週刊 横濱80’s

hama80s.exblog.jp
ブログトップ

<   2013年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧


2013年 03月 31日

北仲通3丁目 清月堂ベーカリー

c0247059_22195243.jpg


ビジネス街の昼食時と言うと、最近では通りに500円弁当屋のワゴンが並んだり、はたまた近所のコンビニが大賑わいになったり、というのが相場ですが、80年代前半には500円弁当屋のワゴンも無ければ、コンビニも無いし、牛丼屋も無いし、ホカ弁屋も無いしという時代(確かこれらがあちらこちらに出没し始めたのは83~85年ぐらいかと・・・・・・)。

それでは「この時代のサラリーマンは昼食をどうしていたのか?」と言うと、

パターン1
家から弁当持参(たいていローンを抱えているお父さんとベテランのOLさん)。

パターン2
近所のそば屋、中華メシ屋その他の飲食店へ出向くか出前を取る(食事の後はサテンで一服がお約束で、男性リマンの大部分はこのパターン。たまにお偉いさんがちょいといい店に連れていってオゴってくれる、ということもあった)。

パターン3
近所のパン屋などで調達する(OLや金欠状態に陥った独身の男性リマンに多いパターン)。


の3パターンがありました。

そうそうちなみにこの頃は、昼メシにハンバーガーやカップメンを食すという人はいませんでした。

というのも、当時、これらのモノは主食ではなくオヤツ、間食、お子ちゃまの食べ物という感覚でしたので、社会人になってそんなモノを食べていようものなら先輩、上司その他諸々の方々から「学生じゃないんだから社会人がそんなモン食うな!」と小一時間くらい説教された・・・・・・とかされなかったとか(笑)

ということで、当時、昼食時になると、近隣のオフィスビルから吐き出された人たちが一斉に向かう先のひとつに、写真の横浜銀行協会裏手の北仲通3丁目にあったパン屋さんがありました。

c0247059_2313579.jpg


聞いた話ではこのパン屋さんは、戦前からこの地で営業し、終戦後、米軍による接収が解除された直後にいち早く店を再開した、という歴史あるお店なのだそうです・・・・・・と言うと、元町あたりにありそうな小洒落たパン屋さんを想像しがちですが、この清月堂ベーカリーは、普通の調理パン(ヤキソバパンとかそういうヤツね)やサンドイッチなどを売っていた、まんま今のコンビニのようなお店だったと記憶しています。

現在、このビルは新しいビルに建て替えられ、清月堂ベーカリは新しいビルの隣で清月堂タバコ店と名を変えて営業を続けているそうです。

c0247059_14594571.jpg
*2枚とも1981年撮影






*4月のUP予定
4/07 山下臨港線
4/14 高島埠頭 表高島駅
4/21 海岸通1丁目 三菱倉庫京浜支店に号倉庫
4/28 海岸通2丁目 三菱倉庫横浜支店

[PR]

by yokohama80s | 2013-03-31 00:05 | 関内地区 | Comments(0)
2013年 03月 24日

日本大通17 旧露清銀行横浜支店(アクメ貿易ビル)

c0247059_15401052.jpg
*1982年撮影


80年代当時、大桟橋通りの日本大通入り口交差点の角、三井物産ビルがあるブロックの山下町側の現在、一階にコンビニのあるビルが建っている角地に奇妙な建物がありました。

一階部分の窓枠のすぐ下まで地中に埋まって半地下状態になっているので、一階半建てとでも言うのでしょうか???

それだけならまだしも、この半地下部分は建物左側はコンクリート造りの1階部分より先は屋上(?)に、右側部分にはコンクリート造りの1階部分に接続するようにトタン張りの小屋(?)を建て増しした状態で、それぞれ隣の建物間際まで伸びています。

要は、半地下部分の方が1階部分より大きいというヘンな構造の建物でした。

そこでちょっと調べてみたのですが、日本建築学会のデーターベースでは「アメク貿易(「アクメ」の誤植と思われる)、明治35年築、レンガ造」とあり、中区史ではこの建物の写真に「旧露清銀行」というキャプションが付けられています。

そこで今度は「露清銀行」でググると、どうやらこの建物は1902年(明治35年)にロシア、フランス、清により設立された露清銀行の横浜支店として建設されたもともとは地下一階地上二階建て煉瓦造りドーム付きの建物で↓

c0247059_15405371.jpg
*大桟橋通りの「日本大通交差点」から開港道に入った山下町175番地(現在のNTT山下町ビル)あたりから撮影された露清銀行(明治時代の絵葉書より)


1910年(明治43年)に露清銀行がフランス系の北方銀行と合併し露亜銀行と改名し、1921年(大正10年)に山下町51番地(現280番地)に現存するかの有名なバンク・ド・ロアの建物に移転した、っと。

その後にこの建物の主となったのが、1905年(明治38年)に横浜に支店を開設したドイツ系の独亜銀行なのですが、この銀行がいつからこの建物を使用するようになったのかは不明です。

ただ第一次大戦で、日本がドイツに宣戦布告したのに伴って大蔵大臣が独亜銀行に閉鎖命令を出したという1916年(大正5年)の新聞記事に、この銀行の所在地として震災前の日本大通17番地に該当する山下町180番地(1928年/昭和3年に分町するまでは、現在の日本大通は山下町170~184番地だった←正確には160番代後半あたりからなのですが、まあ「おおまかに」ということでご勘弁をw)と記されていることから、どうやら露清銀行が露亜銀行になったのを機に露亜銀行がこの建物を出て、入れ代わりに独亜銀行が支店を構えたものと考えるのが妥当なようです。

そして関東大震災により元の建物が上の写真の半地下の窓枠より上の部分(元の建物の基礎部分になるそうな)から上が跡形もなく崩壊し、その後、残った半地下部分(写真でいうと半地下室の窓の上方にあるチューブ状の飾りより下が明治35年築で半地下室部分は建設当時のままの状態だったそうです)の上部にコンクリート造りの1階(2階?)と玄関を再建したそうな。

しかし独亜銀行は1930年(昭和5年)に横浜支店を閉鎖し、1932年(昭和7年)の神戸支店閉鎖をもって日本から撤退しているので、再建された建物を独亜銀行が使用していたか否かについて定かではありません。

とにもかくにも県立図書館のHPから見ることができる1937年(昭和12年)の地番・地目・地籍・地価・所有者名などを記載した横浜市の土地宝典によると、日本大通17番地の土地所有者は独亜銀行ではなく、後に取り壊される時のこの建物の主だった朝日生命に吸収合併される日本共立生命の所有となっていることから、とにもかくにも独亜銀行撤退後は保険会社に所有権が移ったものと思われます。

そして終戦後は焼け野原となった関内地区一帯に設けられた車両置き場を管理していた米軍の横浜モーターコマンドのオフィス→1948年~1952年までの間は米軍の兵卒向け娯楽施設クロスロード・クラブ→再び元の保険屋さん→上の写真の看板が出ている某婦人服輸入商社→再び元の保険屋さん→1987年頃に取り壊されて現在のビルに建て替えられる、という流れになります(「建物の使用者が」という意味で所有者は前述の生命保険会社だったと思われます)



[PR]

by yokohama80s | 2013-03-24 00:02 | 日本大通 | Comments(0)
2013年 03月 17日

山下町254 デスコビル

c0247059_2253518.jpg


 その昔、大桟橋通りを挟んで横浜スタジアムの真向かいの山下町254、現在はホテルが建っている所に、デスコビルという1926年(大正15年)に建てられたちょっとクラシカルな雰囲気のオフィスビルがありました。

c0247059_225468.jpg


c0247059_2255565.jpg


 ところがこのビルに関してググッてみても、中区史の「震災により1階部分が沈下した」という記述と、当時、生糸の輸出と綿花の輸入を行なっていたチャールズ・ルドルフ商会(サルザールドルフ商会)により社屋ビルとして建てられたらしいことと、市内の某運送会社が戦後しばらくこのビルに本社を構えていたこと某有名外国人建築家が設計したということと、あとは近代デジタルライブラリーにある昭和10年ごろの中区勢要覧に掲載されている中区内にあった資本金20万円以上の企業リストにある「シンガーソーイングメシーンコンパニー(リスト表記のまま→シンガーミシンのこと)の所在地がデスコビルの所在地と一致する、ということしかわかりません。

 さらに航空写真などを見ると、この建物は1988年までには取り壊されて現在の建物に建て替えられたようで、これらの写真を撮影した1981年当時にはすでに入居者の立ち退きも完了していたのか、かつて入居者の表札がかかっていたと思われる入り口横には、古ぼけた表札が一枚残された他にはかつて看板を取り付けていた痕跡が残っているだけでした。

c0247059_226648.jpg


ちなみに上の写真だと看板の文字が読みにくいと思いますのでザックリと書き写してみると↓

DR.A.ALTINBAY
医師 アルテンバイ
2ND FLOOR  TEL (8)2113

と書かれています。

 どうして市内局番がヒトケタの戦前の看板が一枚だけ残されていたのかはわかりません。

 試しに「DR.A.ALTINBAY 」でググッてみると、Japan for Kids:The Ultimate Guide for Parents and Their Children(日本子育て便利帳)なる2000年に刊行された本に、住所がデスコビルになっている同名の小児科医が出ていたものの、電話番号は↑写真と同じ一桁のもの。

 となると、このリストはそうとう昔のモノをコピペしただけという

 どうやら小児科の先生らしいのですが、住所がデスコビルの住所のうえ電話番号は一桁のまま。

となるとこの本のリストは、そうとう昔のリストを丸写ししただけということに・・・・・

 他には、こちらの資料に、看板と同名の外国人医師のインタビュー記事が出ています他に、どうやらこの方は60年~70年代のテレビドラマで変な外人役でご活躍されていた方と同一人物、はたまたご兄弟だとか・・・・・・。

 とにもかくにも、この件についての解明はここまでにして、次なるナゾは、(社)建築学会の「歴史的建築総目録ダータベースでは「大正15年建築とされているものの、1932年(昭和3年)発行の建築時代という書物のアントニン・レーモンド特集では1927年(昭和2年)築、さらに中区史には「震災(1923年/大正12年)で1階部分が地中に埋没した」とされていることから、震災前の時点でこのビルがすでに存在していたことに……

 これに関しては、私のつたない記憶では、このデスコビルはもともと4階建てのビルとして建設されていたものの、竣工直前に震災に遭い1階部分がスッポリと地中に埋没。

 その後、別の建築家が設計し直し(私のつたない記憶だとこの再設計だか構造計算だかをやり直したのがアントニン・レイモンド設計事務所だったような気が・・・・・・???)、傾いてしまった建物の地下を掘り下げて水平にして3階半建て(?)のビルとして大正15年に竣工した、というような話が、なにかの本に書かれていたような記憶があります。

c0247059_2262089.jpg




[PR]

by yokohama80s | 2013-03-17 00:04 | 山下町 | Comments(0)
2013年 03月 10日

横浜競馬場

c0247059_22421077.jpg


上の写真は、根岸森林公園・・・・・・というより、第2コーナーを抜けてバックストレートに入ったあたりから見た横浜競馬場こと根岸競馬場のスタンドこと馬見場。

向かって左側の塔が3つある小ぶりの建物が今も現存する1929年(昭和4年)に建てられた7階建てで4,500人収容の一等馬見場、右側の塔が2つの大きい方が1988年(昭和63年)に取り壊された12,000人収容の二等馬見場。

ということで、横浜競馬場こと根岸競馬場の沿革などはWikiを見て頂くとして、ちなみに昭和初期頃の入場料が右側の二等馬見場で2円ということですから今で言うとだいたい10,000円くらい、一等馬見場が5円ですから約25,000円とかなり高額。

このため一般庶民には敷居が高かったので、機を見るに敏な人たちがレース開催日になると第一コーナー奥のコースを見下ろせる山元町5丁目あたりの高台斜面にヤグラを組んで板を渡してゴザを敷いて、一人5銭(現在の250円ぐらい)の私設観覧席を作って結構な人気だったとか。

で、お高かったのは入場料だけではなく、馬券も単複各一枚20円(現在の約100,000円くらいで、この券一枚で12レース各1回づつ投票できたそうな)と高額だった為に、当時、違法だったにも関わらずその場で仲間を募り見ず知らずの者同士が数人で一枚の馬券を購入し、レース中は馬券を持っている者が勝ち馬券を持って逃げ出さないように大の大人が数人で仲良く(?)手を握り合っていたそうな。

さらに興味深いのが1レースの配当金に200円(今のレートで約100万円くらい)という上限が設けられていたことで、もしそのレースで200円以上の配当が出た場合には、超過分は「特配(特別配当)」と称して、そのレースの馬券購入者全員(といっても馬券を捨てなかった人)に均等に分配されたこと。

ということで、1940年(昭和15年)の4月27日~5月12日にかけて8日間開催された春季競馬の成績表なるものを見ると、特配が出たレースが9レースありほぼレース開催日1日に1回特配が出たという計算に。

ちなみに4月27日には、第7レースで2円50銭(約1万3千円くらい)、第8レースで14円50銭(約7万3千円くらい)と2レース連続で特配が出て、仮にこの2レースの馬券を買った人は予想がはずれても約9万円弱を手に出来た、という次第(さすがに馬券と入場料が高いから元は取れませんが)。

これらのことや、さらに神奈川県内の自動車登録台数が2千台に満たない時代(ちなみに現在は約4百万台弱)に、レース開催日の桜木町、日ノ出町、根岸一帯は、競馬場へ行く車、帰る車で渋滞した(当時は道路が狭かったということも多分に影響していると思いますが)という逸話から、この時代の競馬はギャンブルというよりも、セレブな方々の社交場という色合いが強かったようです。

しかし戦雲急を告げ始めた1943年に横浜競馬場も閉鎖され丸ごと海軍に売却され、それ以降は、文壽堂印刷工場として観覧スタンド内において海軍向けの地図、海図などを、戦後は米軍向けに地図、部隊報告書、名刺、請求書その他の書類の印刷を行っていたそうです(詳しくは横浜市史資料室の情報誌「市史通信」をご参照ください)。

さてここで文壽堂(ブンジュドウと読む)などという聞きなれない名前が出てきたので、アレやコレやと調べてみると、この会社は元をたどると1880年(明治13年)創業の輸入文具問屋で、その後、銀行や商店などが顧客に配る手帳(名入り手帳)の製造販売で大当たりし、当時はどの手帳も裏表紙を開けると「日本洋式手帳開祖横浜馬車道文壽堂」という文句が印刷されていたとかで、この会社の社長さんは立志伝中の人として当時は有名だったんだそうな。

そしてその後、印刷出版業にも手を広げ、前述のように根岸競馬場のスタンド内を印刷工場にして、千人以上の従業員を擁して、戦時中は海軍、戦後は進駐軍向けの印刷を一手に引き受けていたものの、1948年に戦時中に印刷用紙などを不正隠匿していたカドで摘発を受け(商売敵の妬みやっかみ逆恨みなどによりハメられた、との説アリ)、この結果、この2年後に米軍の印刷業務から外された文壽堂は敢え無く倒産。

この結果、戦前は立身出世の人として有名だったシャチョーさんは三浦半島某所に引きこもり、終戦直後の混乱期に路頭に迷うこととなった約千人もの従業員の再雇用問題に関する請願書が、当時の国会に提出されるくらいの大問題に発展したそうな。

そして文壽堂撤退後は、スタンド内部は米軍の住宅管理司令部に、馬場はモータープール、コース内側がゴルフ場、スタンド前がニートナットクラブと称した遊園地として使用されていたそうです。

という長い長い前置きはここまでにして、これらの写真を撮影した時は、根岸住宅地区の一部が返還されたと聞いて、こちら方面というか、高台というか、いわゆる山手方面は当時、私が勝手に決めた撮影範囲から外れていたのですが、「どんなモンだかちょいと見物してやろう」という物見遊山気分でイソイソと根岸まで出かけました。

そして森林公園の駐車場に車を駐めて、旧コースを時計回りに歩きはじめたのですが、第5消防署を過ぎたあたりから市道の内側の旧コースにあたる部分(要は第五消防署の並びで現在は米軍ハウスは取り壊されて緑地化されているようですbyストリートビュー)には米軍住宅が立ち並び↓

c0247059_16172142.jpg


さらにそのうえそれらの家には人が住んでいる気配がムンムン状態で↓、

c0247059_16193239.jpg


c0247059_16181588.jpg


c0247059_19375758.jpg


「ここって入ってオッケーだよなぁ」などと訝しみながらもさらに歩いて、最終コーナーを抜けたあたりに市バスの転回場が↓

c0247059_16174337.jpg


どうやらここが米軍根岸住宅地区の入り口のようですが↓

c0247059_1617587.jpg


私の記憶が確かなら、当時は、道路脇にフェンスがあっただけで、このての施設入り口に付き物の警備員の詰所も無ければゲートも無し。

c0247059_16191539.jpg


しかし目指すスタンド廃墟はもうちょっと先。

c0247059_1619038.jpg


スタンドのそばまで行こうと思えば行けそうな雰囲気でしたが、誰が見ても「ここからは米軍用地だよ」というのが明らかな状態だし、スタンド近辺は人の気配がムンムンだし、これではさすがに素知らぬ顔をして忍び込むとナニかとカドが立ちそうな気配を感じて、ちょっと遠慮してフェンス沿いの雑草をかき分けながら接近したのですが↓

c0247059_1618484.jpg
*写真はすべて1984年撮影。


ここまでが限界でした(笑)

もっとよく撮りたかったら、山元小学校の方からグル~ッとスタンドの裏手に回り込むとか、毎年7月だか8月のフレンドシップデーになぬ食わぬ顔で紛れ込むとか(現在もマメに第七艦隊のツイッターを見ているとアレやコレやのこのてのイベントの入場申し込みを行なっています)、という手もあったのですが当時は、「数年以内に根岸住宅地区は池子に全面移転する」という話がまことしやかに囁かれていたもので、「別に慌てなくてもあとでゆっくり撮ればいいや」くらいにしか思っていなかったもので・・・・・・

二等馬見場が取り壊されることを知っていたら多少のキケンは顧みず(笑)取る物も取り敢えず再チャレンジしたのですが・・・・・・




[PR]

by yokohama80s | 2013-03-10 00:02 | 根岸、金沢地区 | Comments(4)
2013年 03月 03日

本牧1丁目 VFW(退役軍人クラブ )

c0247059_1792747.jpg


かつて石川町駅からPX方向に本牧通りを歩くと、本牧1丁目のライブハウスなのかレストランなのかケジメのつかないイタリアンガーデンという店(←興味が無いことにはまったく関心が無い私ですw)の隣というか手前に、真っ白に塗られた2階建ての建物にVFWというネオンサインを掲げた、ちょっとニホン離れした雰囲気の店なのか事務所なのかこれまたケジメのつかないアヤシイ建物がありました。

そこで恐る恐る玄関に近づいて正面ドアのプレートを読んでみると、なにやら「アメリカ人とその妻の同伴者歓迎」だの、「入店の際はベルを押せ」などと書かれた看板が出ていて、なにやら「日本人お断り」的な雰囲気満点↓

c0247059_1793967.jpg


「OPEN」の看板が掲げられているものの、なにかのお店のようには見えないし、さらに怪しさを増しているのが禁酒法時代のヤミ酒場を彷彿とさせるドアにはまったハーフミラー↓

c0247059_1795243.jpg


しかしドアの脇を見るとガラス窓には、なにやらかっこいいステッカーが・・・・・・

c0247059_1710742.jpg


c0247059_17102190.jpg
*写真はすべて1981年撮影。


このステッカーに書かれている文字から、VFWは"Veterans Foreign Wars"、訳して「海外戦役従軍軍人クラブ」(?)の意のようで(ただの「退役軍人クラブ」でもOKなようです)、この建物はその団体の関連施設だ、ということがわかりましたが、ステッカーが無ければただの怪しげな会員制の秘密クラブにしか見えません(笑)

それから31年の時を経て改めてグーグル先生に聞いてみると、VFWとは海外での戦争に参加したアメリカ軍退役軍人の団体で会員数が160万人。

傷痍軍人や戦争未亡人などに対する救済活動や、ロビー活動を行うというお堅い団体のようですが、ネット上にはこの建物の内部の写真が上がっていて、それを見るとお堅い名前に反してごくごく普通のバーだったようです。



*たぶんこのあたりではなかったかと・・・・・・

[PR]

by yokohama80s | 2013-03-03 00:04 | 本牧・小港・新山下 | Comments(2)