2012年 09月 16日

横浜税関西門

本土側から新港埠頭へ行くには、桜木町駅方向から、または馬車道から万国橋を渡るルートと、関内駅南口からみなと大通りを直進して海岸通りを横切って"クイーン"こと横浜税関庁舎横を通って新港橋を渡る、という二通りのルートがあります。

新港橋ルートで新港埠頭に行くときに、みなと大通りから海岸通りを横切り税関庁舎脇を抜ける時に、税関庁舎の道路を挟んだ反対側に「横浜税関西門監所」という交番のような建物がビルの一角にあり、その脇の道路にはみ出した所に、写真の「横浜税関西門」と書かれた銅板がはめ込まれた門柱があります・・・・・・というよりありました(税関庁舎側にも門柱があったかどうかは記憶が定かではありませんし)。

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*1982年撮影(写真右手の入り口に赤灯があるのが横浜税関西門監所)


しかしよくよく考えてみると、件の門柱は税関庁舎の東側に建っているのに「西門」とはこれ如何に? 

実は1859年に横浜開港を機に、現在、日本大通りから海岸通りを渡った先の広場になっているあたり、80年代には東西上屋があった区画を柿渋が塗られた黒い板塀で囲って、その中に税関の前身である運上所が設けられ、その板塀の西側、現在、海岸通りにある昭和ビルの裏あたりに西門が、また現在の開港広場交差点のジャパンエキスプレスビルと貿易会館の間あたりに東門が設けられたことに端を発しています。

その後、明治政府発足に伴い運上所が税関に移行し、初代庁舎が一旦、現在の県庁の辺りに建設されましたが「海から遠くて不便極まりない」ということで、当時の県庁庁舎が火事により焼失したことをきっかけに、税関庁舎を県庁に譲り、税関庁舎はかつて運上所のあった場所、日本大通りの突き当たりの真正面に移動しました。

そして運命の1923年(大正12年)。
関東大震災により二代目庁舎が完全に崩壊。

この時、税関庁舎再建よりも港湾施設再建が優先された為に、税関庁舎は万国橋を渡った右側の新港埠頭内にあった税関敷地に仮移転。

そして震災から11年後の1934年(昭和9年)にようやく現在地に"クイーン"と呼ばれるようになる庁舎が完成し、海岸通りも現在のように直線化された為に(震災前の海岸通りは現在の税関庁舎のあたりから海側に切れ込んで昭和ビルのあたりで再び現在のルートに戻っていた)、西門は税関裏に移動した、というのがこの門柱に関する歴史的背景のようです。

このことから震災前はレンガや石積みが、震災後はコンクリートが主要な建築材料だったことなどを考えると、この石積の門柱が建てられたのは必然的に1912年以前だろうということになります(←私が勝手に願望を言っているだけですのでお気になさらずに)。

これらのことから道路にはみ出して車線を塞いでいるにも関わらず、80年代にこの門柱が現存していたということは、昔の人はこの門柱の価値を充分に理解していた、と想像できます。

ところが現在、この門柱は撤去されてしまったようです。

確認の為に伝家の宝刀ストリートビューで確認してみても西門門柱は影も形も見当たりませんでした。

確かにあのような柱が道路側にはみ出して建っていたら車の通行の邪魔になるでしょうが、邪魔になると言ったら新港埠頭が港として活気に満ちていた80年代前半の方が遙かに邪魔になっていたはずですし、この頃には"近代遺産"などという言葉も感覚も無かった時代ですから、このような柱くらい壊そうと思えばいつでも壊せたはずです(実際、「邪魔臭い」という理由で、1979年頃に旅客ターミナルこと新港埠頭四号上屋を情け容赦なく取り壊して更地にして貨物置き場にしてしまった)。

それが写真のように80年代当時にも残されていたということに、当時の関係者の方々には「この門柱は残すんだ」という明確な意志があったのではないでしょうか???

少なくとも私にはそう思えます。

それにこの程度のモノを保存するのに、いったいどれだけの手間暇が掛かると言うのでしょう???

この門柱を保存することよりも撤去することを選択した人たちの、その感覚とセンスに私は首を傾げざるおえません・・・・・・という、済んでしまった話を蒸し返すのはここまでにして、「西門があるのなら東門はどこ?」と疑問に思うのは至極当然のことだと思います。


*追記
この税関西門の門柱は、下の方を切断して短くなった形で新港埠頭旅客ターミナル入り口門柱として再利用(?)されています(でもどこにもそのことが書かれていないのはなぜ???)



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# by yokohama80s | 2012-09-16 00:06 | 新港埠頭 | Comments(2)
2012年 09月 09日

本町ビル

以前、8月12日の「弁天町界隈」の記事で↓

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↑の写真の建物について、「旧宇徳ビルの並びにあった名称不肖のビル」と記しましたが、その後、グーグルストリートビューを眺めていたら(現在、北海道の片田舎在住なもので、現状確認はストリートビュー頼みなんです)、県立博物館の北側にあたる本町4丁目に写真↓と同じ建物が・・・・・・

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さらに地図上にはビルの名称までもが・・・・・・

ということで、本町ビルでググッてみますと、1929年(昭和4年)に帝国火災保険横浜支店として建てられたそうです。

さらに物置や押し入れをゴソゴソやったら、8/12にアップした写真とは別カットを発見。

ということで、早々に。

ただストリートビューと80年代当時の写真を見比べてみると、どうやら1階部分が改築され、例の通気塔や「ついてる」の暖簾がかかった入り口部分は

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撤去されてしまったようですが、アーチ状の通用口は現在も健在。

さらにアメリカンチックな非常階段も健在!

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*写真は全て1981年撮影


ストリートビューでかつての撮影地を眺めていると、ほとんどの建物が解体されガラス張りのピカピカなビルに建て替えられていたり、低層階の壁だけかつての姿を留めてはいるものの、その上は無機質な高層ビルになっている「キカイダー建築」だったりと、あまりの変わり具合に一抹の寂しさを感じていたのですが、本町ビルのように、「何気にそのまま」という姿を発見するとつい嬉しくなってしまいます。

ということで、こちらの記事の方も、新事実判明(?)にともない、新たに訂正いたしました。

追記
なにやら情報によると、この本町ビルは今年に入ってから解体されたのだそうです。
そこでストリートビューの撮影日を見ると、「2009年9月」でした。




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# by yokohama80s | 2012-09-09 00:04 | 関内地区 | Comments(0)
2012年 09月 02日

旧大宝堂時計店(今野アートサロン)

関内駅北口から馬車道を万国橋方向に歩くと、関内駅近くの三角形の徳永ビル以外には大した見物もなく、いかにも最近出来たという風情のお店が通りの両側に並んでいる中を進んで行くと、突然↓

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「いかにも」という風情満点の三階建てのビルが現れます。

このこぢんまりとした風情満点のビルは、旧大宝堂時計店こと当時は今野アートサロンという画廊のビルで、一階には店の中に黒い大金庫がある喫茶店。

二階がM&R探偵社・・・・・???

ではなくて、これはたまたま通りかかった時に、当時、民放某局で放映中だったTVドラマのロケ現場に出くわした時のモノ。

ちょっとミーハーして窓に群れている女の子たちの頭越しに覗いてみると↓

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リーゼントと鼻ヒゲがトレードマークのダンディーなフジタツさんが・・・・・・

というネタはこのあたりにして、この旧大宝時計店の建物は1928年(昭和3年)に竣工した建物で、撮影当時は一階には喫茶店(店名不明)、二階が今野アートサロンという画廊、三階が個人住宅になっていました。

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*右手奥に見えるのが旧・日本火災横浜ビル


現在は関内駅から北東に伸びる馬車道通りがメインストリートになっていますが、この建物の建設当時は京浜東北線こと当時の京浜電車は桜木町が終点だった為に、桜木町から日本大通り、山下町方向へ南東(日本大通りから北西)に延びる道がメインストリートで、特に弁天通りには海外からの観光客目当ての小洒落た店が建ち並び、聞いた話では今で言う表参道(?)のような華やかさだったそうです。

しかし80年代には、日本火災横浜ビルと県立博物館以外には、壁が剥がれ墜ちたボロボロのビルが数えるほどしか現存せず、往時の華やかさを偲ばせる建物はこの建物しかありませんでした。

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ストリートビューでこの建物があった太田町3丁目を見ると、なにやら現代風のデザイナーズビル(?)に建て替えられてしまっているようですが、個人的には、こういう建物こそ保存すべきだと思うのですが・・・・・・

*写真はすべて1981年撮影


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# by yokohama80s | 2012-09-02 00:05 | 関内地区 | Comments(0)
2012年 08月 26日

山下町 下町あたり

「山下町」と言った時に、多くの人がイメージするのは山下公園だと思いますが、実は意外に広い町で、西を走る大桟橋通りと首都高、南は元町との境の堀川に囲まれた一帯になります。

実はこのあたりが、開港当時の外国人居留地にあたり、今で言うと本町通りあたりを境に海側を上町と言って西洋人が多く居住し商社、商店が軒を並べ、中華街側は下町と言って主に清国人が多く住んでいて後に中華街が形成されました。

そして終戦後から1960年(昭和35年)まで、上町あたりが米軍に接収され、接収解除後の再整備が遅れたこおかげで、このあたり一帯には震災後に再建された海外商社のビルや倉庫が80年代頃には数多く残っていました。

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*1981年(山下町215近辺の中華料理屋の裏)


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*1981年(山下町212近辺の倉庫の壁に残されていた米軍接収時代の名残)


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*1982年(山下町95・旧外国人商社でこの時には某有名中華料理屋さんのお菓子工場だったかと・・・・・・)


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*1981年(山下町211・中華料理店の駐車場に建っていた廃屋)


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*1981年(山下町25近辺のタクシー会社の壁に干されていた料金収納袋)


山下町にあった、互楽荘アパート、同潤会アパートなどの集合住宅や、警友病院、シェル石油ビル、デスコビル、ストロングビルなどの戦前の海外商社ビルのすべてが今は無く、高層マンションなどに建て替えられてしまいました。


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# by yokohama80s | 2012-08-26 00:07 | 山下町 | Comments(0)
2012年 08月 19日

モーリス商会

80年代当時、ワシン坂の下、小港町2丁目のカドに、モーリス商会というどこにでもあるようなごくごく普通の自動車修理工場がありました。

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*1982年撮影


ところがフツーじゃないのが、ガレージに駐められている車。

その一台がスカイブルーとアイボリーのツートンカラーで、テールにフィンがピンと立ったアメリカングラフティーしている車。

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*1982年撮影


今ならググれば一発で車名が判明するのですが、当時はそんなモノがあるはずもなく、あれやこれやと手を尽くしして調べた結果、1958年型のフォードフェアレーン500コンバーチブルと判明。

撮影から30年も経っていれば、あの当時ですでに車齢24年なので今は廃車になっているものと思っていましたが、ある日、暇つぶしにグーグルストリートビューで小港町を見ていたら店名がちょっと変わったものの、当時の場所に、当時の店構えのままで、当時のようにこの車がガレージに駐められていたのにはビックリしました。

今年で撮影から30年、ということは車齢54年。

ググってみると、「小港町の一桁ナンバーの云々」とけっこう有名な存在のようです。

でもう一枚。
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*1982年撮影


こちらはフェアレーンの隣に何気に駐めてあった、いかにも米軍払い下げ臭プンプンのドブネズミ色のダッジのレッカー車。

普通、「このての車が修理工場に置かれている」と聞いたら、アメリカンポップ調に派手派手しく彩られたガラス張りの小綺麗なショールームを連想しますが、フェアレーンの下にはオイルの受け皿やらバケツが乱雑に置かれているし、ダッジの隣になぜか冷蔵庫とかつて一世を風靡した流れるフラッシャー付きのセミドロップハンドルのチャリ。

「いかにも」という感じではなく、このようにごくフツーに「何気にすごいモノが置いてある」というのが、本当の「粋」ってヤツだと私は思います。     
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*1984年撮影(こちらは元町から山手トンネルを抜けた所にある自動車屋さん。売りに出ている車がメチャクチャマニアック)




*2013/01/04 写真1枚追加。
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# by yokohama80s | 2012-08-19 00:06 | 本牧・小港・新山下 | Comments(2)
2012年 08月 12日

弁天通界隈

*1981年本町5丁目・本町ビルの県立博物館側にて撮影


馬車道通り北側の本町、南仲通、弁天通の5~6丁目、県立博物館周辺には、昭和初期頃に建てられたオフィスビルが林立していました。

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一枚目の写真は、本町5丁目に現存する1929年(昭和4年)竣工の1階部分が石積風で、2階以上が赤タイルによるレンガ作り風の旧帝国火災保険横浜支店こと本町ビルの裏。

なぜかビルに、昔の船によく見られた通気筒があって、そこからテレビのアンテナケーブルが......。

だれか地下に住んでいたのでしょうか?

さらに影しか写っていませんが、画面のちょうど左上には、ハリウッド映画に出てくるアパートなどでよく見かける跳ね上げ式の非常階段が(普段は二階部分と平行になっていて階段に人が乗るとズッズッズッとゆっくり下がって地上に繋がる仕組み)。

今は1階部分が改装されてこの通気塔は無くなっているようですが、なんかヨコハマっぽいと思える光景です。
   
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*1982年弁天通5丁目旧・日本火災横浜ビル


上の写真は弁天通5丁目にあった、1922年(大正11年)に川崎銀行横浜支店として建てられた旧・日本火災横浜ビルこと現・日本興亜馬車道ビル本棟の通用口。


そしてこの通用口の右手にあったのが↓
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*1982年弁天通5丁目旧・日本火災横浜ビル倉庫棟


の古めかしい倉庫。

このビルのように震災後から戦前に作られたオフィスビルには、事務所棟の隣に必ず倉庫棟が併設されています。

現在でも、日本大通りの三井物産ビルにその面影を見ることができますが、当時、このあたりに事務所を構えていた会社は、今で言うと流通センターの役割を担っており、注文が入るとこれらの倉庫から品物が日本を含めた世界中に発送していたそうです。

現在、このビルは、外壁二面のみを建設当時の姿で残した形で、近代的なビルに建て替えられてしまい、まるで体の半分はサイボーグ、半分は人間のキカイダーのような奇っ怪な姿になってしまっています。

最後にオマケで、これは弁天通ではありませんが、馬車道通の延長線上ということで↓
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*1981年撮影


関内駅北口を出て、馬車道方向に歩いたすぐの中区港町4丁目にあった1930年(昭和5年)築の旧徳永ビル。

中区史では、ビルの所在地を「真砂町4丁目」となっていますが、この薄っぺらなビルがある一角は正確には「港町4丁目」になります。

ということはともかく、ストリートビューで現在の姿を見てみると、このビルは薄っぺらさはそのままで、10階建ての今時のビルに建て替えられています。

*2012/09/03 一枚目の写真が本町ビルの裏と判明したので、そのように記事を修正しました。


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# by yokohama80s | 2012-08-12 00:05 | 関内地区 | Comments(0)
2012年 08月 05日

横浜港駅 荷物用ホーム

旧国鉄・東海道貨物支線こと横浜臨港線の横浜港駅にはプラットホームが二カ所あり、ひとつは言わずと知れた、現在、海保の海上防災基地となっている旧四号上屋のちょうど真ん中あたりまで140mほどあった1928年竣工の旅客用プラットホーム。

現存しているのは海上防災基地の敷地からはみ出した東京寄りの40mほどが、屋根を塩ビに張り替えて「横浜港駅プラットホーム」として保存されています。
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*2012年撮影


そしてもうひとつが、旅客用ホームの約100mちょっと手前(南)のレンガ倉庫の前、現在の駐車場あたりにあった写真の荷物用プラットホームこと小口貨物積卸場です。
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*1984年撮影


このホームも四号上屋や、旅客用プラットホームとほぼ同時期に作られたものと思われますが、撮影当時には、すでに横浜港駅は信号所に格下げされ、旅客用、荷物用ともに屋根付きだったプラットホームは雨を避けられるちょうど良い荷物置き場となっていて、ホームの上と言わず、その周辺には海コンやらホネやら、はたまたザーサイが入った樽↓とか、
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*1982年撮影(さすが中国クオリティー、タガが外れて壊れる寸前のタルばかり)


大きな木箱に梱包された建設機械や、その部品などが乱雑に置かれていて、写真のようにホーム全景を障害物無しに見渡せることができませんでした。
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*1984年撮影


上の写真を撮影した時は、ちょうどお盆休み中だったこともあり、この時だけはまわりがキレイに片付けられていて、運良くこれらのカットが撮影できたと言う次第です。
  

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# by yokohama80s | 2012-08-05 00:02 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 29日

横浜港駅 計重台

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*1981年撮影


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*1983年撮影


横浜港の各岸壁を結んでいる旧国鉄の貨物線は、正式名称はただの東海道本線貨物支線で、高島から桜木町駅の下にあった東横浜を経由して新港埠頭の横浜港駅までを通称・横浜臨港線、さらにその先の山下埠頭までを山下臨港線と呼ぶんだそうです。

私はズボラな性格なもので、どれもこれもただたんに「貨物線」と呼んでいました。

それはそれとして上の写真は、十一号上屋の手前にあった鉄道用の計量台。

今でいうとJICAのあたりでしょうか。

要は大きな秤のことで、荷物を積み込む前にここで一両一両貨車の重さを量り、荷物を積み込んだら再び重さを量って、その重量差で荷主に料金を請求するのに使用していたようです。

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*1983年撮影




*2012/09/01 計量小屋の写真を追加しました。
*2012/09/15 計量小屋内の秤の写真を追加しました。
 

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# by yokohama80s | 2012-07-29 00:05 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 22日

新港埠頭 石畳

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*1983年撮影(五号上屋南側=万国橋側)


1916年(大正5年)に竣工した当時の新港埠頭内の道路は、万国橋や新港橋方面から二つの突堤の真ん中を通っているような幅員18~21mの幹線道路は24cm×9cmの花崗岩ブロックによる舗石道こと俗に言う所のピンコロ舗装による石畳。

左右の岸壁を東西に結ぶ幅員14~18mの幹線道路は砕石道(現代の感覚で言うと砂利道)、それ以下の幅員の道路は砂利道(現代の感覚で言うと庭園などの遊歩道に見られるような小砂利を敷き固めたモノ)で作られ、上屋脇まで引き込まれていた鉄道線路も路面電車の軌道のように石のブロックで覆い、上屋の周りは45~60cm角の花崗岩パネルが敷き詰められていて、関東大震災後の災害復旧の時も基本的に震災前に道路に敷かれていた石材を再利用し、不足した分を新しく調達したそうです。

しかし80年代の撮影当時には、ピンコロ舗装がされていた幹線道路は、石畳の上からアスファルトで舗装し、路面が痛んでアスファルトが剥がれた部分からピンコロ舗道の路盤が顔を覗かせ(この区間を車で走ると、どんなに徐行して走ってもあまりの振動の酷さで建て付けが悪かったルームランプカバーが必ず落下したものですw)↓。

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*1981年撮影(10号上屋前の中央道路脇にて)


岸壁上屋の周りや歩道は一番上の写真のような丸石やブロック状の板石敷きが残っていて

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*1982年撮影(赤レンガ二号倉庫前にて)


往時を偲ばせていました。

ということで、これらの写真をご覧になればおわかりのように、現在、赤レンガ倉庫のあたりなどに敷かれている石畳のうち、段差が無いキレイなモノはみなとみらい再開発時に新たに敷かれたモノですのでご注意アレ(2号倉庫の中央あたりのモノが昔からある石畳です)。



*2012/09/01 写真を追加しました。
*2013/01/08 一枚目の写真を6号上屋としていましたが、5号上屋と判明しましたので訂正しました。

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# by yokohama80s | 2012-07-22 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 15日

PL125 巡視船かとり

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*1987年撮影


この巡視船は、新港埠頭の四号岸壁突端にあった海保専用桟橋ではなく、なぜか九号岸壁の突端にある桟橋に係留されていました。

写真に写っている「PL125」という艦船番号から調べてみたところ、銚子保安部所属の"巡視船かとり"と判明。

クラシカルな舳先の波よけから、「相当、古い船だろう」と思っていましたが1980年建造で今だ現役。

さらにマニアの方のサイトを覗いてみましたら、この船は今でもよく横浜にやってきているようです。

この時も、なにかの用事か任務で横浜にやって来て、「ヨソ者だから」ということで専用岸壁ではなくてここに係船させられたのでしょう......なんてことはなく、ただたんに専用岸壁が一杯だったからこちらに係船したのだと思います。   


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# by yokohama80s | 2012-07-15 00:09 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 08日

新港埠頭 米海軍冷蔵施設

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*1983年撮影(左が新港倉庫、真ん中の四棟続きの建物には"NAVY COLD STORAGE FACILITY YOKOHAMA"のエンブレムがある)


現在で言うと新港1丁目4番地、80年代当時で言うと横浜港駅のヤードの北側にあった新港倉庫、三井倉庫、横浜冷蔵庫と、六号岸壁と七号岸壁の突堤を結んでいた道路を挟んで七号岸壁が、終戦後から1994年(平成6年)に返還されるまでの間、冷蔵施設として米海軍に接収されていました。

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*1981年撮影(新港倉庫への引き込み線)


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*1982年撮影(新港倉庫)


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*1987年撮影(七号岸壁/七号上屋は1942年に起きたドイツ軍艦爆発事故により倒壊した)


この一帯の冷蔵倉庫は、接収直後から冷凍船で横浜港へ大量に運び込まれた食料品を、冷蔵貨車に積んで全国の米軍基地に配送するまでの一時貯蔵所としての役割を担っていました。

その後、国内に進駐していた米軍基地は減少し、80年代当時は主に米軍艦船向けの冷凍食品などの保管に使用されていたようです。

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*1982年撮影(左端が横浜冷蔵倉庫、右が三井倉庫、真ん中は二つの倉庫を繋ぐ渡り廊下兼入り口棟)


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*1983年撮影(入り口に掲げてあった看板)


余談ではありますが80年代当時、「あの倉庫では米軍向けのアイスクリームが作られている」という話がまことしやかに囁かれていましたが、アイスクリームを作っていたのは東神奈川、というより京急・神奈川新町駅と旧国鉄(現・JR)の線路の間の神奈川区亀住町に2000年まで操業していたミルクプラント(現・保育園)。

他にも1977年(昭和50年)まで、横浜駅東口北側の旧神奈川駅があったあたり、今で言うとコーヒー会社のビルがあるあたりに米軍のパン工場がありました。

ということで話を元に戻しますと80年代頃は、これらの冷蔵施設への品物などの搬入搬出を行っている様子もなく、接収区域で一番大きな新港倉庫もご覧のように廃墟になっているし、七号岸壁も冷蔵施設が稼働している様子もなく、横浜冷蔵倉庫と三井倉庫の建物の中でコンプレッサーが稼働している音がするだけでした。


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# by yokohama80s | 2012-07-08 00:03 | 新港埠頭 | Comments(4)
2012年 07月 01日

第五消防署

横浜根岸住宅地区こと通称・根岸ベース、はたまた根岸キャンプ、英語では......忘れました(正解はエリアX)。

まあそれはそれとして、旧根岸競馬場跡地の根岸森林公園の外周を右回りにテクテテク歩くと、根岸旭台交差点のあたりで道路右手に消防署があります。

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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1984年撮影


*1984年撮影


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*1984年撮影


建物には「FIRE STATION No.5(第五消防署)」の文字と、ガレージには古めかしいいかにもアメリカンな消防車が↓

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*1984年撮影


聞いた話では、この消防署はあくまでもアメリカ海軍の消防署で、米軍根岸キャンプの400戸余りの米軍住宅の消防を担っていて、例え消防署近くの日本人の家が火事になって119番しても、ここの消防車は出動しない建前になっているのだそうです。

でも火事を見たら消したくなるのが世界共通の火消しの性分でしょうから、目の前で家が燃えていたら要請がなくてもここの消防車も駆けつけるとは思いますが、2002年にこの消防署が電気配線のショートから火事を出して、近隣から駆けつけた横浜市消防局の消防車15台でようやく消し止めた、という何かのブラックジョークかと思うような出来事がありました。

なにやら火事により電源が落ちて、消防車が入っていたガレージのシャッターが開けられなかったんだそうです。

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*1984年撮影


上の写真は新港埠頭米軍接収区域にあった、「あなたの火災予防の最高の武器はなんですか?」と書かれた米海軍版火の用心の看板。

"武器"と言うあたりが、いかにも軍隊らしいのですが、第五消防署の最高の武器は「119番」......なんてね(元々、この消防署は米軍住宅地区での初期消火を担っているだけで、イザ火事が発生したら頼まれなくても横浜市消防局が助っ人に馳せ参じる手はずになっている) 
  

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# by yokohama80s | 2012-07-01 00:04 | 根岸、金沢地区 | Comments(0)
2012年 06月 24日

北方消防出張所

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*1982年撮影


現在、本牧十二天にある北方消防出張所は、この写真の撮影当時は本牧通りの山手警察署交差点から60mほど本牧PXに入った所にありました。

この時、すでに米軍横浜住宅地区こと本牧ベースの再開発により、それまで周りにあった米軍住宅そのほかの施設はすべて跡形もなく取り壊されて、ガレキの中に昭和初期に建てられた消防署とその後ろの火の見櫓だけがポツンと残されている光景は一種異様な雰囲気でした。   

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*1982年撮影(消防署建物の左手、山手警察署交差点側はこんな↑状態)


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ちなみのこれらの写真を撮影後まもなく、北方消防出張所は本牧十二天の現在地に移転しました。


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# by yokohama80s | 2012-06-24 00:07 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2012年 06月 17日

本牧PX

横浜市のサイトにある資料を見ると、本牧ベースが返還されたのは1982年(昭和57年3月31日)となっていますが、この写真を撮影したのはその前年の1981年(昭和56年)の10月。

私の記憶が確かなら、新聞で「本牧ベースが日本に返還された」と読んで、「これは忍び込めるチャンス」とばかりにイソイソと出かけたのを憶えています。

いざ現地に行ってみると、日本とアメリカを隔てていて「フェンスの向こうのアメリカ」と言われる所以となった本牧通り沿いのフェンスがキレイさっぱり撤去されていて「よっしゃ!」とばかりにPX敷地内に潜入。
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1時間ほどグルーッと一回りしてコミサリー↓

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*写真はすべて1981年撮影


のベンチで一休みしていたら、屋根にブルーのパトランプを載せたドブネズミ色(←色に関しては確信がありません)のセダンがやって来て目の前で停車。

中から降りてきた日本人の警備員にバン掛けられました。

曰く、「日本への返還が決まってフェンスを撤去したが、ここはまだ米軍の管理下にある。よってここは撮影禁止だから撮影したフィルムを出せ」と。

「いやいや休んでいただけで、まだ写真は撮ってない」の押し問答を繰り広げる、というお約束のパターン(笑

まあのらりくらりと言い逃れをしていつものように適当に逃げてきましたが、この頃は、肩からカメラを下げてノースピア(最近はノースドックと言うらしいが瑞穂埠頭のこと)手前の瑞穂橋の白線を一歩でも超えようものなら、どこからとも無くあらわれた警備員に「フィルムを出せ」と言われたモノです。

それでもノラリクラリと言い逃れが出来たのですから、ある意味良い時代でした。

でフト思ったのですが、今、瑞穂橋あたりで写真を撮ったら、「メモリーを出せ!」と言われるのでしょうか?

今度、試してみよっと(ウソです)。

本牧PX・その2もご覧下さい。
    


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# by yokohama80s | 2012-06-17 00:05 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2012年 06月 10日

本牧PX ガソリンスタンド

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*撮影:1981年


かつて本牧PX入り口にあったガソリンスタンドの、「あんた死ぬよ!」と書かれた看板。

なんかそこはかとなくアメリカンなイラスト。  


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# by yokohama80s | 2012-06-10 00:02 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2012年 06月 03日

高島埠頭 その1

高島埠頭は、ちょうど横浜駅の南東、築地橋を渡った帷子川河口、現在のみなとみらい4丁目~5丁目一帯にあった埠頭で、もともとは西半分(国道一号線側)の旧表高島町の埋め立て地に広大な旧国鉄の高島貨物駅が作られ、その後、1921年(大正10年)に横浜港第三期拡張工事の一環で内貿易用埠頭(国内向け貨物積出し用)として現在のキャッツシアターからみなとみらい6丁目にかけての埋め立て造成が開始されました。

しかし1923年(大正12年)の関東大震災により工事は中断。

その後、1930年(昭和5年)に現在のジャックモールイースト棟の南側あたりに一号桟橋が、

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*1984年撮影(現・ジャックモールのコンビニ付近にあった一号桟橋の市営一号上屋)


そして1933年(昭和8年)には、タワーマンションのあたりに二号桟橋が、1954年(昭和29年)には高島中央公園北交差点あたりに三号桟橋が作られました(位置的には現・横浜マリーナの最深部がちょうど三号桟橋北側先端部にあたりますが、三号桟橋自体は1988年までに撤去されています)。

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*1987年撮影(高島埠頭三号桟橋基部にあった市営四号上屋、現・みなとみらい6丁目3 関東地方整備局京浜港湾事務所の東側70mのあたり)


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*1987年撮影(高島埠頭の北端部、現・みなとみらい6丁目3 関東地方整備局京浜港湾事務所あたり)


しかし撮影当時の80年代には、桟橋自体が手狭で大型船の接岸には不向きなことからか、この埠頭に船が接岸して荷役作業をしている光景はほとんど見る機会はなく、高島埠頭を寄港地としていた大島航路の定期船も寄港地を大桟橋に変更し(ちょうど83年~85年までの時刻表コレクションが欠落している為に正確な時期は不明ですが、82年の時刻表には「横浜(高島)」となっていて、86年の時刻表には「横浜(大)」となっていることや、私のつたない記憶を元にすると83年か84年頃に寄港地が大桟橋に変更されたと思います)、埠頭に隣接する高島駅も広大なヤードが広がっているだけで、繁華街横浜駅の裏にポッカリ空いたエアポケットといった風情でした。

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*1987年撮影(現・ジャックモール東西棟の間あたり)


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*1987年撮影(現・ジャックモール西棟北側あたり)


そして1984年から、みなとみらい21計画によってまずは桜木町駅東側にあった東横浜駅から三菱造船、高島埠頭三号桟橋の南側にかけての埋め立て工事が開始され

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*1987年撮影(現・ジャックモール東棟南側あたり)


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*1987年撮影(現・みなとみらい4丁目交差点あたり)


気づいたときには現在のような姿に......。

はたしてジャックモールの辺りに立って、かつてここに桟橋があったことを想像出来る人が何人おいでになることやら......。

なにせかつて高島埠頭の桟橋があった場所は、いまやみなとみらい地区のど真ん中ですから。

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*1984年撮影(旧・金港倉庫、現・高島中央公園あたり)



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# by yokohama80s | 2012-06-03 00:03 | 高島埠頭 | Comments(0)
2012年 05月 27日

西波止場

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*1982年撮影(右手にある5階建てのビルは、現在は4階建てに改築されている掖済会ビルこと掖済会大桟橋船員診療所)


象の鼻というのは、現在の象の鼻パークと大桟橋根本部分に挟まれた波止場のことで、1859年(安政5年)の開港時に現在、象の鼻と呼ばれた外国貿易に使用された東波止場と、現・象の鼻テラス前の岸壁の内航貨物用に使用された西波止場の二つの突堤からなる波止場のことで、双方を合わせて東西波止場と呼ばれ、まさにこの場所が横浜港発祥の地となります。

その後、1864年(元治元年)に現在のニューグランド前(現在、氷川丸が係留されているあたり)にも波止場が建設され、そちらを東波止場またはフランス商館が近くにあったことからフランス波止場と呼ぶようになり、象の鼻にあった波止場を西波止場、またはイギリス領事館(現・開港資料館旧館)が近くにあったことからイギリス波止場、さらにのちにアメリカからの貨物を多く扱うようになったことからメリケン波止場と呼ばれるようになりました(鉄桟橋こと大桟橋が出来る前の話です)。

やがて大桟橋や新港埠頭などが建設されると、海岸通り一丁目から大桟橋にかけて写真のような木造モルタル二階建ての小さな乙仲の事務所が軒を並べて、輸出貨物の船積、輸入貨物の荷卸し、国内運送などの手配や、通関、はしけ運送、沿岸荷役、その他貨物の荷役・通関業務を幅広く行っていました。
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*1982年撮影(回船業者の事務所)


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*1982年撮影(二枚目の写真の裏、大桟橋に向かう道路側にあった乙仲の事務所)


現在、象の鼻側の建物は再開発事業により取り壊されてしまったようですが、大桟橋通沿いのいくつかの建物は小洒落たレストランなどとして今も現存しています。 


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# by yokohama80s | 2012-05-27 00:14 | 大桟橋・海岸通 | Comments(0)
2012年 05月 20日

山内埠頭 巨大ボラード(係船柱)

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*1982年撮影


現在は、旧岸壁を埋め立てて「コットンハーバー」などと小洒落た名前で呼ばれている、1932年(昭和7年)竣工の山内埠頭の、第2京浜から市場を抜けて岸壁にぶつかる道の、岸壁と平行に並んで建っている上屋と上屋のちょうどど真ん中に設置されていた高さが1mくらいある特大サイズの係船柱ことボラード(BOLLARD/日本では係船索を八の字に巻き留めて船をつなぎ止めるのに用いる船や岸壁に設置された2本セットの柱のことをボラードと呼び、岸壁にある係船柱をビットBittと呼ぶが、本当は逆。よって当ブログでは係船柱をボラードと表記します......っていうか、そうしないと記事が成立しなくなるので)。

国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧で山内埠頭を見ると、一番古い1947年昭和22年)撮影の航空写真で、上屋と上屋の間に、このボラードと思われる突起物が辛うじて確認できることから(たぶんそうだと思う程度ですが)、この埠頭が作られた当時から存在していたものと推定されますが正確なところは「?」です。

それはさておき、この巨大ボラード、船を係船するのに岸壁から奥まった道のど真ん中にあって、船を繋ぎ止めたら荷役作業のジャマになるだろうことは明らかだし、このような巨大なボラードは他の埠頭では見たことがないことなどなどから、
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*1987年に撮影した一般的なボラード。


船を繋ぎ止めるためではなく、ボラードの別の意味でもある「道路の車止めや車線を分けるために設置された支柱」だと私は推測しています。

埠頭内の道路のボラードとして、船を繋ぎ止めるボラードを設置する、という昔の人のユーモアのセンスには脱帽するしかありません(←ねっ、ボラード=係船柱じゃないと話が成立しないでしょ)。


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# by yokohama80s | 2012-05-20 17:16 | 山内・瑞穂・出田町埠頭 | Comments(0)
2012年 05月 13日

新港埠頭八号岸壁 公衆トイレ

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*1983年撮影


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*1983年撮影


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*1983年撮影


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*1986年撮影



 横浜港で客船と言えば、大部分の方が大桟橋の方をイメージされると思いますが、大桟橋よりも設備が充実していて規模も大きな旅客ターミナルが新港埠頭四号岸壁にあり、1960年(昭和35年)に氷川丸が引退してシアトルまでのアメリカ航路が廃止されるまでは、国内船会社用の旅客ターミナルとして使用されていました。

 ということでちょっと新港埠頭についてググってみると、どのサイトを見ても判で押したように「北米航路が四号岸壁を使用し、欧州航路は九号岸壁を使用していた」とありますが、上の写真はそのどちらでもなく八号岸壁の八号上屋の山側(万国橋側)に併設されていた公衆トイレ。

 今も昔も元来、埠頭と言うところは、一般の人が立ち入らない場所であって、そこにあるトイレも当然、「用が足せればいい」的な素っ気ない造りなのに対して、このトイレはまるで公園にあるトイレのような立派なモノで、入り口には正円アーチがあしらわれ、入り口を入った所にはローマチック(?)な手洗い場があり(ロマネスク様式のトイレ???)、埠頭内の他のトイレは男女兼用なのに対して、こちらは男女用が左右にキチンと分けられていて、まるで不特定多数の人が利用することを前提にしているような造りでした。

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*1986年撮影(入口を入って右側が男性用)


中に入ってみると......
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埠頭内の他のトイレは、小便器が無く打ちっぱなしのコンクリートに向かって用を足す方式なのに、こちらはキチンと朝顔がならんでいます。

一方、個室(もちろん男子用の方です)のほうは......
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*二枚とも1983年撮影

普通のくみ取り式のトイレでした(笑   

 で、ご多分に漏れず1923年(大正12年)の関東大震災により新港埠頭も壊滅的な被害を受けたワケですが、 1925年(大正14年)大蔵省営繕管財局が発行した営繕事業年報によると、「歩道には上屋前及び荷役に支障のある場所を除きなるべく街路樹を植えて公衆便所その他の空き地にして、公衆の休憩に便利な場所には植樹をする」ということで、税関埠頭港内に合計6棟、うち新港埠頭構内に4棟の公衆便所が建てられそうで、この文面を見ると、新港埠頭は埠頭が臨海公園の役割も担っていたようです。



*2016/01/27
記事を整理するために、九号岸壁の件を削除し当ブログの「新港埠頭 九号岸壁」に統一しました。

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# by yokohama80s | 2012-05-13 18:26 | 新港埠頭 | Comments(2)
2012年 05月 06日

新港埠頭 ハンマーヘッドクレーン

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*1984年撮影


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*1987年撮影


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*1987年撮影


新港埠頭の現在で言うと八号岸壁、撮影当時で言えば八号岸壁と九号岸壁の中間にあった通称ハンマーヘッドクレーン。

正式名称は50トン定置式電気起重機といい、1914年(大正3年)のイギリス製(銘板には"1913"となっている)で、50トンジャイアントカンチクレーンとも言うそうです。

なにやら世界で現存しているこのてのクレーンは全部で17基で、このクレーンは国内に現存している3基のうちの1基なんだそうで、ググってみると「関東大震災にもビクともしなかった」と見てきたかのように記述しているサイトが多いのですが、実際には当時の関係官庁が震災の被害状況を書いた文書によると、「50噸起重機を含め全部大破し仕様に堪えず」となっています。

震災直後の写真を見ると、どうやらハンマーヘッドそのものは倒壊を免れたようですが、ハンマーヘッドが設置されていた岸壁が崩壊水没している様子が写されています(ハンマーヘッドに登って撮影したとみられるカットも存在する)。

となると、あれだけの被害(レンガ倉庫も含めて倉庫や岸壁の大部分が倒壊水没している)があったのに、ハンマーヘッドだけがまったくの無傷、ということは考えにくいので、大なり小なり被害を受けたのは確実だと思われます。

それはともかくとして、撮影した当時は余り活躍する機会がなかったようですが、ごくまれにあたりに吊り掛けモーター独特のうなり声を響かせて作業をしている光景を見ることが出来ました。

現在は、どういう理由か知りませんがアームを海に突き出した状態で停まっていますが、撮影当時はアームを写真のように常に八号岸壁に向けた状態で静止していました。    

私には、撮影当時のようにアームを八号岸壁側に向けている姿が一番かっこよく見えるのですが......。    
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*1987年撮影


*関連記事
2014/06/01 ハンマーヘッドクレーン・その一
2014/06/08 ハンマーヘッドクレーン・その二


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# by yokohama80s | 2012-05-06 18:06 | 新港埠頭 | Comments(0)