<   2012年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧


2012年 09月 30日

山下町224番地 花園橋病院別館

かつては下を大岡川が、現在は首都高の車が流れている花園橋を渡り、大桟橋通りの2ブロック目手前を右に入った所に写真の花園橋病院別館がありました。

c0247059_16154492.jpg


上の写真を見て「こんな病院ちょっといやだ」と思った方、ご安心下さい。

写真の建物はあくまでも花園橋病院別館で、この建物と通りを挟んで真向かいの旧ウインクレル商会の裏手にあたる所にちゃんとした病院がありました。

ということで今回、この記事を書くにあたり「その後、この病院はどうなったのかな?」と思いストリートビューを覗いてみると、本館、別館共に該当の場所にはマンションらしきビルが建っていて病院の影も形もありません。

そこで今度はググッてみると、なにやら花園橋病院は1998年にM&Aにより某病院チェーンに買収され、その後、2002年に伊勢佐木町近くの廃業した高層ホテルを改装し病院名を変更して移転したとのこと。

ということで現在、花園橋病院は跡形もなく消えてしまったワケですが、かつて病院があった場所の隣に建てられたビルに病院を買収した法人が開設した診療所がありますので、それがかつてここに病院があった名残ということになるようです。

さらに地元不動産会社団体のHPに、そこに加盟している某社の沿革に「昭和30年に花園橋病院を買収した」と出ているのと、Wikiの1960年(昭和35年)に発生した「横浜歌謡ショー将棋倒し事故」の欄に負傷者の搬入先として名前が挙がっているだけで、後にも先にも花園橋病院の名前は出てきません。

c0247059_16163239.jpg


そこで今度は「花園橋病院はいつからあったのか?」ということを調べてみると、横浜市三千分一地形図で見ると、昭和39年版の224番地の建物に「花園橋病院」との記載があるのですが、それ以前の地図には「花園橋病院」の記載はなく、変わりに該当地の該当の建物には昭和25年版には「横浜繊維製品検査場」、昭和7年版には「輸出絹織物検査場」との記述があります。

c0247059_15333441.jpg


ただ戦前と戦後(昭和39年=1964年)とでは建物の形状が違うので、国土地理院の地図空中写真検索サービスの空中写真で見比べてみると、一番古い1944年から1977年までの空中写真で同じ形状の建物を確認することができます。

c0247059_17255335.jpg


そうなると撮影当時、「花園橋病院別館」だった建物は戦前から存在することになるので、こんどは「輸出絹織物検査場」について調べてみると、1930年(昭和5年)刊行の帝都復興史なる書物に、「生糸検査場の付帯施設として輸出絹織物検査場を大正5年に北仲通6丁目に建設したが震災で全壊。その後、大正15年に山下町に新たに建設。初めは県営だったが1927年(昭和2年)に商工省の管轄となり国営となる」とあります。

c0247059_1617222.jpg


c0247059_16173159.jpg


また昭和5年度版「横浜商工名鑑」には山下町224番地に横浜輸出絹織物検査所の記載があることから、これらを総合すると写真を撮影した当時に「花園橋病院別館」だった建物は、1926年(大正15年)に神奈川県営の輸出絹織物検査場として建てられ、その後、1927年(昭和2年)に国営化されて商工省輸出絹織物検査場となり、昭和30年前後に建物が民間に払い下げられて花園橋病院に。

その後、1970年頃に花園橋病院は別館向かい側に建てられた新館に移転し、旧輸出絹織物検査場の建物は、どのような経緯かは不明ですが「片岡ビル」という賃貸ビルとなったものの、これらの写真を撮影した1980年頃には「片倉ビル」から花園橋病院別館となり病院の車庫兼倉庫として使われたものの、1981年~1982年に建物は取り壊され、現在、同地に建っているマンションの建設が始まり現在に至る、ということになるようです。

c0247059_16174490.jpg


c0247059_16175425.jpg


c0247059_161833.jpg
*ビル正面の右端に、写真のような煙突があるちょっと不思議な建物でした。


*写真は三枚とも1981年撮影


[PR]

by yokohama80s | 2012-09-30 00:02 | 山下町 | Comments(2)
2012年 09月 23日

山下埠頭

c0247059_052554.jpg
*埠頭入り口にある移動式の大看板


山下埠頭は、山下公園の東側(海に向かって右手方向)にある1953年(昭和28年)着工、1963年(昭和38年)竣工の埠頭で、完成当時は東洋一の規模を誇っていました(当時はなんでもかんでも東洋一と言っていたような気がする)。

しかし横浜港の中でも比較的に新しい山下埠頭も、80年代に入ると船が停泊して荷役作業を行う埠頭としてよりも、埠頭内陸部の倉庫群が横浜港の物流センター的役割を担うようになり、そちらの方が岸壁よりも賑わっていたような印象があります。

なにせ平日にフラッと山下埠頭に潜入(?)しようものなら、港内を走り回るトラックやら海コン、フォークやらがものすごいスピードで縦横無尽に走り回っているし、上からはガントリークレーンに吊されたパレットが降りてくるし、とてもとてものんびり写真なんか撮っていられるような状況ではありませんでした。

c0247059_055256.jpg
*80年代に倉庫のガントリークレーンが現役だったのはこの埠頭くらいでした


ということで山下埠頭へ潜入するのは、自ずと港内作業が休みになる土曜日の午後か日曜日ということになります。

c0247059_061074.jpg
*山下公園側の1号岸壁・三井倉庫


c0247059_062574.jpg
*3号岸壁・市営3号上屋


c0247059_064111.jpg
*倉庫手前の線路が山下埠頭駅の貨物ヤード。現在、跡地には横浜航空貨物ターミナルが建っている。


*すべて1982年撮影。


[PR]

by yokohama80s | 2012-09-23 00:03 | 山下埠頭 | Comments(0)
2012年 09月 16日

横浜税関西門

本土側から新港埠頭へ行くには、桜木町駅方向から、または馬車道から万国橋を渡るルートと、関内駅南口からみなと大通りを直進して海岸通りを横切って"クイーン"こと横浜税関庁舎横を通って新港橋を渡る、という二通りのルートがあります。

新港橋ルートで新港埠頭に行くときに、みなと大通りから海岸通りを横切り税関庁舎脇を抜ける時に、税関庁舎の道路を挟んだ反対側に「横浜税関西門監所」という交番のような建物がビルの一角にあり、その脇の道路にはみ出した所に、写真の「横浜税関西門」と書かれた銅板がはめ込まれた門柱があります・・・・・・というよりありました(税関庁舎側にも門柱があったかどうかは記憶が定かではありませんし)。

c0247059_19222491.jpg
*1982年撮影(写真右手の入り口に赤灯があるのが横浜税関西門監所)


しかしよくよく考えてみると、件の門柱は税関庁舎の東側に建っているのに「西門」とはこれ如何に? 

実は1859年に横浜開港を機に、現在、日本大通りから海岸通りを渡った先の広場になっているあたり、80年代には東西上屋があった区画を柿渋が塗られた黒い板塀で囲って、その中に税関の前身である運上所が設けられ、その板塀の西側、現在、海岸通りにある昭和ビルの裏あたりに西門が、また現在の開港広場交差点のジャパンエキスプレスビルと貿易会館の間あたりに東門が設けられたことに端を発しています。

その後、明治政府発足に伴い運上所が税関に移行し、初代庁舎が一旦、現在の県庁の辺りに建設されましたが「海から遠くて不便極まりない」ということで、当時の県庁庁舎が火事により焼失したことをきっかけに、税関庁舎を県庁に譲り、税関庁舎はかつて運上所のあった場所、日本大通りの突き当たりの真正面に移動しました。

そして運命の1923年(大正12年)。
関東大震災により二代目庁舎が完全に崩壊。

この時、税関庁舎再建よりも港湾施設再建が優先された為に、税関庁舎は万国橋を渡った右側の新港埠頭内にあった税関敷地に仮移転。

そして震災から11年後の1934年(昭和9年)にようやく現在地に"クイーン"と呼ばれるようになる庁舎が完成し、海岸通りも現在のように直線化された為に(震災前の海岸通りは現在の税関庁舎のあたりから海側に切れ込んで昭和ビルのあたりで再び現在のルートに戻っていた)、西門は税関裏に移動した、というのがこの門柱に関する歴史的背景のようです。

このことから震災前はレンガや石積みが、震災後はコンクリートが主要な建築材料だったことなどを考えると、この石積の門柱が建てられたのは必然的に1912年以前だろうということになります(←私が勝手に願望を言っているだけですのでお気になさらずに)。

これらのことから道路にはみ出して車線を塞いでいるにも関わらず、80年代にこの門柱が現存していたということは、昔の人はこの門柱の価値を充分に理解していた、と想像できます。

ところが現在、この門柱は撤去されてしまったようです。

確認の為に伝家の宝刀ストリートビューで確認してみても西門門柱は影も形も見当たりませんでした。

確かにあのような柱が道路側にはみ出して建っていたら車の通行の邪魔になるでしょうが、邪魔になると言ったら新港埠頭が港として活気に満ちていた80年代前半の方が遙かに邪魔になっていたはずですし、この頃には"近代遺産"などという言葉も感覚も無かった時代ですから、このような柱くらい壊そうと思えばいつでも壊せたはずです(実際、「邪魔臭い」という理由で、1979年頃に旅客ターミナルこと新港埠頭四号上屋を情け容赦なく取り壊して更地にして貨物置き場にしてしまった)。

それが写真のように80年代当時にも残されていたということに、当時の関係者の方々には「この門柱は残すんだ」という明確な意志があったのではないでしょうか???

少なくとも私にはそう思えます。

それにこの程度のモノを保存するのに、いったいどれだけの手間暇が掛かると言うのでしょう???

この門柱を保存することよりも撤去することを選択した人たちの、その感覚とセンスに私は首を傾げざるおえません・・・・・・という、済んでしまった話を蒸し返すのはここまでにして、「西門があるのなら東門はどこ?」と疑問に思うのは至極当然のことだと思います。


*追記
この税関西門の門柱は、下の方を切断して短くなった形で新港埠頭旅客ターミナル入り口門柱として再利用(?)されています(でもどこにもそのことが書かれていないのはなぜ???)



[PR]

by yokohama80s | 2012-09-16 00:06 | 新港埠頭 | Comments(2)
2012年 09月 09日

本町ビル

以前、8月12日の「弁天町界隈」の記事で↓

c0247059_17274767.jpg


↑の写真の建物について、「旧宇徳ビルの並びにあった名称不肖のビル」と記しましたが、その後、グーグルストリートビューを眺めていたら(現在、北海道の片田舎在住なもので、現状確認はストリートビュー頼みなんです)、県立博物館の北側にあたる本町4丁目に写真↓と同じ建物が・・・・・・

c0247059_1728118.jpg


さらに地図上にはビルの名称までもが・・・・・・

ということで、本町ビルでググッてみますと、1929年(昭和4年)に帝国火災保険横浜支店として建てられたそうです。

さらに物置や押し入れをゴソゴソやったら、8/12にアップした写真とは別カットを発見。

ということで、早々に。

ただストリートビューと80年代当時の写真を見比べてみると、どうやら1階部分が改築され、例の通気塔や「ついてる」の暖簾がかかった入り口部分は

c0247059_17282141.jpg


撤去されてしまったようですが、アーチ状の通用口は現在も健在。

さらにアメリカンチックな非常階段も健在!

c0247059_17284051.jpg
*写真は全て1981年撮影


ストリートビューでかつての撮影地を眺めていると、ほとんどの建物が解体されガラス張りのピカピカなビルに建て替えられていたり、低層階の壁だけかつての姿を留めてはいるものの、その上は無機質な高層ビルになっている「キカイダー建築」だったりと、あまりの変わり具合に一抹の寂しさを感じていたのですが、本町ビルのように、「何気にそのまま」という姿を発見するとつい嬉しくなってしまいます。

ということで、こちらの記事の方も、新事実判明(?)にともない、新たに訂正いたしました。

追記
なにやら情報によると、この本町ビルは今年に入ってから解体されたのだそうです。
そこでストリートビューの撮影日を見ると、「2009年9月」でした。




[PR]

by yokohama80s | 2012-09-09 00:04 | 関内地区 | Comments(0)
2012年 09月 02日

旧大宝堂時計店(今野アートサロン)

関内駅北口から馬車道を万国橋方向に歩くと、関内駅近くの三角形の徳永ビル以外には大した見物もなく、いかにも最近出来たという風情のお店が通りの両側に並んでいる中を進んで行くと、突然↓

c0247059_1459993.jpg


「いかにも」という風情満点の三階建てのビルが現れます。

このこぢんまりとした風情満点のビルは、旧大宝堂時計店こと当時は今野アートサロンという画廊のビルで、一階には店の中に黒い大金庫がある喫茶店。

二階がM&R探偵社・・・・・???

ではなくて、これはたまたま通りかかった時に、当時、民放某局で放映中だったTVドラマのロケ現場に出くわした時のモノ。

ちょっとミーハーして窓に群れている女の子たちの頭越しに覗いてみると↓

c0247059_14592225.jpg


リーゼントと鼻ヒゲがトレードマークのダンディーなフジタツさんが・・・・・・

というネタはこのあたりにして、この旧大宝時計店の建物は1928年(昭和3年)に竣工した建物で、撮影当時は一階には喫茶店(店名不明)、二階が今野アートサロンという画廊、三階が個人住宅になっていました。

c0247059_145937100.jpg
*右手奥に見えるのが旧・日本火災横浜ビル


現在は関内駅から北東に伸びる馬車道通りがメインストリートになっていますが、この建物の建設当時は京浜東北線こと当時の京浜電車は桜木町が終点だった為に、桜木町から日本大通り、山下町方向へ南東(日本大通りから北西)に延びる道がメインストリートで、特に弁天通りには海外からの観光客目当ての小洒落た店が建ち並び、聞いた話では今で言う表参道(?)のような華やかさだったそうです。

しかし80年代には、日本火災横浜ビルと県立博物館以外には、壁が剥がれ墜ちたボロボロのビルが数えるほどしか現存せず、往時の華やかさを偲ばせる建物はこの建物しかありませんでした。

c0247059_14595317.jpg


ストリートビューでこの建物があった太田町3丁目を見ると、なにやら現代風のデザイナーズビル(?)に建て替えられてしまっているようですが、個人的には、こういう建物こそ保存すべきだと思うのですが・・・・・・

*写真はすべて1981年撮影


[PR]

by yokohama80s | 2012-09-02 00:05 | 関内地区 | Comments(0)