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2013年 05月 26日

山下町106 旧森元歯科医院

むかしむかし、山下町の南門通り(今で言うと南門シルクロード)を前田橋(今で言うと朱雀門)方向に歩いて行くと、通りがY字型に分かれているところ(今で言うと南門シルクロードと媽祖小路の分岐)のカドに、小さな歯医者さんがありました。

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*左の通りが今の媽祖小路、右が南門シルクロード


ご覧のように特に由緒正しい歴史ある古い建物なワケでも無く、一見するとなんの変哲もないフツーの歯医者さん。

でも歯医者さんなのに切り文字看板が"歯抜け"状態になっている、というのが妙にツボにハマってしまい、ここを通りかかる度に意味もなくカメラを向けていました(笑)。

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*当時は今の媽祖小路が南門通り、南門シルクロードが前田橋通りと呼ばれていました。


で、いつものように「この歯医者さんは今はどうなっているのだろう?」とストリートビューで覗いてみたら、Y字路の角にはなんかま黄っ黄に塗られて入り口の庇にパンダのハリボテが置いてある奇妙珍妙なお店が・・・・・・

「うわぁ~っ、なんだこりゃ!」と一瞬、引きながらもよくよく見てみたら、昔の歯科医院の建物をそのまま利用して現在はパンダ雑貨専門店になっているそうです。

歯医者さんからパンダ雑貨専門店というのは想定の範囲を遥かに超えていますが(笑)、こういうなんの変哲もない建物が、例えどのような姿であれ撮影当時の姿で残っているのを見るとちょっと嬉しくなってしまいます。

ちなみに現在、この建物の右手に媽祖廟がありますが、これらの写真を撮影した当時はまだ媽祖廟は無く駐車場でした。

*写真は2枚とも1981年撮影。







*6月のUP予定
6月 2日 石川町 亀の橋
6月 9日 麦田町あたり
6月16日 市電通り 前編
6月23日 市電通り 後編
6月30日 本牧2丁目 タイトル未定

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by yokohama80s | 2013-05-26 00:04 | 山下町 | Comments(0)
2013年 05月 19日

高島埠頭の市営上屋

高島埠頭の歴史はちょっと複雑。

まず初めに貨物の取扱量が増加したことにより新港埠頭内の横浜港駅と、初代横浜駅ことその後の東横浜駅が手狭になり、新たな貨物駅を建設するために現在のみなとみらい4,5,6丁目あたりが埋め立てられて広大な操車場を持つ高島駅が作られました。

しかしこの時には、まだ桟橋の類は無く新港埠頭側に荷揚場が設けられていただけで、あくまでも高島駅しかありませんでした。

そして震災前の1921年(大正10年)から、横浜港第三期拡張計画として外貿易用として瑞穂埠頭が、内貿易用として山内、高島の両埠頭の新設整備が始まり、高島埠頭として高島駅の東側の埋め立て工事が始まったものの2年後に発生した関東大震災により工事が一時中断。

その後、工事が再開され現在の旧ジャックモールウエストから東に、当時の海岸線から60度の角度を為す形の長さ約140m、幅約30m、3千トンの船舶二隻が係留可能な一号桟橋が1930年(昭和5年)に完成し、そこに横浜市によって1933年(昭和8年3月)に市営一号上屋が完成。

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*1984年撮影(1933年/昭和8年3月に竣工した市営一号上屋)


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*1984年撮影(市営一号上屋全体)


次いで1933(昭和8年)に、一号桟橋から100mほど北東に、長さ約170m、幅約50m、6千トンの船舶二隻を係留可能な二号桟橋と市営二号上屋が竣工(以上、1934年/昭和9年・横浜港概覧より)。

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*1984年撮影(1933年/昭和8年12月に完成した市営二号上屋正面。凸型の断面が切妻壁に残っています)


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*1984年撮影(市営二号上屋全体)


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*1984年撮影(上屋から海まで2m弱しかない高島埠頭二号桟橋)


ちなみに1934年に横浜市土木局が発行した「横浜港」という書物によると、建設当時の二号上屋は外観が一号上屋とほぼおなじく鉄骨モルタル平屋根で断面が凸型で、上屋内の床面を掘り下げて貨物線の線路が2本引き込まれ上屋の床面がプラットホームとなっていて天候昼夜を問わず作業が出来ることが自慢だったそうです。

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1934年横浜市土木局が発行した「横浜港」より


と、ここでひとつ疑問が。
戦前の書物の写真に写っている二号上屋と、80年代に撮影された写真の二号上屋の形が違うこと。

 そこで国土地理院の地図空中写真検索サービスを漁ってみると、1944年(昭和19年)に撮影された写真の二号上屋は凸型なのが確認出来ますが、終戦後の1947年(昭和22年)の写真を見ると建物の形は凸型のままのものの上屋の南側と北側の一部が損壊し、1949年(昭和24年)の空中写真では建物の形が凸型から切妻型(三角屋根)になっています。

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左が1947年、右が1949年に撮影された空中写真


 どうやら二号上屋は1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の空襲により建物の一部が損壊し、80年代の写真では壁に凸型の跡が確認出来ることから1948年(昭和23年)~1949年(昭和24年)の間に損壊部分の修繕を兼ねて建物上部を凸型から切妻型に改築したようです。

 と言うことで話を戻すと、とにもかくにも高島埠頭は桟橋が二つ出来た段階で、太平洋戦争が勃発したことによりその後の工事が中断。

 戦後になって、横浜港は全施設が米軍により接収され高島埠頭が1947年(昭和22年)に他の埠頭に先駆けて日本に返還されたものの、高島埠頭の2桟橋だけでは横浜港の港湾機能回復にはほど遠く、やむなく出田町埠頭を急遽建設することに。

 さらに1950年(昭和26年)から翌年にかけて港内のブイ、山内埠頭、大桟橋、新港埠頭の接収が解除されたものの、それだけでは港湾機能はまだまだ不足。

 そこで急遽、1954年(昭和29年)に二号桟橋の150m北東に建設されたのが、長さ約190m、幅約70mの三号桟橋と、倉庫内の床面を掘り下げて線路を2本引き込んだ三号上屋(みなと博物館に模型が展示されています)です。

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*1984年撮影(三号桟橋基部にて)


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*1984年撮影


 ちなみに当初の横浜港第三期拡張計画では、三号桟橋の隣にもうひとつ四号桟橋が作られる予定でしたが↓

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1934年昭和9年「横浜港」より表高島及山内町地先内国貿易設備図


三号桟橋を作る時に大型船に対応するために桟橋の間隔と、桟橋自体の幅を広げたら四号桟橋を作るスペースが無くなってしまったようで、本来なら四号桟橋が作られる予定だった場所の根元部分に四号上屋が建てられただけで桟橋は作られることはありませんでした。

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1984年撮影(市営四号上屋)


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1984年撮影(市営四号上屋)


 というように、高島埠頭の桟橋はバラバラの時期に建設された為に新しくなるにつれて桟橋が広くなるという状態に。

 このような事情があった為なのか、1980年頃には船が繋船されていたのはほとんどが一番余裕があった三号桟橋で、一号、二号にはごくたまに艀や内航船が繋がれているだけでした。

 ちなみに戦前は横浜港を発着する北海道その他の国内航路や中国、サイパン、グアムなどへ向かう船は、貨物、客船、定期不定期を問わずここ高島埠頭から発着し、その後、寄港場所が大桟橋に変更される1980年ごろまでは東海汽船の大島航路が一号桟橋から発着していました。

 その後、みなとみらい計画により三本の桟橋は撤去された後に埋め立てられ、現在のみなとみらい地区が作られました。

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*1987年撮影(埋め立てられた一号桟橋と右の建設中の建物は横浜美術館)





*2014年3月1日
二号上屋に関する記述を加筆修正し写真を追加しました。

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by yokohama80s | 2013-05-19 00:05 | 高島埠頭 | Comments(3)
2013年 05月 12日

山下町203 加賀町警察署

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*1981年撮影


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*1981年撮影



現在、中華街の北、善隣門のあたりにV字型(地図で見ると矢印が南を向いている←正確には南東)の神奈川県警加賀町警察署があります。

しかし写真の1926年(大正15年)築の庁舎は今とは逆向き(矢印が北を向いている逆V字)で、庁舎の左手が長安道、右手が海河道になります。

蛇足ではありますが現在の庁舎が、中華街という場所柄から風水を重んじて建物の向きをひっくり返したのかどうかについては定かではありません(笑)

それはそれとして、なぜにして山下町にある警察署なのに加賀町署なのか、という疑問をお持ちになられる方もおいでになるかと思います。

と言ってもこの件に関しては、横浜開港資料館さんがこのようなモノをUPして下さっていますので、私が拙い文章でズラズラ説明するよりもよっぽどわかりやすいかと存じますので、そちらをご参照下さい(笑)

あえて私が付け加えるとすれば、30ヵ町は町と付いていても一般的な区画ごとに名称をつけたものではなく、馬車道通りの町名のように通りごとに名前を付けたものであり、さらに番地についても公園通りの一番北側にある英一番館(現・シルクセンター)を一番地とし、そこから建物ごとに順番に番号をふり堀川にぶつかるとまた北から南へと、要は内陸に行くほど番号が大きくなるという仕組み。

しかしちょうど山下町の真ん中あたりに、埋め立て順の関係から奇妙な形で中華街がハマり込んでいる為に、中華街のあたりから「南へ行くほど番号が大きくなり堀川にぶつかるとまた北に戻る」という法則が多少崩れますが、それでも震災前までは区画ごとに番地は順番に並んでいました。

ところが震災後に、クネクネ曲がっていて片側一車線だった本町通りその他の道路を拡幅して消滅した番地を、袋小路を解消して区画をひとまとめにした時に出来た所に割り振ったり、さらに1928年(昭和3年)に現在の日本大通が山下町から分町した際に日本大通に割り振られていた番地をあっちこっちに再分配したり、それでも足りないと今度は新たに番地を増やしたりと、あれやこれやとイジりまわした結果として、同じ区画内の番地が連続していなかったり、三桁番地の区画になぜか二桁の番地が紛れ込んでいたり、かと思うと◯◯-◯という一般的な番地があったりという現在の山下町のぐちゃぐちゃゴチャゴチャ番地表示が出来上がりという次第(まあ「町に歴史アリ」ってトコですかな)。

ということでちょっと例を挙げると、現在、結婚式場として現存している旧露亜銀行の現在の住所は山下町280番地なのですが、結婚式場として使用される前の番地は旧居留地時代から山下町51番地で、そもそも280番地は居留地時代には存在しなかった・・・・・・と思うヨ、私が知る限りにおいては。

というように、そんなこんなで当時の人は、わかりにくい番地には見切りをつけて、1899年(明治32年)にすでに廃止されていた30ヵ町の町名の方を日常的に用いていたようで、昭和初期に横浜市が作成した横浜市三千分一地形図の山下町には40年前に廃止されたはずの30ヵ町の町名が番地と共に併記されています(確か震災後の区画整理で二つか三つの通りが消滅しているので、実際には30は無い・・・・・・と思います、数えたことが無いからわからないけどwww)。

ということで、山下町にある警察署に、普段から慣れ親しんでいた旧町名を付けることは、当時の人にしてみればごく自然のことだったのだろうと想像できます。

そういえば横浜には、もともとは代官坂トンネルあたりの山手の丘の上にあったのに移転を繰り返して今は直線で1.6km離れた本牧宮原にある山手警察署とか、同じく移転を繰り返して今は本牧十二天にある北方消防署とか、もともとは現在の桜木町にあったのに合計2回、直線で約2km弱移動した横浜駅(都市の中核となるべき主要駅そのものが移動した例は、国内はおろか世界的に見ても稀なのでは???)なんていうのもありますから、当時のヨコハマの人はそういうこまかいコトを気にしない傾向があったのかもしれません(笑)

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*1981年撮影





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by yokohama80s | 2013-05-12 00:07 | 山下町 | Comments(0)
2013年 05月 05日

北仲通5丁目 帝蚕倉庫

みなとみらい線の馬車道駅を降りて、2番出口から地上に出ると目の前に古めかしいレンガ造りの建物があり、さらに駐車場の真ん中にも古びた倉庫が1棟だけポツンと取り残されたように建っている一角があります。

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*2014年撮影


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*2014年撮影


この二つの建物は、その昔、現在の海保その他の官庁が入っている合同庁舎がまだ「横浜生糸検査場」と呼ばれていた時に、その付帯施設でありもともとは四棟あった「横浜生糸検査場付属生糸織物専用倉庫」のうちのC号倉庫と、1926年(大正15年)に建てられた倉庫事務所(なにやら最近は北仲ブリックと呼ばれているらしい)で、

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横浜市の「北仲通北地区再開発」の一環としてなぜかこの二つの建物だけが脈絡なく駐車場にポツン、ポツンと残されています(いちおう「保存」されていることになっているらしい)。

まあそのあたりのことは、コチラを見て頂くとして、撮影当時に時を遡りますと、当時は桜木町駅を出て弁天橋を渡り、大岡川に沿って河口の方に歩いて行くと三管本部が入った今は無き横浜港運総合庁舎に突き当たり、そこを右に折れると

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1928年(昭和3年)に建てられた4階建ての「帝蚕ビルディング(↑)」があり、ビルの右手に倉庫への入り口がありました(↓)。

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しかし撮影当時は4棟ある倉庫群は上の写真のように辛うじてB号倉庫がチラ見できただけで、その他の倉庫は総合庁舎だ、生糸検査場だ、海岸通団地だ、帝蚕ビルディングだ、万国橋ビルだのにグルッと取り囲まれていて、その全容を見ることはできませんでした。

結局、私が、これらの倉庫を初めて見ることができたのが、2000年頃に何かの用事で生糸検査場跡に建てられた第2合同庁舎に行った時のこと。

「せっかくだから」と、グル~ッと建物内を一周して裏にあった駐車場に行くと真正面にA号倉庫が・・・・・・。

「まだあったんだ」と、一種感動したと同時に、カメラを持参していなかったことを悔やんだ記憶があります。

その後、何があったのか、どういう経緯なのかは存じませんが、帝蚕ビルディングと4棟(昔の地図によると、写真のB号倉庫を同じ造りの倉庫がA~Dの4棟が並び、その奥に旧東邦倉庫のF、H、帝蚕ビルディングの左隣にE号の合計7棟の倉庫群があった)の倉庫と倉庫事務所のうちC号倉庫と倉庫事務所を残してすべて解体され現在のような状態に(一時期、帝蚕ビルディングも残されていたのですが、いつのまにかコソッと取り壊されてしまいました)。

で上記の横浜市のサイトには、「帝蚕倉庫C号を概ねB号の位置に曳家保存」とあり、さらに先日、取り壊された万国橋ビルについても「保存活用の方向性について協議を行う」と記されていますが・・・・・・???

よくよく考えてみるとこうなるのも当然で、歴史的価値のある建物を取り壊して跡地に新しくビルを建てても、新築したビルの外壁に元あった建物の外壁を無理矢理だろうがなんだろうがくっつけちゃえば、横浜市がご丁寧にも横浜市登録歴史的建造物とやらに認定してくれて、さらにありがたいことにあれやこれやの助成金まで出してくれる(横浜市っておっ金持ちぃ~!)となれば、ただでさえ金食い虫の古いビルの使い道や補修方法や補修費用の捻出ににアタマを悩ませるよりも、「さっさとぶっ壊しちゃった方がぜんぜんお得じゃん」となるのは至極当然のお話。

これをざっくばらんに言い直すと、「古いビルの外壁を新しいビルに適当に貼り付ければいいからさぁ金食い虫の小汚いビルなんざぁさっさとぶっ壊して跡地にピッカピカの高層ビルをド~ンとぶっ建てて固定資産税をたんまり払ってちょうだいよ。ちょっとはサービスするからさぁ」と、こういうことを言っている同じ口が言っているワケです。

となれば、そもそも営利を追求することを目的に存在している営利団体(ひらたく言うと企業のこと)が、歴史的価値はあるものの利益を生み出さないで経費ばかりがかさむ古い建物を、わざわざ手間暇費用をかけて保存なんかしますか、という話なワケで、最近になってこんな話が出てくるのも当然で、最終的には行政が所有している建物以外は取り壊される運命にある、と言っても過言では無いと思います。

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2014年撮影(現在、ハリボテ作業真っ最中の旧神奈川県中央農業会館別館)


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*現第二合同庁舎ことハリボテ化(セットバック工法と言うらしい)された旧生糸検査所の壁


個人的には、行政が歴史的な建造物の現状保存を促したり、そうすることが企業にとってメリットとなるような環境を作るのではなく、古い建物を取り壊してハリボテ建て替え化を暗に薦めているという点に得も言えぬ違和感を感じるのですが・・・・・・。




*2014年4月5日に写真を二点追加しました。
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by yokohama80s | 2013-05-05 00:04 | 関内地区 | Comments(0)