2016年 06月 12日

山下町95番地 同發菓子工場

 現在、開港道とシルク通りに挟まれた山下町95番地に、壁に「同發菓子工場」と書かれた蔦に覆われた鉄筋コンクリートの古びた建物があります。

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-写真①-
*1982年撮影


 どう見ても「戦前に建てられたらしい」ことは一目瞭然なのですが、「実際にいつ建てられたのか?」ということを調べてみても、1994年刊の中区解体新書に「真偽のほどはわからないが昭和10年ごろの建築といわれている」と記されている以外は、建築マニアの方のサイトを見ても「なんか古い建物があるね」と出ているだけ。

 そうなると「いつ建てられたのか?」をどうしても知りたくなるのが人情というもので、いろいろと無い知恵を絞って考えてみると、建物の建設時期が判明→その時にその場所に居た者が施主→施主の職業=建物の建設目的、という具合に芋づる式に判明するのではないか、と考えたワケです。

 ということで、1985年発行の中区史の山下町のページに掲載されている山下町街並図に、この建物らしき物が記載されていることから昭和5年以前に建てられたものと推測できることから、それ以前の写真を探してみたものの見つからず。

 調査早々に手詰まりとなったワケですが、ある日、国立国会図書館デジタルコレクションで1927年(昭和2年)に横浜市港湾部が出版した「横浜の港湾」という本を眺めていると、巻頭ページに昭和2年5月に現在の東洋船舶信号所から本町通りを写したパノラマ写真があるのを発見。

 さらにこの書物は、2年後の1929年(昭和4年)に改訂版が出版され、内容は同じなのですが巻頭ページの写真が昭和3年10月に同じ場所から撮影された新しい写真に差し替えられていて、さらにその5年後の1934年(昭和9年)に横浜市土木局が出版した「横浜港」という書物に同じ場所から昭和9年夏頃に撮影された写真があるのを発見。

 そこで「これら三枚の写真を比較してみれば、建設時期が判明するのでは?」ということで、本町通りと露亜銀行の建物を目安にして山下町95番地あたりの見当をつけて拡大してみると↓

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-写真②-
*昭和2年の本町通りは区画整理前の震災前の状態、昭和3年は区画整理工事中で昭和9年はほぼ現在の形に
ちなみに右下の写真は参考として横浜都市開発記念館のWEBサイト
WEBアルバム「横浜グラフ」-昭和9年の横浜-より五月後半「五月晴れの空からヨコハマを漫歩する」から


「ビンゴ!!!」と喜ぶ前に写真②について少し解説しておきます。

 左上の昭和2年5月に撮影された写真でシーベルヘグナー生糸倉庫の右に見えるのが日本大通の旧三井物産生糸倉庫と事務所棟で、そのさらに右手の開港記念館の尖塔の手前に見える白いビルは、窓の数や形と翌年に撮影された写真に写っていないことから、商工奨励館が建つ前に同所にあり震災で内部が焼失したアメリカ領事館が、その手前にあった竣工直前に同じく被災した中央電話局が建て替えの為に取り壊されたことで姿を現したもので、そのさらに右手に見えるのが建設途中の県庁旧庁舎で、本町通りは震災前の狭い通りのままで、山下町側の本町通りの両側には震災前に建てられた旧露亜銀行しかビルがありません。
 
 そして右上の昭和3年10月に撮影された写真では、この年に竣工したユニオンビルが95番地の右手に姿を現し、本町通りは鋭意拡幅工事中で、この写真が撮影された昭和3年10月に竣工した県庁旧庁舎にはまだ足場らしき物が確認出来る状態で、その下に見えるのが建設真っ最中の昭和4年竣工のライジングサン石油本社ビル

 左下の昭和9年の撮影時期は不明ですが、光線具合から個人的には7月くらいに撮影された写真だと思うのですが、とにもかくにも遠景が霞んで不鮮明ですがシーベルヘグナー生糸倉庫の右手にはチャータード銀行のビルが建ったことで三井物産が見えなくなり、本町通りその他にはヘルム商会のヘルムハウスアパートメント以外の有名処の建物はすべて出そろった形となっています。

 ちなみに右下の航空写真は、建物の位置を確認するのに参考にしました。

 ということで話を戻すと、昭和2年(1927年)に撮影された写真には現存している同發菓子工場の建物と同じ特徴を有する建物が写っているものの、翌年以降に撮影された写真に写っている建物の窓(写真①の面の二階の窓)が写っていないことから、この建物は昭和2年5月の時点では建設中だったと考えられ、そうなると遅くともこの年の夏までには竣工していたはず、という仮説が成り立ちます(前年の大正15年こと昭和元年の写真があれば決定的なんですが……)

 そうなると次なる問題は昭和2年当時に、この建物がある山下町95番地には「誰が居たのか?」ということですが、横浜開港資料館が発行した開港のひろば・第59号 「横浜の外国商館」展余話 時計の輸入商社に「山下町95番地に1887年(明治20年)から1931年(昭和6年)まで生糸の輸出と時計の輸入製造販売を行っていたスイス系商社のナブホルツ商会(Nabholz & Co→註:ナボールともナボルツともナボーツとも表記している書物もある)」という記述があります。

 そこでさらに"ナブホルツ商会"について調べてみると、山下町95番館のナブホルツ商会は在浜外国系生糸業者の中では最大手のひとつに数えられていたようなのですが、ネットで検索して出て来たのは前記の開港資料館の会報と、大阪時事新報の記事(神戸大学電子図書館システム・大阪時事新報1923/9/23より )だけ。

 この記事は、震災後に横浜の主だった生糸商達がこぞって神戸に移転して、それを受けた神戸市が震災で機能不全に陥った国内唯一の生糸積出港だった横浜港に取って代わるべく当時、京都にあった生糸検査場の神戸移転を政府に働きかけ、このことに危機感を持った横浜蚕糸貿易商同業組合が1923年(大正12年)9月19日に「今後、海外に向かって貿易の目的をもってする生糸の購入輸出行為及びその幇助を他市場又は港湾においてなしたる者には組合は永久絶対に売買取引を謝絶する←原文のまま。要するに横浜から追放する、すなわち日本の生糸市場からの追放を意味する」(1925年発行「横浜復興録」より)という恫喝まがいの決議文を発表したことに対して、「笑止千万、片腹痛いわ!!!」という神戸側の反応を報道した物。

 しかしあの手この手で東京築港と開港に関して61年もの長きに渡って妨害工作を繰り広げてきた横浜港湾マフィア(この場合の「マフィア」は反社会的集団を意味する物では無く、「結束の固い集団」という意味で、当時の横浜の政財官界の事を指す私の造語ですwww)がこの程度のことで白旗を揚げるワケがなく、このあと政府に対してあの手この手であれやこれやと画策を巡らし、最終的に「震災前と同様に国内の生糸積出港は横浜港一港で行う」ということに決定。

 これにより神戸で生糸貿易を再開出来るものと思っていた生糸商たちは、急遽、横浜に戻らざるを得なくなったものの、この時の横浜市内は横浜港を含めてどこもかしこも焼け野原と瓦礫の山。

 このため国は、震災で倒壊焼失した生糸検査場と付属倉庫を北仲通5丁目に、そして山下町224番地に輸出絹織物検査場をそれぞれ大正15年(1926年)までに再建し、震災で発生した火災により横浜に在庫していた生糸は昨年に取り壊された日本大通の旧三井物産生糸倉庫に保管されていた物以外はすべて焼失し多大の損失を被った反省と、大手生糸商社は自社の在庫量などを秘匿して取引を有利に進める為に自前の生糸倉庫を所有する慣習があったことから、横浜で生糸貿易を再開するために取るものも取りあえず事務所を神戸に残したままで、はたまたバラックの仮事務所の隣りに鉄筋コンクリート造りの防火構造の生糸倉庫を相次いで建設しています。

 ということでこれらの話を総合すると、この建物が建てられたと推測される昭和2年こと1927年当時に山下町95番地に所在していたのは、生糸輸出と時計の輸入製造を営んでいたスイス系商社のナブホルツ商会であり、ナブホルツ商会には耐火構造の生糸倉庫を建設する理由があることから、山下町95番地の同發菓子工場として使われている建物は、1927年(昭和2年)にスイス系商社のナブホルツ商会によって建てられた耐火構造の生糸倉庫である……可能性がきわめて高い、ということになります(ナブホルツ商会か建物を施工した会社による資料文献が無い限り、あくまでも推測の域を出ませんが……)
  
 その後、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発したアメリカでの生糸価格大暴落の煽りを受けて(昭和4年の横浜港の生糸輸出額が当時の金額で5億7千万円だったのに対して翌年昭和5年は2億9千万円と約半分にまで落ち込みその後、回復することはなかった←昭和9年「横浜港概覧」より)、1931年(昭和6年)以降、ナブホルツ商会の名は歴史の表舞台から姿を消し、代わって山下町95番地の新たな主となったのが、当時、絹、人絹織物の輸出を行っていたインド系商社のキシンチャンド・チェララム商会、ジ・ラムチャンド商会、ウトマル・エンド・アスダマル商会の三社。

 この三社がそれぞれ一棟づつ建物を分け合ったのか、はたまた共同で使用していたのかについては定かではありませんが、これらのインド商社も第二次世界大戦により横浜から撤退し、 その後、1952年(昭和27年)に横浜市の要請により山下町95番地の現在、同發の事務所として使われている建物を、キシンチャンド・チェララム商会が店舗兼住宅として使用し云々かんぬん……続きはこちら(開港のひろば 127号)をご一読下さいということで以下省略。

 ちなみに撮影当時、建物の壁には会社名らしきものが複数書かれていますが↓

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-写真④-
*文字部分を拡大


アクメ・ファスト・フレート(旧露清銀行跡のアクメ貿易と同一と思われる)、バーナム・ワールド・フォワーディング(戦前に山下町76番地で絹製品などの輸出を行っていたボーマルブラザース商会と思われる)、インターコンチネンタル・トランスポート(?)、あとの6つは判読不能ですが、とにもかくに名称から考えるとすべてインド系商社のようなので、この建物が1970年代前半に現所有者に売却されるまではこれらの企業によって共同使用されていたものと思われます。

 最後に、蛇足になりますが仮に山下町95番地に現存する古びた建物が、本当にナブホルツ商会の生糸倉庫だったとすると、日本大通の旧三井物産生糸倉庫と、北仲通5丁目の帝蚕倉庫の辛うじて残っていた最後の一棟が取り壊された(帝蚕倉庫事務所横に"復元保存"するそうですが「オリジナルを壊しておいて"保存"もヘッタクレもあったもんじゃない!!!」と思うのははたして私だけなのでしょうか???)いま、横浜市内において唯一現存する戦前に建てられた生糸倉庫、ということになるのですが……。




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# by yokohama80s | 2016-06-12 00:01 | 山下町 | Comments(0)
2016年 06月 05日

開港記念日特別企画「桑港に行くまで・昭和初期編」

 現在、アメリカへ行こうと思い立ったら、極端なことを言えばパスポートさえ持っていれば最寄り駅から羽田行きのバスに飛び乗れば9時間後にはサンフランシスコ(桑港)に着いているという時代。

 しかし横浜港が太平洋航路の表玄関として華やかだった頃の海外旅行は、当然、船によるもので片道↓

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-写真①-
 *1927年(昭和2年)頃の航路図(昭和2年刊・米国旅行案内より)


の日数を要したうえに、その費用も「月収百円、年収1200円」と言われた時代に、「ホノルルまで一等船室料金250ドルに1050円支払った(当時は一等、二等船室の料金はドル建てでその日の正金銀行のレートで円に換算した金額を支払った)(1934年出版「ハワイの印象」より)と高額だったことから、この時代の海外旅行は政治家、外交官、官僚、軍人、教員、医師、商社員、技術者、宗教関係者などによる視察や赴任、研修、出張と、貴族や資産家子息による留学などに限られていました(1924年/大正13年以降は排日移民法により幾つかの例外はあるものの建前上は移民目的でのアメリカ入国は禁止されていた)

 ちなみに写真①の地図を見ると、ヨーロッパへの最短ルートは東京~下関(写真①の地図では「長崎」となっている)~ソウル~ハルピン~モスクワ~パリの16日間コースだった(実際には敦賀~ウラジオストック~ハルピンの方が半日~1日程度早かったが、途中で馬賊の襲撃に遭ったので当時はこのルートは存在しないことになっていた)のですが、当時のソ連は基本的に政府関係者以外には入国ビザを発給しなかったうえに通過ビザの取得も難しく(山ほどの書類を提出させられたとか)、さらにハルピンからモスクワに着くまでの約7日間は列車に乗りっぱなしのうえに、その間は風呂にも入れないという状態。

 かと言ってオーソドックスに神戸(横浜or門司)からロンドン行きの船でマルセイユまでのルートだと、、あちらこちらに数日おきに入出港を繰り返して42日(当時、イギリスに向かう人もマルセイユで下船してしまうのでさらに一週間ロンドンまで乗船する"酔狂"な人は常に数人程度だったとか)も要し、また当時の船には冷房設備が無かったことから(今で言う"冷風扇"的な物はあったらしい)インド洋を通過するときの暑さによる不快さは尋常でなかったとか。

 ということで、現在の感覚から言うとちょっと意外に思えるのですが、この頃に日本とヨーロッパとを頻繁に行き来していた商社員や外交官(駐在武官も含む)などは、横浜からサンフランシスコまで船で行き、そこから大陸横断鉄道でニューヨーク、そして今度は大西洋を横断してリバプールまでの24日間コース(横浜~シアトルの場合は21日)を利用するのが一般的だったそうで、有名どころでは白洲次郎が商社員時代に渡欧する時(ヨーロッパ諸国に鮭缶を売り歩いていたらしい)にこのルートを頻繁に利用していたそうですし、ヨーロッパの任地に赴く外交官やその家族は、往路にアメリカ経由で渡欧したら復路はシベリア鉄道で、あるいはその逆ルートで渡欧帰国するように役所から指示されていたそうです(取り立てて用も無く時間的余裕がある時には欧州航路を指定されたとか)

 また当時の視察団や個人の旅行の場合は、どうせ高額な旅費を費やしてアメリカへ行くのならついでに東回りでヨーロッパも、はたまたどうせヨーロッパに行くのならついでに西回りでアメリカも、というように実質的な世界一周旅行とするケースが多かったようです(有名どころでは作家の徳冨蘆花など)

 ということで、サンフランシスコ航路に浅間丸級三隻とシアトル(沙市)航路には氷川丸級三隻がそれぞれ就航し、客船黄金期と称される昭和5年頃に個人が観光目的でアメリカに渡るにはどのような準備が必要だったのかを、Googleブックスで公開されている昭和3年(1928年)版日本郵船「桑港航路案内」 と、国会図書館デジタルコレクションで公開されているこの頃の渡航案内(現在のガイドブック的な物)や旅行記から再現してみたいと思います。

 さて、海外旅行に行くとなれば、とにもかくにもパスポートとビザが無いと乗船券が買えない(予約金さえ支払えば予約することだけは出来た)のですが、これらに関しては現在と似たり寄ったりなので以下省略。

 次は渡米する船の予約ですが、基本的に船室の等級は船室がある位置と部屋の広さや設備によって決定されたのですが、ややこしいことに一等船室の場合は料金表などに記されている料金はその船で一番部屋数が多い部屋の料金で、実際には船室がある位置と広さ、設備、通風や採光状態により部屋ごとに料金が異なっていました。

 そこで昭和4年にサンフランシスコ航路に就航した浅間丸を例にとると、

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-写真②-
昭和5年刊・日本郵船会社五十年史より浅間丸の姉妹船である秩父丸(浅間丸、龍田丸とエンジンが違う為に煙突が一本に変更されている)の内部図に船内配置を大雑把に書き加えてみました。


ブリッジ(操舵室)下のボートデッキとラウンジ、喫煙室などの一等船客用公室があるA甲板を挟んでB、C甲板に一等船室のシングル、ツイン、ツイン+ソファーベッドの2~3人用のそれぞれバス付きが33室、バス無しが61室の合計94室、船内で一番動揺の少ない船体重心部にあたるC甲板中央部前よりにベッドルーム、リビングルーム、バス、トイレ、付添人室付きの一等特別室が左右両舷に2室づつ合計4室設けられ(写真③左上)、

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-写真③-
*写真左上より時計回りに、龍田丸一等特別室のリビングルーム
沙市航路・日枝丸の一等一人部屋(キャビンクラス)
豪州航路・賀茂丸の二等四人部屋
沙市航路・氷川丸の三等コンパートメン室
*龍田丸と日枝丸の写真は「昭和5年刊・日本郵船会社五十年史」より、賀茂丸の写真は「昭和11年刊・日本郵船豪州航路案内」より、氷川丸の写真は2016年撮影



B、C甲板後部にシングルベッドと上段に使わない時には壁に収納するプルマン式ベッドと、さらに部屋によってはソファーベッドを備えた2人用、3人用、2~4人用の二等船室(写真③右下)が30室、その下のD甲板後部とE甲板前後部にバンクベッドと呼ばれる作り付けの二段ベッドを一部屋に2~4台設置した三等コンパートメント(写真③左下)が52室あり、浅間丸型以外の船にはかつての三等大部屋(その昔は船倉のようなところにゴザを敷いていた)にバンクベッドをズラッと並べた三等オープンや、さらに二等船室を三等コンパートメント仕様に改装して二等と三等の中間の料金設定にしたツーリストクラス(シアトル航路の氷川丸型には初めから二等船室がなく代わりにツーリストクラスが一等と三等の間に設定されていた)や、一等船室の部屋を簡素にして従来の一等と二等の中間の料金設定にした特二等、はたまたキャビンクラス(写真③右上)と呼ばれる船室もあり、船室の等級によって乗船口から食堂、トイレ、浴室、喫煙室、ラウンジ、遊歩甲板などがそれぞれ別個に設けられ、一等船客は乗員区画以外なら船内どこへでも行けたのに対して、二等船客は一等専用区画に立ち入ることが出来ず、三等船客に至っては船室と三等公室(食堂、浴室、トイレ、喫煙室)以外はB甲板最後部の三等遊歩甲板しか立ち入ることが出来ませんでした。

 また客室料金には朝昼晩三食の食事代が含まれていて、一等船客はC甲板中央部の4~5人がけのテーブルが並んだ200人収容のドレスコードがある専用食堂で洋食フルコースが出され、二等食堂は一等と同じく基本4人がけのテーブルで一等船客とほぼ同じメニューだったもののドレスコードが無く、三等船客は長方形の12人がけの長テーブルが4~5台並べられた三等食堂が前後2カ所に設けられ、乗船券購入時に和食か洋食かを選択し(中国人向けに中華もあった)大正5年発行の「大正渡米」によると三等和食のある日のメニューは、朝食に梅干し、ショウガ漬けとご飯と味噌汁、昼食は魚の干物、タクアンにご飯と味噌汁、夕食がスルメのスジ切り入り根菜の煮込み、ワカメの酢の物にご飯と味噌汁で、これでは当然足りないので大正6年発行の「最新海外渡航案内」では「三等船客は果物、菓子、福神漬、缶詰の他に大根とおろし金を持参するとよい」と書かれています。
 
 さらにこの時代は、船室等級によるヒエラルキーがアメリカの移民法によって入国の際にも適用され、 例えば一等船客は近所の病院で貰った無病証明と身元証明書を提出するだけでアメリカに入国出来たのに対して、二等三等船客は出港前に出港地の県庁において出港日ごとに指定された日に、結核や精神疾患、眼病、寄生虫(主に十二指腸虫こと現在で言うところの鉤虫)などの検診を受けることが義務づけられ、三等船客はさらにサンフランシスコ到着時に湾内のエンジェル島入国管理施設に1泊2日で一時隔離され(移民の場合は2泊3日)、問題が無いことが確認されて初めて入国が認められ、このときに入国を拒否された者(入国不適格者)が出た場合には、その者をアメリカまで乗せてきた船会社に一人につき千ドル、当時のレートで約4千円ちょっと、今の価値に直すと約2千万円という高額の罰金が科されました。

 このためチケットの購入は建前上は検診の義務が無かった一等船室はパスポートとビザがあれば最寄りの乗船したい船会社の本支店で購入出来たのに対して、二等三等船室については港の近くで"各国汽船乗客取扱所"とか、"乗船切符及旅客荷物取扱所"、はたまた"船客取扱所"という看板を出していた通称”汽船問屋(その昔は”移民宿”とも"外航旅館"とも呼ばれていた)”こと正式名称”二等三等船客取扱人”と呼ばれた↓

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-写真④-
*「大正12年刊・渡米の栞」に掲載されていた弁天通5-71にあった長野屋旅館の広告


のような昭和5年頃には関内周辺に17軒あった旅館が横浜出港分の二等三等船室を一括して販売し、出港前検診やビザの取得などについても「手続に不慣れな者が三々五々来られるより一団となって来てくれた方が効率的」という受入側の都合から、これらの旅館が乗船までに必要な渡航手続全般の周旋も一括して請け負っていました。

 そこで二等三等船室を利用する場合は、出港前検診の受診申し込み期日である出港4日前の正午までに”汽船問屋”に投宿し、各種必要書類に記入して寄生虫検査の為の検便容器を貰い、出港3日前の午前中に旅館の番頭さんに引率されて現在の桜木町駅北改札口を出て道路を挟んで真正面(現在、ペンギンマークの冷蔵庫屋さんのビルがある場所)にあった神奈川県海外渡航者検査所に行き、

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-写真⑤- 
*桜木町2丁目にあった神奈川県海外渡航者検査所(大正15年刊・神奈川県震災衛生誌より)


まず性病、精神疾患、結核、眼病検査が行われ、これらにパスすると中身入りの検便容器を提出してその日の検診は終了。

 そして検便検査にパスすると検査の翌日の午後、すなわち出港2日前に”健康証明書”が発行され、これを提示することでようやく乗船券を購入することが出来ました(以上、大正12年「渡米の栞」大正14年神奈川県刊「統計時報第6号-海外渡航者-」昭和9年「北米遊学案内」ほかより)

 この時、家から領事館や渡航者検査所などに通える二等船室希望者は、近くの船会社の本支店でチケットを購入することもできたのですが、その際に”健康証明書”が必要だったことから、ほとんどの場合は適当な”汽船問屋”に出向いて船室の予約申し込みをすると同時に、その他諸々の手続きの周旋を依頼していたようです。

 というような事情から乗船券を購入するまでと、アメリカ入国時の手間暇や船内での不自由さなどを考えると、渡米に際して二等、三等船室を利用するメリットはほとんどなく、大部分のガイドブックでは「アメリカへの渡航は帰りは三等でも構わないが、どうせ大枚はたいて渡米するのだから行きは一等船室を利用するべし昭和9年「北米遊学案内」」としています。

 そしていよいよ出港当日。
 
 当時は渡米する者は、使用する船室の等級に関わらず出港当日(昭和3年くらいまでは前日も受け付けていたようですが、その後は当日のみの受付となったようです)に、大桟橋入口にある水上警察署に出頭して”なりすまし渡航”を防ぐ為のパスポートの本人確認が行われ(←現在の出国審査にあたるモノで氏名、年齢、職業、渡航目的、渡航先などを聞かれた)、これを受けないと例えチケットを持っていても乗船することができませんでした。

 この審査については、すでに”汽船問屋”に宿泊しているのなら、旅館の番頭さんが水上署経由で船内まで引率してくれるのでなんの心配も無いのですが、東京近辺に住んでいる人は当時、サンフランシスコ航路出港日に東京駅と四号岸壁がある横浜港駅間で運転されていた"ボートトレイン"を利用しよう、と考えるのが自然の成り行きというもの。

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-写真⑥- 
*水上署入ってすぐにカウンター(1982年撮影)


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-写真⑦- 
横浜港駅旅客乗降場プラットホーム(1981年撮影)


 例えば震災後にボートトレインが再開された昭和3年だと、東京駅を13:05に出て四号岸壁前の横浜港駅に到着するのが出港の約1時間前の13時56分、四号岸壁と水上署の往復に約20分、水上署での審査に10~15分程度と考えるとざっと見積もって出港の20~30分前には戻って来られる計算になります。

 しかしサンフランシスコ行きが出港する日の水上署は査証を貰う人でてんやわんやの大騒ぎだったうえに、四号岸壁に行けば行ったで客船見物の野次馬で押すな押すなのカオス状態、さらに船に乗ったら乗ったで今度は乗船客と見送り客とで船内がごった返しているという状態(当時は乗船券購入時に船会社に必要な数を申し出れば見送り客用の乗船券を発行してくれた)で、人をかき分けかき分け乗船したら出港までのわずかな時間で自分の船室に託送した荷物が滞りなく届いているかを確認しなければならず(今も昔も荷物は行方不明になるもの……???)、、それに引き替え桜木町駅まで電車で行って駅で荷物を船会社に預けて手ぶらで水上署経由で船まで行く方が、乗船時間を自分で調整出来るので時間的にも心理的にも余裕を持てるように思えます。

 この点について当時の書物を紐解いてみると、どの本も「横浜港へは東京駅からの臨時列車(ボートトレイン)が便利」と書く一方で、「出港当日は何かとバタバタするから前日から横浜に宿泊するように」とか、「乗船当日は水上署での審査があるから横浜港には出港の4~5時間前に着くように」とか、「出港当日は混雑を避ける為に出港2時間前に乗船するように」というように、ボートトレインで四号岸壁に直行していたら実現不可能なことが書かれているし、旅行記には皆一様に「電車で桜木町駅に行って……」という例ばかりで、ボートトレインを利用して乗船したと覚しき例は、政治家、官僚などによる視察団として渡米した人くらいしか見当たりません(多客期や大人数の視察団が乗船する時には水上署員が四号上屋まで出張することもあったようです)

 どうやらボートトレインは、もっぱら見送り客と客船見物の観光客によって利用されていて時間的余裕の無さから一般の乗船客からは敬遠されていた、というのが実際のところだったようで、その後、このことが理由だったのかどうか、また変更された時期も定かではありませんが、昭和4年10月の浅間丸処女航海の時には、横浜港駅への到着時間が出港約1時間前から約1時間42分前(東京駅12:30発横浜港駅13:18着←1998年・「太平洋の女王 浅間丸」より)となっています。

 と言うことで、出港当日に自宅から横浜港に向かう人は、乗船開始が出港2時間前の13時からなので、午前中のうちに水上署での審査を済ませられるように(審査開始は午前9時から)京浜電車(現在の京浜東北線)で桜木町駅まで行き、駅で荷物を船会社に預けて(正確にはジャパンエキスプレスに預けるのですが)、人力車かタクシーで水上署経由で四号岸壁に行くのがベストという結論に至ります昭和2年「米国旅行案内」によると人力車80銭、タクシー1円80銭だった)

 そんなこんなで、ようやく船に乗り込み15時になるとサンフランシスコ行きの船は横浜港を出港し、あこがれのハワイ航路をハワイに向かって一直線

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-写真⑧- 
*四号岸壁を離岸する浅間丸(昭和5年刊・日本郵船株式会社五十年史より)


……かと思い行きや、船は港外に出ると一旦停船し(一説によると本牧沖あたりだったらしい)「乗客はパスポートと乗船券を持ってデッキに集合するように」という船内放送があります。
 
 これは水上警察署員によるパスポートの本人確認と、密航者の船内捜索が行われる為で(←毎回必ず数人の密航者が見つかったとか)、乗客は風が吹こうが雨雪が降ろうが、寒かろうが暑かろうが天候に関わらず、また船室の等級に関わらず2時間ほど吹きさらしのデッキで待たされ(さすがに浅間丸クラスになると三等船客以外は一等、二等ラウンジで待たされたようです)、捜索を終えた警察官(と密航者?)がボートで本船から離れると、ようやくハワイに向けて”Bon voyage”となりました。

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-写真⑨- 
*(昭和5年刊・日本郵船株式会社五十年史より)


 
 


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# by yokohama80s | 2016-06-05 00:07 | その他 | Comments(0)
2016年 05月 29日

国道409号 浮島通り

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*①カーフェリーターミナルの待合室と日向行きフェリー桟橋を結ぶ歩道橋から その1


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*②カーフェリーターミナルの待合室と日向行きフェリー桟橋を結ぶ歩道橋から その2


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*③カーフェリーターミナルの待合室と日向行きフェリー桟橋を結ぶ歩道橋から その3


 国道409号線の概略は、ざっとこんな感じ(WIKI「国道409号」)

 ということで、撮影当時は浮島町公園の前で行き止まり。
 
 ちなみに現在の国道409号・浮島公園前交差点は、1980年代当時で言うところの浮島町公園前のかつて行き止まりだったところにありますが、撮影当時はそこから180m手前の日本カーフェリーの乗り場(過去記事「日本カーフェリー浮島ターミナル」)入口にありました。
 現在は、かつてのフェリーターミナルは跡形も無いし、頭上に首都高の高架はあるし、そのまわりはなにやら殺伐とした景色になってしまいましたが、撮影当時に浮島公園前交差点はこんなかんじ↓

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*④浮島町12番地・国道409号線の当時の「浮島公園入口交差点」川崎フェリー乗り場入口


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*⑤写真④の向かい側、浮島町11番地にあったドライブイン


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*⑥写真⑤の50m浮島町公園側りにあったトラックターミナル


 そして産業道路方向(川崎駅方向)の多摩運河を渡るまでが浮島町なのですが、道路の右側というか多摩川側というか東京側はあれやこれやの化学プラント↓が建ち並び

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*⑦浮島町9 セントラル化学(現・セントラル硝子川崎第二工場)


当時の浮島公園前交差点から130mほどのところから道路の左側に神奈川臨港鉄道の線路を挟んで、これまた化学プラントが

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*⑧浮島町7 東燃石油化学(現・東燃ゼネラル石油)


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ズラッと建ち並んでいました。


*写真はすべて1987年撮影。




*来月のUP予定
6月 5日:開港記念日特別企画
6月12日:山下町95番地 同撥菓子工場
6月19日:海岸通3-13 武山ビル
6月26日:西波止場 商船運輸現場事務所
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# by yokohama80s | 2016-05-29 00:06 | 東京・川崎 | Comments(2)
2016年 05月 22日

川崎市港湾局浮島処分場

 1980年代当時、産業道路の大師河原交差点を右折して、日本カーフェリーのターミナルや浮島町公園、浮島つり園へ向かう通称・浮島通りがすでに国道409号線となっていたのか否かは記憶が定かではありませんが、とにもかくにも浮島通りは浮島町公園の先で当時は埋立中だった現在の首都高・浮島JCTに当たると道は右に折れ、約1,500mの直線道路で浮島人工島の南西端の袋小路に至ります。

 この道の右手には、石油会社のコンビナートと石油タンクが連なっていて

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*①


900mほど進むとなにやら高架線が道路をまたいでいます。

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*②


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*③


これは、海側沖合に設けられた某石油会社の浮島バースに接岸したタンカーの原油を、道路の右側にあったコンビナート

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*④


に送るパイプライン(グーグルアース)

 でその150mほど先には↓

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*⑤


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*⑥


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*⑦


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*⑧


川崎市港湾局の浮島処分場が。

 この処分場は要するに、建設残土などの土砂を埋立処分する場所で現在も存在しているのですが、Googleのストリートビューを見ると、↑の写真の「浮島処分場」と書かれた看板の「分」より下の部分が道路の下に隠れてしまっています。

 撮影当時の地形図を見ると、ちょうど浮島通りの浮島町公園の前あたりにある水準点の標高が海抜3mで、そこから700m弱の道路右側のコンビナートが標高4m。
 
で現在は、道路がコンビナートがある土地と高さがほぼ同じ、ということは、どうやら道路を1mほどかさ上げしたようです。

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*⑨(ちなみに今はこんなかんじ


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*⑩


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*⑪ちなみに今はこんなかんじ


 そうなると、撮影当時は浮島公園から処分場までは、ゆるやかな下り坂だった、ということになるのですが……撮影当時にはまったく気づきませんでした……というか計算すると0.1%程度の勾配ですから気がつかなくて当然と言えば当然なのですが。

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*写真は1987年から1988年撮影。



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# by yokohama80s | 2016-05-22 00:07 | 東京・川崎 | Comments(0)
2016年 05月 15日

浮島つり公園

 今月は、ブログのタイトルに「橫濱なんちゃら」とつけておきながら川崎市の多摩川河口部にある浮島町の写真をUPしているワケですが、今週は先週の浮島町公園に隣接していた1981年(昭和56年)にオープンした"浮島つり園"の写真を。

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*1984年に撮影された航空写真より(国土地理院・地図空中写真閲覧サービスより)


 ということで、川崎市のHPを見ると「多摩川河口に位置する足場のよい釣り公園です。季節に応じて、多様な魚が狙えます。多摩川河口の向こう側に、東京国際空港を臨む撮影スポットとしても人気の場所です」と紹介されていますが、少なくとも撮影当時はここで釣りをしている釣り人の姿を見かけたことは一度も、繰り返しますが一度たりとも見かけたことはありません。

 さらに付け加えると、羽田に着陸する航空機を撮影している人も(笑)

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*まだ鋭意埋立中の現在の首都高・浮島JCT


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*写真は1987年から1988年に撮影。




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# by yokohama80s | 2016-05-15 00:05 | 東京・川崎 | Comments(0)
2016年 05月 08日

浮島町公園

 今回の"浮島町公園"とは、先週アップした日本カーフェリー浮島ターミナルのさらに海側にあった公園のこと。

 ということでちょこっと歴史を紐解いてみると、そもそもこの公園やフェリーターミナルなどがある浮島町は1957年(昭和32年)に埋立が開始されるまでは海の底だった場所↓。

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今昔マップより


 さらに蛇足ながら、戦前の頃は、横浜港が扱う輸入貨物の7割が艀に積み替えられて、艀を17~18隻繋いだ曳き船に曳かれてトコトコと片道7~10時間かけて東京に向かったのですが、横浜での通関に一週間待たされたうえに、ひとたび海が荒れると横浜から東京まで一ヶ月以上もかかった、ということはこちらの当ブログの過去記事で触れましたので、くわしくはそちらをご参照いただくとして、当時、海の難所であった羽田州があったのが、ちょうで現在の浮島町のあたり。

 という豆知識をお含みおき頂くとして、この公園はこちら(Wiki)とか、こちら(川崎市HP)を見ると、現在は賑わっておいでのようなのですが、私が撮影に訪れた80年代にはいつ行っても人っ子一人見当たらないという状態でした。

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*写真は1987年~1988年撮影。




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# by yokohama80s | 2016-05-08 00:08 | 東京・川崎 | Comments(0)
2016年 05月 01日

日本カーフェリー浮島ターミナル

 そのむかし川崎にはフェリーターミナルがあり、アクアラインが開通する1997年まで川崎と木更津間↓、

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2005年までは川崎と宮崎(日向)を結ぶフェリーボートが就航していました。

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 まあ"川崎"と一言で言ってもピンとこないでしょうが、正確に言うと多摩川河口の川崎側。

 ちなみにこの航路……というよりも、東京湾を横断する航路は、現在の東海汽船の前身である東京湾汽船(昭和17年に現在の東海汽船に社名変更)が東京湾の西側は東京(霊岸島→芝浦→月島→竹芝と時代によって発着地が移転)、川崎、横浜、横須賀、浦賀、久里浜などから千葉県側が五井、木更津、富津その他を東京湾を覆う網の目のように航路があったものの、房総半島の鉄道が整備されると赤字がかさんで撤退。

 そして1965年(昭和40年)に設立された日本カーフェリーが、東京湾汽船(この頃はすでに東海汽船)が撤退した航路のうち川崎~五井(市原)と、川崎~木更津航路を引き継ぎ、市原航路は1974年に廃止されたものの、木更津航路は東京湾アクアラインが開通する1997年まで、30~45分毎に所要時間一時間10分で運行していました。

 ちなみに旧東京湾汽船が運航していた東京湾横断航路のうち、横浜~木更津、久里浜 ~金谷、 浦賀~ 金谷などの各航路を引き継いだ(復活?)のが、現在、久里浜~金谷間のフェリーを運行している東京湾フェリー。

  一方、川崎~日向間は、1971年(昭和46年)から運行が開始され、1986年(昭和61年)当時は南航が27時間、北航が26時間で京浜地区と九州を結んでいましたが、2005年に廃止となりそれにともない川崎フェリーターミナルも廃止され、現在、跡地には流通センターが建てられています。

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*写真はすべて1987年撮影。



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# by yokohama80s | 2016-05-01 00:06 | 東京・川崎 | Comments(2)
2016年 04月 24日

出船入船

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*1984年・新港埠頭(出港に備えて貨物ハッチを閉めるの図)


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*1987年・東扇島埠頭(出港する木材運搬船)


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*1987年・川崎市営埠頭(岸壁の旗は国際信号旗の"November"を使用した停船位置指定旗と呼ばれ接岸時のブリッジの位置を示しています)


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭(出港に備えてスロープを上げる自動車運搬船)


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭



*来月5月のUP予定
5月 1日:日本カーフェリー
5月 8日:浮島公園
5月15日:浮島つり園
5月22日:川崎市港湾局浮島処分場
5月29日:浮島町

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# by yokohama80s | 2016-04-24 00:10 | その他 | Comments(0)
2016年 04月 17日

船のポートレート

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*1982年・新港埠頭


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*1982年・山下埠頭


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*1982年・山下埠頭


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*1982年・山下埠頭


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*1982年・大桟橋


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*1982年・新港埠頭


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*1984年・新港埠頭


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・大桟橋

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# by yokohama80s | 2016-04-17 00:07 | その他 | Comments(0)
2016年 04月 10日

TAIYUEN

 1984年の夏のある日……というよりも、ちょうどお盆休み中の日曜日だったかと思います。

 カメラ片手に高島埠頭(当ブログ関連「高島埠頭」「高島埠頭の市営上屋」「高島埠頭 その2」)に行くと、三号桟橋に高島埠頭ではあまり見ることが無い大きな船が……。

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高島埠頭はもともと内貿易用に作られた埠頭なので、一号桟橋が4千トン、二号桟橋が6千トン、三号桟橋が詳しい数字は不明ですがたぶん1万トン前後の船が接岸することを前提にしているのですが、この船は1万5~6千トンはいってるよね、というサイズ。

 そのためか、喫水を浅くするために船体から水を抜いて船首のバルバスバウ(球状船首)が半分近くも水面から顔を出しているという状態。
さらに岸壁付近が片付いていることから、荷役の為の停泊というよりも、船員の休養の為に停泊しているという感じでした。

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 ちなみにこの船の船名に"TAIYUEN"という中国都市名(山西省の省都・太原のこと)が書かれていることからもわかるように、この船はこの頃から改革開放政策に転換し始めた中国からの船で、当時の横浜港で目にする大型雑貨船の大部分が、グレーの船体に喫水線付近が深緑色に塗られた中国船だったような印象があります。

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*写真はすべて1984年撮影。




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# by yokohama80s | 2016-04-10 00:08 | 高島埠頭 | Comments(2)
2016年 04月 03日

起重機船第50吉田号

 過去に当ブログで、 ベイブリッジの橋桁設置の為に大黒埠頭地先の埋立地に接岸していたクレーン船について世界最大級のクレーン船世界最大級のクレーン船 その2の2回に分けて写真をUPしたのですが、未UP写真がゴッソリあったので、今回はまとめてUPということで。

 ということで、あらためて説明すると、ジブと呼ばれるクレーンの支柱が円形なのが3700トン吊非自航ジブ俯仰式起重機船第50吉田号(吉田組)、角張っているのが3700トン吊非自航ジブ俯仰式起重機船武蔵(深田サルベージ)

 なにやら吊り上げ能力が 3,500トンを超える大型起重機船は現在、国内に4隻のみだそうで、国内外の橋梁工事で活躍していて、最近では2009年の東京港のゲートブリッジの橋桁設置(You Tube「東京ゲートブリッジ 下部トラス桁架設工事記録」)では、前記の2隻の起重機船の他に国内最大の4100トン吊の海翔(寄神建設)を加えた3隻がそろい踏みして作業を行っています。

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*写真はすべて1987年撮影。



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# by yokohama80s | 2016-04-03 00:03 | 鶴見・大黒埠頭 | Comments(0)
2016年 03月 27日

弁天通り

 今回も、とにもかくにも東横線か国鉄(現在のJR)で桜木町駅を降りて、なにはともあれ本町通りの右側を通って弁天橋を渡ります。
そして川沿いの道を横切ると太田町と弁天通に挟まれた三角形の角地にある日石のGSを過ぎるた弁天通りと本町通りに挟まれた、これもまた三角形の角地にデ~ンとそびえ立つのが↓

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1929年(昭和4年)に回漕業を営んでいた株式会社宇都宮徳三回漕店こと現在の株式会社宇徳の本社屋(建てられた時点では本店だったようですが、戦前の一時期に本社は新橋に移転しこの建物は横浜支店となっていた)として建てられた通称弁六ビルこと、当時の宇徳運輸別館
ちなみに現在、同所に建っているマンションの住所は本町6丁目58番地ですが、この建物があった時の住所は弁天通6丁目78番地でした。

 ということで、このビルを左手に見ながら弁天通りを進んだ5丁目との角のビルにあったのが↓

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三人百姓という名の居酒屋で、通りを突っ切って5丁目に入るとそこは左側には県立博物館内に当時は郵便局(神奈川県立博物館内郵便局)があり↓

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その先が旧正金銀行の建物で↓

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右手の馬車道との角には↓

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日本海上火災横浜ビルがあり、馬車道を突っ切ると、そこは弁天通4丁目。

 しかし4丁目にはたいして見る物がないので、そのまま先を進んで関内大通りに出ると、デ~ンとあるのが下駄履き住宅の最終形とも言える神奈川県住宅供給公社ビルと弁三アパート。
この二つの下駄履き住宅は、パッと見では一つの建物に見えますが、実際には建設時期が違う二つの建物をピッタリくっつけて建てられた防火帯建築の完成形。

 とにもかくにも、この二つの建物にの一階通り側にはお店がビッチリ軒を並べていました。

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ちょっと掟破りですが太田町側から弁三アパートの裏側を↓

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 ということで、弁天通りの右側はこれらの建物があって、左側には……???

とにもかくにもそうこうするうちに(?)、こんどは関内桜通りにぶつかって↓

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それを突っ切ると弁天通2丁目。
この通りの右側には、神奈川新聞関連のビルを始めとした大小様々なビルが建ち並んでして↓

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そして関内仲通りを突っ切ると弁天通1丁目となり、ここは通りの左側に東電の横浜支店ビルが区画の大部分を占めていて、右側には……???
記憶がありません^^

 ということで、昔の写真をネットで漁ってみると、戦災に合う前の弁天通には通りに面した表側の壁を石積み風にモルタルで細工した横浜風看板建築の外国人相手の高級スーベニアショップなどが軒を並べていたそうなのですが、戦災によりこのあたり一帯は焼け野原に。

 一説には、馬車道よりも有名で賑わっていたとも言われていましたが、撮影当時には、その面影がまったく感じられないフツーの通りになっていました。

*写真はすべて1982年撮影。




*来月4月のUP予定
4月 3日:第50吉田号と武蔵
4月10日:TAIYUEN
4月17日:船のポートレート
4月24日:ある日の出港風景

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# by yokohama80s | 2016-03-27 00:10 | 関内地区 | Comments(0)
2016年 03月 20日

南仲通り

 今回も、とにもかくにもJR(撮影当時は国鉄)でも、東横でも良いので桜木町駅を降ります。
で改札口を抜けて駅前の通りを渡って本町通りの右側へ。

 すると通りは弁天橋を渡るワケで、その時に見える風景が↓

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 で弁天橋を渡って、大岡川沿いに関内方向へ行く道を右にみながらやり過ごし、太田町の通りをやり過ごし、日石のガソリンスタンドもやり過ごし、弁六ビルこと宇徳ビルもやり過ごして進んだ先の本町通りと南仲通りの三角地帯の角地にそびえるのが↓

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赤茶色のレンガタイルとニューヨークチックな伸縮式非常階段が目を引く今は無き本町ビル

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この本町ビルを左に見る通りの両側が、町名で言うところの南仲通。
今回も、通りの話なので「り」の送り仮名付きの南仲通りです。

 ということで、本町ビルと通りを挟んで反対側にあるのが↓

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旧横浜正金銀行本店こと、前東京銀行横浜支店だった神奈川県立博物館
ちなみにこの建物は、青銅製の特徴的なドームがある馬車道側が正面と思われがちですが、県立博物館としての正面はあくまでも↑の写真の側。

 という話はさておき、さらに進んで南仲通りと馬車道の出会いのカドにあったのが↓

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1955年~60年頃に建てられた防火帯建築のダイワビル
その向かいが↓

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そして馬車道を挟んで向かい側に↓

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で馬車道を越えると、そこは南仲通4丁目でちょっと進むと本町通りから伸びる車一台がギリギリ通れる小道があって↓

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その先の通りの左側に↓

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があり、その先の関内大通りを越えると南仲通3丁目となり、ちょうどその真ん中あたりにあったビルの一階に↓

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ハンバーグを注文すると鉄皿からはじけ飛ぶ脂除けの紙エプロン着用を強いられる(?)ハングリータイガーがあって、二丁目をジャンプして関内仲通りとの交差点の一丁目側のカドにあったのが↓

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今も同じ場所に建っている三金ビルで、ここからが南仲通1丁目で通りの右側には東電のビルがあり、左側には震災で倒壊したものの市民の熱意と寄付によって再建された開港記念館がちょこっと通りにはみ出して建っています。

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*写真はすべて1981年撮影。



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# by yokohama80s | 2016-03-20 00:10 | 関内地区 | Comments(0)
2016年 03月 13日

北仲通り

 JRの桜木町駅(80年代はまだ国鉄で東急東横線のホームが併設されていた)を降りて、改札口を出て高い塀と植え込みで中を窺い知ることができない東横浜駅を左に見ながら駅前を進み大岡川に架かる弁天橋を渡って大岡川と昔はボーリング場だったビルを改装したヤマハ家具ショップのショールームのビルに挟まれた路地を↓

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こんな景色↑を見ながら進むと、4階建ての海保の官舎が数棟連なっているところで道は右に折れます。

 ここから県庁旧庁舎にぶつかるまでの通りの両側が町名で言うと北仲通。
ちなみに今日の記事は、この北仲通の真ん中を貫く通りの写真をアップしていくので、タイトルは通りを現す意味で送り仮名の「り」付きの北仲通りとしました。

 ということで、左手に海保の官舎と三管本部のビル(古い地図には海難審判所と出てますが)を見なながらさらに先に進むと右手にあるのが↓

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(写真左の道が北仲通り、右が本町通りに出る道)


1935年(昭和10年)に建てられた上組横浜支店。

 そして↑の左側の道をズイズイ進むと↓

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1928年(昭和3年)に建てられた帝蚕ビルディング、

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1926年(大正15年)に建てられた帝蚕倉庫北仲通B号倉庫こと旧生糸検査所付属倉庫B号倉庫、

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帝蚕倉庫事務所こと旧生糸検査所付属倉庫事務所などの、帝蚕倉庫関連の建物が建ち並び、その先の左手に旧生糸検査所こと撮影当時の合同庁舎、右手には↓

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1929年(昭和4年)に建てられた横浜銀行本店別館こと旧第一銀行横浜支店があるところで、通りは本町通りというか万国橋通りと交差する本町4丁目の交差点に。

 現在の本町4丁目交差点はスッキリしていますが80年代には、この交差点に歩道橋があったのでそれを渡って北仲通4丁目に入ると、通りの左側には

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昭和初期に増田合名会社の社屋として建てられた三丸本町ビルの通用口があり、その向かい側には

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昭和30年代前半頃に建てられた二軒並びの中華料理屋(1960年に撮影された航空写真に「海正楼と一番の文字が確認できます)があり、その先の北仲通3丁目の交差点の左側に

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清月堂ベーカリーがあり、さらにその先の北仲通2丁目の左側の現在、県庁第二分庁舎が建っている場所に

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があり、その隣りには

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興亜海上火災横浜支店中分室の建物があり、

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その先の北仲通1丁目の左側が県庁新庁舎で右側は本町通りに軒を並べるビル群の裏側↓。

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ちょっと怪しい雰囲気のレストランやバーの地下への入口がありました。



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# by yokohama80s | 2016-03-13 00:17 | 関内地区 | Comments(0)
2016年 03月 06日

元浜町4-28 尾張屋食堂

 JR(撮影当時はまだ国鉄)の桜木町駅を降りて、旧東横浜駅の入口を左に見ながら駅前広場を進んで、本町通りに出て弁天橋を渡り左手に浜銀本店と旧生糸検査所を見ながら本町四丁目交差点を跨ぐ本町歩道橋を渡り万国橋通りを左に折れて、北仲通とその裏通り(当ブログ「北仲通 芝居町」に飛びます)を右に見ながら進むと、三橋茂八商店という酒屋さんと壁にかすれた文字で「港歯科」と書かれた一階に小洒落たレストランがある港ビルとの間の通りが、

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書いて字の如くその昔は海岸線だった元浜町通り(当ブログ「元浜町通り」に飛びます)

万国橋通りからこの通りに入って、タクシーの営業所の隣り、第二若尾ビルの向かいに

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ビルが建ち並びビジネス街然としているこの通りには珍しいコンクリート打ちっ放しのちょっとクラシカルな雰囲気のあるこぢんまりとした食堂がありました。

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 看板には尾張屋食堂と書かれていますが、この頃の食べ物屋の店先に必ずあったショケースに入った食品サンプルも無ければ、メニューも無く中華なのか蕎麦屋なのか皆目見当がつきません。
また昼食時に通りかかっても営業中らしいのに人の出入りが無いし……。

 まあ店に入ってみるのが一番手っ取り早いのですが、なにせ当時の関内近辺、特に馬車道、海岸通あたりはとにもかくにも物価が高く、店に入ったのは良いものの「えっ!!!」という値段だったら困るしなぁ……ということで結局、店の中に入ることはありませんでした。

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 ちなみに現在、同所にはマンションが建っていますが、そのマンションが建てられたのが1998年とのことなので、その頃まで食堂が営業していたのか否かについては定かではありませんが、少なくとも写真の建物は現存していたようです。

 さらに参考までに、ちょっとしたお戯れに、国会図書館デジタルコレクションから1930年(昭和5年)横浜商工名鑑を紐解いてみると、北仲通に同名の店の記載があることから、もしかしたらもしかするのかもしれませんね。

*写真はすべて1981年撮影。



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# by yokohama80s | 2016-03-06 00:13 | 関内地区 | Comments(0)
2016年 02月 28日

米軍横浜海浜住宅地区 その2

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*写真はすべて1981年撮影。




*来月3月のUP予定
3月 6日: 元浜町4-28 尾張屋食堂
3月13日: 北仲通
3月20日: 南仲通
3月27日: 弁天通

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# by yokohama80s | 2016-02-28 00:06 | 本牧・小港・新山下 | Comments(3)
2016年 02月 21日

根岸町3-147 喫茶伽風豆虫

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 JR根岸線を根岸駅で降りて本牧通りというか、横浜市主要地方道82号山下本牧磯子線を間門方向に進むこと800m、約10分で森林公園というか競馬場がある高台、というか旭台に登る道との分岐点にあたる根岸不動下交差点に行き着きます。

 すると看護学校と、現在はマンションが建っている場所に横浜赤十字病院があり、道路を挟んだその向かい側にあったGSと児童遊園に挟まれた所に↑の写真の建物がありました。

 常識的に店名が書かれているはずの場所に、"SNACK"と大書きされていることから、最初は「スナックという店名なのかなあ?」と思ったのですが、よく見てみると店の入口の上に"伽風豆虫"という看板が。

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 普通だと「なんて読むんだろう?」と思いそうなモノなのですが、私はなんとなく「カブトムシと読ませるんだろう」と直感的に思い込んでしまったのですが……???

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*写真はすべて1982年撮影。




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# by yokohama80s | 2016-02-21 00:02 | 根岸、金沢地区 | Comments(4)
2016年 02月 14日

金沢シーサイドライン

 金沢シーサイドラインは、簡単に言うとJR根岸線の新杉田駅と京急本線の金沢八景駅間約10.6kmに作られたコンクリートの軌道上をゴムタイヤを履いた車両が無人運転している「標準型新交通システム」という1989年に開業した新規格の鉄道のこと。
でなにやら、"横浜シーサイドライン"が会社名で、"金沢シーサイドライン"が路線名となるんだそうな

 ということで話を、撮影当時の80年代に戻すと、国道357号の中央部分にさまざまな形の橋脚が建ち並び↓

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*①1986年撮影
(R357・第三住宅入り口にて)


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*②1986年撮影
(現在のシーパラダイスマリンゲート付近というか杉田ゴルフ場脇)


その後、橋脚に橋桁が載り↓

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*③1987年撮影
(現在のシーパラダイスマリンゲート付近というか杉田ゴルフ場脇)


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*④1987年撮影
(現在のシーパラダイスマリンゲート付近というか杉田ゴルフ場脇)


駅が出来たものの↓

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*⑤1987年撮影
(市大医学部駅建設現場)


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*⑥1987年撮影
(市大医学部駅建設現場)


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*⑦1987年撮影
(市大医学部駅建設現場)


まわりは空き地だらけ。
正直言って、「こんなんで大丈夫なのか?」と思ったのは紛れもない事実であります。

なにせ周りは空き地と小規模な町工場と海の公園しか無かったのですから。

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*⑧1989年撮影
(現・海の公園柴口駅付近)


ところが後年、「なんでこんなところに人工島を?」という場所が、シーパラダイスになろうとは!!!

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*⑨1988年撮影
(現マリンゲート付近)


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*⑩1988年撮影
(現横浜フィッシャーマンズマリーナ南端部付近)





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# by yokohama80s | 2016-02-14 00:03 | 根岸、金沢地区 | Comments(0)
2016年 02月 07日

金沢区・海辺の散歩道

 80年代後半のある日のこと。
横浜港の最南端部に金沢木材埠頭あると知り、「どんなところだろう?」と金沢区まで行ってみたところ取り立てて見るべき物(撮るべき物?)も無いし、ということで、「行けるところまで行ってみよう」と一番、海沿いの道を現在の八景島方面……というか、市大病院方向に行くと、幸浦2丁目に差し掛かった時に見つけたのが↓ 

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*①長浜水路口


 なぜか近くに米軍関係の施設が見当たらないのに、本牧や新山下あたりで良く目にしていた「在日米軍施設」を現す看板が。
「この水路が米軍施設?」と思って調べてみると、横浜市政策局基地対策課のサイトに↓

"水路河口部の沖合にタンカー用の係留設備があり1.5kmほど上流の小柴貯油施設まで水路沿いにパイプラインが敷設され"ていて、2005年に返還されたとのこと。
しかし私の拙い記憶だと、1981年の爆発事故以来、この施設は開店休業状態だったかと……ということはさて置き長浜水路に架かる橋を渡ると↓

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*②海辺の散歩道長浜水路側入口にある休憩所

 
 なにやらすり鉢状の用途不明の施設が。
公園のようなのですが、遊具があるワケでも無し、「ここはなんだろう?」と言った感じなのですが、今さらながら調べてみると、横浜金沢観光協会のサイトで観光スポットのページ

「海辺の散歩道」
八景島マリンゲートから長浜水路口までのびる約3キロメートルの遊歩道で、小高くなった六方石モニュメントのある公園からの東京湾の眺めと、長浜水路沿いの約1キロメートルの桜並木が素晴らしい。
ゆっくり海をみながら散歩のできるコースは見晴らし抜群です。
八景島マリンゲート付近から横浜ヘリポートまでの海岸沿いは釣り人がたくさん。


との記述が。

どうやらこの正体不明の施設が、海辺の散歩道の幸浦側入口ということになるのですが、撮影当時の拙い記憶だと、ここから福浦2丁目までの海沿いは通行止めになっていたような記憶があるのですが……。

 ということで、長浜水路から福浦1丁目までジャンプすると、ここから福浦2丁目までは、堤防と道路の間がちょっとした広場状になっていて、冬の晴れた日には対岸の君津あたりが手に取るように望むことが出来る東京湾に面した防波堤には、平日でも釣り人たちがズラッと竿を並べていました。

 で撮影当時、この公園というか散策路には所々にベンチがあっただけで、施設らしい施設と言えるのは↓

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*③福浦二丁目の近代的な公衆トイレ


ぐらいなもので、ここからさらに300m行くと、そこから横須賀方向というか、海の公園方向というか、今で言うと八景島方向に向かって小高い丘になっていて散策路が続いていました↓。

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*④水際緑地地帯の散策路


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*⑤眼下に三菱重工野球部のグランドが


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*⑥散策路の頂上部その1


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*⑦散策路の頂上部その2


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*⑧横浜ヘリポートその1


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*⑨散策路がヘリポートを越えた所
(写真奥に見えるクレーンが住友造船でそのさらに奥が横須賀)



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*⑩休憩所


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*⑪横浜ヘリポートその2


そして小高い丘を下ると↓

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⑫柴漁港に向かう漁船


写真の右手に造成中の八景島がチラッと写っているのですが、撮影当時は「こんな所に島を作ってどうするつもりだろう?」といった感じで、まさか"あんな代物"が出来るとは……。

 ということで、水際緑地地帯入口に戻るのに散策路を逆に辿るのも芸が無いので道路を歩いていると↓

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*⑬福浦3丁目側入口


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*⑭横浜ヘリポート入口


散策路の小高い丘の正体が判明(笑)

 ちなみに1971年(昭和46年)に金沢地先の埋立が始めるまでは、このあたり一帯は海の底で、約1.5km山側のかつて小柴貯油施設があった小高い丘……というか山がかつての海岸線でした。


*写真は1987年撮影。




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# by yokohama80s | 2016-02-07 00:08 | 根岸、金沢地区 | Comments(0)
2016年 01月 31日

山下町92番地 横浜繊維

 中華大通りと開港道の分岐から開港道を加賀町署方向にテクテク歩いて、当時、オープンしたばかりのホリデーインこと現在のアスターホテルを過ぎて、中華街パーキングの先のマンションの隣りの、現在、コインパーキングがある場所に↓

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の、戦前建築臭がプンプンする怪しい建物がありました。

 ということで、撮影当時の住宅地図を見てみると、山下町92番地・横浜繊維K.Kとあります。
で、今度はその会社名で検索すると、現在、コインパーキングがある場所の隣りに本社を構える昭和21年創立の麻製品などを販売する会社と判明。

 さらに掘り下げて調べてみて判明したのは、この建物は撮影当時は横浜繊維の倉庫として使われていた建物のようで、その後、これらの写真を撮影してほどなくして取り壊され、跡地は現在まで駐車場となっています。

 ただこの建物は、どう見ても戦前建築のようなので、例によって国土地理院の空中写真地図検索サービスから昔の航空写真を見比べてみると、1944年と1946年、1947年の戦中から終戦直後に撮影された航空写真に該当建物と思われる建造物が写っていて、その後、1981年の写真まで同一の建物を確認できることから戦前に建てられた建物であることは確かなようです。

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*1947年撮影の航空写真から
(赤い四角が写真の建物……だと思われます)


 そこで近代デジタルライブラリーで横浜市役所勧業課が編集した横浜市商工案内を紐解いてみると、戦前の山下町92番地には、欧州への絹織物を輸出していた合名会社森友貿易商会、米国製化粧品の輸入と雑貨の輸出入を行っていたS.アイザック商会、屑糸、自動車タイヤなどの輸出入を営んでいたスゾール・ロンボウ商、外国人が経営していた洋食レストラン、不動産屋、ベルギー領事館とチェコ領事館があったようです。

 蛇足ですが、S.アイザック商会のシャチョーさんがチェコ領事をされていた関係から、戦前のチェコ領事館はS.アイザック商会に間借りしていたそうです(戦前、横浜にあった領事館の多くがこのパターンだったようです)。

 という話はひとまず置いておいて話を元に戻すと、昭和5年以降継続して92番地を所在地にしていた会社は、S.アイザック商会とチェコスロバキア領事館のふたつなので、この建物はS.アイザック商会関連の建物と考えるのが妥当なようです。

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*建物の床面の高さがシルク通りと同じ高さになています。


*写真はすべて1981年撮影。





*来月2月のUP予定
2月 7日: 金沢区幸浦・海辺の散歩道
2月14日: 金沢シーサイドライン
2月21日: 根岸町2丁目 スナック伽風豆虫
2月28日: NASUGB BEACH AREAとPX

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# by yokohama80s | 2016-01-31 00:10 | 山下町 | Comments(2)