週刊 横濱80’s

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2014年 12月 28日

相生町2丁目 レストラン・ローマステーション

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上の写真は、関内桜通りをJR関内駅(撮影当時は国鉄)から本町通り方向に向かって、ちょうど住吉町2丁目と相生町2丁目の境界になる通りのカドにあったタバコ屋さん。

ちょっと分かりにくいのですが、通り沿いに"くらぶ高峰"、"スナック チャート"、"三協興行"、"天ぷら ふく三"とあって、その奥の"そば処 川越"との間の路上に"イタリアンレストラン ローマステーション"の看板が見えます。

地図を見るとちょうどこのあたりは相生町2丁目52番地。
このあたりの食べ処事情に詳しい人の中には、「ローマステーションって山下町でしょ?」とお思いになられた方もおいでになると思いますが、この写真を撮影した81年頃にはローマステーションという看板を出したレストランが山下町と石川町、そして相生町の3カ所にありました。

なにやら聞いた話では、山下町のローマステーションが本家本元家元の総本山で、他の2軒は支店ではなく本家からのれん分けという形で独立したお店なんだとか(更科そばみたいなモノ?)。

「ふ~ん、そうなんだ」といった感じでこれ以上、この話は広がらないのでここまでにして、なにやら巷には「日本のイタメシ屋発祥の地は横浜だ」と主張する方もおいでになられるのだそうな。

この件に関して私は門外漢ですが、ただひとつ確かなことは1950年代から60年代にかけて横浜で相次いで開店したイタメシ屋さんは、現在、麻布、青山、六本木あたりにあるようなイタリア人が始めたとか、はたまたイタリアで修行したシェフが開いたイタリア直輸入のイタリア料理ではなく、イタリア移民と共に大西洋を渡って、アメリカ大陸を東海岸から西海岸へCoast to Coastして、さらに進駐軍によって太平洋を渡ってようやく横浜にたどり着いたという、いわゆる進駐軍由来の本家イタリア料理とは似て異なるアメリカ風イタリア料理をさらに日本風にアレンジしたモノ。

例えてみれば、同じ寿司でも日本の寿司とヨーロッパやアメリカの寿司はまったく別モノというのと同じパターンで、一言で言ってしまえばイタリア風洋食、はたまた横浜風イタリア料理とでも言った方が正解なのかもしれません。

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*イタリアンハンバーグ、イタリアンサラダって……


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*暖簾の代わりに船の部品を……???


とにもかくにも80年代くらいまでは、関内界隈にはこのての店がそこかしこにあったと記憶していますし、最盛期には、いったいこの近辺に何軒存在していたのか今となっては知るよしもありませんが、現在のように本場イタリア直輸入の店が全盛の時代に、横浜古来のイタリア風洋食の店がイタリア料理というカテゴリーで営業していくのはさすがに厳しいだろうことは想像に難しく無く、関内山下町界隈では山下町のローマステーションだけとなってしまったようです。

ということで、参考までに手元にある昭和57年版(1982年)交通公社のポケットガイド44・横浜から、山下町の方のローマステーションの記述を丸写ししてみます。

以下原文まま
ローマステーション
イタリア料理の店。シルクセンターとホテルニューグランドの中間にある。店頭に置かれたイカリとビア樽が目印。地中海鍋と称するイタリア風ごった煮がうまい。これはトマトをベースにカニ・エビ・タコ・イカ・ハマグリ・アワビなどを煮込んだもの。ほかにステーキ。骨付煮込みのスペアリブもなかなかいける味である。


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*ローマ時代のモザイク画をイメージしたのでしょうか?


*写真はすべて1981年撮影。





*年が明けて来年、20015年1月のUP予定
1月 4日:関内地区の戦前建築 その1(港町~南仲通まで)
1月11日:関内地区の戦前建築 その2(本町~北仲通まで)
1月18日:新港埠頭の公衆トイレ
1月25日:新港倉庫B号倉庫

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by yokohama80s | 2014-12-28 00:04 | 関内地区 | Comments(0)
2014年 12月 21日

海岸通り界隈

旧生糸検査場の建物を左手に見ながら万国橋通りを進み、海岸通四丁目交差点を右に折れるとそこからは海岸通りになります。

確か撮影当時の80年代初め頃には、交差点角の相模ビル1Fにルノアールがあったような記憶が……。

まあそのあたりは置いておくとして、取りあえず海岸通りを山下公園方向に進むと海岸通3丁目の左側には郵船ビルがあり↓

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*1981年撮影(1936年/昭和11年築の日本郵船横浜ビル)


その向かいには2階建てながらモダンな雰囲気のエヴェレットスチームシップ横浜支店があり、その隣りにレストラン・ニューピータースグリルが入ったビルがあり、さらにその隣にはナゾの紋章が埋め込まれた昭和初期に建てられた武山ビルがあり↓。

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*1981年撮影(昭和初期に建てられた武山ビル)


で郵船ビルの隣りが、1950年(昭和25年)に建てられた横浜ビルで、その奥の運河側に現在はバンクアートとかなんだかという意味不明の名称が付けられた旧川西倉庫があり↓

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*1982年撮影(右に写っているのが三菱倉庫横浜支店海岸通営業所倉庫)


その隣りの現在、県警本部がある場所には三菱倉庫横浜支店と三菱倉庫横浜支店海岸通営業所倉庫があり

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*1981年撮影(1929年/昭和4年に建てられた三菱倉庫横浜支店海岸通営業所倉庫を海岸通り側から)


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*1981年撮影(1934年/昭和9年に↑の隣りに建てられた三菱倉庫横浜支店)


そして海岸通りを挟んで三菱倉庫の向かい側にあったのが海事ビル↓

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*1981年撮影(昭和初期に建てられた海事ビルの元浜町側入口)


で三菱倉庫の隣りにあったというか、今もあるのが、建設時に当時の税関長が「国の建物が県庁より低いとは何事か!」と一喝してあの特徴的な塔屋部分が追加されたという伝説(?)がある1934年(昭和9年)に建てられた横浜税関本関庁舎があり↓

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*1982年撮影(西門玄関の柱頭部分)


そして税関庁舎の西門玄関(今で言うと「カスタム君」人形が置いてある資料展示室入口)の脇にあったのが税関西門

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*1982年撮影(この門柱は高さが低くなって新港埠頭旅客ターミナル入口門柱として移築されたようです)


さらに海岸通りを進むと海岸通1丁目の2棟連なったスクラッチタイルが特徴的な3階建ての建物が、通関事務代行業者が入居する建物として建てられたカストムブローカービルディング(カストムブローカー=カスタムブローカー=通関事務代行者)。

あれやこれやの情報を総合すると、どうやら2棟のうち正面向かって左側の昭和ビル(この建物は中央を境に所有者が違うようで正面左側が並木ビル、右が昭和ビルなんだそうな←建物の裏側に行くと左右で色が違っている)が1929年(昭和4年)築で、右側のキッコーマン横浜支社ビルが1931年(昭和6年)の築で、外観上は2棟の独立した建物に見えますが、実際には1階部分で繋がっていました。

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*1981年撮影(現・昭和ビル左側……撮影当時の住宅地図によると藤本ビル、グーグルマップでは並木ビル側の入口)


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*1981年撮影(同じく階段)


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*1982年撮影(昭和ビルのウラ側)


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*1982年撮影(キッコーマン横浜支社ビルのウラ側)


そしてカストムブローカービルディングの先に、東西上屋倉庫の開かずの門……というか塀があり、その先に1929年(昭和4年)に大倉商事横浜出張所(大倉商事の大倉とは大倉財閥のことで、ホテルオークラのオークラでもある←ヘンな説明ですが)として建てられた現・海洋会館ビルがあり↓、

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*1982年撮影(手前が横浜海洋会館で奥が貿易会館)


そのさらに隣りに海洋会館と同時期に同じ建築家により設計され、同じ会社の施工により建てられた大桟橋方向に折れ曲がったL字型の横浜貿易会館ビルがあります。

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*1981年撮影(当時、増築部分側にあったビル入口)


現在、海洋会館と双子ビルを形成している貿易協会ビルは最初にエキスプレスビル側と言うか、旧税関東門(戦前は貿易会館とエキスプレスビルのあいだというか、貿易会館の裏手に税関東門があった)側というか、大桟橋側のL字型のカド部分が1929年(昭和4年)に建てられ、1937年(昭和12年)に旧大倉商事横浜出張所ビルこと海洋会館ビル側が増築され、ここにめでたく(?)二組目の双子ビル……というよりも、海岸通り沿いにスクラッチタイルの四つ子ビルが連なることになり、この界隈に一種独特の雰囲気を醸し出す景観が形成されることになりました。

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*1981年撮影(レストラン・杉の木。確かスカンディアの下にあったような気がするんですが……?)


しかしカストムブローカービルディングの双子ビルの右側のキッコーマン横浜支社ビルは2000年(平成12年)に、そしてその裏にあった旧日本海軍霞ヶ浦飛行隊の格納庫を移築した東西上屋倉庫も2008年(平成20年)に取り壊され翌2009年(Y150が開催された年)に象の鼻パークが跡地に作られました。

これにより海岸通りに並んだ四つ子ビルが象の鼻パークの広場によって分断され、昭和ビル一棟だけがポツンと取り残されている景観は、横浜市による「歴史を生かしたまちづくり」の形骸化を象徴しているように私には思えて仕方がありません(「歴史を生かしたまちづくり要綱」が制定されたのは1988年)。

ということで気を取り直して話を元に戻すと、横浜貿易協会ビルと税関東門、当時は東西上屋倉庫の門に入る道を挟んで隣りにあるのが↓

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*1981年撮影


1930年(昭和5年)に建てられたエキスプレスビル(ちなみに"みなと寿司"はこのビルの地階にあったそうです)

そして臨港線の高架をくぐって大桟橋に向かうと、旧マリン商会の建物2棟(現HAMA CAFEと設計事務所)と、旧ジャパンエキスプレスコンピューターセンターなどの昭和初期に建てられた木造モルタルの小さいながらも雰囲気満点の建物が現在も残っています。

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*1982年撮影(西波止場側のこの建物だけが取り壊されました)


ちなみに↑の写真に写っている建物と、その左のアンテナ塔のある建物は航空写真を確認すると、どうやら戦後1950年頃に建てられた物のようです。

ということで、1983年に日本建築学会が日本各地に存在する明治大正昭和初期の建築物をリスト形式にして出版した「日本近代建築総覧」という本には、海岸通にあった建築物が17軒記載されていますが、このうち2014年現在も現存している建物は7軒。

この本のリストに含まれていない大桟橋入口付近の、現ブルーブルーヨコハマ、自転車店、設計事務所、ハマカフェなどを含めると実際には22棟中11棟(すでに取り壊された西波止場上屋や水上署その他は含まれていません)が現存していて、そのすべてが海岸通りから開港広場前交差点~大桟橋の海側の海岸通り1丁目1番地に存在し、現在でも戦前から高度経済成長期にかけて横浜港が活況を呈していた頃(あいだに大戦が挟まりますが)を偲ばせる横浜で唯一の場所となっています。



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by yokohama80s | 2014-12-21 00:06 | 大桟橋・海岸通 | Comments(0)
2014年 12月 14日

万国橋

桜木町駅から弁天橋を渡り、ハマ銀本店のバルコニーが見印の本町四丁目の交差点を左折して、生糸検査場の建物を左に見ながらさらに進んで万国橋通りと海岸通りとの分岐点にあたる海岸通四丁目交差点を突っ切り、ビジネス街には不似合いな高度経済成長期のデフォルトだった鉄筋四階建ての建物が並ぶ公団の海岸通団地を左手に見ながらさらに進むと人工島である新港埠頭に渡る万国橋があります。

まあこれは80年代当時の話で、今だとみなとみらい線の馬車道駅を降りてちょっと歩けばすぐの場所ですがね(笑)
それはともかく、この万国橋は現在のモノが1940年(昭和15年)に架け替えられた二代目。

初代は1915年(大正4年)に大蔵省が刊行した「横浜税関新港設備概要」によると1904年(明治37年)3月竣工の↓

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大正4年・横浜税関新港設備概要より


橋の中央部分に、ガス灯か電灯かは定かではありませんが、下を流れる運河を通行する船が橋に衝突するのを防止するために橋をライトアップする為に、橋の上にやぐらを組んでそこからぶら下げられた照明が特徴的なトラス橋。

でこの初代の橋梁そのものは関東大震災による深刻な被害は受けなかったようなのですが(護岸部分はグズグズに崩れてしまったようです)、本土側の万国橋通りと新港埠頭内の道路が震災復興に伴い道路幅が拡幅されることになり、道幅が狭い橋がボトルネック化することから当時の大蔵省は、橋の架け替えを画策したようですが予算不足により敢えなく頓挫。

ようやく予算が付いて二代目の橋梁が完成したのが、前述したように震災復興橋と言うには微妙な1940年(昭和15年)。
個人的には初代万国橋の姿をこの目で見てみたかったのですが……

それはそれとして、件の万国橋の手前……というか、たもとにあったのが1928年(昭和3年)に当時の関東運輸の社屋として建てられた万国橋ビル(戦前は本社ビルとか支社ビルと言っても、一社が占有使用するケースはまれで、大抵の場合は初めから空き部屋を賃貸する前提で建てられるのがフツーでした)。

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*1981年撮影


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*1981年撮影


当初は、「保存活用の協議を行う」とされていたものの、なにひとつ説明が無いままにアレよアレよという間に2012年に取り壊されてしまいました。

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*1981年撮影(海岸通団地側)


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*1981年撮影(海岸通団地側)


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*1981年撮影(運河側)


ということで、橋の右側を見ると↓

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*1987年撮影


運河の中に建てられた当時の職安ビルがあり、手前にははしけ溜まり↓

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*1982年撮影


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*1982年撮影


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*1982年撮影


がありました。

で右側の歩道を歩いて橋を渡った先に見えたのが↓

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*1982年撮影


写真のレンガ積みの建物。

80年代後半から90年代にかけての建築探偵ブームに伴って出版されたムック本の中に、このレンガ物置を「明治時代に造られた石炭庫で歴史的に貴重な建物」としていたモノがありましたが、当時のこの手の本は玉石混淆。

レンガ建築ならなんでもかんでも明治時代に造られた、と決めつけているヤツがたくさんありましたから真偽のほどは確かではありません……というか、震災後に現在の場所に新庁舎が再建されるまでのあいだ、万国橋を渡った右手に税関仮庁舎が置かれた時に作られたモノだと思われます……が昔の税関設備図を見ると二代目万国橋架設中にちょうどこのあたりに仮橋があったようなのでこの説もビミョーな感じで……???

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*1982年撮影


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*1982年撮影(左が旅具検査場で右が税関の新港埠頭庁舎)


*写真はすべて1981~82年に撮影。



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by yokohama80s | 2014-12-14 00:05 | 大桟橋・海岸通 | Comments(5)
2014年 12月 07日

北仲通 芝居町

今日のタイトルを見て、「北仲通に芝居町なんかあったっけ?」とお思いになられたあなた、正解です。
正直な話、この記事を書くまでは私もその一人でした。

ちなみにこの通りは北仲通4丁目と元浜町4丁目の境にある細い道↓。

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①芝居町から旧生糸検査場を見るの図


ちなみに写真左奥の万国橋通り沿いに建つ白いビルが、1952年(昭和27年)に建てられた戦災復興建築こと防火帯建築群の萬国貿易ビルと、右側が同じ頃に同じくく防火帯建築の撮影時は島津ビル、現在の関内小俣ビル。
さらにちなみに航空写真によると島津ビルの上の写真の通り側は、1960年頃に増築された物のようです。

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②①の反対方向を見るの図(手前が大宗マリンビル別館、奥が第三若尾ビル)


横浜市史稿ではこの通りのことを、「北仲通四丁目横通り」としていますが、現在もそのような呼び方をするのかは定かではありませんが、先週の記事と同じようにこの通りも古地図を眺めているときに発見したもの↓。

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1933年刊・横浜市史稿附図 1864年(元治1年)横浜明細全図より


「さてここで少し解説しよう」ではないですがデジタルライブラリーで横浜市史稿に書かれていることをザックリ書き出してみると、このあたりが開港場の日本人居住区として開設されてから三年目の1961年(文久元年)。
下田屋文吉という高島嘉右衛門の奥方の実家筋にあたり維新の頃まで神奈川台町で旅籠を営んでいた人物が、小寶町(寶は宝の旧字)、現・北仲通四丁目横通りの両側に下田座という芝居小屋を造ったことからこの通りを「芝居町」と呼ぶようになったんだそうです(小寶町って名前はどこに行ってしまったんだろう?)。

ちなみにこの芝居小屋では、芝居というよりも人形芝居(人形浄瑠璃というより人形劇に近いモノ……らしい)とか娘手踊り(京都の都をどりのようなモノ……らしい)などの見世物をやっていたんだとか。
さらに蛇足ながら、上の絵地図の「海岸通」というのは現在の元浜町になり、丁目の数字が現在と逆になっています。

ということで話を元に戻すと、この下田座は開場から9年目の1870年(明治3年)に現在の住吉町4丁目の馬車道にあった「佐野松」という芝居小屋と合併し羽衣町の厳島神社の隣りに移転し、のちに「羽衣座」となったんだそうな。

「だったらこの通りは史実に習ってこれからは芝居町通りと呼ぼう」と言いたいところなのですが、先週と同じパターンでただのビルの裏通りに名前を付けたところであんまり意味が無いですね。

ということでこの近辺の写真をまとめて↓

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③島津ビルの万国橋通り側入口正面向かって右側


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④その左側にあったレストラン。



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⑤そのまた隣りの元浜町4丁目の三橋ビル1階の三橋茂八商店(酒屋)の看板。



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⑥-A・北仲通4丁目通り、万国橋通りから入ってすぐの所にあった中華料理屋(1982年撮影)


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⑥-B・2014年に撮影した上の写真の建物の現在の姿


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⑦②の第三若尾ビルの反対側、元浜町通りの第二若尾ビル


*写真は最後の二枚以外は1981年撮影。
*2015/02/10→防火帯建築に関する記述を追加しました。



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by yokohama80s | 2014-12-07 00:04 | 関内地区 | Comments(2)