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2013年 10月 27日

新港埠頭 三井LM倉庫

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*1987年撮影(画面左が12号岸壁)


新港埠頭内の倉庫は、各岸壁に併設されている保税上屋には岸壁番号を英数字で、内陸部の上屋にはイロハ(保税倉庫以外の官設倉庫にイロハを割り振った説や、木造倉庫にイロハを付けた説もあり)、民間倉庫にはアルファベットが番地代わりにそれぞれの倉庫1棟ごとにつけられました。

ちなみに赤レンガ倉庫は、例外的に赤レンガ2号倉庫が乙号煉瓦倉庫、赤レンガ1号倉庫が甲号煉瓦倉庫、6号岸壁と7号岸壁の間にハ号、現在の赤レンガ2号倉庫の道路一本隔てた新港橋側に、のちに三菱倉庫となったロ号倉庫が、そして民間倉庫は新港倉庫がA号、C号、D号、E号、三井倉庫こと東神倉庫がB号、F号、K号、L号、M号各倉庫が埠頭内に散らばっている、という状態。

ここで察しの良い方はお気づきだと思いますが、イロハには「イ」が欠けているし、アルファベットではG、H、I、Jがなぜか欠番になっています。

イロハの方は木造の保税倉庫のことのを指していたようで、戦前の新港埠頭設備図では確認できるものの私が撮影を開始した80年頃にはすべて取り壊されて露天の貨物置き場となっていました。

一方、民間倉庫に割り振られていたアルファベットのG~Jまでが欠番の理由については・・・・・・よくわかりません(笑)

ということで、基本的に棟続きではない限り、棟ごとにアルファベットが割り振られたはずなのですが、このLM倉庫に関しては↓の写真の右手前の事務所の奥に

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*1987年撮影(画面左が東神K号倉庫こと撮影当時は三井倉庫、右が三井LM倉庫)


もう2棟、合計3棟の倉庫がノコギリ屋根の棟繋がりになっていましたが、どの倉庫の扉にも↓

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LMと書かれていました。

ということは、LとMの二文字あるということは、もともとここには倉庫が二棟あったことを示しているのですが、新港埠頭建設当時や震災前、震災後、戦後それぞれの設備配置図ではそのような事実が確認出来ませんし、震災前に撮影された航空写真を見ても撮影時と同じ建物の配置になっているように見えます。

なんか良くわかりません、ナゾです(笑)

まあ今となっては、そんなコトを気にする人はいないと思いますが・・・・・・





*11月のUP予告

11月 3日: 山下町118  南海洋行
11月10日: 大黒町13   横浜さとうのふるさと周辺
11月17日: 新山下3丁目 米軍新山下住宅地区
11月24日: 小港町 A.Avenue

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by yokohama80s | 2013-10-27 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 10月 20日

新港埠頭 旧東神倉庫生糸上屋

三井と言えば言わずと知れた、三菱、住友、安田と共に四大財閥と呼ばれていましたが、戦前までは三井倉庫ではなく「東神倉庫」と名乗っていました。

ということで、ちょこっと歴史を紐解いてみると、東神倉庫の発祥は1909年(明治42年)に三井銀行倉庫部から独立した会社で、戦前には、同じ財閥系の三菱、住友を凌駕し、三井財閥の銀行、物産、鉱山と共に三井直営事業として重要な地位を占めていた、という大企業で(←というようなことが昭和11年発行の「財閥三井の新研究」なる本に書かれています)、1942年に東神倉庫は三井倉庫に改称して現在に至る、という次第。

そして新港埠頭内には旧東神倉庫の建物が左突堤(西突堤)側に生糸上屋、B、F、K、L、Mの6棟あり、↓は、

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*1987年撮影(左が11号上屋、道路の向こう側にあるのが生糸上屋)


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*1983年撮影(手前の小屋が横浜港駅の計量台でその奥が生糸上屋)


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*1982年撮影


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*1986年撮影



左突堤の付け根部分の米軍接収区域にあった、「白くて大きな倉庫」こと、戦前の主要輸出物だった生糸を保管していた旧東神倉庫こと三井倉庫生糸上屋。

とにかくデカイ!

あまりにも巨大なので、全景を撮影することを初めから諦めています(笑)

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*1985年撮影(手前が三井F号倉庫、奥の高い建物が生糸上屋)


↑は、6号岸壁側から。

写真奥の生糸上屋に、アーチが口を開けていますが、昔の地図を見ると、貨物線の線路が倉庫を貫通するように敷かれていて雨に濡れることなく貨物の積み卸しが出来るようになっていたようです。

また上の写真だと文字が消えかかっていて見難いですが、壁の上の方には「TOJIN WAREHOUSE」と書かれています・・・・・・ということは、三井倉庫に改称する1942年以前のままということになります。

そして画面左のノコギリ屋根の建物が旧東神倉庫こと三井F号倉庫で、撮影当時は米軍の"NAVY COLD STORAGE FACILITYS YOKOHAMA"こと直訳すると、「海軍横浜冷蔵貯蔵施設」として、同じ区画内にあった生糸上屋、三井B、F倉庫、新港倉庫A号倉庫ともども、みなとみらい計画で再開発されるまで接収され、生糸上屋内では冷蔵ガス(どのようなガスなのかは不明です冷媒のことだと思います)の製造が行われていました(入り口にそのような表示があっただけで実際のところはどうだかわかりません)。

米軍が生糸上屋と並んで建っていた旧船舶給水所こと横浜冷蔵倉庫との間に渡り廊下的なものを構築して棟繋がりにしてしまった為に↓

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1983年撮影(左が日本冷蔵倉庫、右が生糸上屋)


裏から金網越しに見ることしか出来なかったのですが、もともとこの生糸上屋は東神倉庫の横浜支店が併設されていたので、1階部分にはいかにも事務所的な窓があるのですが、戦後この倉庫を接収した米軍により、壁には穴が開けられ、あちらこちらから電線やらパイプやらが内部に引き込まれていました。

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*1986年撮影


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*1986年撮影


↑上屋のモルタルが剥がれ落ちた壁からレンガ壁が顔を覗かせています。

震災前の設備配置図にも同所に東神倉庫の生糸上屋があったことから、もしかしたら震災で崩壊を免れた部分を利用してこの倉庫を新築したのか、ただたんに耐火性を高めることを目的に鉄骨と鉄骨の間の壁にコンクリートではなくレンガを積んだのか・・・・・・

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*1983年撮影


とにもかくにも、この生糸上屋を見ただけで、当時の三井が生糸貿易にどれだけ力を入れていたかをうかがい知ることができます。



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by yokohama80s | 2013-10-20 00:03 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 10月 13日

日本大通14 日東倉庫日本大通倉庫

横浜公園を抜けて日本大通の銀杏並木を歩いて行くと、ちょうど2ブロック目に見た目はひとつのビルですが実際には正面玄関の左側が1911年(明治44年)築の一号棟で、右側が1927年(昭和2年)築の二号棟という2つの建物が合体した三井物産ビルがあります。

そしてその角を右に折れると、これまた見た目はこのビルと繋がっているように見えるタイル張りの壁が表れます。

これが現・日東倉庫日本大通倉庫こと、もともとは三井物産横浜支店生糸倉庫として1910年(明治43年)に建てられた御歳103歳の日本最古の全鉄筋コンクリート建築(実際には鉄筋コンクリートとレンガ積みと木造の混合建築)とされる建物です。

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*画面右の壁が三井物産ビル1号棟の倉庫部分、左が旧生糸倉庫こと現・日東倉庫


国会図書館近代デジタルライブラリーで閲覧可能な震災当時の大蔵省営繕管財局が編集した議院及諸官衛震害調査委員会・・・・・・面倒くさいから今風に言うと、議会とお役所合同の被害調査委員会の調査報告をまとめた1925年(大正14年)発行の「大正大震災震害及火害之研究」なる書物を紐解くと、「第一号棟倉庫(写真の日東倉庫のこと)には外部の焼レンガに軽微の亀裂が認められる」とあり、さらに「第二号棟倉庫(現在の横浜朝日会館ウラにあった)は全部焼失せり、第三号棟(?)は1~2化粧焼レンガが剥落した他は被害は認められない」とあります。

さらに続けて「本建物に隣接するチャータード銀行(煉瓦造)及獨亜銀行(煉瓦造)は跡形もなく倒壊しているから、この付近一帯は地盤が悪い。それにも関わらず本倉庫一号棟、三号棟に被害がないのは設計、工事施工方法が優秀だったからだ」と結論づけています(この書物では言及されていないが、この書物で言うところの四号棟こと現・物産ビル1号棟も被害がなかった)。

さてここで気になるのが、この書物でいう第三号棟なる建物。

そこでこの書物に掲載されている手書きの建物配置図を現在の地図に落としてみたり、昔の航空写真を漁ってみると、どうやら現在の横浜朝日会館が1975年に建設されるまでは、その場所に「鉄筋コンクリート造、外部タイル張り、一部倉庫として使用」されていた、日東倉庫と同じ外観の三号棟倉庫があり、震災の激震にビクともしなかった三井物産絡みの建物が都合三棟が1970年代前半まで現存していたことになります。

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1925年(大正14年)刊・大正大震災震害及火害之研究187ページの図に道路を書き加えてみました。


「だからどうした」という話なのですが、上記の書物で第一号棟倉庫にあたる日東倉庫日本大通倉庫を耐震診断した論文がググると出てきますが(「 歴史的れんが造建築物の耐震診断 : 日東倉庫日本大通倉庫耐震診断」という論文。以前は普通に閲覧出来たのですが現在、閲覧は有料になっていて見られなくなっています←なぜ?)、それによると建てられてから100年以上経過しているにも関わらず、現在の基準に照らしてもまったく問題無しとのことで、これはUボートブンカー並(?)に堅牢な建物を何棟も建てられるくらい当時の生糸貿易が今では想像もつかないくらいの巨万の富を生み出していたということを意味しているのではないでしょうか。

という歴史あるこの倉庫も現在、開店休業状態のようですが、個人的にはこの倉庫をビアホールにでもすれば絶対にウケると思うのですが・・・・・

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*上の三枚の写真をフォトショで繋げてみました。


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*写真はすべて1981年撮影。




*2014年8月28日に「大正大震災震害及火害之研究」の加工図面を追加しました。
*2014年11月6日:「大正大震災震害及火害之研究」の三井物産横浜支店の項目のPDFへのリンク(国会図書館近代ライブラリー)を追加しました。

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by yokohama80s | 2013-10-13 00:03 | 日本大通 | Comments(0)
2013年 10月 06日

大桟橋

 「大桟橋」と言えば、言わずと知れた横浜港を代表する埠頭・・・・・・というよりも、「横浜港そのもの」といっても良い存在で横浜を代表する超有名スポットでもあります。

 ということで大桟橋の来歴をザッと書き出すと、1859年の開港から35年間、現在の象の鼻にあった東西波止場、と山下公園のニューグランドホテル前のあたりにあった西波止場ことフランス波止場の荷揚場しか無かった横浜港に横浜築港第一期工事により完成した船舶を直接、横付けすることが出来た桟橋(水中に杭を打ち込んでその上に構造物を建築する構造)だったのですが1923年(大正12年)の関東大震災により桟橋部分が倒壊。

 翌年の1924年(大正13年)11月1日から復旧工事が始められ、翌年の1925年(大正14年)10月28日に日本郵船のロンドン航路に就航していた白山丸、シアトル航路に就航していた三島丸、東洋汽船でサンフランシスコ航路に就航していた天洋丸、所有会社不明の海洋丸(文献によると四隻中一隻が大阪商船所有の船舶だったようなのですが当時のの所有船舶リストに該当する船名が無いことから文献の誤植と思われます)の四隻の客船を桟橋に係留し千二百人を招待して桟橋復旧工事竣工披露会を開催(当時は1924年・大正13年5月24日に九~十一号岸壁、同年9月13日に四号岸壁、翌年1925年・大正14年3月28日に三号岸壁と、復旧工事が竣工するたびに復旧工事竣工式を大々的に執り行った)

 その後、大桟橋は外国会社が運行するサンフランシスコを初めとした北米航路、国内外の船会社が運行する欧州航路、シアトル航路、世界一周航路の客船や貨客船、さらに貨物船への高級雑貨の積み込みなどに使用されていました。

 ちなみに現在の、大桟橋旅客ターミナルは四代目にあたり、初代は桟橋中央部に上屋がある構造で震災により倒壊焼失、震災復旧工事に伴って作られた二代目は桟橋中央部に一階が上屋、二階に帝国ホテルのレストランなどが入った旅客ターミナルで、三代目が東京オリンピックに伴って建て替えられたもので、一階が税関諸施設、二階に旅客待合所や土産物店などが入った旅客ターミナルでした。

 ということで、1980年代はちょうど三代目ターミナルの時代なのですが、この頃になるとかつての華々しい栄光も昔話となり果てて、大桟橋にやってくる客船と言えばサビサビのナホトカ航路の船↓

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*1981年撮影(停泊中のバイカル)


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*1987年撮影(フェリックスジェルジンスキーのファンネル)


が夏場は週一、冬場は月一から月二でやって来るだけで、時々休養目的の貨物船などが停泊している程度で↓

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*1986年撮影


普段はもっぱらタグボートの待機場となっていて↓

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*1982年撮影


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*1982年撮影


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*1982年撮影


豪華客船がやって来るなどということは、年に一回どころか数年に一回程度の大イベントでした。
 ということで、当時の大桟橋は入出港する客船を見物する場所↓

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*1986年撮影
(運良く遭遇できた、当時、国内唯一の客船だったさくら丸の出港風景)


というよりも、桜木町駅から山下公園に向かう時に大桟橋に寄り道をして、「客船が見られたらラッキー」程度の存在でした(笑)

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*1980年撮影(船が居なくても老いも若きもみんな仲良く桟橋の突端まで行ってUターン^^)


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*1980年撮影(ヨチヨチ歩きの赤ん坊も例外ではない!)


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*1980年撮影






*2016/01/22・大桟橋の来歴を加筆し写真を追加しました。

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by yokohama80s | 2013-10-06 00:07 | 大桟橋・海岸通 | Comments(0)