコンクリート造りの住宅が数棟残っているそうな)

 そこで今さらながら地図を見ると、工場地帯のど真ん中に住宅地があり、さらにその区画が山下町の中華街みたいに周りに比べるとちょっとヘンな角度になっている、ということは、「は、は~ん、これは江戸時代に埋め立てられた新田跡だな」と思って町名を見ると↓

c0247059_1771041.jpg
*⑦鶴見区寛政町・安善駅前


「寛政町」。
 ということは、町名に元号が使われているということは、西暦1789~1800年の「寛政年間」に埋め立てられたということに。
 
 そこで歴史的農業環境閲覧システムのKMLファイルをグーグルアースに落として現在の地形と明治初期の地図と比べてみると……「海の中だ」みたいな^^。

 で今度は今昔マップで埋め立て前の明治の頃の海岸線をなぞってみると、現在の産業道路の1本海側の寛政中学と東部総合技術校の間の道がもともとの海岸線とピッタリ一致。
 となると、「寛政町=寛政年間の新田説」は敢えなく却下、ということになり、「なぜにして三角形」という疑問はナゾのままとなりました^^。

c0247059_1711879.jpg
*⑧鶴見区寛政町18のタバコ屋
(最近、この近辺を徘徊する写真好きの間で人気があるようです)


c0247059_17105157.jpg
*⑨鶴見区寛政町19の焼き鳥屋さん


c0247059_20135073.jpg
*⑩鶴見区安善1丁目・浜安善方向へ行く踏切を渡った先にあった自治会の掲示板


c0247059_2014137.jpg
*⑪鶴見区寛政町21(現在の大塚家具)・佐久間鋳工所



*写真はすべて1986年撮影



[PR]

# by yokohama80s | 2015-07-05 00:08 | 鶴見・大黒埠頭 | Comments(0)
2015年 06月 28日

山内町 横浜中央市場周辺

 第一京浜の「中央市場入口」交差点を海方向に入ってしばらく行くと目の前に貨物線をくぐるアンダーパスが見えてきます。
 でアンダーパスをパスして(?)右手に見える側道に入ると、貨物線を渡る宝町踏切があり、その踏切の先のアンダーパスをくぐる市場大通り(撮影当時はこんなシャレた名前は無かった……と思う)の道路と側道に挟まれた所に↓

c0247059_2365610.jpg


こんな感じで、お店が並んでいる一角があります(現在はほとんど無くなってしまったようですが)
築地に例えると、「場外市場」といったところなんでしょうか?

c0247059_2371763.jpg


c0247059_2373422.jpg


c0247059_238156.jpg


c0247059_2381764.jpg


 この正式名称を「横浜中央市場」という市場は、戦後になって作られたモノだと思っていたら、なにやら1931年(昭和6年)に開設されたんだとか。
と言われても、これらの写真を撮影した当時は、現在ほど身近な存在というワケでも無く、日曜、休日は言うに及ばず、平日でも15時過ぎには人っ子一人居ないシャッター商店街状態。
とにもかくにも当時は、今のように整備されていたワケでも無く、冷凍倉庫が建ち並んでいるだけ……といった印象でした。

 ということで、滝の川にかかる万代橋を渡ると、そこは「横浜中央市場・本場」とその先の岸壁部分が山内埠頭。
山内埠頭については、こちら(山内埠頭 巨大ボラード(係船柱))とかこちら(山内埠頭 その2)とかこちら(山内埠頭 市場大橋)の過去記事をご覧頂くとして、今回はそれ以外の写真を、ということで↓

c0247059_2383557.jpg

 
なにやら「横浜市場線 横浜市場駅構内 内貿二号踏切」と書いてあります。
どこにあったのかまったく記憶に無い(笑)ので、つぎに進みまして↓

c0247059_17594881.jpg


c0247059_28494.jpg


c0247059_281318.jpg


「三菱倉庫横浜支店 山内三号倉庫」という看板が出ているのですが、これもどこにあったかよくわかりません(笑)。
なにせ山内埠頭は、"みなとみらい"絡みでガッツリ改修されてしまったものでして……。

 ということで今度は、埠頭西端……というか、高島埠頭側の帷子川の河口あたり。
ここはシーバースに乗った時に通過する場所だったかと……。

c0247059_1844371.jpg


c0247059_239590.jpg

 
でその先にあるのが↓

c0247059_18144695.jpg


今は無き市場大橋。
で中央市場本場の北西端には、1930年(昭和5年)に建てられた……と思われる、事務所棟↓

c0247059_18181273.jpg


かなんかだと思います。

 ちなみにこの建物は、1985年(昭和60年)ごろに取り壊されて、現在の水産買荷保管場&駐車場棟に建て替えられて、市場大橋と駐車場棟とがあらたに作られた連絡橋によって接続されていました……というか、市場大橋が取り壊されたといっても貨物線をまたいでいる部分の橋桁が撤去されただけなので、いまも繋がっていると思います……たぶん?

 でふと思ったのですが、"橋"という建造物は計算された微妙なバランスで成り立っているものと聞きますが、まさかこの魔改造(?)が華奢な市場大橋に余計な負担をかけることになって、そして3.11で……なんてことは……無い……ですよね?

*写真はすべて1984年撮影





*来月7月のUP予定
7月 5日:鶴見沿線 大川~武蔵白石~安善
7月12日:鶴見沿線 浜安善~浅野~新芝浦
7月19日:京浜運河
7月26日:新山下橋にて

[PR]

# by yokohama80s | 2015-06-28 00:06 | 山内・瑞穂・出田町埠頭 | Comments(0)
2015年 06月 21日

千若町2丁 日本製粉横浜工場

 京急を神奈川新町で下りて第一京浜に向かいます。
すると第一京浜に架かる歩道橋があるのでそれを渡って、マンションに挟まれた道を入ってグイグイ進むと横羽の高架をくぐる手前に橋があります。

 それが入江川第二派川にかかる荒木橋。

c0247059_1524926.jpg
*①荒木橋から子安方向を見るの図


c0247059_153541.jpg
*②同じく荒木橋から今度は神奈川湊方向を見るの図


 もともと入江川は、鶴見区東寺尾付近を源流として京浜急行子安駅から品川方向に300mちょっと行ったところにある国道15号こと第一京浜の入江橋で海に注ぎ込む川なのですが、現在は沖合の埋め立てにより6派川(派川と書いてハセンと読みます)の運河に分岐し、そのうちの旧河口より西に旧海岸線沿いに作られた長さ約1.7kmちょっとの運河が「入江川第二派川」となります(地図にはただたんに「入江川」または「子安運河」と表記されていることもあります)。

 ここで何気なく「6派川の運河に別れ……」などと言っていますが、「派川ってなんぞや?」という疑問が。
でちょっと調べてみると、源流を異にして本流に合流する河川を「支流」と呼ぶのに対して、「派川」というのは本流が海に注ぎ込む以前に本流から分かれる支流のことで、本来は河口に形成されるデルタ地帯などで流れが枝分かれしている部分を指し、埋め立てなどで人工島を造成した時には当然、河口が沖合に移動するワケで、その延長された区間や、はたまたそこから分岐する運河も翻って「派川」と呼ぶそうです。
 
 でこの橋の上下流がいわゆる「子安浜」……かと思いきや、調べてみると子安浜とは第一京浜の入江橋を東端に、西端は新浦島橋までの入江第二派川の右岸側700mちょっとの区間を指すとのこと。
となるとこの辺りは、神奈川湊……???
歴史的農業環境閲覧システムから落としたKMLファイルをグーグルアースで表示して明治初期の地図と現在の地形を重ね合わせてみると、その昔はこの辺りが海岸線だったことだけは確かなようです。

 まあそういう話はひとまず置いておくとして、荒木橋を渡って、横羽の高架をくぐって、ズンズン進むとやがて貨物線の踏切があってそれを越えると出田町埠頭。

 出田町埠頭については過去記事で取り上げていますので、くわしくはそちらをご覧頂くとして、今は911絡みの"なんとか条約"とかの影響でガッチリとゲートがあり「立ち入り禁止」などと仰々しく書かれていたりするようですが、その昔にはそのようなヤボなこと言う人もいなかったので、埠頭内にグングン入って岸壁に。

c0247059_18415853.jpg
*③


昔は、日曜ともなれば近所の人がやってきて、のんびり家族で釣り糸を垂れている、なんて風景が当たり前でした。
 ということで、ふと写真の奥を見るとなにやらサイロが……。

c0247059_18425522.jpg
*④


地図を見ると日本製粉横浜工場のサイロなんだとか……
なにやら工場とサイロは、1924年(大正13年)に日本初の大規模臨海製粉工場として建てられたんだそうな……「ふむふむ歴史ある物が写っているなぁ」などと感心しつつ空中写真閲覧サービスで戦争前後の写真を見てみると……「あれ? 写ってない???」。

c0247059_06392.jpg
*横浜市三千分一地形図 昭和22年・神奈川KMLファイルより


 どうやら写真に写っているサイロは、昭和39年ころに建てられたもののようで、そのさらに右手にチラッと見えるのが大正時代に建てられたサイロのようです。

c0247059_18432026.jpg
*⑤


c0247059_18452469.jpg
*⑥


c0247059_18442270.jpg


c0247059_001263.jpg


*写真はすべて1984年撮影。


[PR]

# by yokohama80s | 2015-06-21 00:07 | 山内・瑞穂・出田町埠頭 | Comments(0)
2015年 06月 14日

千若町2丁目界隈 

 JR東神奈川駅の東口でも、京急仲木戸駅でも良いのですが、とにもかくにも駅を出て第一京浜方向にテクテク歩いて第一京浜の神奈川二丁目交差点を突っ切って、ひたすら海……というかノースドックはたまたノースピア、またの名を瑞穂埠頭方向にひたすら歩いて行くと、入江第二派川に架かる村雨橋を渡り、打ちっ放しのゴルフ練習場の高く張られた緑色のネットを右手に見ながらさらに2百mほど行ったところにあるのが千鳥橋。

c0247059_2333524.jpg
*①千鳥橋から三井倉庫を見るの図・その1


c0247059_2335325.jpg
*②千鳥橋から三井倉庫を見るの図・その2


c0247059_211028.jpg
*②千鳥橋から三井倉庫を見るの図・その3


 千鳥橋を渡ってすぐの所に貨物線の踏切があり↓

c0247059_2113329.jpg
*日通倉庫があるところが東高島駅


ここから瑞穂埠頭にかかる瑞穂橋までの間が神奈川区千若町二丁目。

 このあたりは、かつて1965年まで米軍のノースドック地区兵舎が、そして北側の日清製粉の手前にはフリートメールセンターこと郵便地区と、さらに瑞穂埠頭が現在も米軍により接収継続中ということは、横浜市民の方なら先刻ご承知の話。

 で現在だと「なんでこんな所に?」という場所に、5~60年代を彷彿とさせる店構えのバーが二軒並んでいますが、その昔にはこの辺りにはこのてのバーが7件ほど軒を並べていたんだそうです。

c0247059_2341176.jpg
*③一般住宅を挟んでバーが2軒づつ合計4軒並んでいた


 いちおう撮影当時もバーが4軒あったのですが、とにもかくにも瑞穂橋たもとの二軒があまりにも有名すぎて……。
でその有名すぎたバーというのが↓

c0247059_041062.jpg
*④


当時は、有名アーティストのジャケ写真に使われたり、有名イラストレーターの題材になったり、歌の歌詞になったりしたスターダストとポーラスター。

c0247059_2344613.jpg
*⑤


c0247059_055133.jpg
*⑥


c0247059_061275.jpg
*⑦入口のガラス越しに見た(覗いた)スターダストの店内・その1


c0247059_062065.jpg
*⑧入口のガラス越しに見た(覗いた)スターダストの店内・その2


 この二軒のお店に関しては、現在も鋭意営業中ということもあってググればゴッソリ出て来ますので細かい話は省略するとして、個人的な感想を敢えて言うとするならば

「今までよくぞ残っていてくれた」

と言ったところでしょうか。

 取って付けたようなハリボテ建築のビルを認定歴史的建造物に指定するくらいなら、代官坂の宮崎生花店とかこれら2軒のバーのように昔のままのたたずまいを残している建物こそ積極的に指定するべきだと思うのですが……?

c0247059_2351258.jpg
*⑨瑞穂橋から見た三井倉庫方向


*写真はすべて1984年撮影。


[PR]

# by yokohama80s | 2015-06-14 00:05 | 山内・瑞穂・出田町埠頭 | Comments(2)
2015年 06月 07日

石川町~元町界隈

 その昔、まだ本牧にエリア1があった頃。
そちら方面へ行こうとしたら最寄り駅は、当然、根岸線の山手駅になるワケですが、そうすると麦田町のあたりをパスすることになってしまうので、私はもっぱら山手のひとつ手前の石川町で下車して山手トンネルを抜けてテクテク歩くという経路を選択していました。

 ということで、とにもかくにも根岸線の石川町駅を出て本牧通りへ出て山手トンネル方向へ歩いて行くと、山手トンネル入口の信号があるところに忽然と現れるのが↓

c0247059_16491235.jpg


昔のとある映画のポスターが描かれた石川町1-24・コージーコーナー。
↑の写真の絵は風と共に去りぬということは分かりましたが、通り側にもなにやら描かれていたのですが、あいにくそれが写っているカットが無いうえに私の記憶の方も曖昧で……???
何かが描かれていた記憶はあるのですが……

c0247059_1653202.jpg


c0247059_16533045.jpg


 まあそれはそれとしても、このお店は確かディスコだったかと……???

 ということで、本牧通りをテクテク進むと、2つ口を開けた山手トンネルの入口が見えてきます。
このトンネルは、もともとは向かって左が市電トンネルで、右側は道路トンネル。
でこの2つのトンネルがちょっと離れて口を開けているので、山手トンネル入口交差点あたりから中州状の場所があり、現在はマンションがデ~ンと建っていますが撮影当時は住宅とかアパートなどがゴッチャリ密集していて、一番トンネルに近い場所に当時あったのが↓

c0247059_16594259.jpg


石川町1-45・中山モータース。
撮影当時はすでに閉店していたような記憶があるのですが、とにもかくにも建物の横手側に回ると↓

c0247059_1704938.jpg


「おおお~~~っ!」という感じの洋館風。
ということで、「もしや」と思って、戦前、終戦直後の航空写真を調べてみたのですが、あいにく写真の解像度が低いうえに光線状態のせいで、このあたりに写っている建物が良く見えません。
「なんか写っているようないないような……???」

 ということで、今度はちょっと本牧通りを戻って、当時はオシャレな街として一世を風靡していた元町通りに入るのですが、どうも私には「まぶしすぎますお天道さまが……」といった感じなので、取りあえず撮影したのが↓

c0247059_1762758.jpg


c0247059_176388.jpg


1935年(昭和10年)の著名商店工場要覧によると輸入建築金物店として田沢仲次郎によって大正12年10月開業したという元町5-183・田沢商店。

 当時の元町通りはハマトラブームに乗って表参道化が進んでいて、どうにも居心地が悪いので取りあえず山手側の裏通り(なにやら現在は"元町仲通り"と呼ぶそうな)に入ってみると↓

c0247059_2271458.jpg


c0247059_2273880.jpg


c0247059_1584872.jpg
*元町4-171


う~ん、なんだかんだで騒々しいしということでUターンして堀川側の一本ウラ道(この通りも現在は"元町河岸通り"と呼ぶんだそうな)に入ってみると↓

c0247059_2293366.jpg


c0247059_2294397.jpg


c0247059_17153184.jpg
*元町4-180・武部洋服店のウラ


c0247059_17162174.jpg
*そのとなり


c0247059_17165123.jpg
*元町4-180・舶用内燃機高速製作並修理 元町内燃機工業所


c0247059_17173426.jpg
*元町4-179・ウィスタリア元町ウラ


c0247059_17182663.jpg
*元町4-175・丸昭機帆船株式会社


c0247059_1735717.jpg


という感じで、元町通りの一本裏側には、オシャレな表通りの印象とは正反対のドロ臭い風景が残っていました。


*写真はすべて1981年撮影。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-06-07 00:03 | 元町・石川町 | Comments(0)
2015年 05月 31日

晴海埠頭

 現在では「客船が発着する埠頭」というイメージが強い晴海埠頭は、人工島自体は東京湾澪渫(みおさらい)工事(1883年・明治16年~1886年・明治29年)と第三期隅田河口改良工事(1922年・大正11年~1935・昭和10年)で埋立が行われ、1937年(昭和12年)に公募により晴見町と命名されるまでは月島四号地、はたまた新月島と呼ばれ1940年(昭和15年)開催予定だった日本万国博覧会会場予定地となったものの第二次世界大戦勃発により敢えなく中止に。

c0247059_213481.jpg
*左が1944年、右が1984年の航空写真


 その後は戦中には軍と、戦後の米軍による接収期間を通して晴海一帯はほぼ更地だったものの、1952年から1965年にかけて15バースと貨物輸送用の臨海鉄道をもつ晴海埠頭として整備され、貨物輸送がばら積みからコンテナ輸送に移行するまで東京港の中核をなす埠頭として東京で消費される輸入果物,小麦の大部分がここで陸揚げされていたそうな。

 かし80年代に入った頃には海上貨物の主流はコンテナ輸送にスイッチし、また現在のように客船用の岸壁として使用されてはいたものの肝心の客船の入港もほとんど無く、60年代、70年代には活況を呈していた晴海埠頭は見本市会場で催し物が無ければ閑散としていました。

 ということでとにもかくにも80年代頃の晴海は、埠頭というよりも「国際見本市会場がある場所」、「東京モーターショーの開催場所」といった感じで、さらに一度でもこの会場に行ったことのある人にとっては「めちゃくちゃ不便な場所」として記憶されているのではないでしょうか。

 なにせ大きな催し物が開催される時には、見本市会場と地下鉄日比谷線の築地駅の間にシャトルバスが運行されていたものの、当時の晴海通りは渋滞の名所だった為に、行きはまだしも、帰りは築地駅までの2.3kmを30分ほどかけて歩いた方がバスよりも早かったくらい。

 しかし時は流れてその見本市会場もいまは無く、かつては東京港の中核として賑わっていた晴海埠頭から臨海鉄道の線路が無くなり、倉庫の多くは取り壊され、かつて15バースあった岸壁も人工島南側に官庁船バースと2万トンの客船が接岸出来る客船ターミナルが2バース、1万~1万5千トンの船が接岸出来る岸壁が2バースあるだけで内陸部はタワーマンションが次々に建設され、2020年開催予定の東京オリンピックの選手村建設予定地となっています。

c0247059_21301439.jpg
*①晴海埠頭四号上屋


c0247059_213528100.jpg
*②この年に建造されたばかりの二代目日本丸その1


c0247059_2136119.jpg
*③二代目日本丸その2


c0247059_21364315.jpg
*④二代目日本丸その3


c0247059_2137619.jpg
*⑤晴海2丁目の1960年(昭和35年)に建設された日東製粉晴海工場(1989年・平成元年に閉鎖され現在はタワーマンションが建っている)


c0247059_21372577.jpg
*⑥晴海4丁目の大塚倉庫


c0247059_2137444.jpg
*⑦大塚倉庫の海側隣りの倉庫


c0247059_2138239.jpg
*⑧晴海5丁目の倉庫その1


c0247059_21383063.jpg
*⑨晴海5丁目の倉庫その2


c0247059_21384648.jpg
*⑩晴海5丁目の倉庫その3


c0247059_2139669.jpg
*⑪晴海5丁目の倉庫その4


c0247059_21392939.jpg
*⑫晴海5丁目の倉庫その5


c0247059_21394737.jpg
*⑬日本丸船尾に掲揚されていた煤けた日の丸



*写真はすべて1984年撮影





*来月6月のUP予定
6月 7日:元町界隈
6月14日:千若町二丁目界隈
6月21日:日清製粉横浜工場
6月28日:山下町280 旧露亜銀行横浜支店

[PR]

# by yokohama80s | 2015-05-31 00:04 | 東京・川崎 | Comments(0)
2015年 05月 24日

東京湾汽船発着所前ロータリー

 旧海岸通4丁目は現在は芝浦岸壁と同じ海岸3丁目になっているものの、芝浦岸壁より遅れて1931年から開始された東京港修築事業・第8号埋立地(芝浦八号地)として埋立造成され、1936年6月に撮影された航空写真ではまだ更地なものの造成は終了していたようです。

そしてこの旧海岸通4丁目の交差点の真ん中に、なぜかこんなかんじの「ロータリ」とか「ラウンドアバウト」というよりも、ただの「街灯のある植え込み」があります↓。

c0247059_17213050.jpg
*①海岸3-4のロータリー(右の建物が臨港消防署の出張所)


「なんでこんな所にこんなモノが?」といった感じなのですが、1944年の航空写真に写っていることから、どうやら海岸通4丁目に街路が整備されたころからこのロータリーは存在していたようです。
で、①の写真を撮影した場所の右手には↓

c0247059_17214873.jpg
*②海岸3-6 東海汽船永井扱所


なぜか竹芝桟橋に乗り場がある東海汽船の貨物扱所が。
「なんでこんな所に東海汽船の施設があるんだろう?」と思いつつさらに右手には↓

c0247059_1722425.jpg
*③東海汽船芝浦営業所と東海造機


↑などの東海汽船関連の建物が岸壁沿いに軒を連ねています。

 ということで例によってザックリ調べてみると、現在の東海汽船の前身にあたる東京湾汽船は1889年(明治22年)に墨田川河口にある霊岸島の江戸湊は御船手組屋敷跡の京橋区新船松町将監河岸、その後の越前堀1-30、現在で言うと新川2丁目の八重洲通りの中央大橋左岸下流に本社と発着所(いわゆる霊岸島発着所または越前堀発着所と呼ばれ昭和初期以前に「霊岸島から船で云々」と言ったら、この発着所のことを指しています)を置いて房総、伊豆方面、伊豆諸島、東北、北海道(その後、1911年・明治44年に東北、北海道航路から撤退)に定期航路を運航。

 しかし墨田川河口あたりは、隅田川口改良工事により5百トンクラスの船が通行可能なように浚渫されていたものの、常に隅田川上流から土砂が流入堆積し、また伊豆諸島航路の船舶の大型化などにより(初期には150トン程度だったものが昭和初期には7~900トン、昭和10年には約1800トンの橘丸が就航)、干潮時や大雨などで川が激流と化している時などには、船は霊岸島から4~5百m下流の月島辺りまでしか入ってこれず乗客は通船でそこまで行き来したんだそうな。

 そんなこんなで埋立造成が終了したばかりの芝浦八号地こと海岸通4丁目、現在の海岸3丁目のちょうど③の写真の建物がある場所に、1階に船客待合所、食堂、発券所などを設けた本社屋と、船の発着所として1千トンクラスの船が2隻繋船可能な長さ64mの浮桟橋を建設して、1936年(昭和11年)10月末に霊岸島から移転し、1948年(昭和23年)に月島こと現在の勝どき5丁目緑地に本社と乗り場を移転するまで東海汽船(1942年・昭和17年に現在の東海汽船に社名変更)の房総航路と伊豆諸島航路の客船はここから発着していたとのこと(その後、1953年・昭和28年に月島から現在の竹芝桟橋に移転)

c0247059_16421852.jpg
国土地理院空中写真検索サービスより、左が1948年、右が1984年


 さらにネットを漁ってみると、「東京湾汽船、芝浦新築移転披露」の新聞記事の写真が。
その写真を拡大してみると、①の写真で街灯が立っている植え込みには、発着所の芝浦移転当時には旗竿が立てられてそこに日の丸(たぶん)がはためいたいたようです。

 そうなると写真①のロータリーは、ここに東京湾汽船こと東海汽船の芝浦発着所があった頃の唯一の名残(と言っても伊豆諸島方面への貨物船は現在もここから発着しているのですが)ということになるようで、さしずめ「東京湾汽船(東海汽船)発着所前ロータリー」と言ったところでしょうか。
そしてそのロータリーの内陸側には↓

c0247059_17223874.jpg
*④①のアングルからちょっとカメラを左に振ったの図


c0247059_17225477.jpg
*⑤海岸3-9笹野金属産業


c0247059_17231180.jpg
*⑥海岸3-9笹野金属産業


小さな町工場が軒を連ね、①の写真の右手に写っている建物が1960年頃に建てられた臨港消防署の出張所↓。

c0247059_17232437.jpg
*⑦左が臨港消防署芝浦出張所で右が倉庫


c0247059_17235540.jpg
*⑧⑦の物置のアップ


c0247059_1723407.jpg
*⑨さらにその右側


c0247059_1724979.jpg
*⑩出初め式用の纏?


c0247059_17242172.jpg
*⑪さらにその右側の消化剤が入ったドラム缶


 ちなみに海岸通4丁目は、1965年(昭和40年)3月1日に住居表示が実施され芝浦岸壁と同じく海岸3丁目となり、内陸側にあった倉庫や町工場の大部分は現在はマンションなどに建て替えられ、写真③にあった東海汽船の本社屋兼旅客待合所は1966~71年頃に写真③の建物に建て替えられ、さらに2009~10年頃に現在の建物に建て替えられ、臨港消防署出張所はレインボーブリッジ建設により取り壊されて現在は駐車場となっていています。

*写真はすべて1986年撮影。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-05-24 00:04 | 東京・川崎 | Comments(0)
2015年 05月 17日

芝浦岸壁

 JR田町駅東側に位置する現在の海岸3丁目、旧海岸通3丁目にある芝浦ふ頭こと芝浦岸壁は、隅田河口改良工事第二期・第一号埋立地として1911年(明治44年)から1920年(大正9年)にかけて造成され、1930年(昭和5年)の東京港修築事業により1932年(昭和7年)に5~6千トンクラスの船が7隻同時に接岸可能な繋船岸壁が整備され、日中戦争の拡大により大陸向けの物資輸送が急増したことから、1941年(昭和16年)に陸軍専用線として日の出桟橋の芝浦駅から芝浦埠頭まで路線を延長し、同時に埠頭内の民間倉庫が陸軍に貸し出され、終戦時までは大陸向けの軍事物資の積み出し港として使用されていたそうな。

c0247059_17313821.jpg
*国土地理院空中写真検索サービスより、左が1944年、真ん中が1984年、右が1989年の芝浦岸壁


 ということでいつものように国土地理院の空中写真閲覧システムで昔の写真を眺めてみると、撮影当時に北側の日の出桟橋側より1号~5号まであった公共上屋のうち3号と4号上屋が1936年の航空写真に、さらに1944年の航空写真に1号上屋が写っていることから写真の1号、3号、4号上屋が戦前に建てられた上屋ということになるようです↓。

c0247059_17351729.jpg
*①芝浦4号上屋、奥が3号上屋(左の草地は東京都港湾局専用線軌道跡)


c0247059_1736810.jpg
②芝浦3号上屋


c0247059_1737396.jpg
③芝浦3号上屋南側(4号との間)


と言っても、このての鉄骨トタン張りの倉庫は、屋根と外壁を交換してしまうと、見た目は新品同様になってしまうので、このように手入れが行き届いていると、どうも風情というモノが……。

c0247059_17414423.jpg
④海岸3丁目21現在の首都高台場線高架下あたりの東京都港湾局専用線軌道跡


c0247059_17423176.jpg
⑤海岸3丁目21の現在の首都高台場線高架下あたりにて


c0247059_17404679.jpg
⑥現在の海岸3丁目交差点付近にて


 ちなみに東京都港湾局専用線は、1932年(昭和3年)に汐留~芝浦(日の出桟橋)が開通し、その後、前述のように1941年(昭和16年)に芝浦ふ頭まで延長され1985年(昭和60年)に廃止されました。
なお竹芝桟橋~日の出桟橋~芝浦岸壁間は旧港湾局専用線の軌道跡に作られた道路上に”ゆりかもめ"こと東京臨海新交通臨海線の高架線が通っています。

c0247059_17435223.jpg
⑦海岸3-31富士倉庫運輸芝浦営業所


c0247059_17445567.jpg
⑧富士倉庫運輸芝浦営業所警備所、奥に見えるのが芝浦三号上屋


 現在の芝浦岸壁は、これらの写真を撮影した翌年の1987年ごろに岸壁から沖合に100mほど埋め立てられ(上の航空写真の一番右側)、岸壁沿いの上屋群はすべて新しく建て替えられて、5千トン級の船舶が6隻、1千トン級が1隻が接岸可能な埠頭に改修され主にセメント、紙、食料品などの内航船用埠頭として使用されているものの、老朽化が深刻化し現在、再開発が検討されているとのこと。

ということで、海岸3丁目の旧海岸通3丁目こと芝浦岸壁の人工島のちょっと内陸の、その昔には東京都港湾局専用線の引き込み線の線路沿いだった場所に↓

c0247059_17595798.jpg
⑨海岸3-21-35 芝浦船用品株式会社


船具屋やら回漕業者の事務所がゴチャッと建ち並ぶ一角があり、旧海岸通3丁目の南端にあたる場所には↓

c0247059_180149.jpg
⑩海岸3-21 宇部セメント


があって、そして旧海岸通3丁目と4丁目との境目あたりに昔の物揚場跡↓

c0247059_16323591.jpg
⑪旧物揚場の石畳
(フィルム交換時に空写ししたコマに偶然、写っていました^^)


がありました。

c0247059_1647819.jpg



*写真はすべて1986年撮影。





           
[PR]

# by yokohama80s | 2015-05-17 00:06 | 東京・川崎 | Comments(0)
2015年 05月 10日

海岸1丁目 ニチレイ芝浦工場

 ふとしたことで竹芝、日の出、芝浦の三埠頭が戦前に作られたと聞いて、「それなら何か当時の面影が残っているに違いない」といそいそと竹芝桟橋まで出かけたのが今から遡ること30年近く前のこと。

 ところがいざ現地に行ってみると、桟橋は東海汽船専用になっているし、内陸には見るからに高度経済成長期に建てられたような倉庫と近代的なビルばかりで、それらしい趣のある建物はまったく見当たらず、半ば途方に暮れて海岸1丁目北東端の近代的な高層建築のホテルのあたりまで行った時に道路を挟んで向かい側に忽然と姿を現したのが↓

c0247059_1585720.jpg
*1986年撮影


いかにもという感じの、白塗り鉄筋コンクリートの倉庫が3棟連なったニチレイ芝浦工場。

 ということで、「この倉庫にはどういう由来があるのやら?」と調べてみると、竹芝桟橋がある海岸1丁目が隅田川口改良工事第三期第一号埋立地として造成されたのが1922年(大正11年)~1935年(昭和10年)。
そこで国土地理院の地図空中写真検索サービスで、そのころの航空写真を漁ってみると↓

c0247059_1520778.jpg
*左が1936年、右が1984年に撮影された現在の海岸1丁目


丸で囲った所に該当の建物が写っています。

 今度は、1994年発行の東京港史・通史にあった昭和14年東京港一覧図を見ると、該当地には「日本水産倉庫」とあり、その南隣りには小蒸気船発着場兼艀船荷扱場があって、その先に現在の東海汽船発着所がある岸壁に3千トンの船が3隻接岸可能な岸壁があったとのこと。

 ちなみに現在、竹芝桟橋にある東海汽船の発着場は、1953年(昭和28年)に月島から移転してきたもので、それ以前は旧海岸通4丁目、現在の海岸3丁目の貨物受付所がある場所に、さらにそれ以前には旧江戸湊にあたる現在の新川2丁目の中央大橋左岸下流、いわゆる霊岸島にありました(これについては再来週アップします)

 という話は、ひとまず置いておくとして、この隅田川口改良工事第三期第一号埋立地こと、旧海岸通1丁目こと現在の海岸1丁目こと通称竹芝地区で最初の建造物であり、撮影当時、竹芝、日の出、芝浦の3埠頭で唯一現存していた戦前コンクリート建築は、その昔、カニ缶で一世を風靡していた日本水産の冷蔵倉庫として1935~6年(昭和10~11年)ごろに建てられた物のようです。
 ちなみにこの倉庫の主だった日本水産は、戦中の経済統制で倉庫部門が帝国水産統制に譲渡され、戦後になって経済統制が解除されると日本冷蔵として独立し、現在のニチレイとなっています。

 これは私の推測ですが、1935年(昭和10年)に旧築地居留地に東京市中央卸売市場(仮設市場の開設は大正12年)が開設されていることや、他に空き地がたくさんあるにも関わらず竹芝地区の一番端っこの角地の浜離宮を挟んで築地市場の対岸に建てられていることを考えると、どうやらこの倉庫は築地市場向けの水産物を保管する為に建てられたと思われます。

c0247059_153941.jpg
*1986年撮影(東京都港湾局専用線の線路が桟橋からスイッチバックして倉庫1階に引き込まれていた)


c0247059_1539538.jpg
*1986年撮影


c0247059_15401131.jpg
*1986年撮影


c0247059_1552495.jpg
*1986年撮影


c0247059_15403562.jpg
*1986年撮影


c0247059_15405366.jpg
*1986年撮影


c0247059_1541622.jpg
*1986年撮影


c0247059_15412312.jpg
*1986年撮影(貨車からの積み卸しを容易にするために倉庫入り口がプラットホーム状に高くなっていた)


c0247059_15414530.jpg
*1987年撮影


c0247059_1542636.jpg
*1987年撮影


c0247059_1542252.jpg
*1986年撮影


c0247059_15423960.jpg
*1986年撮影


c0247059_15425266.jpg
*1986年撮影


c0247059_15431829.jpg
*1986年撮影


 ちなみにこの冷蔵倉庫は、↑の写真を撮影した翌年の1987年に取り壊され、現在、跡地にはニューピア竹芝ノースタワーという高層ビルが建っています。



[PR]

# by yokohama80s | 2015-05-10 00:03 | 東京・川崎 | Comments(0)
2015年 05月 03日

東京港 -プロローグ編-

 今月20日は東京港の開港記念日なのですが、その昔、東京港の築港と開港を巡って、当時の東京市と横浜市との間で半世紀余りに渡って仁義なき戦い・東京港湾篇(?)とも言えるような壮絶(?)な闘いが繰り広げられていたという事実を知る人は少ないのではないでしょうか。

 ということであれやこれやをザックリまとめると(この文量でもザックリですのでその点ご了承下さいまし^^)、まだ横浜港に現在の象の鼻に東西波止場、山下公園前にフランス波止場の2つの荷揚場しか無く増大する貿易量に対応する必要から港湾整備が国家的急務となっていた頃。
 当時の政府内で横浜築港計画が財政問題からすったもんだしていた時に、当時の東京府知事が、「早晩、東京湾ヲ開キ横浜港ヲ此ニ移スヨリ善ナルハアラズ」とぶち上げた「東京築港に関する意見書(東京築港建議論または東京港築港論とも言う)が府議会に採択されたのが時を遡ること今から135年前の1880年(明治13年)のこと。そして翌1881年(明治14年)に内務省のお雇い外人ムルドルの東京築港計画案を内務省に上申。

c0247059_19205374.jpg
*地図①/東京市史稿・港湾編3より

 
 これにより横浜築港問題が、「東京と横浜のどちらに本格的な港を作るか」という問題に拡大して、さらに政府内ですったもんだの駆け引きが繰り広げられたものの、東京築港を強力に推し進めていた東京府知事が1882年(明治15年)に急逝したことにより東京築港論がトーンダウンし、さらに数キロ沖合まで水深1.8mの浅瀬が続く墨田川河口部を水深7~8m浚渫して、人工島を造成して、港湾設備を建設するという、当時としては異例なほどの大規模な工事に要する費用もネックになり、1888年(明治21年)に横浜に本格的な港湾を整備することで話は決着し東京築港論は自然消滅。

 その後もさまざまな東京築港案が出ては消えてを繰り返し、東京築港建議論から20年後の1900年(明治33年)に、ようやくフランス海軍省の港湾技師ルノーの案を基にした計画案を市会で可決。
 この計画は、羽田沖に漏斗状の港門を設けた芝浦沖から全長8キロ余りに及ぶ堤防を築き、その内陸側を2~3千トンクラスの船が航行可能なように浚渫し(約7~9m)、その時に発生した土砂で品川沖に人工島を築き、そこに港湾施設を整備しようというもの(↓の左側の地図⇒いわゆる品海築港案はたまた市会決議案とも計画立案者の名前をとって古市案ともいう)

c0247059_14485860.jpg
*地図②/東京市史稿・港湾編4、5より左が1900年・明治33年に市会決議された品海築港案、右が1920年・大正9年に作成された築港基礎案。
ちなみに築港基礎案では現在の豊洲と晴海に1千トン×49隻が同時に接岸可能な内貿岸壁と
海岸3丁目~目黒川河口に5万トン×10隻が同時に接岸可能な客船岸壁
目黒川河口~羽田に3千トンクラス×34隻が同時に接岸可能な外国貿易岸壁を20年かけて整備する計画だった。


 そして1901年(明治34年)に、この計画による築港の認可と国庫補助の請願を内務省に提出するとともに、衆議院に東京築港に関する建議を提出しそれが可決されたものの、港が芝浦沖に出来ることによる衰退化を懸念した旧江戸湊の日本橋、京橋地区の住民や回漕業者、好漁場だった羽田、芝浦の漁民、この頃、国家事業として大桟橋と新港埠頭の整備真っ最中だった横浜市などから次々と反対の声が上がり、さらにこの計画実現を積極的に推し進めていた港湾行政を所管する逓信大臣経験者の当時の東京市会議長が暗殺されたことにより東京築港計画はまたしても自然消滅の憂き目に。

 それでもめげない東京市は、「とりあえず自分たちで航路の浚渫と埋立地の造成だけでも先にやっちゃおうぜ(開港と築港を別におこなう=開築分離案」と、東京市独自の事業として隅田川口改良工事と称した実質的な東京築港事業に着手したのがさらに5年後の1906年(明治39年)のこと。

c0247059_1862667.jpg
*①写真のあたりの旧海岸通4丁目は東京港修築事業・第8号埋立地(芝浦八号地)として1931年から埋立造成が開始された。
(1986年撮影)


 それと同時に東京市は、内務省に事業認可と国庫補助の請願を何回も提出し、1910年(明治43年)に内務省港湾調査会により第二種重要港湾(国からの補助を受けて自治体が整備する港のこと)の指定を受けたものの、現在の価値に置き換えると1億円以上の公費をつぎ込んだ横浜市によるマスコミ、経済界、学識経験者、国会議員、官僚、大臣までをも抱き込んだ反対運動……というよりも妨害工作により、東京市の国庫補助の請願は提出するたびに握り潰されることに(「東京市の予算でやるんなら勝手にどうぞ」ということだったらしい)

 そうこうするうちに1923年(大正12年)に関東大震災が発生し横浜港が壊滅的な被害を被ったのに対して、東京港はほぼ無傷だったことから(壊れるような物がもともと無かったという見方も出来る)国内外から援助物資や復興資材を積んだ3千トンを筆頭にした百隻以上の船が一挙に来港したものの(日本郵船は震災後に横浜、神戸、長崎と上海を結んでいた定期航路を休航させ、3628トンの阿蘇丸を初めとした6隻を神戸、清水~芝浦間に支援物資や支援要員などの輸送に従事させた)、当時の東京港は財政問題から当初の工事規模を大幅に縮小し5百トンまでの船が入港出来る水深しか無かったことから、船舶が満潮を利用して入港し潮が引く直前に港外に待避するという座礁覚悟の"冒険的入津"を行い、さらに上屋設備も無かったことから陸揚げされた援助物資は露天に野ざらし雨ざらしという状態に。

 この事態を重く見た東京市は、1926年(大正15年)に現在の海岸2丁目の隅田川口改良工事で建設された物揚場があった場所に、上屋設備と2~3千トンクラスの船が同時に6隻接岸可能な日の出桟橋を震災応急埠頭施設として整備したことから、なし崩し的に「やっぱり東京にもちゃんとした港が必要だよね」という雰囲気になり、東京港修築事業が1927年(昭和2年)に内務省港湾調査会の承認を受け事業に着手したのが1930年(昭和5年)のこと。

c0247059_1638829.jpg
*②震災応急埠頭施設として建てられた日の出桟橋4、5号上屋(1987年撮影)


c0247059_17443542.jpg
*③こちらも同じく日の出桟橋2号上屋(1987年撮影)


 この計画は当初の計画はひとまず忘れて(あくまでも「ひとまず」で本心は20年かけて地図②右のように整備する腹づもりだった)、現在の海岸1丁目(竹芝桟橋)、2丁目(日の出桟橋として供用済み)、3丁目(芝浦岸壁)に繋船岸壁と上屋施設と臨港鉄道を整備して震災前の時点ですでに出船入船でパンク状態だった横浜港の補助港として、横浜港が持て余していた5~6千トン以下の外航船(東京市の抜け目ないところは、当時の外航貨物船はこのクラスが世界標準だったこと)と1千トン未満の内航船(当時の内航船の主流もこのクラスだった)を受け入れるという、表向きは横浜港を立てつつも「スキあらば……」という意図が見え隠れする名付けて"開港しちゃえばこっちのもんだ作戦(?)"。

 ところがまたしても粘着質の横浜市から横やりが入り、相変わらず国庫補助は受けられず、さらに防諜上の理由から外国船舶の入港が禁止されたうえに、東京港に出入り出来る外航船は満州、中華民国、関東州航路に制限されることに(その後、軍の南方進出に伴って蘭印=現在のインドネシア、仏印=現在のベトナム・ラオス・カンボジア、フィリピン、タイ、マレー=現在のマレーシアが追加される)

 というような紆余曲折はあったものの、1932年(昭和7年)に6千トンクラスの船7隻が同時に接岸可能な芝浦岸壁↓が

c0247059_17351729.jpg
*④芝浦埠頭建設時に建てられた芝浦4号上屋(1986年撮影)


1934年(昭和9年)には3千トンクラスの船が同時に3隻接岸可能な竹芝桟橋が完成↓。

c0247059_153941.jpg
*⑤隅田川口改良工事第三期第一号埋立地こと竹芝地区に最初に建てられた冷蔵倉庫(1986年撮影)


 ということで東京に本格的な埠頭が建設されることが明らかになると、横浜市の抗議運動はその方針を「築港反対」から「開港反対」にスイッチし、「取扱貨物の7割を東京港に取られたら横浜港は立ちゆかない(東京港には中国方面からの外航船しか利用出来ないし、当時、中国方面から横浜港を経由して東京へ向かう貨物は横浜港の貨物取扱量の3割に過ぎなかった)」、「東京開港は港湾を生命とする横浜市民を衰滅せしめ百万市民の生活権を根底より破壊するの暴挙なり(昭和15年横浜市会決議文より)」、「外国人が船のマストに登って皇居を見下ろしたり写真を撮ったり出来る場所に港を作ることなど国民は誰一人として容認しない!昭和15年・横浜市会事務局「東京開港反対に関する市会意見」より、横浜市会において東京港開港反対の意見書提出の採択決議に対する某市会議員の賛成演説⇒……???)などと、あの手この手で横やりを入れ続けた結果(横浜市側の主張は明治以降、なんら変わらないので昭和15年の抗議を引用しました^^)、東京港は埠頭設備が完成したにも関わらず外航船を直接受け入れるのに必要な開港指定の勅令(当時は開港の勅令が無いと1隻ごとに免許申請をしないと外航船の受け入れが出来なかった)がいつまで経っても下りないという事態に。

 このことを昭和8年・港湾研究会編「繁栄大東京の危機 東京築港問題」は、「(横浜市の抗議は)正に寝耳に水であり、恰も産業ギャングの襲来である-(中略)-恰も横槍を突っ込むような、横浜市側の態度は、我が五百萬都民にとっては、普通常識を以て考へ得ざる恐るべきギャング政策の脅威を感ぜざるを得ない」と記し、1942年・昭和17年に東京市が発行した「開港記念東京港誌」では、「東京港と開港との因縁」と題して横浜市との築港と開港を巡る確執についてわざわざ一章21ページを割いていることからも、横浜市による粘着ぶりが如何ほどのものだったかを窺い知ることが出来ます。

c0247059_192668.jpg
*当時は曳船が写真の物より小型の艀を18隻前後繋いで京浜間を行き来していた。
(1982年・新山下橋より撮影)


 参考までに当時、横浜港で取り扱う輸出入貨物のうち約7割が艀によって京浜間を行き来していて、1923年(大正12年)に横浜市横浜港調査委員会によってまとめられた「横浜港調査委員会参考資料. 第1輯 横浜港ニ於ケル運漕艀舟(この書物は、大正9年に貿易協会で行われた講演である有名な法学者の「ロンドンから荷物を取り寄せた時に送料明細を見たらロンドン~横浜の運賃よりも横浜~東京の運賃の方が高くて驚いた」という発言が物議を醸したことに反論すべくまとめられたのですが……)」によれば、金物1トンあたりの運賃が横浜~ロンドン20円、横浜~シアトルが10円に対して、横浜~東京の艀輸送時にかかる諸経費込みの運賃総額が8円~12円(前述の書物には、意識的なのか無意識なのかは定かではありませんが明細はあっても合計金額が出ていないので電卓片手に自分で計算しました)。

 しかも京浜間約30キロを曳船が艀を18隻曳いて7~10時間要し、これに横浜での通関待ちに3日から最長で20日、東京での陸揚げ待ちに5日前後が加わることから、横浜に着いた本船から荷物を艀に積み替えて陸揚げして通関して再び艀に積んで東京で陸揚げするまでに通常でも1週間から10日掛かり、さらに当時は"羽根田洲"と呼ばれていた多摩川河口部左右両岸は数キロ沖合まで砂洲が続いていたことから、艀は普段から風波が強い沖を迂回しなければならず、これにより海難事故が頻発し、また天候不良により月に7~8日は艀の航行が出来ないなどによる荷役作業の遅れから本船の出港が大幅に遅れたり(繋船料が余計にかかった⇒横浜は神戸、大阪よりも繋船料が割高だった)、はたまた横浜での荷役を諦めて次の寄港地で東京向けの荷役を行ったり(東京までの輸送手段の手配と運賃が必要)、初めから横浜港を避けて神戸や大阪に向かう船もあり(東京から出荷される輸出雑貨の6割が神戸、大阪で船積みされていた)、これらによる東京市側の損失は現在の価値に直すと年間約350億円以上に達し(これは東京港が開港すれば負担の必要が無くなる金額でもあった)、それが東京の物価高騰まで招いていたそうな。

 このような現実があるにも関わらず横浜市は、「東京開港を不要ならしめる」ことを目的に震災で中断していた第三期拡張工事として整備中だった内貿用の高島、山内両埠頭、外貿用の瑞穂埠頭の工事を再開し、同時に京浜間の艀輸送問題の責任を東京側に転嫁して東京港築港と開港を阻止すべく横浜市復興会が、「京浜間に運河を開削する方が東京築港に巨費を投じるより遙かに経済的だ」という主旨の京浜運河開墾意見書を1923年(大正12年)に時の政府に提出大正14年・横浜復興録編纂所「横浜復興録」より)。ちなみに京浜運河の鶴見側の工事は1913年(大正2年)から浅野系の東京湾埋立会社によって開始され、1928年(昭和3年)までに鶴見川河口左岸から横浜港の境界だった川崎の扇町沖までの防波堤建設と、その内側に1万トンの船の航行と錨泊が可能な運河を開削し、その時に発生した土砂で造成した埋立地への工場用地と専用岸壁の建設を完了しており一人ほくそ笑んでいたところ(?)、東京市側から思わぬ反撃に遇うことに。
  それが1936年(昭和11年)に東京府会、市会により承認された横浜に対する意匠返しとも取れる東京側の京浜運河建設工事
 
c0247059_23494520.jpg
*地図③/左が東京市史稿・港湾篇5より1924年(大正13年)の内務省案、右が1934年(昭和9年)横浜市土木局「横浜港」より横浜港平面図を部分拡大した実施案
そもそも京浜間の艀の安全航行が目的なのでキモの部分は羽田沖をショートカットするバイパス運河。
ところがその後の実施案からは削除された、ということは、京浜間の艀輸送云々は考慮されていないということ。


 もともと京浜運河の東京側は、震災後に内務省により地図③左のような計画案が作成され1927年(昭和2年)に東京港修築とセットで承認されたものの折からの金融恐慌のあおりを受けて立ち消えとなり(当時、「京浜運河よりも東京港を!」だった東京市は慢性的な財政難もあり東京港修築に予算を配分することに決定し1930年・昭和5年に東京港修築事業に着手したのは前述の通り)、1928年(昭和3年)に京浜運河会社(この会社は京浜運河開削の為に大正6年に設立されたものの内紛により休眠化していたのを浅野グループが買収した昭和2年・帝国興信所日報部 編 財閥研究 第1輯より)が東京府と神奈川県に対して事業免許を申請したものの大森沿岸漁民との漁業交渉がこじれにこじれたことにより棚上げとなり、それを今度は東京府と神奈川県が直轄事業として実現させようという話なのですが、それはあくまでも世を忍ぶ仮の姿。
 どうやらこの話は国力増強を図りたい政府・内務省と、川崎、芝浦、大森地区に工場を誘致したい神奈川、東京の両府県、浚渫と埋立地造成を先にやってしまいたい東京市の思惑が一致して四者間で話が進められたようで、その計画は品川から川崎まで総延長16キロ弱(東京側約10キロ、川崎側約6キロ弱)の防波堤を築き、その内側を横浜側と同じく1万トンの船舶(内務省案、京浜運河会社案はともに2千トンだった)が航行可能なように浚渫し、この時に発生した土砂で芝浦から大森の海岸を埋め立てて工場を誘致しようという、京浜運河に名前を借りた実質的な東京港拡充工事(1940年.昭和15年に東京港拡充工事と京浜運河建設はセットで内務省の承認を受ける)
 
 これにはさすがのモンスタークレーマー横浜市も、かねてから「東京港より京浜運河を!」と訴えてきた手前もあるし、すでに同じ規格で京浜運河の横浜側を作っちゃってるし、錦の御旗もチラホラ見え隠れしているし、ということもあり、これまでのように条件反射的に反対するワケにもいかず、その対応には苦慮したようで「運河が完成して京浜間の艀輸送が安全便利になれば東京開港を諦めさせることが出来るから大いに結構じゃないか」、「いやいや1万トンの船が航行可能ってことは築港ではないのか」、「京浜運河開削には賛成なんだが東京の計画はなんか胡散臭いし……」と、侃々諤々の議論が交わされたものの昭和11年・横浜商工会議所「京浜運河に関する協議会」より)決着を見ないまま、1938年(昭和13年)に神奈川県により川崎側で、翌年には東京府により芝浦側で相次いで工事に着手(その後、戦争により事業中止になり、終戦により京浜運河建設そのものが事業廃止に)
 
 これを契機に錦の御旗を掲げた東京市は一気に攻勢に転じ、1939年(昭和14年)から政府と国会に対して「早期開港」の意見書、建議書、陳情書を矢継ぎ早に提出し、これに対して横浜市側も「開港反対」の意見書、建議書、陳情書で応じるという陳情合戦が繰り広げられたものの、1941年(昭和16年)3月に時の大蔵大臣と逓信大臣が横浜市側の代表者を何回か呼び出して「東京港開港の必要性」を説いて説得にあたったものの横浜市側はこれに一切応じず。その後も、横浜市側と政府とでたびたび折衝が行われ、最終的に当時、横浜市の財政を圧迫していた震災復興事業として起債した米貨公債返済問題に関して政府が補助金を支出することと引き替えに開港反対の矛を収めることを提案したのに対して、横浜市側は態度を軟化させたものの最終合意には至らず。そこで政府は、5月1日に再び横浜市側の代表者を呼び出して、その場で東京港開港を決行する旨を通告し、その日のうちに「東京港開港」が閣議決定され、東京港築港論から61年後の1941年(昭和16年)5月20日にようやく東京港に開港指定の勅令が下り、この日をもってめでたく東京港は開港することに(以上、昭和17年・東京市「開港記念東京港誌」より

 ちなみに東京港開港時のパンフレット(東京みなと館「開港時のパンフレット」) の表紙には、「見よ我等の東京港」と大書きされているのですが、開港までの経緯を考えるとこの文言は明らかに横浜市に向けての当て付けだと解釈するのが妥当なように思われます(笑)。

 こうしてようやく東京港は開港にこぎ着けたものの、この年の12月8日に日本海軍による真珠湾攻撃で太平洋戦争の火ぶたが切られ東京港拡充事業は中断の憂き目に。

c0247059_23361324.jpg
*⑥1962年に造成された品川内貿埠頭
右に見えるガントリークレーンがある所が1967年に日本初のコンテナ埠頭として整備された品川コンテナ埠頭(1986年撮影)


 そして1945年(昭和20年)に終戦を迎え、横浜港と同様に東京港も米軍により接収されたものの、いち早く接収が全面解除され、戦争で中断していた港湾整備を着実に進め、さらにいち早くコンテナ化に対応し、2013年の統計では外貿コンテナ取り扱い個数は第二位の横浜港を遙か下に見るダントツの全国第一位(横浜と三位名古屋とは僅差なので抜かれるのは時間の問題)、貿易額でも第三位の横浜港に大差を付けた全国第二位(第一位の名古屋と共に二港独走状態)の日本を代表する港となっています。

  
*参考資料
横浜都市発展記念館・横浜開港資料館編「港を巡る二都物語」
東京みなと館-東京港アーカイブ-
ハマ発ニュースレター第21号

以下、近代デジタルライブラリーより(記事中で紹介しなかったもの)
大正15年・東京市「東京市史稿港湾編第4」
昭和2年・東京市「東京市史稿港湾編第第5」
昭和5年・時事新報社経済部編「新日本の工業地帯」
昭和6年・浅野文庫「父の抱負」
昭和16年・帝都日日新聞社「世に知られざる問題の真相」
昭和16年・東京市「昭和16年度版東京市政概要」
そのほかたくさん

ちなみにゼンリンバーチャルミュージアム⇒「公開地図一覧」⇒「昭和中期」⇒「日本図」⇒「1927 東京湾埋立会社埋立地並京浜運河埋立計画平面図」とクリックしていくと、計画当初の京浜運河の平面図を閲覧することができます。






[PR]

# by yokohama80s | 2015-05-03 00:10 | 東京・川崎 | Comments(0)
2015年 04月 26日

南仲通5丁目 ダイワビル

c0247059_15161819.jpg
*馬車道の南仲通4丁目交差点からその1


↑のダイワビルは、馬車道の旧横浜正金銀行こと当時は神奈川県立博物館、現県立歴史博物館と南仲通りを挟んで向かいにあった1階が店舗、2~3階が事務所が入った3階建ての建物。

横浜市が1958年(昭和33年)に作成した「横浜市防火建築帯造成状況図」によると、この建物がある馬車道側は防火帯地区に指定されているものの南仲通側は防火帯の指定を受けていないので、この建物が防火帯建築が否かは微妙なところではありますが、とにもかくにも航空写真を見ると1957~60年の間に建築されたことは確かなので戦災復興建築の範疇に入れても差し支えないと思われます。

c0247059_2112681.jpg
*馬車道の南仲通4丁目交差点からその2


c0247059_15152912.jpg
*南仲通り側(奥に見える非常階段が本町ビル)


c0247059_21242086.jpg
*1階には飲食店がズラッと


c0247059_21242953.jpg


c0247059_21244025.jpg
*この時期のビルの特徴→ビル名を書いた切り文字が必ず何字か抜け落ちていること^^


ちなみにこのビルは、2003年ごろに取り壊され現在はマンションが建てられています。





*来月は東京港開港73周年記念(?)として

5月 3日:東京港
5月10日:海岸1丁目 ニチレイ芝浦工場
5月17日:旧海岸通3丁目 芝浦岸壁
5月24日:旧東京湾汽船発着所前ロータリー
5月31日:晴海埠頭

をお送りします。

[PR]

# by yokohama80s | 2015-04-26 00:06 | 関内地区 | Comments(0)