週刊 横濱80’s

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2013年 11月 24日

小港町 A.Avenue

小港町の歴史その他もろもろの事は、中区史そのほかに出ていますので、興味のある方はご自分でググッって下さい、ということで以下省略(笑)。

とにもかくにも今日のタイトル、「A.Avenue」というのは、エリア1正面入口にあった案内板に山下橋から磯子に至る「横浜市主要地方道82号山下本牧磯子線」に該当する通りを「A.Ave」と表記していたので、それにならいました↓。

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*1982年撮影


ということで、先週のBAYSIDE COURTSを過ぎて小港橋を渡ったところの、現在でいうと小港橋交差点の山手警察署に向かって右側、現在の小港南公園あたりがちょうどエリア1の一番北側にあたり、そこにあったのが↓

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*①1981年撮影


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*②1982年撮影


L字型の木造校舎風の建物。

この一角に、同じような木造校舎風の建物がもう1棟あり、聞いた話では昔の米軍病院かなにかだったそうですが真偽のほどは定かではありません。

とにもかくにも撮影当時はご覧のように廃墟状態。

で通りの反対側の北方町側には、煙突が2本そびえ立つ金網で囲まれた巨大な工場風の建物がありました↓。

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*③1982年撮影(北方町側にあったプレハブ)


撮影当時は、てっきり米軍のゴミ焼却場だと思っていたのですが、後年になって海浜住宅地区一帯に暖房用蒸気を供給するためのボイラー施設と判明。

なにやら名称はBOILER HOUSE(ボイラーハウス)だったとか(「そのままやん」みたいな^^)。

そしてその先の道路を挟んで隣、小港町2丁目交差点の北方町側に現・モーリスガレージこと当時のモーリス商会↓があり、

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*④1982年撮影(写真右側のコンクリート塀がボイラーハウス)


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*④1981年撮影


さらに50mほど行ったところの、現在のイトーヨーカ堂の建物のど真ん中を貫くようにエリア1の中心部を横断する道路(たぶんこれがC.Aveだと思います)があり↓

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*⑤1981年撮影


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*⑤1981年撮影


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*⑤1982年撮影


さらに50mほど行ったところの北方町側に↓

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*⑥1982年撮影


知る人ぞ知る"Ricksha Room(リキシャルーム)"がありました。

今回、写真をシゲシゲ見ていて初めて気がついたのですが、リキシャルームの「リキ」って"Riki~"じゃなくて"Ric~"なんですね、まあ別にどうでもいい話なんですが(笑)

それはともかく撮影当時、ちょうどこの頃、「遅咲きの新人」などとして話題になっていた柳ジョージ(正確には"新人"では無いのですが)関連で、雑誌などでこの店の外観の写真はよく目にしていたので、反主流を旨とする私(?)は取り敢えずこのワンカットしか撮っていません(笑)

でここから山手警察署を左に見ながらさらに100mほど進むと、本牧通りとぶつかる山手警察署前交差点に到着し↓

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⑦1982年撮影(山手警察署前交差点のPX側にあった黄色い消火栓)


その突き当たりの向かって右手側、すなわち麦田方向にガソリンスタンド、左手側の間門方向にはPXがありました。






*12月のUP予告
12月 1日: 山下埠頭 KDD丸係留施設
12月 8日: 新港埠頭 三号岸壁の階段
12月15日: 新港埠頭 防衝工
12月22日: 山内埠頭 市場大橋
12月29日: 横浜ベイブリッジ 1984年8月~1988年2月

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by yokohama80s | 2013-11-24 00:04 | 本牧・小港・新山下 | Comments(2)
2013年 11月 17日

新山下3丁目 米軍新山下住宅地区

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*①1981年撮影(独身下士官用宿舎。写真右奥には見晴トンネルの入口が写っています)


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*②1982年撮影(閉鎖された正面ゲート)


もともと新山下一帯は、工業地帯を誘致することを目的にして、1915年(大正4年)から1941年(昭和16年)にかけて、それまでの海岸線だった山手のガケ下部分を埋め立てて造成された町なのですが、震災前までは釣り宿が数件あるだけで辺り一面には葦原と湿地が広がっていたんだそうな。

そして震災後に空き地だった新山下地区の山手のガケ下あたりに被災者を一時的に収容するための応急住宅が40戸建てられ、その後、新山下2丁目一帯に同潤会により戸建住宅280戸が建てられたそうです。

その後、戦時中に一番最後に造成が終了した新山下3丁目の小港町との境界付近の山側一帯に、兵器弾薬以外の雑多のモノが収納されていた海軍倉庫が作られ

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*③1981年撮影(現在、NTTのちょうど向い側にあった旧海軍倉庫のゲート)


終戦後は米軍により接収され通信大隊地区として使用されていましたが、1952年(昭和27年)に関内、伊勢佐木町などを接収解除する代わりに新山下、小港町の山側崖下に代替施設を建設することが決定。

そして新山下3丁目一帯に独身将校及び下士官用宿舎と、軍人、軍属とその家族の出入国時の一時宿泊所として鉄筋コンクリート4階建ての宿泊施設7棟、将校クラブ、図書館、医療施設その他10棟の計17棟、隣接する小港町側の旧海軍倉庫跡に陸軍エンジニアセクション(Yokohama U.S.Army Engineer)の兵舎を始めとした付属施設が作られ、これらの施設を総称して米軍新山下住宅地区こと"SHINYAMASHITA DH-AREA"はたまた"BAYSIDE COURTS"と呼ばれていました。

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*④1981年撮影(三角屋根のバラックはエンジニアリングセクションの宿舎や事務所として使われていたそうです)


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*⑤1981年撮影(BOILER HOUSEの裏)


そして1982年(昭和57年)に新山下住宅地区は日本に返還され、現在は跡地に市営とURのマンションが建てられています。




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by yokohama80s | 2013-11-17 00:06 | 本牧・小港・新山下 | Comments(2)
2013年 11月 10日

大黒町13 横浜さとうのふるさと周辺

ベイブリッジの東京側であり、また最近ではベイブリッジ下を通過出来ない大型客船の使用埠頭として名前が知られるようになった大黒埠頭ですが、この埠頭は1971年(昭和46年)から1990年(平成2年)にかけて造成が行われた横浜港では比較的新しい埠頭になります。

現在はこの人工島にはベイブリッジの上道こと首都高と、下道こと国道で本牧側からもアプローチできますが、ベイブリッジが出来る以前は、第一京浜の生麦から産業道路→大黒大橋というルートしかなく、1980年代頃はこの本牧埠頭~大黒埠頭に至る道路の恒常的な渋滞が社会問題となっていました。

という話はひとまず置いておくとして、大黒埠頭の対岸、本土側にあたる大黒町一帯は、もともとは埋め立て地なのですが、その歴史は比較的古く、戦前にはすでに現在のように埋め立てられ、京浜工業地帯の一部となっており、工場や石油タンクが並んでいたそうです。

ということで、今回は大黒埠頭が埋め立てられるまでは一番海側だった大黒大橋の手前、いわゆる本土側、東電の横浜火力発電所とは道路を挟んで向かい側というか反対側にあたる大黒町13のあたりの写真を・・・・・・

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*①1986年撮影(大黒大橋交差点を見るの図。奥の煙突が東電の発電所)


現在、このあたり一帯には中古車オークション会場がありますが、80年代当時は某石油会社の製油所とその奥に製糖工場があったものの、平日の昼間でも人の気配が無く、大黒大橋に向かう道路からの騒音がかすかに聞こえるだけで、なにやら子供の時に夢中になった江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに描かれていた等々力あたりの深夜の風景を連想してしまうような場所でした。

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*②1986年撮影(現在の中古車オークション会場にあった石油精製施設)


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③1987年撮影


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④1987年撮影


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⑤1986年撮影


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⑥1986年撮影


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⑦1986年撮影(かつて⑥の空き地にあった飼料工場の名残)


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⑧1986年撮影(①の写真の撮影場所からさらに200mほど奥からの図)


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⑨1987年撮影


で⑧の写真の撮影場所から背後を振り返ると、その先には製糖工場と"横浜さとうのふるさと"なる謎の施設があり、夕方4時を過ぎると人の気配が無いこの道を、鶴見駅や生麦から無人の市営バスが続けざまにやってきてはUターンして、もと来た道を再び無人のまま折り返して行く、という光景はちょっとシュールに見えました。

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⑩1987年撮影





*お断り:現在と撮影当時とでは道路配置が違っています。

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by yokohama80s | 2013-11-10 00:05 | 鶴見・大黒埠頭 | Comments(2)
2013年 11月 03日

山下町118 南海洋行

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その昔、太平道の同潤会アパートの前からテクテクテクテク歩くと中山道と出会ったその先に、中華街には珍しい写真のちょいと小洒落た洋館風の建物が在りました。

どうやら現在の地図を見ると、80年代には開港道というか北京小路というか、昔のホリデーインというか、今のローズホテルのはす向かいにあった留日広東会館が現在、この場所に移ってきているようです。

さらに例によって古地図でこのあたりを見てみると、戦前の地図に該当の建物らしきモノの記載があることから、もしかすると戦前に建てられた可能性も無きにしも非ず・・・・・・かもしれません。

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で、写真には正面入口になにやらゴチャゴチャと書かれた看板が出ていますが、それを拡大して読んでみると曰く、

「この建物は1888年生まれで1980年に92歳で逝去したソ連国籍の某の所有であり、当職が遺言執行人の指名を受けてこの建物の管理処分を任されている云々かんぬん。
よって自分の許可無く借家人以外がこの建物に立ち入ったら訴えるゾ」

というようなことが書かれています。

どうやらこの建物は、遺産相続争いの渦中に置かれていたのか、はたまた地上げの嵐に晒されていたようです。

というような生臭い話は置いておくとして、この告知からわかることは、この建物の所有者の方は、1888年生まれということは、1917年に起こったロシア革命の時には29歳だったワケで(終戦後だと60歳前後)、そうなると革命を逃れて横浜にやって来た亡命ロシア人・・・・・・でもソ連国籍のままという点が「?」なのですが、共産党政権が倒れたらロシアに戻るつもりだったのでしょうか?

あと9年で、長年、異国の地で待ちに待ったその瞬間がやって来たのに・・・・・・

などと今頃になって感慨にふけっていますが、実際には戦後になって横浜に来た人かもしれないのにね(笑)

とにもかくにも、当時でも、山手の丘の上以外では目にすることの無かった木造洋館で、個人的にはどこかに移築して保存して欲しかったなぁ・・・・・・などと思ってしまいます。

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*写真はすべて1981年撮影



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by yokohama80s | 2013-11-03 00:03 | 山下町 | Comments(0)