週刊 横濱80’s

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カテゴリ:日本大通( 6 )


2017年 02月 26日

日本大通の戦前建築

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-写真①-
日本大通1 神奈川県庁本庁舎(1928年/昭和3年築)◯


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-写真①-
日本大通1 神奈川県庁車庫(1928年/昭和3年築)◯

 写真の建物は、海岸通側に県庁庁舎の周りを取り囲むように建っているレンガ塀のような建物。
これは建設当時の書物によれば、現在の県庁本庁舎建設時に付属施設として建てられた自動車庫。

 ちなみに撮影当時はレンガ積みの一階の上にもう一階建て増しした第二形態ですが、航空写真を見比べてみると、1945年(昭和20年)頃までは平屋建てだったものの、1955年(昭和30年)の写真には二階建てとなっているので、その間に増築され、その後、増築部分を撤去して元の姿に戻され、現在に至る、ということになるようです。


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-写真②-
日本大通3 旧イギリス総領事館(1931年/昭和6年築)◯

 ↑は言わずと知れた現在の横浜開港資料館ですが、この写真を撮影した当時は、旧イギリス総領事館を開港資料館に鋭意改装中の姿。


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-写真③-


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-写真④-
日本大通8 日本キリスト教会横浜海岸教会(1933年/昭和8年築)◯



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-写真⑤-


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-写真⑥-
日本大通9 横浜地方裁判所(1929年/昭和4年築)△


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-写真⑦-


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-写真⑧-
日本大通11 旧横浜商工奨励館(1929年/昭和4年築:横浜商工奨励館)△



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-写真⑨-
日本大通13 中消防署日本大通出張所(1928年/昭和3年築)X



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-写真⑩-
日本大通14 日東倉庫日本大通倉庫(1910年/明治43年築:三井物産横浜支店生糸倉庫)X



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-写真⑪-
日本大通17 アクメ貿易ビル(1902年/明治35年築:露清銀行横浜支店)X


*写真はすべて1982年撮影。




*来月、3月のUP予定
3月 5日:30年前の山下埠頭・その一
3月12日:30年前の山下埠頭・その二
3月19日:山下町の戦前建築・その一
3月26日:山下町の戦前建築・その二

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by yokohama80s | 2017-02-26 00:15 | 日本大通 | Comments(0)
2015年 02月 22日

日本大通9 横浜地方裁判所

この建物については、TVドラマや映画に登場する機会が多いので誰でも一度は目にしたことがあると思われるので、見方によっては「横浜を代表する歴史的建造物のひとつ」と言っても過言ではないかもしれません。

ただ一言付け加えるなら、この建物はこちらに書かれているように現存している建物は、オリジナルの部材を可能な限り再利用したとは言え一度取り壊されたあとに日本大通り沿いの壁面を復元したレプリカ建築。

個人的には、北仲通の旧生糸検査場こと現第二地方合同庁舎、横浜税関本関、日本大通の旧横浜商工奨励館と市外電話局こと横浜情報文化センターとこの横浜地裁のように、レプリカにしろオリジナルにしろ旧棟を手前に高層棟を奥に配置(セットバックというらしい)する手法は、高層ビルの低層階に旧棟の壁をデザインもヘッタクレもなく無理矢理張り付けたハリボテ建築、はたまたフランケンシュタインビルに比べれば数十倍はマシだと思います(本来なら復元されたレプリカと建物の現状保存とは明確に分けるべきなのですが横浜ではどちらも歴史的建造物として一括りにされています)。

しかしこの手法の最大の問題が高層棟を後ろに下げて建設するスペースと費用。
その証拠に、関内、山下町地区で高層棟をセットバックさせる方法で古い建物を保存あるいはレプリカ保存しているのはお役所関連がほとんどで、民間では山下町9、10番地で構成される区画をまるまる所有していたニューグランドだけ……だと思います^^。

本来なら、「ここが行政の腕の見せ所」のようにも思えるのですが……。

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*正面玄関
建設当時は正面玄関を入った奥に陪審員用の宿泊施設があったそうな


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*正面玄関の車寄せ


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*建物西側の出入口こと公衆出入口


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建設当時の裁判所一階部分の図面を見ると、裁判所の建物は日本大通に「日」の字を横たえた型になっていて、「日」の字の真ん中の横棒部分に正面玄関があり、そこを入ると大広間、その奥の左右に階段があり、さらに奥の扉の先には陪審員用の宿泊室や休憩室があり(戦前は死刑または無期に相当する刑事事件は陪審員制だった)、正面向かって右手奥の建物のカドに拘置囚用の出入口があり、そこを入った右手に看守詰め所、そして入口を入った奥に拘置室。
建物左手の真ん中にある公衆用出入口を入ると、左手に食堂、右手に登記室と司法記者室、裁判官や書記などの宿直室があったとのこと。

ちなみに桐蔭学園構内の施設内にこの裁判所の陪審法廷が移築復元されているそうですが、「どうせなら裁判所施設を高層棟にまるまる移して、旧棟は建設当時の内外装に復元して司法博物館か何かの展示施設にでもしてくれたら良かったのに」と思ってしまいます。


*写真はすべて1981年撮影





*来月3月のUP予定
3月 1日:大黒埠頭第一期埋立地
3月 8日:大黒埠頭第二期埋立地
3月15日:大黒埋立地の海岸線
3月22日:ベイブリッジ地組立ヤード
3月29日:首都高大黒ランプ建設現場

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by yokohama80s | 2015-02-22 00:02 | 日本大通 | Comments(0)
2014年 03月 30日

日本大通11 旧横浜商工奨励館

現在、日本大通の三井物産ビルの隣に低層階がクラシカルな横浜情報文化センターなるビルがあります。

このビルの低層階の日本大通側の旧館部分が、「横浜市が、今上陛下御大禮記念として去る昭和二年建設(原文のママ、ちなみに現在は昭和4年建設とされている)、横浜商工会議所の経営管理になるもので横浜商工会議所の所屋が一、二階全部を占め、輸出向け物産の陳列と、海外取引斡旋を主要事業としているが、館内には単に県下のみならず関東各地の輸出向け物産が一同に陳列され、国際都市横浜にふさわしく異国人の来観が多い」と1938年(昭和13年)発行の神奈川県商工要覧で紹介されている横浜商工奨励館だった部分になります。

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*正面玄関側


その後、戦後の一時期、横浜税関が使用していた時期もあったりしましたが、1975年(昭和45年)に商工会議所が山下町2番地に新しく出来た産業貿易センタービルに移転したことにより、その役目を終え46年の歴史に幕を閉じました。

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*正面玄関の洒落た照明


とここで話が終わればアレなんですが当初、横浜市はこの建物を取り壊すつもりだったのですが、建築学会だかなんだかから「歴史的に貴重建物なので保存すべき」という申し入れがあったり、はたまた建物下に関内と本牧方面を結ぶ地下鉄3号線の建設が予定されたり、かと思ったら、市の財政状況から地下鉄3号線計画と現在のみなとみらい線にあたるみなとみらい21線計画を天秤にかけて3号線計画をあっさり見捨てたり、という紆余曲折の結果、この歴史的建物はその行く末が定まらないまま、20年ものあいだ、日本大通沿いに朽ち果てるままに塩漬け状態に。

日本大通り沿いに、煤けた廃ビルが朽ち果てるままに放置されている、というのはちょっと異常で異様な風景でしたが、使われなくなって20年後の1995年(平成7年)になって、ようやく横浜市が「現在のような姿で保存」するという方針を打ち出し、施設の閉鎖から25年後の2000年に商工奨励館の裏手部分(旧電電公社の裏手でもある)に高層階を増築し、旧電電公社ビルと共に横浜情報文化センターとしてリニューアルオープンして現在に至り、めでたし、めでたし、という次第。

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*三井物産側通用口・その1


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*三井物産側通用口・その2


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*三井物産側通用口・その3


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*なぜかワンコが(25年間、完全な空き家だったわけでは無く管理人の方が常駐していたようです)


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*図面を見るとこの窓は男子トイレの窓のようで、どうやらトイレの窓というものは割られる運命にあるようです。


個人的には、どうせ旧商工奨励館と旧横浜市外電話局をセットで残すのなら、現在、駐車場となっている中消防署日本大通出張所も残して欲しかった、と思うのですが・・・・・・

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*往事には催し物の案内を掲示をし(・・・・・・たと思われる?)、現在は施設の説明パネルとして使用されている掲示板


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*旧横浜中央電話局の緊急車両出入り口


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*商工奨励館のあった一角はビルがテトリス状態(笑)
(1964年撮影の航空写真より)







*4月のUP予定

4月 6日 : 新港埠頭 九号岸壁
4月13日 : 住吉町1丁目・神奈川県庁住吉町分庁舎
4月20日 : 北仲通2丁目・興亜火災海上保険横浜支店
4月27日 : 山下埠頭・若草丸

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by yokohama80s | 2014-03-30 00:04 | 日本大通 | Comments(0)
2013年 10月 13日

日本大通14 日東倉庫日本大通倉庫

横浜公園を抜けて日本大通の銀杏並木を歩いて行くと、ちょうど2ブロック目に見た目はひとつのビルですが実際には正面玄関の左側が1911年(明治44年)築の一号棟で、右側が1927年(昭和2年)築の二号棟という2つの建物が合体した三井物産ビルがあります。

そしてその角を右に折れると、これまた見た目はこのビルと繋がっているように見えるタイル張りの壁が表れます。

これが現・日東倉庫日本大通倉庫こと、もともとは三井物産横浜支店生糸倉庫として1910年(明治43年)に建てられた御歳103歳の日本最古の全鉄筋コンクリート建築(実際には鉄筋コンクリートとレンガ積みと木造の混合建築)とされる建物です。

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*画面右の壁が三井物産ビル1号棟の倉庫部分、左が旧生糸倉庫こと現・日東倉庫


国会図書館近代デジタルライブラリーで閲覧可能な震災当時の大蔵省営繕管財局が編集した議院及諸官衛震害調査委員会・・・・・・面倒くさいから今風に言うと、議会とお役所合同の被害調査委員会の調査報告をまとめた1925年(大正14年)発行の「大正大震災震害及火害之研究」なる書物を紐解くと、「第一号棟倉庫(写真の日東倉庫のこと)には外部の焼レンガに軽微の亀裂が認められる」とあり、さらに「第二号棟倉庫(現在の横浜朝日会館ウラにあった)は全部焼失せり、第三号棟(?)は1~2化粧焼レンガが剥落した他は被害は認められない」とあります。

さらに続けて「本建物に隣接するチャータード銀行(煉瓦造)及獨亜銀行(煉瓦造)は跡形もなく倒壊しているから、この付近一帯は地盤が悪い。それにも関わらず本倉庫一号棟、三号棟に被害がないのは設計、工事施工方法が優秀だったからだ」と結論づけています(この書物では言及されていないが、この書物で言うところの四号棟こと現・物産ビル1号棟も被害がなかった)。

さてここで気になるのが、この書物でいう第三号棟なる建物。

そこでこの書物に掲載されている手書きの建物配置図を現在の地図に落としてみたり、昔の航空写真を漁ってみると、どうやら現在の横浜朝日会館が1975年に建設されるまでは、その場所に「鉄筋コンクリート造、外部タイル張り、一部倉庫として使用」されていた、日東倉庫と同じ外観の三号棟倉庫があり、震災の激震にビクともしなかった三井物産絡みの建物が都合三棟が1970年代前半まで現存していたことになります。

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1925年(大正14年)刊・大正大震災震害及火害之研究187ページの図に道路を書き加えてみました。


「だからどうした」という話なのですが、上記の書物で第一号棟倉庫にあたる日東倉庫日本大通倉庫を耐震診断した論文がググると出てきますが(「 歴史的れんが造建築物の耐震診断 : 日東倉庫日本大通倉庫耐震診断」という論文。以前は普通に閲覧出来たのですが現在、閲覧は有料になっていて見られなくなっています←なぜ?)、それによると建てられてから100年以上経過しているにも関わらず、現在の基準に照らしてもまったく問題無しとのことで、これはUボートブンカー並(?)に堅牢な建物を何棟も建てられるくらい当時の生糸貿易が今では想像もつかないくらいの巨万の富を生み出していたということを意味しているのではないでしょうか。

という歴史あるこの倉庫も現在、開店休業状態のようですが、個人的にはこの倉庫をビアホールにでもすれば絶対にウケると思うのですが・・・・・

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*上の三枚の写真をフォトショで繋げてみました。


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*写真はすべて1981年撮影。




*2014年8月28日に「大正大震災震害及火害之研究」の加工図面を追加しました。
*2014年11月6日:「大正大震災震害及火害之研究」の三井物産横浜支店の項目のPDFへのリンク(国会図書館近代ライブラリー)を追加しました。

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by yokohama80s | 2013-10-13 00:03 | 日本大通 | Comments(0)
2013年 03月 24日

日本大通17 旧露清銀行横浜支店(アクメ貿易ビル)

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*1982年撮影


80年代当時、大桟橋通りの日本大通入り口交差点の角、三井物産ビルがあるブロックの山下町側の現在、一階にコンビニのあるビルが建っている角地に奇妙な建物がありました。

一階部分の窓枠のすぐ下まで地中に埋まって半地下状態になっているので、一階半建てとでも言うのでしょうか???

それだけならまだしも、この半地下部分は建物左側はコンクリート造りの1階部分より先は屋上(?)に、右側部分にはコンクリート造りの1階部分に接続するようにトタン張りの小屋(?)を建て増しした状態で、それぞれ隣の建物間際まで伸びています。

要は、半地下部分の方が1階部分より大きいというヘンな構造の建物でした。

そこでちょっと調べてみたのですが、日本建築学会のデーターベースでは「アメク貿易(「アクメ」の誤植と思われる)、明治35年築、レンガ造」とあり、中区史ではこの建物の写真に「旧露清銀行」というキャプションが付けられています。

そこで今度は「露清銀行」でググると、どうやらこの建物は1902年(明治35年)にロシア、フランス、清により設立された露清銀行の横浜支店として建設されたもともとは地下一階地上二階建て煉瓦造りドーム付きの建物で↓

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*大桟橋通りの「日本大通交差点」から開港道に入った山下町175番地(現在のNTT山下町ビル)あたりから撮影された露清銀行(明治時代の絵葉書より)


1910年(明治43年)に露清銀行がフランス系の北方銀行と合併し露亜銀行と改名し、1921年(大正10年)に山下町51番地(現280番地)に現存するかの有名なバンク・ド・ロアの建物に移転した、っと。

その後にこの建物の主となったのが、1905年(明治38年)に横浜に支店を開設したドイツ系の独亜銀行なのですが、この銀行がいつからこの建物を使用するようになったのかは不明です。

ただ第一次大戦で、日本がドイツに宣戦布告したのに伴って大蔵大臣が独亜銀行に閉鎖命令を出したという1916年(大正5年)の新聞記事に、この銀行の所在地として震災前の日本大通17番地に該当する山下町180番地(1928年/昭和3年に分町するまでは、現在の日本大通は山下町170~184番地だった←正確には160番代後半あたりからなのですが、まあ「おおまかに」ということでご勘弁をw)と記されていることから、どうやら露清銀行が露亜銀行になったのを機に露亜銀行がこの建物を出て、入れ代わりに独亜銀行が支店を構えたものと考えるのが妥当なようです。

そして関東大震災により元の建物が上の写真の半地下の窓枠より上の部分(元の建物の基礎部分になるそうな)から上が跡形もなく崩壊し、その後、残った半地下部分(写真でいうと半地下室の窓の上方にあるチューブ状の飾りより下が明治35年築で半地下室部分は建設当時のままの状態だったそうです)の上部にコンクリート造りの1階(2階?)と玄関を再建したそうな。

しかし独亜銀行は1930年(昭和5年)に横浜支店を閉鎖し、1932年(昭和7年)の神戸支店閉鎖をもって日本から撤退しているので、再建された建物を独亜銀行が使用していたか否かについて定かではありません。

とにもかくにも県立図書館のHPから見ることができる1937年(昭和12年)の地番・地目・地籍・地価・所有者名などを記載した横浜市の土地宝典によると、日本大通17番地の土地所有者は独亜銀行ではなく、後に取り壊される時のこの建物の主だった朝日生命に吸収合併される日本共立生命の所有となっていることから、とにもかくにも独亜銀行撤退後は保険会社に所有権が移ったものと思われます。

そして終戦後は焼け野原となった関内地区一帯に設けられた車両置き場を管理していた米軍の横浜モーターコマンドのオフィス→1948年~1952年までの間は米軍の兵卒向け娯楽施設クロスロード・クラブ→再び元の保険屋さん→上の写真の看板が出ている某婦人服輸入商社→再び元の保険屋さん→1987年頃に取り壊されて現在のビルに建て替えられる、という流れになります(「建物の使用者が」という意味で所有者は前述の生命保険会社だったと思われます)



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by yokohama80s | 2013-03-24 00:02 | 日本大通 | Comments(0)
2013年 01月 27日

中消防署 日本大通出張所

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*大桟橋通り側の表玄関


むかしむかしのそのまたむかし、というほど昔のことではありませんが、80年代には現在は横浜情報文化センターのビルがあるブロックの大桟橋通り側、住所で言うと日本大通13丁目の現在は駐車場になっている一角に、中消防署日本大通出張所という看板を掲げた全体がくすんだ黄土色のタイルに覆われた2階建ての建物が街路樹に隠れるようにしてひっそりとたたずんでいました。

現在この消防署は、本町通り沿いの山下町72に移転して中消防署山下町出張所と名称を変更しましたが、元を辿るとその前身は、この辺りがまだ外国人居留地だった時代の居留地消防隊薩摩町消防屯所がこの場所に置かれたことに端を発し、その後、日本で初めて消防車や救急車を配備し、消防隊員は金属製の防火ヘルメットを着用して消火にあたるという、現代の消防隊のハシリのような存在で、その当時の様子を写した写真が山下町出張所のガレージのシャッターにラッピングされています。

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↑ガランとした1階ガレージ。

よく見ると、写真左に滑り棒が3本見えますが、丸めたホースが引っ掛けられていることから、滑り棒は用済みとなっていたものと思われます。

私などは、火災の通報が入電したら署の2階に待機していた消防隊員が一斉に滑り棒に飛びついて階下のガレージに滑り降りて消防車に飛び乗って出動する、というステレオタイプ的イメージがあるのですが、実際の使用に際しては、滑り棒を掴み損ねて1階に転落したり、下にいる人と衝突したりということがままあったそうで、さらに極めつけは、滑り棒を使った場合と階段で一斉に駆け下りた時とで所要時間を比べてみると、階段を駆け下りる方が早かったり、ということで、日本のみならず世界中の消防署で滑り棒は使用されなくなったとか(TVドラマのサード・ウォッチでもそのようなセリフを聞いたことがあるような無いような・・・・・・)。

私の記憶に間違えがなければ近年、新築された消防署には、初めから滑り棒が設置されていなかったかと・・・・・・。

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↑撮影時に一台だけポツンと駐められていた、ボンネット型の消防車。

このころすでに消防車は、現在のようなキャブオーバー型だったはずなので、これは予備車かなにかだと思います・・・・・・たぶん。

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↑は建物南側(三井物産Bのある方・・・・・・だったと思います)の通用口。

写真にも写っていますが、この建物は、鉄パイプを通した1m間隔で高さ50cmくらいの石柱にグルリと囲まれていました。

一説によると、立ちション避けなんだとか・・・・・・???

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*写真はすべて1981年撮影(この消火栓は旧加賀町署のものです)


上の写真は建物の壁にはめ込まれていた、いかにも年代物の銅板プレートなのですが私には「栓」しか読めません(笑)

でも横浜市の菱形マークの中に「W」が入っていますし、この建物の跡地の地下から貯水槽が見つかっているので、昭和初期当時の横浜市水道局のマークなのでしょうか?

それはともかく、この消防署と同じブロックにあった商工奨励館と旧電電公社電話局をあのような上手い方法で保存する一方で、消防署は「老朽化が酷い」という理由で取り壊して駐車場にしてしまいましたが、この消防署の建物も残す術は無かったのでしょうか???

消防署1階の広々としたガレージスペースは、なにかと使い道があると思うのですが・・・・・

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*来月は本牧米軍キャンプ特集(?)として
2/3  本牧PX その2
2/10 本牧PX ガソリンスタンド
2/17 米軍横浜海浜住宅地区(エリア・ワン)
2/24 本牧原12 旧本牧小学校

をUPします。
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by yokohama80s | 2013-01-27 00:03 | 日本大通 | Comments(4)