週刊 横濱80’s

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2012年 10月 21日

新港埠頭二号岸壁

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*1983年撮影(現在の赤レンガパーク前で、今でも2号岸壁のデッパリが残っています)


昔は新聞の横浜版の端の方に小さな囲み記事で、その日、何時にどの埠頭にどこから来たなんという船が入港するか、はたまたはどこへ向かう船が出港するかが掲載されたくらい横浜港は賑わっていました(大晦日恒例の汽笛大合唱に聞き応えがあったのはこの頃までなのではないでしょうか?)。

しかしすでにこの頃には、日本船籍のいわゆる「マルシップ(MARU SHIP)」は少なく、貨物船といえば船体がグレーに塗られたサビサビでボロボロの中国船が多かったと記憶しています。

ところがこの写真を撮影した時には2、3,4号岸壁に珍しくマルシップが勢揃いしていました。

ちなみにここで言う「マル(MARU=丸)シップ」とは、海外では日本船籍の船名には必ず「○○丸」と付くことから日本船を指す呼び方で、法律上の「マルシップ」とは別の話です、という話は置いておくとして、すでにこの頃には2号岸壁に停泊している船のように、英語を平仮名表記したものや、初めから船名が横文字の便宜置籍船などが主流を占めていました。

ちなみに写真左手の3号岸壁に停泊中の「伏見丸」は、初代の船は欧州航路用の貨客船として1914年に建造され、純日本風の内装が施されていた一等船室がメインの豪華船で、往年の郵船神社船隊(その昔、日本郵船が就航させていた貨客船には神社にちなんだ名前がつけられ、操舵室内の神棚にはその神社の祭神が祀られていた。「伏見丸」の伏見は京都の伏見稲荷にあやかって命名された)の一角を担っていましたが、大戦中の1943年に御前崎近海で米潜水艦の雷撃で沈没しています(戦前、51隻あった日本の大型外航船は氷川丸と日昌丸の二隻以外はすべて撃沈されている)。

ということで、この「伏見丸」は、貨物船として1970年に三菱重工神戸造船所で建造された総トン数10,946トン(偶然なのか意図したものなのか初代の総トン数は10,940トン)、全長158m二代目伏見丸となります。

さらに余談ですが、この船は往年の郵船神社船隊の船名を引き継いでいることや、黒い船体に写真ではわかりにくいのですが白地に赤の二引の日本郵船伝統のファンネルマークが施され、さらに船首形状が右の船のような今時のボテッとしたバルバスバウではなく、昔ながらのシュッとした通常船首なことなどで、個人的には萌えポイントが満点に近い船です(笑)


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# by yokohama80s | 2012-10-21 00:08 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 10月 14日

山下町24 互楽荘アパート

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*陽の当たり方から言うと写真左手方向が県民ホールかと・・・・・・


かつてちょうど県民ホールの裏手に、現在のワークピア横浜がある場所に互楽荘アパートという1932年(昭和7年)に建てられたコの字型の小洒落た三階建てのアパートがありました。

しかし当時は今のようにネットなどというものもなく、「震災復興の為に同じ山下町の中華街の裏手にあった同潤会アパートとほぼ同時代に建てられたアパート」などということを知るよしもありませんでした。

そのうえ水町通りという場所柄なのか、前述の同潤会アパートに比べるとなんとなく小洒落てて高級感が漂っているし、手入れも行き届いているし(この当時、公式非公式を問わず取り壊しが決まっている建物は人が居ようが居まいが関係なく荒れるに任せていた)、ということで、私的には今にでも取り壊されそうな同潤会アパートの方が優先順位が高く、互楽荘に関しては記録的なカット以外はまったく撮影していない、という体たらくぶり。

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「ちゃんと撮っておけば良かった」と、今さら後悔しても時すでに遅しというヤツですが・・・・・・

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*奥にチラッと見えるのが居住者用共同浴場の建物(本町通り側入口から)


それはそれとして、この互楽荘は、震災前に同所に支店を出していた東京の金巾(カネキン=敷布・肌着・シャツなどに用いられた薄地の平織り綿布のこと )問屋が1932年(昭和7年)に建てたもので、不動産広告風に言うと「6畳3畳~10畳8畳の2Kトイレ付き、中庭に居住者専用共同浴場完備、電話暖房光熱入浴費女中代その他コミコミで家賃は月45~75円(現在で言うと¥225,000~¥375,000。ちなみに同潤会山下町アパートの同じく二間の家賃は10~21円/月)」みたいな、当時としては「超」が付く高級賃貸アパート。

さらに従来の長屋的賃貸アパートとは違う近代アパートということをウリにする為に、「家主不在」、「居住者相互経営」などを売り文句にして、保証金を入会金、家賃を会費と称していたとか。

ただ家賃が家賃なので、当時ここに入居出来たのは、県庁などの部長さんクラスとか病院の院長さんだとかのセレブな方々だったそうです、というようなことがこちらに詳しく書かれています。

*写真はすべて1981年撮影。


*戦前戦中戦後を通じて互楽荘は山下町24番地に、ヘルムハウスは53番地に存在し、後にも先にも互楽荘がヘルムハウスと呼ばれたことはありません。
ちなみに米軍接収当時、互楽荘は「互楽荘ビレット」という名称の軍属宿舎として、ヘルムハウスは同じ名称で高級将校用宿舎(のちに婦人部隊宿舎として使用されていたとの説もあり)として使用されました。



*更新情報
2014年8月10日
本文に互楽荘の情報と、写真5枚、地図情報に互楽荘以外の建物の位置を追加しました。

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# by yokohama80s | 2012-10-14 00:08 | 山下町 | Comments(0)
2012年 10月 07日

東海道本線貨物支線 高島駅

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*1987年撮影(国道1号の築地橋を渡った先、今で言うと国道1号ととちのき通りの交差点あたりに駅の入り口がありました)


1913年(大正2年)~1995年(平成7年)までの間、横浜駅東口の南東・・・・・・というよりも、国道一号線をはさんだはす向かい、築地橋を渡った所から南は今の国道1号とすずかけ通り交差点、そして東はBLITZのあたりからマリノスタウン、スポーツパーク、水際公園のあたりまでの高島1丁目、みなとみらい5、6丁目にかけて東海道本線貨物支線(高島線)の高島駅という大きな貨物駅がありました。

この高島駅には、ちょうど今のキャッツシアターがあるあたりの国道1号側に、石炭の燃えがらの臭いや、蒸気機関車の汽笛が聞こえてきそうな大正時代に作られた扇形の機関庫があり、私が小学生低学年だった1970年頃までは、蒸気機関車が行き来していて、名店街(現ジョイナス一階)を歩いていても汽笛が聞こえてきたものです。

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*1984年撮影(そごうが入る横浜新都市ビルはまだ建設中。その隣が回転展望レストランが売り物だった旧スカイビル)


しかしその後、貨物輸送は鉄道からトラックに移行し1987年に国鉄民営化に伴い廃止・・・・・・になったと思いきや、国鉄民営化に伴って手続き上「廃止」となっただけで、民営化後も高島駅は1995年まで営業を存続。

ただ貨物駅としての営業を続けていたとはいっても、構内にあった広大な操車場はこの時すでに使われることはなく、民営化に伴って廃車となった貨車がズラリと連なって駐められているような状況でした(一説によると、このままここで解体したのだとか)。

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*1987年撮影(現・すずかけ通り西交差点あたり)


その後、1995年の高島駅廃止に伴いヤードその他は桜木町駅手前で京浜東北線と接続していた貨物線を残しキレイさっぱり撤去され、1997年にはその貨物線も地下化されたことにより、かつてここに広大な貨物駅があった痕跡は、今は何ひとつ残ってはいません。

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*1986年・市場大橋より撮影した写真をパノラマ合成(現在の水際公園のあたり)



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# by yokohama80s | 2012-10-07 00:08 | 高島埠頭 | Comments(2)
2012年 09月 30日

山下町224番地 花園橋病院別館

かつては下を大岡川が、現在は首都高の車が流れている花園橋を渡り、大桟橋通りの2ブロック目手前を右に入った所に写真の花園橋病院別館がありました。

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上の写真を見て「こんな病院ちょっといやだ」と思った方、ご安心下さい。

写真の建物はあくまでも花園橋病院別館で、この建物と通りを挟んで真向かいの旧ウインクレル商会の裏手にあたる所にちゃんとした病院がありました。

ということで今回、この記事を書くにあたり「その後、この病院はどうなったのかな?」と思いストリートビューを覗いてみると、本館、別館共に該当の場所にはマンションらしきビルが建っていて病院の影も形もありません。

そこで今度はググッてみると、なにやら花園橋病院は1998年にM&Aにより某病院チェーンに買収され、その後、2002年に伊勢佐木町近くの廃業した高層ホテルを改装し病院名を変更して移転したとのこと。

ということで現在、花園橋病院は跡形もなく消えてしまったワケですが、かつて病院があった場所の隣に建てられたビルに病院を買収した法人が開設した診療所がありますので、それがかつてここに病院があった名残ということになるようです。

さらに地元不動産会社団体のHPに、そこに加盟している某社の沿革に「昭和30年に花園橋病院を買収した」と出ているのと、Wikiの1960年(昭和35年)に発生した「横浜歌謡ショー将棋倒し事故」の欄に負傷者の搬入先として名前が挙がっているだけで、後にも先にも花園橋病院の名前は出てきません。

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そこで今度は「花園橋病院はいつからあったのか?」ということを調べてみると、横浜市三千分一地形図で見ると、昭和39年版の224番地の建物に「花園橋病院」との記載があるのですが、それ以前の地図には「花園橋病院」の記載はなく、変わりに該当地の該当の建物には昭和25年版には「横浜繊維製品検査場」、昭和7年版には「輸出絹織物検査場」との記述があります。

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ただ戦前と戦後(昭和39年=1964年)とでは建物の形状が違うので、国土地理院の地図空中写真検索サービスの空中写真で見比べてみると、一番古い1944年から1977年までの空中写真で同じ形状の建物を確認することができます。

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そうなると撮影当時、「花園橋病院別館」だった建物は戦前から存在することになるので、こんどは「輸出絹織物検査場」について調べてみると、1930年(昭和5年)刊行の帝都復興史なる書物に、「生糸検査場の付帯施設として輸出絹織物検査場を大正5年に北仲通6丁目に建設したが震災で全壊。その後、大正15年に山下町に新たに建設。初めは県営だったが1927年(昭和2年)に商工省の管轄となり国営となる」とあります。

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また昭和5年度版「横浜商工名鑑」には山下町224番地に横浜輸出絹織物検査所の記載があることから、これらを総合すると写真を撮影した当時に「花園橋病院別館」だった建物は、1926年(大正15年)に神奈川県営の輸出絹織物検査場として建てられ、その後、1927年(昭和2年)に国営化されて商工省輸出絹織物検査場となり、昭和30年前後に建物が民間に払い下げられて花園橋病院に。

その後、1970年頃に花園橋病院は別館向かい側に建てられた新館に移転し、旧輸出絹織物検査場の建物は、どのような経緯かは不明ですが「片岡ビル」という賃貸ビルとなったものの、これらの写真を撮影した1980年頃には「片倉ビル」から花園橋病院別館となり病院の車庫兼倉庫として使われたものの、1981年~1982年に建物は取り壊され、現在、同地に建っているマンションの建設が始まり現在に至る、ということになるようです。

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*ビル正面の右端に、写真のような煙突があるちょっと不思議な建物でした。


*写真は三枚とも1981年撮影


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# by yokohama80s | 2012-09-30 00:02 | 山下町 | Comments(2)
2012年 09月 23日

山下埠頭

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*埠頭入り口にある移動式の大看板


山下埠頭は、山下公園の東側(海に向かって右手方向)にある1953年(昭和28年)着工、1963年(昭和38年)竣工の埠頭で、完成当時は東洋一の規模を誇っていました(当時はなんでもかんでも東洋一と言っていたような気がする)。

しかし横浜港の中でも比較的に新しい山下埠頭も、80年代に入ると船が停泊して荷役作業を行う埠頭としてよりも、埠頭内陸部の倉庫群が横浜港の物流センター的役割を担うようになり、そちらの方が岸壁よりも賑わっていたような印象があります。

なにせ平日にフラッと山下埠頭に潜入(?)しようものなら、港内を走り回るトラックやら海コン、フォークやらがものすごいスピードで縦横無尽に走り回っているし、上からはガントリークレーンに吊されたパレットが降りてくるし、とてもとてものんびり写真なんか撮っていられるような状況ではありませんでした。

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*80年代に倉庫のガントリークレーンが現役だったのはこの埠頭くらいでした


ということで山下埠頭へ潜入するのは、自ずと港内作業が休みになる土曜日の午後か日曜日ということになります。

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*山下公園側の1号岸壁・三井倉庫


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*3号岸壁・市営3号上屋


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*倉庫手前の線路が山下埠頭駅の貨物ヤード。現在、跡地には横浜航空貨物ターミナルが建っている。


*すべて1982年撮影。


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# by yokohama80s | 2012-09-23 00:03 | 山下埠頭 | Comments(0)
2012年 09月 16日

横浜税関西門

本土側から新港埠頭へ行くには、桜木町駅方向から、または馬車道から万国橋を渡るルートと、関内駅南口からみなと大通りを直進して海岸通りを横切って"クイーン"こと横浜税関庁舎横を通って新港橋を渡る、という二通りのルートがあります。

新港橋ルートで新港埠頭に行くときに、みなと大通りから海岸通りを横切り税関庁舎脇を抜ける時に、税関庁舎の道路を挟んだ反対側に「横浜税関西門監所」という交番のような建物がビルの一角にあり、その脇の道路にはみ出した所に、写真の「横浜税関西門」と書かれた銅板がはめ込まれた門柱があります・・・・・・というよりありました(税関庁舎側にも門柱があったかどうかは記憶が定かではありませんし)。

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*1982年撮影(写真右手の入り口に赤灯があるのが横浜税関西門監所)


しかしよくよく考えてみると、件の門柱は税関庁舎の東側に建っているのに「西門」とはこれ如何に? 

実は1859年に横浜開港を機に、現在、日本大通りから海岸通りを渡った先の広場になっているあたり、80年代には東西上屋があった区画を柿渋が塗られた黒い板塀で囲って、その中に税関の前身である運上所が設けられ、その板塀の西側、現在、海岸通りにある昭和ビルの裏あたりに西門が、また現在の開港広場交差点のジャパンエキスプレスビルと貿易会館の間あたりに東門が設けられたことに端を発しています。

その後、明治政府発足に伴い運上所が税関に移行し、初代庁舎が一旦、現在の県庁の辺りに建設されましたが「海から遠くて不便極まりない」ということで、当時の県庁庁舎が火事により焼失したことをきっかけに、税関庁舎を県庁に譲り、税関庁舎はかつて運上所のあった場所、日本大通りの突き当たりの真正面に移動しました。

そして運命の1923年(大正12年)。
関東大震災により二代目庁舎が完全に崩壊。

この時、税関庁舎再建よりも港湾施設再建が優先された為に、税関庁舎は万国橋を渡った右側の新港埠頭内にあった税関敷地に仮移転。

そして震災から11年後の1934年(昭和9年)にようやく現在地に"クイーン"と呼ばれるようになる庁舎が完成し、海岸通りも現在のように直線化された為に(震災前の海岸通りは現在の税関庁舎のあたりから海側に切れ込んで昭和ビルのあたりで再び現在のルートに戻っていた)、西門は税関裏に移動した、というのがこの門柱に関する歴史的背景のようです。

このことから震災前はレンガや石積みが、震災後はコンクリートが主要な建築材料だったことなどを考えると、この石積の門柱が建てられたのは必然的に1912年以前だろうということになります(←私が勝手に願望を言っているだけですのでお気になさらずに)。

これらのことから道路にはみ出して車線を塞いでいるにも関わらず、80年代にこの門柱が現存していたということは、昔の人はこの門柱の価値を充分に理解していた、と想像できます。

ところが現在、この門柱は撤去されてしまったようです。

確認の為に伝家の宝刀ストリートビューで確認してみても西門門柱は影も形も見当たりませんでした。

確かにあのような柱が道路側にはみ出して建っていたら車の通行の邪魔になるでしょうが、邪魔になると言ったら新港埠頭が港として活気に満ちていた80年代前半の方が遙かに邪魔になっていたはずですし、この頃には"近代遺産"などという言葉も感覚も無かった時代ですから、このような柱くらい壊そうと思えばいつでも壊せたはずです(実際、「邪魔臭い」という理由で、1979年頃に旅客ターミナルこと新港埠頭四号上屋を情け容赦なく取り壊して更地にして貨物置き場にしてしまった)。

それが写真のように80年代当時にも残されていたということに、当時の関係者の方々には「この門柱は残すんだ」という明確な意志があったのではないでしょうか???

少なくとも私にはそう思えます。

それにこの程度のモノを保存するのに、いったいどれだけの手間暇が掛かると言うのでしょう???

この門柱を保存することよりも撤去することを選択した人たちの、その感覚とセンスに私は首を傾げざるおえません・・・・・・という、済んでしまった話を蒸し返すのはここまでにして、「西門があるのなら東門はどこ?」と疑問に思うのは至極当然のことだと思います。


*追記
この税関西門の門柱は、下の方を切断して短くなった形で新港埠頭旅客ターミナル入り口門柱として再利用(?)されています(でもどこにもそのことが書かれていないのはなぜ???)



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# by yokohama80s | 2012-09-16 00:06 | 新港埠頭 | Comments(2)
2012年 09月 09日

本町ビル

以前、8月12日の「弁天町界隈」の記事で↓

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↑の写真の建物について、「旧宇徳ビルの並びにあった名称不肖のビル」と記しましたが、その後、グーグルストリートビューを眺めていたら(現在、北海道の片田舎在住なもので、現状確認はストリートビュー頼みなんです)、県立博物館の北側にあたる本町4丁目に写真↓と同じ建物が・・・・・・

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さらに地図上にはビルの名称までもが・・・・・・

ということで、本町ビルでググッてみますと、1929年(昭和4年)に帝国火災保険横浜支店として建てられたそうです。

さらに物置や押し入れをゴソゴソやったら、8/12にアップした写真とは別カットを発見。

ということで、早々に。

ただストリートビューと80年代当時の写真を見比べてみると、どうやら1階部分が改築され、例の通気塔や「ついてる」の暖簾がかかった入り口部分は

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撤去されてしまったようですが、アーチ状の通用口は現在も健在。

さらにアメリカンチックな非常階段も健在!

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*写真は全て1981年撮影


ストリートビューでかつての撮影地を眺めていると、ほとんどの建物が解体されガラス張りのピカピカなビルに建て替えられていたり、低層階の壁だけかつての姿を留めてはいるものの、その上は無機質な高層ビルになっている「キカイダー建築」だったりと、あまりの変わり具合に一抹の寂しさを感じていたのですが、本町ビルのように、「何気にそのまま」という姿を発見するとつい嬉しくなってしまいます。

ということで、こちらの記事の方も、新事実判明(?)にともない、新たに訂正いたしました。

追記
なにやら情報によると、この本町ビルは今年に入ってから解体されたのだそうです。
そこでストリートビューの撮影日を見ると、「2009年9月」でした。




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# by yokohama80s | 2012-09-09 00:04 | 関内地区 | Comments(0)
2012年 09月 02日

旧大宝堂時計店(今野アートサロン)

関内駅北口から馬車道を万国橋方向に歩くと、関内駅近くの三角形の徳永ビル以外には大した見物もなく、いかにも最近出来たという風情のお店が通りの両側に並んでいる中を進んで行くと、突然↓

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「いかにも」という風情満点の三階建てのビルが現れます。

このこぢんまりとした風情満点のビルは、旧大宝堂時計店こと当時は今野アートサロンという画廊のビルで、一階には店の中に黒い大金庫がある喫茶店。

二階がM&R探偵社・・・・・???

ではなくて、これはたまたま通りかかった時に、当時、民放某局で放映中だったTVドラマのロケ現場に出くわした時のモノ。

ちょっとミーハーして窓に群れている女の子たちの頭越しに覗いてみると↓

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リーゼントと鼻ヒゲがトレードマークのダンディーなフジタツさんが・・・・・・

というネタはこのあたりにして、この旧大宝時計店の建物は1928年(昭和3年)に竣工した建物で、撮影当時は一階には喫茶店(店名不明)、二階が今野アートサロンという画廊、三階が個人住宅になっていました。

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*右手奥に見えるのが旧・日本火災横浜ビル


現在は関内駅から北東に伸びる馬車道通りがメインストリートになっていますが、この建物の建設当時は京浜東北線こと当時の京浜電車は桜木町が終点だった為に、桜木町から日本大通り、山下町方向へ南東(日本大通りから北西)に延びる道がメインストリートで、特に弁天通りには海外からの観光客目当ての小洒落た店が建ち並び、聞いた話では今で言う表参道(?)のような華やかさだったそうです。

しかし80年代には、日本火災横浜ビルと県立博物館以外には、壁が剥がれ墜ちたボロボロのビルが数えるほどしか現存せず、往時の華やかさを偲ばせる建物はこの建物しかありませんでした。

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ストリートビューでこの建物があった太田町3丁目を見ると、なにやら現代風のデザイナーズビル(?)に建て替えられてしまっているようですが、個人的には、こういう建物こそ保存すべきだと思うのですが・・・・・・

*写真はすべて1981年撮影


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# by yokohama80s | 2012-09-02 00:05 | 関内地区 | Comments(0)
2012年 08月 26日

山下町 下町あたり

「山下町」と言った時に、多くの人がイメージするのは山下公園だと思いますが、実は意外に広い町で、西を走る大桟橋通りと首都高、南は元町との境の堀川に囲まれた一帯になります。

実はこのあたりが、開港当時の外国人居留地にあたり、今で言うと本町通りあたりを境に海側を上町と言って西洋人が多く居住し商社、商店が軒を並べ、中華街側は下町と言って主に清国人が多く住んでいて後に中華街が形成されました。

そして終戦後から1960年(昭和35年)まで、上町あたりが米軍に接収され、接収解除後の再整備が遅れたこおかげで、このあたり一帯には震災後に再建された海外商社のビルや倉庫が80年代頃には数多く残っていました。

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*1981年(山下町215近辺の中華料理屋の裏)


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*1981年(山下町212近辺の倉庫の壁に残されていた米軍接収時代の名残)


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*1982年(山下町95・旧外国人商社でこの時には某有名中華料理屋さんのお菓子工場だったかと・・・・・・)


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*1981年(山下町211・中華料理店の駐車場に建っていた廃屋)


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*1981年(山下町25近辺のタクシー会社の壁に干されていた料金収納袋)


山下町にあった、互楽荘アパート、同潤会アパートなどの集合住宅や、警友病院、シェル石油ビル、デスコビル、ストロングビルなどの戦前の海外商社ビルのすべてが今は無く、高層マンションなどに建て替えられてしまいました。


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# by yokohama80s | 2012-08-26 00:07 | 山下町 | Comments(0)
2012年 08月 19日

モーリス商会

80年代当時、ワシン坂の下、小港町2丁目のカドに、モーリス商会というどこにでもあるようなごくごく普通の自動車修理工場がありました。

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*1982年撮影


ところがフツーじゃないのが、ガレージに駐められている車。

その一台がスカイブルーとアイボリーのツートンカラーで、テールにフィンがピンと立ったアメリカングラフティーしている車。

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*1982年撮影


今ならググれば一発で車名が判明するのですが、当時はそんなモノがあるはずもなく、あれやこれやと手を尽くしして調べた結果、1958年型のフォードフェアレーン500コンバーチブルと判明。

撮影から30年も経っていれば、あの当時ですでに車齢24年なので今は廃車になっているものと思っていましたが、ある日、暇つぶしにグーグルストリートビューで小港町を見ていたら店名がちょっと変わったものの、当時の場所に、当時の店構えのままで、当時のようにこの車がガレージに駐められていたのにはビックリしました。

今年で撮影から30年、ということは車齢54年。

ググってみると、「小港町の一桁ナンバーの云々」とけっこう有名な存在のようです。

でもう一枚。
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*1982年撮影


こちらはフェアレーンの隣に何気に駐めてあった、いかにも米軍払い下げ臭プンプンのドブネズミ色のダッジのレッカー車。

普通、「このての車が修理工場に置かれている」と聞いたら、アメリカンポップ調に派手派手しく彩られたガラス張りの小綺麗なショールームを連想しますが、フェアレーンの下にはオイルの受け皿やらバケツが乱雑に置かれているし、ダッジの隣になぜか冷蔵庫とかつて一世を風靡した流れるフラッシャー付きのセミドロップハンドルのチャリ。

「いかにも」という感じではなく、このようにごくフツーに「何気にすごいモノが置いてある」というのが、本当の「粋」ってヤツだと私は思います。     
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*1984年撮影(こちらは元町から山手トンネルを抜けた所にある自動車屋さん。売りに出ている車がメチャクチャマニアック)




*2013/01/04 写真1枚追加。
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# by yokohama80s | 2012-08-19 00:06 | 本牧・小港・新山下 | Comments(4)
2012年 08月 12日

弁天通界隈

*1981年本町5丁目・本町ビルの県立博物館側にて撮影


馬車道通り北側の本町、南仲通、弁天通の5~6丁目、県立博物館周辺には、昭和初期頃に建てられたオフィスビルが林立していました。

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一枚目の写真は、本町5丁目に現存する1929年(昭和4年)竣工の1階部分が石積風で、2階以上が赤タイルによるレンガ作り風の旧帝国火災保険横浜支店こと本町ビルの裏。

なぜかビルに、昔の船によく見られた通気筒があって、そこからテレビのアンテナケーブルが......。

だれか地下に住んでいたのでしょうか?

さらに影しか写っていませんが、画面のちょうど左上には、ハリウッド映画に出てくるアパートなどでよく見かける跳ね上げ式の非常階段が(普段は二階部分と平行になっていて階段に人が乗るとズッズッズッとゆっくり下がって地上に繋がる仕組み)。

今は1階部分が改装されてこの通気塔は無くなっているようですが、なんかヨコハマっぽいと思える光景です。
   
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*1982年弁天通5丁目旧・日本火災横浜ビル


上の写真は弁天通5丁目にあった、1922年(大正11年)に川崎銀行横浜支店として建てられた旧・日本火災横浜ビルこと現・日本興亜馬車道ビル本棟の通用口。


そしてこの通用口の右手にあったのが↓
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*1982年弁天通5丁目旧・日本火災横浜ビル倉庫棟


の古めかしい倉庫。

このビルのように震災後から戦前に作られたオフィスビルには、事務所棟の隣に必ず倉庫棟が併設されています。

現在でも、日本大通りの三井物産ビルにその面影を見ることができますが、当時、このあたりに事務所を構えていた会社は、今で言うと流通センターの役割を担っており、注文が入るとこれらの倉庫から品物が日本を含めた世界中に発送していたそうです。

現在、このビルは、外壁二面のみを建設当時の姿で残した形で、近代的なビルに建て替えられてしまい、まるで体の半分はサイボーグ、半分は人間のキカイダーのような奇っ怪な姿になってしまっています。

最後にオマケで、これは弁天通ではありませんが、馬車道通の延長線上ということで↓
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*1981年撮影


関内駅北口を出て、馬車道方向に歩いたすぐの中区港町4丁目にあった1930年(昭和5年)築の旧徳永ビル。

中区史では、ビルの所在地を「真砂町4丁目」となっていますが、この薄っぺらなビルがある一角は正確には「港町4丁目」になります。

ということはともかく、ストリートビューで現在の姿を見てみると、このビルは薄っぺらさはそのままで、10階建ての今時のビルに建て替えられています。

*2012/09/03 一枚目の写真が本町ビルの裏と判明したので、そのように記事を修正しました。


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# by yokohama80s | 2012-08-12 00:05 | 関内地区 | Comments(0)
2012年 08月 05日

横浜港駅 荷物用ホーム

旧国鉄・東海道貨物支線こと横浜臨港線の横浜港駅にはプラットホームが二カ所あり、ひとつは言わずと知れた、現在、海保の海上防災基地となっている旧四号上屋のちょうど真ん中あたりまで140mほどあった1928年竣工の旅客用プラットホーム。

現存しているのは海上防災基地の敷地からはみ出した東京寄りの40mほどが、屋根を塩ビに張り替えて「横浜港駅プラットホーム」として保存されています。
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*2012年撮影


そしてもうひとつが、旅客用ホームの約100mちょっと手前(南)のレンガ倉庫の前、現在の駐車場あたりにあった写真の荷物用プラットホームこと小口貨物積卸場です。
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*1984年撮影


このホームも四号上屋や、旅客用プラットホームとほぼ同時期に作られたものと思われますが、撮影当時には、すでに横浜港駅は信号所に格下げされ、旅客用、荷物用ともに屋根付きだったプラットホームは雨を避けられるちょうど良い荷物置き場となっていて、ホームの上と言わず、その周辺には海コンやらホネやら、はたまたザーサイが入った樽↓とか、
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*1982年撮影(さすが中国クオリティー、タガが外れて壊れる寸前のタルばかり)


大きな木箱に梱包された建設機械や、その部品などが乱雑に置かれていて、写真のようにホーム全景を障害物無しに見渡せることができませんでした。
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*1984年撮影


上の写真を撮影した時は、ちょうどお盆休み中だったこともあり、この時だけはまわりがキレイに片付けられていて、運良くこれらのカットが撮影できたと言う次第です。
  

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# by yokohama80s | 2012-08-05 00:02 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 29日

横浜港駅 計重台

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*1981年撮影


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*1983年撮影


横浜港の各岸壁を結んでいる旧国鉄の貨物線は、正式名称はただの東海道本線貨物支線で、高島から桜木町駅の下にあった東横浜を経由して新港埠頭の横浜港駅までを通称・横浜臨港線、さらにその先の山下埠頭までを山下臨港線と呼ぶんだそうです。

私はズボラな性格なもので、どれもこれもただたんに「貨物線」と呼んでいました。

それはそれとして上の写真は、十一号上屋の手前にあった鉄道用の計量台。

今でいうとJICAのあたりでしょうか。

要は大きな秤のことで、荷物を積み込む前にここで一両一両貨車の重さを量り、荷物を積み込んだら再び重さを量って、その重量差で荷主に料金を請求するのに使用していたようです。

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*1983年撮影




*2012/09/01 計量小屋の写真を追加しました。
*2012/09/15 計量小屋内の秤の写真を追加しました。
 

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# by yokohama80s | 2012-07-29 00:05 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 22日

新港埠頭 石畳

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*1983年撮影(五号上屋南側=万国橋側)


1916年(大正5年)に竣工した当時の新港埠頭内の道路は、万国橋や新港橋方面から二つの突堤の真ん中を通っているような幅員18~21mの幹線道路は24cm×9cmの花崗岩ブロックによる舗石道こと俗に言う所のピンコロ舗装による石畳。

左右の岸壁を東西に結ぶ幅員14~18mの幹線道路は砕石道(現代の感覚で言うと砂利道)、それ以下の幅員の道路は砂利道(現代の感覚で言うと庭園などの遊歩道に見られるような小砂利を敷き固めたモノ)で作られ、上屋脇まで引き込まれていた鉄道線路も路面電車の軌道のように石のブロックで覆い、上屋の周りは45~60cm角の花崗岩パネルが敷き詰められていて、関東大震災後の災害復旧の時も基本的に震災前に道路に敷かれていた石材を再利用し、不足した分を新しく調達したそうです。

しかし80年代の撮影当時には、ピンコロ舗装がされていた幹線道路は、石畳の上からアスファルトで舗装し、路面が痛んでアスファルトが剥がれた部分からピンコロ舗道の路盤が顔を覗かせ(この区間を車で走ると、どんなに徐行して走ってもあまりの振動の酷さで建て付けが悪かったルームランプカバーが必ず落下したものですw)↓。

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*1981年撮影(10号上屋前の中央道路脇にて)


岸壁上屋の周りや歩道は一番上の写真のような丸石やブロック状の板石敷きが残っていて

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*1982年撮影(赤レンガ二号倉庫前にて)


往時を偲ばせていました。

ということで、これらの写真をご覧になればおわかりのように、現在、赤レンガ倉庫のあたりなどに敷かれている石畳のうち、段差が無いキレイなモノはみなとみらい再開発時に新たに敷かれたモノですのでご注意アレ(2号倉庫の中央あたりのモノが昔からある石畳です)。



*2012/09/01 写真を追加しました。
*2013/01/08 一枚目の写真を6号上屋としていましたが、5号上屋と判明しましたので訂正しました。

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# by yokohama80s | 2012-07-22 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 15日

PL125 巡視船かとり

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*1987年撮影


この巡視船は、新港埠頭の四号岸壁突端にあった海保専用桟橋ではなく、なぜか九号岸壁の突端にある桟橋に係留されていました。

写真に写っている「PL125」という艦船番号から調べてみたところ、銚子保安部所属の"巡視船かとり"と判明。

クラシカルな舳先の波よけから、「相当、古い船だろう」と思っていましたが1980年建造で今だ現役。

さらにマニアの方のサイトを覗いてみましたら、この船は今でもよく横浜にやってきているようです。

この時も、なにかの用事か任務で横浜にやって来て、「ヨソ者だから」ということで専用岸壁ではなくてここに係船させられたのでしょう......なんてことはなく、ただたんに専用岸壁が一杯だったからこちらに係船したのだと思います。   


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# by yokohama80s | 2012-07-15 00:09 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 08日

新港埠頭 米海軍冷蔵施設

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*1983年撮影(左が新港倉庫、真ん中の四棟続きの建物には"NAVY COLD STORAGE FACILITY YOKOHAMA"のエンブレムがある)


現在で言うと新港1丁目4番地、80年代当時で言うと横浜港駅のヤードの北側にあった新港倉庫、三井倉庫、横浜冷蔵庫と、六号岸壁と七号岸壁の突堤を結んでいた道路を挟んで七号岸壁が、終戦後から1994年(平成6年)に返還されるまでの間、冷蔵施設として米海軍に接収されていました。

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*1981年撮影(新港倉庫への引き込み線)


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*1982年撮影(新港倉庫)


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*1987年撮影(七号岸壁/七号上屋は1942年に起きたドイツ軍艦爆発事故により倒壊した)


この一帯の冷蔵倉庫は、接収直後から冷凍船で横浜港へ大量に運び込まれた食料品を、冷蔵貨車に積んで全国の米軍基地に配送するまでの一時貯蔵所としての役割を担っていました。

その後、国内に進駐していた米軍基地は減少し、80年代当時は主に米軍艦船向けの冷凍食品などの保管に使用されていたようです。

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*1982年撮影(左端が横浜冷蔵倉庫、右が三井倉庫、真ん中は二つの倉庫を繋ぐ渡り廊下兼入り口棟)


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*1983年撮影(入り口に掲げてあった看板)


余談ではありますが80年代当時、「あの倉庫では米軍向けのアイスクリームが作られている」という話がまことしやかに囁かれていましたが、アイスクリームを作っていたのは東神奈川、というより京急・神奈川新町駅と旧国鉄(現・JR)の線路の間の神奈川区亀住町に2000年まで操業していたミルクプラント(現・保育園)。

他にも1977年(昭和50年)まで、横浜駅東口北側の旧神奈川駅があったあたり、今で言うとコーヒー会社のビルがあるあたりに米軍のパン工場がありました。

ということで話を元に戻しますと80年代頃は、これらの冷蔵施設への品物などの搬入搬出を行っている様子もなく、接収区域で一番大きな新港倉庫もご覧のように廃墟になっているし、七号岸壁も冷蔵施設が稼働している様子もなく、横浜冷蔵倉庫と三井倉庫の建物の中でコンプレッサーが稼働している音がするだけでした。


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# by yokohama80s | 2012-07-08 00:03 | 新港埠頭 | Comments(4)
2012年 07月 01日

第五消防署

横浜根岸住宅地区こと通称・根岸ベース、はたまた根岸キャンプ、英語では......忘れました(正解はエリアX)。

まあそれはそれとして、旧根岸競馬場跡地の根岸森林公園の外周を右回りにテクテテク歩くと、根岸旭台交差点のあたりで道路右手に消防署があります。

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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1984年撮影


*1984年撮影


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*1984年撮影


建物には「FIRE STATION No.5(第五消防署)」の文字と、ガレージには古めかしいいかにもアメリカンな消防車が↓

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*1984年撮影


聞いた話では、この消防署はあくまでもアメリカ海軍の消防署で、米軍根岸キャンプの400戸余りの米軍住宅の消防を担っていて、例え消防署近くの日本人の家が火事になって119番しても、ここの消防車は出動しない建前になっているのだそうです。

でも火事を見たら消したくなるのが世界共通の火消しの性分でしょうから、目の前で家が燃えていたら要請がなくてもここの消防車も駆けつけるとは思いますが、2002年にこの消防署が電気配線のショートから火事を出して、近隣から駆けつけた横浜市消防局の消防車15台でようやく消し止めた、という何かのブラックジョークかと思うような出来事がありました。

なにやら火事により電源が落ちて、消防車が入っていたガレージのシャッターが開けられなかったんだそうです。

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*1984年撮影


上の写真は新港埠頭米軍接収区域にあった、「あなたの火災予防の最高の武器はなんですか?」と書かれた米海軍版火の用心の看板。

"武器"と言うあたりが、いかにも軍隊らしいのですが、第五消防署の最高の武器は「119番」......なんてね(元々、この消防署は米軍住宅地区での初期消火を担っているだけで、イザ火事が発生したら頼まれなくても横浜市消防局が助っ人に馳せ参じる手はずになっている) 
  

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# by yokohama80s | 2012-07-01 00:04 | 根岸、金沢地区 | Comments(0)
2012年 06月 24日

北方消防出張所

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*1982年撮影


現在、本牧十二天にある北方消防出張所は、この写真の撮影当時は本牧通りの山手警察署交差点から60mほど本牧PXに入った所にありました。

この時、すでに米軍横浜住宅地区こと本牧ベースの再開発により、それまで周りにあった米軍住宅そのほかの施設はすべて跡形もなく取り壊されて、ガレキの中に昭和初期に建てられた消防署とその後ろの火の見櫓だけがポツンと残されている光景は一種異様な雰囲気でした。   

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*1982年撮影(消防署建物の左手、山手警察署交差点側はこんな↑状態)


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ちなみのこれらの写真を撮影後まもなく、北方消防出張所は本牧十二天の現在地に移転しました。


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# by yokohama80s | 2012-06-24 00:07 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2012年 06月 17日

本牧PX

横浜市のサイトにある資料を見ると、本牧ベースが返還されたのは1982年(昭和57年3月31日)となっていますが、この写真を撮影したのはその前年の1981年(昭和56年)の10月。

私の記憶が確かなら、新聞で「本牧ベースが日本に返還された」と読んで、「これは忍び込めるチャンス」とばかりにイソイソと出かけたのを憶えています。

いざ現地に行ってみると、日本とアメリカを隔てていて「フェンスの向こうのアメリカ」と言われる所以となった本牧通り沿いのフェンスがキレイさっぱり撤去されていて「よっしゃ!」とばかりにPX敷地内に潜入。
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1時間ほどグルーッと一回りしてコミサリー↓

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*写真はすべて1981年撮影


のベンチで一休みしていたら、屋根にブルーのパトランプを載せたドブネズミ色(←色に関しては確信がありません)のセダンがやって来て目の前で停車。

中から降りてきた日本人の警備員にバン掛けられました。

曰く、「日本への返還が決まってフェンスを撤去したが、ここはまだ米軍の管理下にある。よってここは撮影禁止だから撮影したフィルムを出せ」と。

「いやいや休んでいただけで、まだ写真は撮ってない」の押し問答を繰り広げる、というお約束のパターン(笑

まあのらりくらりと言い逃れをしていつものように適当に逃げてきましたが、この頃は、肩からカメラを下げてノースピア(最近はノースドックと言うらしいが瑞穂埠頭のこと)手前の瑞穂橋の白線を一歩でも超えようものなら、どこからとも無くあらわれた警備員に「フィルムを出せ」と言われたモノです。

それでもノラリクラリと言い逃れが出来たのですから、ある意味良い時代でした。

でフト思ったのですが、今、瑞穂橋あたりで写真を撮ったら、「メモリーを出せ!」と言われるのでしょうか?

今度、試してみよっと(ウソです)。

本牧PX・その2もご覧下さい。
    


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# by yokohama80s | 2012-06-17 00:05 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2012年 06月 10日

本牧PX ガソリンスタンド

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*撮影:1981年


かつて本牧PX入り口にあったガソリンスタンドの、「あんた死ぬよ!」と書かれた看板。

なんかそこはかとなくアメリカンなイラスト。  


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# by yokohama80s | 2012-06-10 00:02 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)