週刊 横濱80’s

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2012年 12月 30日

同潤会山下町アパート二号館

ということで、先週の同潤会山下町アパート一号館につづき今回は、新築当時は世帯住宅(家族向け)だったというカタカナの「コ」の字型をしていた二号館です。

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*1981年撮影(コの字の西側、通りに面した一号館側)


「コ」の字の通りに面している面の2階、3階の部屋には、アーチ型の窓があしらわれていて、他の部屋と比べるとちょっと高級感が感じられます。

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*1981年撮影(通り側から「コ」の字を見るの図)


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1981年撮影(コの字の東側)



二号館東側の通りから二番目の階段塔↓。
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*1981年撮影


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*1981年撮影


ちなみに同潤会は、「震災後に建設された公設バラック(今で言う仮設住宅)の解消」と、「不良住宅地区(明治以降、地方からの人口流入によるスラム化が問題になっていた)の改善」を目的に設立され東京、横浜に鉄筋コンクリートのアパートメントを山下町を含めて15ヶ所、今風の洒落た言い方をすればテラスハウス、実際のところは関西などに多い2階建ての文化住宅が連なり、敷地内に公園、集会場、店舗、テニスコートを完備した住宅団地を12ヶ所(横浜には新山下、滝頭、大岡、井土ヶ谷の4ヶ所)に合計1000戸建設した公設の公共団体で現在のURの元となった組織でした。

それが皮肉なことに、建設から半世紀余り経過したら、「スラム化の解消」の為に建設された建物自体が「スラム化云々」などとメディアに取り沙汰されるようになってしまうのですから、これを皮肉と言わずしてなんと言えば良いのでしょうか?

という話は置いておくとして、下の写真は階段を上がってみたの図。

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*1982年撮影


右側のドアが、1927年(昭和2年)竣工時のオリジナルの鉄製ドア。

オリジナルの鍵を失くしてしまったのか、金折に南京錠では同潤会アパートの売りでもあった「建具は堅固にして盗難留守居等の不安なきこと」として、国内の共同住宅では初めて採用された鉄扉も形無し、と言ったところでしょうか。

ちなみに85年発行の中区史によれば、「山下町アパートには現在97世帯が住んでいる」とされていましたが、撮影当時の段階ですでにその半分も住んでいなかったように思います。

すでに一号館一階南側の角部屋には再開発JVの事務所が入ってましたし・・・・・・

ということでこの九龍城砦もかくやという状態だった同潤会山下町アパートは、これらの写真を撮影してほどなくして取り壊され、現在、跡地には高級マンションが建っています。

ということで、今週号で2012年最終号になります。

来年は1月6日から、いつものように毎週日曜日に更新しますのでもよろしくお願いします。

それではみなさん、良いお年をお迎えください。

ちなみに来月は
1/6  本町6丁目 宇徳ビル別館
1/13 山内埠頭 その2
1/20 世界最大級のクレーン船 その2
1/27 中消防署 日本大通出張所

を順次UPしますので、お楽しみに。



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by yokohama80s | 2012-12-30 00:04 | 山下町 | Comments(0)
2012年 12月 23日

同潤会山下町アパート一号館

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*1981年撮影


さて、今週と来週は年末蔵出し総特価市(?)として、前回のプレビュー版に続き、同潤会山下町アパートの詳細バージョンを二回に分けてお送りします。

ということで、今回は二棟あった山下町アパートの西側にあった"ロ"の字型の方、新築時は1Fが店舗兼住居と世帯者用住宅で、2F、3Fが独身者向けアパートとして建てられた同潤会山下町アパート一号館。

ちなみに80年代当時の正式名称は、ただの「山下町アパート(アパートメントとの説もアリ)一号館」。

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*1982年撮影


上の写真は南側の三連アーチの入り口。

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*1981年撮影


もともとは三つとも中庭に通じていたはずなのですが、撮影時には左のアーチ部分に管理事務所が、右側には物置が作られていて真ん中だけが通り抜けすることができました。

ということで、真ん中のアーチをくぐって中庭に。

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*1981年撮影


ちょうど影になっていて良く見えませんが、画面左側にブランコと鉄棒がありました。

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*1982年撮影


上の階に行く階段がどこにあるのやら・・・・・・

ちなみに昭和初期の同潤会の事業報告書によると、山下町アパートには世帯住宅(新婚さんおよび家族用)として各部屋にコルクを下張りしたフローリング床に押入れ、鏡付き洗面台、下駄箱、帽子掛け、表札、暖房用ガス(暖房設備そのもではなくガスストーブ用のガス栓のことのようです)、水洗トイレ、流し、食器棚、調理台、かまど(今で言うガス台のこと)とダストシュートが完備されたキッチン付きの6畳+3畳の2Kから、8畳+4畳半+3畳の3DKまで全9タイプと(風呂については新築時の入居者が希望した場合についてのみ設置されたようです→山下町アパートがそうだったのかは定かではありません)、独身者住宅として共同の炊事場兼流し兼洗面台、トイレと入居者用食堂が完備された3畳~8畳までのワンルームが9タイプ(平たく言うとまんま学生寮とか会社の独身寮的なモノ)、さらに通りに面した一階部分には店舗付き住宅として土間(店舗スペース)+6~8畳一間の1Kから、6畳+4畳半の2Kまでの全4タイプの合計21タイプの部屋があり、昭和10年当時の家賃が世帯向けが一ヶ月12円10銭~21円(約6万~11万円弱)、独身者向けが6円50銭~13円50銭(約3万~7万円弱)、店舗兼住宅が23~45円(約12万弱~23万円弱)で、昭和2年に山下町アパートが新築された時の入居希望者が募集戸数148戸(山下町アパートは全158戸あった)に対して404件の申し込みがあり、一説によるとその後も常に空き部屋待ちの状態だったそうです。

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*1981年撮影(”ロ”の字と”コ”の字の間の部分から”ロ”の字館を見るの図)


戦前の資料などを見ると、初めにも書いたように一号館の2F、3Fは独身者向けのワンルームが連なっていたはずなのですが、窓に干された洗濯物を見ると、どう見てもワンルームには・・・・・・???

同潤会から経営を引き継いだ住宅営団が、終戦後に解散した時に、地元の不動産会社がまるごと買い上げて分譲したとの話を聞いたことがあるので、付加価値を上げるために独身者用ワンルームの壁をぶち抜いて世帯向けにリフォームして売りだしたのか、はたまた数部屋を買い上げた人がそうしたのか、それとも本来、共用スペースである廊下ごと数部屋買い上げてしまった(廊下の両側に部屋が並んでいた上に、要所要所に防火扉が設置されていた)人がいたのか実際のところはナゾです。

なにせ写真を見てもおわかりのように、現在の共同住宅という概念では考えられないくらいフリーダム状態ですから(笑)



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by yokohama80s | 2012-12-23 00:03 | 山下町 | Comments(0)
2012年 12月 16日

山下町25番地 旧インドクラブ

私は「横浜とインド」と言われて一番最初に連想するのは、その昔、横浜名店街にあったカレーハウス・リオなのですが(ちなみに私的にはジョイナス移転後のリオは同名他店だと理解しています)、実際、横浜とインドとのつながりは意外に深く、横浜が開港した時にイギリス人などと共にインド人商人たちも横浜にやって来て、1893年に日本郵船によりムンバイ航路が開設されるとさらに多くのインド人商人たちがやって来て主に絹織物の輸出を手がけていたのだそうです。

そしてインド人商人の増加を機に、横浜のインド人の商業上の利益保護を目的とし「横浜印度商協会」が設立され、この会の建物が震災前までは山下町275番地に設けられ、震災後に山下公園前の県民ホール、ニューグランドの一本裏の水町通りの1軒おいた左隣にインペリアルアパート、右隣には警友病院みなと寮がある山下町25番地1に移転。

その建物が↓

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「インド人クラブ」はたまた「インドクラブ」、「インディアンクラブ」と呼ばれたこの建物で、この建物と隣の旧警友病院みなと寮↓

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の裏手にテニスコートがあったそうです(ということがコチラに出ていますw)。

ということは、この建物と軒を接していた旧警友病院みなと寮も、元々はインドクラブ関連の建物だった、ということなのでしょうか?

そこでざっくりと調べてみると、昭和5年の地図にこの建物と思われる記載があることかや、保険代理店業務を行っていたスタントン商会がこの場所を所在地としていたことなどから推測すると、この建物は昭和5年までにスタントン商会によって建てられた……ということのようです(真相は不明ですが)。

などという近代建築マニア的な話よりも、私が興味を引かれたのが石積のバルコニー兼玄関部分です。

見れば見るほど、石積みの玄関兼バルコニー部分に「取ってつけた」感を感じるのは気のせいなのでしょうか?

確かに「これが東インド会社風だ」と言われればそういう気もしないでもないのですが、私としては、敢えてあと付け説を唱えたいと思います。

と言ってみたところで、すでにこの建物は取り壊されてマンションに建て替えられている今となっては、あまり意味の無い話ではありますが・・・・・・

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*石積玄関部分と母屋の接続部。なんかアヤシイ!


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*飾り部分は、光沢の具合からもしかして大理石でしょうか?


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*写真はすべて1981年撮影


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by yokohama80s | 2012-12-16 00:04 | 山下町 | Comments(2)
2012年 12月 09日

新港埠頭 八号上屋

1942年(昭和17年)に発生したドイツ軍艦爆発事故シリーズの最終回。

今回取り上げるのは、爆発事故を起こしたウッカーマルク、トールが停泊していた8号岸壁の8号上屋。

本来、新港埠頭の左右2本ある突堤の左側(西側)の凹部内側の7号、8号岸壁には、もともと1~3号、5、6号岸壁にあった上屋と同タイプの鉄骨波板張りの上屋が建てられていました。

しかし関東大震災で、左突堤の7~12号の上屋は倒壊し、9~12号岸壁は崩壊して水没。

ちなみに近代デジタルライブラリーで見ることができる、1929年(昭和9年)に当時の内務省横浜土木出張所が発行した「横浜港震害復旧報告書」には、ハンマーヘッドクレーンだけが無傷で海面に建っている姿を写した写真を見ることができます(当時の大蔵省の資料には「五十噸定置起重機も含めて埠頭内の全起重機大破につき使用に堪えず」とあるが、内務省の前記資料の写真キャプションには「無事なる五十噸定置起重機」とある不思議?)。

ということで、右突堤の上屋は4号上屋を新築し、それ以外は修復(修復と言っても、さまざまな資料を見るとどうやら元々あった上屋と同一の建物を元々あった場所に復元する、という意味のようです)、7~12号上屋は左突堤の拡幅にともなってすべて新築することになり、7,8、12号上屋の3棟は1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート1階建ての耐火倉庫として作られました(12号上屋はちょっと遅れて1930年/昭和5年竣工)。

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*1987年撮影(右奥が8号上屋、その手前が公衆トイレ、左手前が10号上屋、左奥が9号上屋)


しかし戦時中の1942年にドイツ軍艦爆発炎上事故に被害を受けて7号上屋は倒壊。

一方、8号上屋も全焼の被害を受けましたが、7号上屋が再建されることがなかったのに対して、併設されていた公衆トイレ共々、当時の姿のままで80年代にも存在していたということや、事故当時の時代背景などから考えると、8号上屋が爆発事故で受けた被害はそれほど深刻なモノでは無かったと推測できます。

そういうことから言えば、7号上屋が被害担当艦の如く爆発事故による被害を一身に請け負って倒壊したことと引き替えに、先週の第二分室とともに、この8号上屋も事故後40年経過した80年代にこうして写真に記録することが出来たとも言えるわけで、それを思うと一種、感慨深いものがあります。

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*1983年撮影(8号上屋から万国橋方向を見るの図)


と思うのは今になってからの話で、撮影当時はそのような逸話はまったく知る由もなく、ただ単純にマメにペンキを塗りなおしていた新港埠頭の岸壁沿いにあった他のトタンの波板張りの鉄骨上屋に比べて、この8号上屋は廃墟感に溢れていた為に撮影しただけなのですが・・・・・・(笑)

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*1983年撮影


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*1983年撮影


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*1987年撮影


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*1987年撮影




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by yokohama80s | 2012-12-09 00:02 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 12月 02日

新港埠頭 旧税関第二分室

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*1981年撮影



上の写真の建物は、7号岸壁の付け根部分にちょこんと建っていたのですが、この建物を初めて見たとき、「どうしてこんな所に家があるのだろう?」と思って、ガラス越しに中をのぞき込んだりもしたのですが、この時すでに空き家になって建物内はスッカラカン。

結局、何に使われていたのかわかりませんでした。

万国橋を渡ったところに港湾局が設置した埠頭構内図にも記載がありません。

また米軍がなにかの事務所に使うために建てたにしては立派すぎるし、8号上屋側に米軍式のバラック(コチラの上から4枚目の写真)があったし・・・・・・

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*1981年撮影


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*1982年撮影
(81年の写真では七号岸壁に自由に出入りが出来たのですが翌年にはフェンスが作られ出入りが出来なくなって」しまいました)


というワケで、この正体不明のナゾの建物については撮影後から今まで、なんの建物だったのかがわからなかったワケですが、先週取り上げた、「どうして7号上屋が無かったのか」を調べていた時に、はからずも正体判明。

参考資料として購入した横浜港ドイツ軍艦燃ゆに掲載されていた、爆発による被害状況の地図に、該当の建物があった場所に第二分室の記載が(注:1934年の税関設備図では"貨物係第三分室"とあるが第一分室の記載は無い)。

さらに事故直後に撮影された写真(P118の写真8)に、屋根瓦がキレイに吹き飛ばされてはいるものの、この建物がこのままの姿で写っています。

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*1981年撮影


ということで、あれやこれやと調べてみると、どうやらこの建物は震災後に新港埠頭内に三棟建てられた税関監所のひとつで、横浜港駅旅客ホームの東京側の四号岸壁側に第一分室(注:1934年の税関設備図では"貨物係第二分室"とある)が、生糸上屋の万国橋側に第三分室があったようです。

しかし撮影時に万国橋にあった「ふ頭構内図」によれば、一号分室は元の場所に(確か最近建てられたような2階建ての事務所があった)、11号上屋の万国橋側に第二分室が(物置のような小屋があったような・・・・・・?)記載されています。

となると、この旧第二分室の建物は、震災後に3棟建てられた税関分室の唯一の生き残り、と考えて良さそうです(同じ仕様の建物を3棟建てたという前提ですが)。
蛇足ですが、1978年度版住宅地図では、該当の建物には"Yokohama area security guard office"と記載されていることから、少なくともこの頃までは三井倉庫の生糸上屋、B号、F号倉庫、新港倉庫A号倉庫、七号岸壁を接収していた米海軍の警備員事務所として使われていたようです。
また現在、この建物があった場所は「客船ターミナル」交差点のど真ん中あたりになります。

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*1987年撮影(右奥にあるのが新港倉庫A号倉庫、右手前が日本冷蔵、左手が米軍簡易冷凍庫)


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*1983年撮影


ということで、次回は"ドイツ軍艦爆発事故"第三弾として、爆発したウッカーマルク、トールが係留されていたまさに爆心地にあった"8号上屋編"をお送りします(って、またテキトーに写真をUPするだけですが・・・・・・)。

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*1987年撮影




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by yokohama80s | 2012-12-02 00:04 | 新港埠頭 | Comments(2)