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2017年 05月 14日

ジャーマンベーカリーについて・後編

 今週は、ジャーマンベーカリーが銀座で産声を上げてから終焉を迎えるまでをお送りします。

 
 1929年(昭和4年)
 この頃、山下町87番地にも出店する。
*出典:1930・S5 THE DIRECTORY OF JAPAN(どうやらジャーマンベーカリーは商工録類への掲載を拒んでいたようで、商工録類への掲載は東京の店を含めてこれ以外確認出来ません)
*横浜のジャーマンベーカリーは銀座のジャーマンベーカリーとは同名他店という可能性も否定は出来ませんが、かといってそれを肯定する根拠も無い以上、その可能性は極めて低いと判断されます。



1930年(昭和5年)~1935(昭和10年)
 弁天通1-9の角地に、当時としてはモダンなデザインの二階建てで、洋菓子やコーヒー、洋酒の他に昼食や夕食も出すドイツ風コンディトライ(Deutsche Konditorei)と称した実質的なレストランがオープン……したようなのですが、店が存在したこと以外の詳細は一切不明です。

 そこでいろいろな資料を見てみると、昭和6年測図の横浜市三千分一地形図「新港町」でそれらしい建物の記載があることや↓、


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横浜市三千分一地形図「新港町」より


さまざまな商工録によると弁天通1-9には昭和4年に本町4-44に横浜支店が竣工するまで安田銀行弁天通支店があったものの、その後は1-9に所在した商店の記載がないことや、弁天通1丁目を写した写真や絵葉書、航空写真が多数存在するものの、昭和10年以降に撮影された写真までジャーマンベーカリー弁天通店の目印である"飾り卯建"が確認出来ず建物も平屋建てであること。↓

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↑クリックすると拡大します↑


また山下町の店は「The Directory of Japan 1930」でしかその存在を確認出来ないのに対して、弁天通の店については上記のように写真や都市発展記念館のブログ「ハマ発ブログ」20011年12月9日の記事にある証言などでその存在が確認できることから、安田銀行移転後の昭和5年頃に旧安田銀行弁天通支店の建物にジャーマンベーカリーが入り、昭和10年~11年ごろに通りに面した建屋部分を"巨大な飾り卯建"が目印の二階建てのモダンな建物に建て替えたか、または増改築したものと思われます。
*ジャーマンベーカリー銀座店は、文学作品その他に名前が登場するのに対して、弁天通店に関する文献が見当たらない理由は、弁天通りという場所柄を考えると外国人専用として営業していた可能性が高いと考えられます。


戦前の店舗
銀座5丁目7番地(旧銀座尾張町新地17番地、鳩居堂裏すずらん通りの旧カフェー・ユーロップ)
麹町工場(所在地不明)
弁天通1丁目9番地
確認出来たのは以上の三カ所。



戦争中
 資料①でミュラー自らが語るところによれば、「戦時中の銀座店では、店があっても売る物が無く事実上の閉店状態で、昭和19年の空襲により銀座店が焼失したことで山中湖の別荘に疎開した」と述べるに留まり、横浜への進出については一言も言及をしていないのですが、これは当時の状況を考えると不自然に思えます。

 それと言うのも、当時、、山手地区には130世帯430人のドイツ人が住んでいたうえに、弁天通から歩いて10分弱のところにある新港埠頭は、1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟締結以降、連合国による大西洋の海上封鎖を突破して喜望峰周りでドイツからやって来るドイツ海軍の封鎖突破船の日本側受入港(1941年~44年までに20隻あまりのドイツ艦艇が三菱重工横浜船渠に入渠してメインテナンスを受けている)であり、その後、イギリス軍の警戒が厳重を極め帰国が困難となると、これらの艦船は帰国を諦め海上輸送能力に劣る日本の為に東南アジア方面からの物資輸送に従事していて、それら艦艇の拠点となっていました。
 
 これらのことを考え合わせると当時、横浜市内で唯一ドイツ人が経営する本格的なドイツレストランだった弁天通のジャーマンベーカリーが、銀座店も含めて閉店していたとはにわかには信じがたく、これらドイツ人相手に戦時中も営業を続けていたと考えるのが合理的だと思われます。

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで1946年に撮影された空中写真を見ると弁天通店も空襲で焼失したことが確認出来ます。
*第一次大戦時の元捕虜で日本に残留して食料関係の店を経営していたドイツ人は、食材の入手が困難になるまで店の営業を継続したアウグスト・ローマイヤー(本人は昭和17年以降は病に臥せっていた)や、疎開先の長野でパン屋を開業したヘルムート・ケテル、空襲で焼失するまで元町3丁目の汐汲坂入口でデリカテッセンの店を開いていたフランツ・メッガー(Franz Metzger)、店が空襲で焼失するまで神戸港に寄港するドイツ艦艇にパンの供給を行っていたハインリヒ・フロインドリーブ以外の大部分の者が駐日ドイツ大使館付警察武官兼親衛隊保安部代表として派遣されていたワルシャワの屠殺人と異名を取ったヨーゼフ・マイジンガーによる締め付けを恐れて開戦早々に軽井沢や長野県野尻湖畔などに疎開して事実上の軟禁生活を余儀なくされています。これらのことからミュラーが空襲で店が焼けるまで東京に居たということは、そうする必要があったことを物語っています。



1945年(昭和20年)
 日本の無条件降伏により第二次世界大戦終結。

 資料①によると、このときミュラーは、「GHQから戦犯として財産を没収されたうえ営業停止処分を受け自身は軟禁された」と語っているのですが、前述したように「戦時中のジャーマンベーカリー弁天通店はドイツ海軍御用達だった」とすると、それが「ナチスへの戦争協力」と見なされて処分を受けたとことになり話の辻褄が合ってきます。
 しかし留意すべき点は、GHQによる「ドイツ人追放令」が発布されたのは昭和22年で、これは「ナチス関係者」と「ナチス政権掌握後に来日した者」に対する強制送還処分(ユーハイム夫人と長男家族がこれに該当して強制送還されている)であり、戦時中に営業していた店舗に対して営業停止や財産没収、軟禁という処分があったのかについては不明です。

*アウグスト・ローマイヤーは、ナチ党員となってまで戦時中も空襲が激しくなるまで店の営業を続け、また神戸でパン屋を開いていたハインリヒ・フロインドリーブは神戸に寄港したドイツ海軍艦艇にパンの供給を行っていますが、彼らが戦後、GHQより何らかのお咎めを受けたということは無かったようです(それどころかフロインドリーブは終戦直後に店を再開したものの材料が手に入らず3年ほど米軍キャンプでコックとして働いて糊口を凌いでいる)


1949年(昭和24年)
 資料①でミュラーが語るところによると、前年昭和23年に処分が解けたミュラーは、かつての銀座店の焼け跡に店を再建しようとするが、地主が契約期間が残って居る土地を他の店に又貸しした為に銀座店跡地にはすでに他の店が建てられていた。
 そこで訴訟を起こすものの訴えは認められず、やむなく当時の朝日新聞東京本社の裏手、当時の国鉄有楽町駅脇の現在、黄色い看板のドラッグストアがある場所で有楽町店を開店したとのこと。

*終戦後、飲食店の経営が正式に認められるようになったのがこの年から施行された「飲食営業臨時規整法」以降で、これにより安定的に配給が受けられるようになり、この年にそれまで休業を余儀なくされていた戦前に第一次大戦時の元捕虜が開いた食料品店も一斉に営業を再開しています。
*銀座ローマイヤー(昭和24年営業再開)、神戸フロインドリーブ(昭和23年営業再開)、銀座ケテル(昭和24年頃営業再開)、ヘルマン・ヴォルシュケもこの頃に東京都狛江市で店を再開。
*ミュラーの言うことが事実だとすると、資産を没収された人物があのような時代にどうやって店を再開する資金を調達したのかという疑問が生じることや、前述のような社会情勢を考えると終戦後の混乱で自由に商売が出来なかったことを「営業停止(材料が手に入らないからヤミに手を出すと検挙され営業停止になった)」、預金封鎖により銀行から自由に預金を引き出すことが出来なかったことを「資産没収」、戦時中も店の営業を続けていたとしたらGHQによる事情聴取が終わるまで常に居場所を明らかにする必要があったことを「軟禁」とユーモアを交えて例えたのを、資料①のインタビュアーが真に受けてしまっただけのように思われます。



戦後の店舗
1956年(昭和31年)までに開店した店舗(店舗は資料①より、所在地、営業期間はネット情報による)
有楽町ショップ有楽町駅脇/1948年~1998年)
材木町ショップ現在の西麻布3丁目1の六本木通り沿いにあった1階が売店、2階が喫茶店/開店時期不明~1970年頃までに六本木交差点付近に移転)
銀座ビーコンコーヒーショップ日本堂裏の戦前のジャーマンベーカリー旧銀座店があった場所の隣りに出店したジャーマンベーカリーの姉妹店/営業期間不明)
麹町ショップと製菓工場(戦前と同じ場所と思われるが所在地、営業期間不明)
大森ショップ大森駅西口前/開店時期不明~1973年頃閉店との説あり)
横浜元町ショップ元町5-201/1950年代前半に開店~2003年)
田園調布ショップ東急・田園調布駅前/開店時期不明~1998年頃に閉店)
虎ノ門ショップ(所在地営業期間不明)

1956年(昭和31年)以降に開店した店舗
横浜駅名品街ショップ(1階が売店、2階が喫茶店。その後、1973年に名品街がジョイナスに建て替えられたあともジョイナス1階のほぼ同じ場所にあった/開店時期不明~1998年頃閉店)
渋谷特選街ショップ(東急文化会館2階/営業期間不明)
六本木ショップ(材木町店が移転したもの……らしいが六本木交差点付近にあり1階がジャマンベーカリーの売店、2階が同じく喫茶店、3階がジャズ専門のライブハウスが入ったビルにあったこと以外の詳細は不明/1970年頃~閉店時期不明)

 このほかに喫茶店などの店頭にショーケースを置いて商品を販売する一種の委託販売を行っていたところが複数あったようです。 

*戦前の新橋第一ホテル(昭和13年開業の通称:銀座第一、現在の第一ホテル東京)内に"ビーコンコーヒーショップ"があったようなのですが、ジャーマンベーカリーとの関連は不明です。
*ジャーマンベーカリーは、東京地区の店舗は"麻布ジャーマンベーカリー"、横浜地区の店舗は"横浜ジャーマンベーカリー"、姉妹店のビーコンコーヒーショップは"ビーコンコーヒー"というように分社化され、ミュラーが社長を務める港区麻布新堀町7(現在の南麻布2丁目)の(株)インターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニー(IFP)がこれらを統括する本社(運営会社)とされていた。
*南麻布のインターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニーがあったビルにもジャーマンベーカリーの店舗があったようなのですが、「あったらしい」ということ以外は一切不明です。



1977年~1978年
 NHKで、元第一次大戦時の捕虜として日本に収容されその後、神戸市中山手通1でパン屋「フロインドリーブ」(ジャーマン・ホーム・ベーカリーが経営)を開業したハインリヒ・フロインドリーブ(Johann Philipp Heinrich Freundlieb)をモデルにしたTVドラマの放映が開始される。

 このときモデルになったパン屋の運営会社と名称が似ていたことや、神戸の人のなかには「フロインドリーブ」のことを「ジャーマンベーカリー」と呼ぶ人がいたことなどから、「横浜のジャーマンベーカリーがドラマのモデル」とか、「ジャーマンベーカリーとフロインドリーブは創業者が同じ」、はたまた「横浜のジャーマンベーカリーは神戸が本店」、「横浜ジャマンベーカリーの創業者は第一次大戦時の元捕虜」などの諸説が飛び交う。

 これにより多くの人が「戦前にソーセージ屋やパン屋を開業したドイツ人は、おしなべて第一次大戦中に捕虜となり終戦後もそのまま日本に残った人たち」というステレオタイプに陥ってしまったようで(私も偉そうに人さまのことを言えた義理ではありませんが……)、2001年発行の第一次大戦時の習志野俘虜収容所を描いた習志野教育委員会編「ドイツ兵士の見たニッポン」(資料⑪)では、ユーロップ三人衆を紹介した部分で明治屋七十三年史の文章を引用する形で「ユーハイムが去った後のカフェーユーロップは後にヴィルヘルム・ミュラー(習志野)が引き受けジャーマンベーカリーとして再出発した」と、ミュラーが習志野俘虜収容所に収容されていた元捕虜だとしています(ちなみに明治屋の社史には習志野の記載はありません)

日本交通公社発行「交通公社のポケットガイド44 横浜」昭和57年発行第6版より
ジャーマンベーカリー
バウムクーヘンでおなじみの、ドイツ菓子の老舗。1階がケーキの売り場、2階がレストラン。ライ麦パンのオープンサンド、ハンバーガーに人気がある<10:00~20:00、月曜休み>


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*日本交通公社発行「交通公社のポケットガイド44 横浜」昭和57年発行第6版より
ジャーマンベーカリービル1階右側がジャーマンベーカリーの売店、左側がオンディーヌという靴屋(上の地図は左右が逆)、2階がジャーマンベーカリーの喫茶&レストラン、3階がステーキレストラン・ボナンザ


*ドイツ語圏では"Wilhelm Mueller"という名前はありふれた名前のようで、第一次大戦で青島で捕虜になったドイツ人のサイトの名簿を見ると"Wilhelm Mueller"という名前の捕虜が5人、"Willy Mueller"を含めると7人確認出来ます。
*資料⑪の記述の誤りがなかったら、ジャーマンベーカリー創業者のミュラーの名前も、彼が第一次大戦時の捕虜では無かったことも、明治屋との繋がりも知ることは出来なかったワケで、まさに棚からぼた餅、ケガの功名と言うほかありません(藪を突いてみたらヘビが出たとも言えますが……)
*どうやら70年代に入ってから、ミュラー氏の長男(資料②によるとミュラーは日本人の妻との間に長男が一人いて、彼は1963年時点ではジャーマンベーカリーの営業を担当していた)が会社を引き継いだ……ようです。



1990年前後~1998年
 1990年に元町5-201にあった三階建てのジャーマンベーカリーの建物が、現在の上階がマンションの地下1階、地上7階建てのジャーマンベーカリー横浜元町ビル(現・オセアン元町ビル)に建て替えられる。
 また1991年(平成3年)にジャーマンベカリーの運営会社がそれまでの(株)インターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニーから(株)ジーウィル、1998年に(株)ジービーと変遷し会社の所在地も川崎市川崎区京町2丁目となる(本社の所在地変更はこれより以前に行われた可能性が高いと思われますが詳細は不明です)



1998年~2003年
 1989年から「横浜が選んだ横浜ブランド「ヨコハマ・グッズ横濱001」の認定が始まり、ジャーマンベーカリーの商品が第一期から2001年を除く2003年第十期まで認定されていたが、2003年を最後にジャーマンベーカリーの名前が見られなくなる。
 このことからジャーマンベーカリーは、2004年までに終焉を迎えたものと思われます。


ということで、今回の調査で判明したことは以上です。


 
参考資料
1956年(昭和31年)実業之日本社「実業の日本9月発売59巻22号 P88-P93 "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"」
1963年(昭和38年)製菓実験社「製菓製パン12月号グラビアページ "菓業人のプロフィール -ウィルヘルム・ミュラー氏-"」
1930年(昭和5年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1930」 P517/横浜市立図書館所蔵
④1930年(昭和5年)横浜市「YOKOHAMA 横浜ガイド」 /デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」
1936年(昭和11年)東京商工会議所「東京市内商店街ニ関スル調査」 P155
1937年(昭和12年)横浜商工会議所「横浜市商店街に関する調査」 P91
1937年(昭和12年)東華書荘・石角春之助著「銀座秘録」 P189
1958年(昭和33年)明治屋「明治屋七十三年史」 P49-P50
⑨1982年(昭和57年)日本交通公社発行「交通公社のポケットガイド44 横浜・第6版」 P106-P107/筆者所蔵
1987年(昭和62年)明治屋「明治屋百年史」 P147-P150、P161-P163、P165-P166
2001年(平成13年)丸善ブックス・習志野市教育委員会編「ドイツ兵士の見たニッポン 習志野俘虜収容所1915~1920」 P117-P119/筆者所蔵
2011年(平成23年)光文社NF文庫・石川邦美著「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」 P51-P53、P61、P106/筆者所蔵
2011年(平成23年)文藝春秋文春文庫・吉村昭「深海の使者 新装版第一刷」 P23-26/ 筆者所蔵


お知らせ
 このブログを初めてはや5年。
実は先々週をもちまして写真の方がネタギレとなりました。
よって誠に勝手ながら毎週の更新は今回をもって最後とさせて頂き、次回からは気が向いたときに不定期更新させて頂きます。
長い間、当ブログをご贔屓下さいましたことに深く感謝いたします。
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by yokohama80s | 2017-05-14 00:00 | その他 | Comments(6)
2017年 05月 07日

ジャーマンベーカリーについて・前編

 横浜市立図書館のサイトのデジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」に、横浜ゆかりの人物や横浜の会社について調べられる収録資料紹介としていくつかの人名録や商工録を紹介しているページがあります。

 ここで紹介されている商工録は、デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」や、国会図書館のデジタルコレクションからPDFでダウンロードすることが出来てたいへん重宝しているのですが、ただひとつ難点があります。

 それというのもこれらの商工録は職業別に会社名が掲載されているので、いざ「山下町◯◯番地には何があったのか?」ということを調べようとすると、それぞれの年代の商工録すべてを最初のページからチェックしなければならないということ。

 そこであるとき「昭和5年から14年の商工録から山下町を所在地にする会社だけを抜粋して番地順にデータベース化すれば便利だろう」と思い立ち、昭和5年度版の横浜市商工課「横浜市商工案内」と横浜商工会議所「横浜商工名鑑」、横浜商業会議所「The foreign trade directory of Yokohama」から山下町を所在地にしていた企業、店舗をスプレッドシートに打ち込んで、予想よりも簡単に終わってしまったので物足りなくなって(実は実際に打ち込んだのは最初だけで後はチェックするだけ)、市立図書館から仕入れてきた1930年度版「JAPAN DIRECTORY」をチェックしていた時のこと。

 「G」の項目に気になる名前が……↓

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「The Directory of Japan 1930」P517より


 このときの私の拙い記憶では、「第一次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ人が横浜元町で開業したドイツ風パン屋」というもので、「そう言えば横浜駅西口の相鉄ジョイナス一階にあった店舗兼喫茶店は1998年ごろに店が無くなったし、最近はその噂を聞かなくなったなあ」と思い、ネットで調べてみると、あちらこちらに名前は出てくるものの出てくるのは金沢と福岡の同名他店のことばかり。
 ようやく該当する物に行き当たったと思っても、「そういえばあの店はどうなった?」的な話と、「昔、あれを食べた、これを食べた」的な思い出話ばかりで踏み込んだ話が一つも無いという状態。
 文献に関しても以下同文。

 結局、キーワードを取っ替え引っ替えしてネット検索した結果わかったことは、「第一次大戦時に青島で日本の捕虜となり解放後も日本に残ったドイツ人ウィルヘルム(ヴィルヘルムと表記するものもあり)・ミュラーなる人物が、震災前に明治屋が銀座で営業していたカフェーユーロップの建物を利用してジャーマンベーカリーを開店させた」ということだけ。

 そこで第一次大戦時の元捕虜について書かれた本を取り寄せてみたり、図書館で明治屋の社史を閲覧したり、国会図書館デジタルコレクションで閲覧が「 国立国会図書館内限定」となっている文献のコピーをあれこれ取り寄せてみたり……。
 
 そうこうしてようやく探し出したジャーマンベーカリーについて書かれた物は、61年前の1956年(昭和31年)に実業之日本社が発行した雑誌「実業の日本」誌に掲載された "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"(以下、資料①)というインタビュー記事6ページ(実質的には5ページ)と、1963年(昭和38年)に製菓実験社が発行した「製菓製パン」誌12月号"菓業人のプロフィール"(以下、資料②)というグラビア1ページだけ。

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 ところがこのふたつの記事を読み比べると、資料①でミュラーは「23歳の時に乗り込んだ船でパンや菓子の作り方を習得した」と語っているのに、資料②では「14歳からこの道一筋」というように話が食い違っていたり(人間、年を召すに従ってだんだん話が大きくなるのが常)、資料②では明治食料を明治屋の前身としてしていたり(実際は明治食料は明治屋が設立した子会社)、その他にも歴史的事実と辻褄が合わなくなる部分が多々あるという困った代物。

 そこでこのふたつの記事をベースに、歴史的事実とあちらこちらで拾い集めた断片的な情報に推理推測憶測で修正を加えて、横浜のジャーマンベーカリーの足跡について年代別にまとめた物を今週と来週の二回にわけてUPしたいと思います。

 あらかじめお断りしておきますが、記事の正確性については、せいぜい当たらずとも遠からず程度なので、その点を充分ご留意の上でお読み下さい。


1919年(大正8年)
 今を遡ること98年前のこと。

 横浜の明治屋が、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)11月にかけての第一次世界大戦で中国・青島で日本の捕虜となり国内に収容されていた、兵役に就く前は豚肉加工職人だった1879年生まれ40歳のヴァン・ホーテン(Joseph van Hauten)を喫茶部主任兼支配人、同じく豚肉加工職人だった1891年生まれ28歳のヘルマン・ヴォルシュケ(Friedrich Herman Wolschke)を食肉加工主任、菓子職人だった1889年生まれ30歳のカール・ユーハイム(Karl Josef Wilhem Juchheim)を製菓主任として雇い入れ、銀座尾張町新地17番地(現在の銀座5丁目7番地)鳩居堂裏のすずらん通り洋風喫茶店「カフェー・ユーロップ」を開店させる。
 このカフェーユーロップは、ユーハイムが作るピラミッドケーキことバームクーヘンが評判となり、値段は割高だったにも関わらず「ハイカラの味を手軽に味わせてくれる店」、はたまた「銀座一コーヒーの旨い店」として作家をはじめとする当時の文化人たちが集う店として一世を風靡する。

*名前のスペルはこちらのサイトこちらのサイトから引用しました。
*第一次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ人は4700人。そのうち終戦後も日本に残留することを希望した者170人で、彼らの多くは肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んでドイツの食文化を日本に定着させたほか企業などで技術指導に当たった者もいた。
*1918年11月に第一次世界大戦が終戦したものの、ベルサイユ講和条約締結後も捕虜送還の交渉がまとまらず結局、日本に収容されていた捕虜の本国への送還が開始されたのは終戦から約1年後の1919年(大正8年)12月(翌年の3月まで6回に分けて行われた)。しかし日本残留を希望した者は、それ以前に受け入れ先が決まり次第順次開放された。
*ユーロップ三人衆のヴァン・ホーテンとユーハイムは戦争前からの知り合いで、ヴォルシュケとユーハイムは同じ広島県似の島俘虜収容所に収容された捕虜仲間で1919年(大正8年)3月に広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催された俘虜作品展示即売会でユーハイムがバウムクーヘンを、ヴォルシュケがソーセージを出品しそれが好評だったことが明治屋に雇用されるきっかけとなった。
*カフェー・ユーロップの建物は間口2間、20坪ほどの土地に建てられた地下一階、地上三階建てで地下にソーセージ工場、一階に菓子工場と売店、二階がカフェーユーロップ、三階が製菓主任ユーハイムの住居だった。
*大卒初任給が40円(1円=3500円計算で14万円)の時代にユーハイムの月給は350円(現在の約120万円超)、ヘルマン・ヴォルシュケが250円、ヴァン・ホーテンが200円だった。



1922年(大正11年)
 契約期間満了に伴い独立した製菓主任ユーハイムは、横浜山下町60番地Eでロシア人リンゾンが経営していたカフェー・デ・バリースを買い取り洋菓子店「E.ユーハイム」を開業。

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*大正11年版・大日本商工会発行「大日本商工録-P59・和洋菓子麺麭類-」より


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*明治後期の本町通り山下町83番地から日本大通方向を見るの図
(写真右中央に「山下町六十壱番地」と書かれた建物の奥の建物が60番地)


 ところが翌年に発生した関東大震災により店が倒壊し、ユーハイムは家族を連れて避難船で神戸に移住し1923年(大正13年)神戸市三宮町1-309で洋菓子店「ユーハイム」を開店する。

 また同じくこの年で契約期間が満了した食肉加工主任のヴォルシュケは、同年に明治屋が設立した明治食料(株)の肉製品主任として雇用され、横浜・西平沼町2の豚肉加工工場の経営を任されたものの、翌年の震災により工場が焼失閉鎖されたために、当時、品川にあったユーロップ三人衆と同じく第一次大戦時の元捕虜だったアウグスト・ローマイヤー(August Heinrich Lohmeyer)のソーセージ加工場(ローマイヤー)で働いたのち、1927年(昭和2年)に神戸に移りソーセージ製造会社を開業する。

*明治屋百年史によると、この時にヴォルシュケが明治屋と交わした契約内容は以下の通り。
①明治食料株式会社肉製品主任として勤務する義務を負う
②契約期間は三カ年とし、期間満了後は当事者双方の合意をもってさらに延長することができる
③月給は250円とし、さらに純益100分の七の配当を支払い、家賃、点灯料、暖房費用は会社負担とする
④契約期間中は自己の計算をもって営業をなし、また他の商会の利益のために行動することはできない



1923年(大正12年)
 関東大震災によりカフェー・ユーロップ休業(建物は火災で焼失したとの説もあり)。

 これによりユーロップ三人衆でただ一人、ユーロップに残った喫茶部主任兼支配人のヴァン・ホーテンは翌年の大正13年に中国に移住する。

 一方、同年4月。
 日本から遠く離れたドイツでは、1900年にハノーバー近郊ウェーザー河畔にあるホルツミンデンの山里の農家の次男坊に生まれたウィルヘルム・ミュラー(Wilhelm Mueller)という名の青年が、兄とハンブルグに自家製の小麦粉を売りに行った時に、兄の目を盗んで港に停泊していた一番大きい客船、ハンブルグアメリカンラインの世界一周クルーズ船に忍び込み密航を企てる。
 その後、密航が発覚したものの船から降ろされること無く船内の厨房で働くことになり、このときにパンや菓子の製造法を習得(資料②ではミュラーは14歳から「この道一筋」とされているが、資料①の方が話が具体的なのでこちらを採用しました←「14歳から云々」の件は、「菓子作りに興味を持ったのが14歳」という意味だと思われます)

 そしてハンブルグを出てから半年後。

 南米、上海を経て神戸に着いたミュラーは、本人が語るところによると「日本の山野の風景に感動し、この国なら骨を埋めてもいい」と思ったそうで、船を降ると適当な店はないかと神戸の街中を徘徊して、たまたま通りかかった下山手通2丁目32の1921年にドイツ人が開業したパン屋「セントラル・ベーカリー」(ネット上ではユーロップ三人衆のヴォルシュケを創業者としている物もありますが、この時期は明治屋との契約期間中で東京に居た)に、「看板が横文字だったから」という理由で押しかけ就職し、住み込みのパン職人として雇われ1年あまり勤務する。

*「セントラル・ベーカリー」は"1926 The Directory of Japan"に記載があり、また"昭和2年版神戸市商工名鑑"では代表者名に「前田安太郎」とあります


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「The Directory of Japan 1926」より



1925年(大正14年)
 神戸の店で一年余り働いたミュラーは、上京して独立することを決意し「セントラル・ベーカリー」オーナーの紹介で明治屋製菓工場(ユーロップ一階)に雇われると、そのまま工場の経営も任され(契約条件は明治食料に雇われたヴォルシュケとほぼ同様と思われる)業販用洋菓子を製造する傍ら、休業中だった工場2階のカフェー・ユーロップを借り受けて営業を再開させる。
*ミュラーはパン職人になって2年弱にも関わらず、セントラルベーカリー退社時点で製パン部門の主任を任されていた。
*1926年(大正15年)職業婦人調査のカフェー一覧にユーロップの名称を確認。
*明治屋は、震災直後の同年秋にに銀座2丁目の現在、銀製品で有名なブランド店がある所にドイツ・クルップ社の酒保で働いていたドイツ人夫婦に経営を任せたカフェー・キリンを開店させていた為に、5丁目のカフェーユーロップは休業したままだったようです。
*「カフェーユーロップはウィルヘルム・ミュラー氏に賃貸して氏経営のジャーマンベーカリーとなり氏は現在も別の場所で盛業中である」明治屋七十三年史・P57より
*「その後、ウィルヘルム・ミュラー(大正14年に明治屋の製菓工場で雇用)に賃貸したが、後に彼の経営するジャーマンベーカリーとなった」明治屋百年史・P162より



1928年(昭和3年)
 契約期間満了に伴い、明治屋時代に稼ぎ出した2万円(現在の価値で約7千万~1億円)を元手に、明治屋よりカフェー・ユーロップの建物を買い取り、同所にジャーマンベーカリーを開店させる。
*明治屋による業販用洋菓子の製造は、前年昭和2年より銀座2丁目の支店(現在の明治屋銀座ビル)裏に新設した製菓工場で行っていた。
*ミュラーがわずか3年で2万円(現在の価値で7千万円前後)もの大金を稼げたのは、資料①によると「店の忠実な職人であるとともに、他の店から安い原料などを仕入れてきては卸したり、小売に出したりして彼自身でも商売をした」からだそうで、どうやらヘルマン・ヴォルシュケと同じように明治屋の為に個人の裁量で製菓工場を経営する傍ら、同じ建物内のカフェーユーロップを明治屋より借り受け営業することで稼ぎ出したものと思われます。


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*ジャーマンベーカリーは鳩居堂と煙草店の間の路地をすずらん通りに出た右側角、すずらん通り入口にあった老舗うなぎ屋の竹葉亭銀座西店の隣りにあった。


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*1936年(昭和11年)「東京市内商店街ニ関スル調査」より



こうして1928年(昭和3年)に銀座で産声を上げたジャーマンベーカリーは、バームクーヘンやミートパイなどでたいへん人気を博したそうで、ここで作られるこれら洋菓子類は自店で販売するだけではなく、ホテルや喫茶店、レストラン、ダンスホールなどから注文が殺到し、銀座店の菓子工場だけでは注文を捌ききれなくなったことから麹町(当時、ミュラーの自宅があった)に新たに菓子工場を建設します(所在地不明および開設時期不明)。
*「松月の裏側にあるジャーマンベーカリーは美味いコーヒーを飲ませる」1929年(昭和4年)・時事新報家庭部編「東京名物食べある記」より。
*「戦前のジャーマン・ベーカリーは、独特のバームクーヘンや、ミートパイなど、他の店に無いものが揃っていた。 ミートパイは、戦後のジャーマン・ベーカリー(有楽町駅近く)でも、やっているが、昔の方が、もっと大きかったし、味も、しっとりとしていて、美味かった。」1995年・筑摩書房ちくま文庫刊/古川 緑波「ロッパの悲食記」甘話休題より。



-後編につづく-
後編では、戦前から戦中、そして戦後の発展から突然の終焉までの過程をザックリとお送りします。


参考資料
1956年(昭和31年)実業之日本社「実業の日本9月発売59巻22号 P88-P93 "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"」
②1963年(昭和38年)製菓実験社「製菓製パン12月号グラビアページ 菓製業人のプロフィール -ウィルヘルム・ミュラー氏-"」
1922年(大正11年)大日本商工会発行「大日本商工録」 P59
1923年(大正12年)横浜商工会議所「横浜商工名鑑」 P123
1926年(昭和2年)中央職業紹介事務局編「職業婦人調査. 女給」 P167
⑥1927年(昭和2年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1926」P235(/デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」
1927年(昭和2年)神戸市役所商工課「神戸市商工名鑑」 P119
1929年(昭和4年)・時事新報家庭部編「東京名物食べある記」 P200
1929年(昭和4年)吉田工務所出版部「東京銀座商店建築写真集」 P32
1930年(昭和5年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1930」 P517/横浜市立図書館所蔵
1958年(昭和33年)明治屋「明治屋七十三年史」 P50
1987年(昭和62年)明治屋「明治屋百年史」 P162
1995年・筑摩書房ちくま文庫刊/古川 緑波「ロッパの悲食記」より"甘話休題"/インターネット図書館・青空文庫
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by yokohama80s | 2017-05-07 00:00 | その他 | Comments(0)
2017年 01月 15日

船のポートレート その2

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*写真はすべて1987年撮影。
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by yokohama80s | 2017-01-15 00:14 | その他 | Comments(0)
2016年 06月 05日

開港記念日特別企画「桑港に行くまで・昭和初期編」

 現在、アメリカへ行こうと思い立ったら、極端なことを言えばパスポートさえ持っていれば最寄り駅から羽田行きのバスに飛び乗れば9時間後にはサンフランシスコ(桑港)に着いているという時代。

 しかし横浜港が太平洋航路の表玄関として華やかだった頃の海外旅行は、当然、船によるもので片道↓

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-写真①-
 *1927年(昭和2年)頃の航路図(昭和2年刊・米国旅行案内より)


の日数を要したうえに、その費用も「月収百円、年収1200円」と言われた時代に、「ホノルルまで一等船室料金250ドルに1050円支払った(当時は一等、二等船室の料金はドル建てでその日の正金銀行のレートで円に換算した金額を支払った)(1934年出版「ハワイの印象」より)と高額だったことから、この時代の海外旅行は政治家、外交官、官僚、軍人、教員、医師、商社員、技術者、宗教関係者などによる視察や赴任、研修、出張と、貴族や資産家子息による留学などに限られていました(1924年/大正13年以降は排日移民法により幾つかの例外はあるものの建前上は移民目的でのアメリカ入国は禁止されていた)

 ちなみに写真①の地図を見ると、ヨーロッパへの最短ルートは東京~下関(写真①の地図では「長崎」となっている)~ソウル~ハルピン~モスクワ~パリの16日間コースだった(実際には敦賀~ウラジオストック~ハルピンの方が半日~1日程度早かったが、途中で馬賊の襲撃に遭ったので当時はこのルートは存在しないことになっていた)のですが、当時のソ連は基本的に政府関係者以外には入国ビザを発給しなかったうえに通過ビザの取得も難しく(山ほどの書類を提出させられたとか)、さらにハルピンからモスクワに着くまでの約7日間は列車に乗りっぱなしのうえに、その間は風呂にも入れないという状態。

 かと言ってオーソドックスに神戸(横浜or門司)からロンドン行きの船でマルセイユまでのルートだと、、あちらこちらに数日おきに入出港を繰り返して42日(当時、イギリスに向かう人もマルセイユで下船してしまうのでさらに一週間ロンドンまで乗船する"酔狂"な人は常に数人程度だったとか)も要し、また当時の船には冷房設備が無かったことから(今で言う"冷風扇"的な物はあったらしい)インド洋を通過するときの暑さによる不快さは尋常でなかったとか。

 ということで、現在の感覚から言うとちょっと意外に思えるのですが、この頃に日本とヨーロッパとを頻繁に行き来していた商社員や外交官(駐在武官も含む)などは、横浜からサンフランシスコまで船で行き、そこから大陸横断鉄道でニューヨーク、そして今度は大西洋を横断してリバプールまでの24日間コース(横浜~シアトルの場合は21日)を利用するのが一般的だったそうで、有名どころでは白洲次郎が商社員時代に渡欧する時(ヨーロッパ諸国に鮭缶を売り歩いていたらしい)にこのルートを頻繁に利用していたそうですし、ヨーロッパの任地に赴く外交官やその家族は、往路にアメリカ経由で渡欧したら復路はシベリア鉄道で、あるいはその逆ルートで渡欧帰国するように役所から指示されていたそうです(取り立てて用も無く時間的余裕がある時には欧州航路を指定されたとか)

 また当時の視察団や個人の旅行の場合は、どうせ高額な旅費を費やしてアメリカへ行くのならついでに東回りでヨーロッパも、はたまたどうせヨーロッパに行くのならついでに西回りでアメリカも、というように実質的な世界一周旅行とするケースが多かったようです(有名どころでは作家の徳冨蘆花など)

 ということで、サンフランシスコ航路に浅間丸級三隻とシアトル(沙市)航路には氷川丸級三隻がそれぞれ就航し、客船黄金期と称される昭和5年頃に個人が観光目的でアメリカに渡るにはどのような準備が必要だったのかを、Googleブックスで公開されている昭和3年(1928年)版日本郵船「桑港航路案内」 と、国会図書館デジタルコレクションで公開されているこの頃の渡航案内(現在のガイドブック的な物)や旅行記から再現してみたいと思います。

 さて、海外旅行に行くとなれば、とにもかくにもパスポートとビザが無いと乗船券が買えない(予約金さえ支払えば予約することだけは出来た)のですが、これらに関しては現在と似たり寄ったりなので以下省略。

 次は渡米する船の予約ですが、基本的に船室の等級は船室がある位置と部屋の広さや設備によって決定されたのですが、ややこしいことに一等船室の場合は料金表などに記されている料金はその船で一番部屋数が多い部屋の料金で、実際には船室がある位置と広さ、設備、通風や採光状態により部屋ごとに料金が異なっていました。

 そこで昭和4年にサンフランシスコ航路に就航した浅間丸を例にとると、

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-写真②-
昭和5年刊・日本郵船会社五十年史より浅間丸の姉妹船である秩父丸(浅間丸、龍田丸とエンジンが違う為に煙突が一本に変更されている)の内部図に船内配置を大雑把に書き加えてみました。


ブリッジ(操舵室)下のボートデッキとラウンジ、喫煙室などの一等船客用公室があるA甲板を挟んでB、C甲板に一等船室のシングル、ツイン、ツイン+ソファーベッドの2~3人用のそれぞれバス付きが33室、バス無しが61室の合計94室、船内で一番動揺の少ない船体重心部にあたるC甲板中央部前よりにベッドルーム、リビングルーム、バス、トイレ、付添人室付きの一等特別室が左右両舷に2室づつ合計4室設けられ(写真③左上)、

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-写真③-
*写真左上より時計回りに、龍田丸一等特別室のリビングルーム
沙市航路・日枝丸の一等一人部屋(キャビンクラス)
豪州航路・賀茂丸の二等四人部屋
沙市航路・氷川丸の三等コンパートメン室
*龍田丸と日枝丸の写真は「昭和5年刊・日本郵船会社五十年史」より、賀茂丸の写真は「昭和11年刊・日本郵船豪州航路案内」より、氷川丸の写真は2016年撮影



B、C甲板後部にシングルベッドと上段に使わない時には壁に収納するプルマン式ベッドと、さらに部屋によってはソファーベッドを備えた2人用、3人用、2~4人用の二等船室(写真③右下)が30室、その下のD甲板後部とE甲板前後部にバンクベッドと呼ばれる作り付けの二段ベッドを一部屋に2~4台設置した三等コンパートメント(写真③左下)が52室あり、浅間丸型以外の船にはかつての三等大部屋(その昔は船倉のようなところにゴザを敷いていた)にバンクベッドをズラッと並べた三等オープンや、さらに二等船室を三等コンパートメント仕様に改装して二等と三等の中間の料金設定にしたツーリストクラス(シアトル航路の氷川丸型には初めから二等船室がなく代わりにツーリストクラスが一等と三等の間に設定されていた)や、一等船室の部屋を簡素にして従来の一等と二等の中間の料金設定にした特二等、はたまたキャビンクラス(写真③右上)と呼ばれる船室もあり、船室の等級によって乗船口から食堂、トイレ、浴室、喫煙室、ラウンジ、遊歩甲板などがそれぞれ別個に設けられ、一等船客は乗員区画以外なら船内どこへでも行けたのに対して、二等船客は一等専用区画に立ち入ることが出来ず、三等船客に至っては船室と三等公室(食堂、浴室、トイレ、喫煙室)以外はB甲板最後部の三等遊歩甲板しか立ち入ることが出来ませんでした。

 また客室料金には朝昼晩三食の食事代が含まれていて、一等船客はC甲板中央部の4~5人がけのテーブルが並んだ200人収容のドレスコードがある専用食堂で洋食フルコースが出され、二等食堂は一等と同じく基本4人がけのテーブルで一等船客とほぼ同じメニューだったもののドレスコードが無く、三等船客は長方形の12人がけの長テーブルが4~5台並べられた三等食堂が前後2カ所に設けられ、乗船券購入時に和食か洋食かを選択し(中国人向けに中華もあった)大正5年発行の「大正渡米」によると三等和食のある日のメニューは、朝食に梅干し、ショウガ漬けとご飯と味噌汁、昼食は魚の干物、タクアンにご飯と味噌汁、夕食がスルメのスジ切り入り根菜の煮込み、ワカメの酢の物にご飯と味噌汁で、これでは当然足りないので大正6年発行の「最新海外渡航案内」では「三等船客は果物、菓子、福神漬、缶詰の他に大根とおろし金を持参するとよい」と書かれています。
 
 さらにこの時代は、船室等級によるヒエラルキーがアメリカの移民法によって入国の際にも適用され、 例えば一等船客は近所の病院で貰った無病証明と身元証明書を提出するだけでアメリカに入国出来たのに対して、二等三等船客は出港前に出港地の県庁において出港日ごとに指定された日に、結核や精神疾患、眼病、寄生虫(主に十二指腸虫こと現在で言うところの鉤虫)などの検診を受けることが義務づけられ、三等船客はさらにサンフランシスコ到着時に湾内のエンジェル島入国管理施設に1泊2日で一時隔離され(移民の場合は2泊3日)、問題が無いことが確認されて初めて入国が認められ、このときに入国を拒否された者(入国不適格者)が出た場合には、その者をアメリカまで乗せてきた船会社に一人につき千ドル、当時のレートで約4千円ちょっと、今の価値に直すと約2千万円という高額の罰金が科されました。

 このためチケットの購入は建前上は検診の義務が無かった一等船室はパスポートとビザがあれば最寄りの乗船したい船会社の本支店で購入出来たのに対して、二等三等船室については港の近くで"各国汽船乗客取扱所"とか、"乗船切符及旅客荷物取扱所"、はたまた"船客取扱所"という看板を出していた通称”汽船問屋(その昔は”移民宿”とも"外航旅館"とも呼ばれていた)”こと正式名称”二等三等船客取扱人”と呼ばれた↓

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-写真④-
*「大正12年刊・渡米の栞」に掲載されていた弁天通5-71にあった長野屋旅館の広告


のような昭和5年頃には関内周辺に17軒あった旅館が横浜出港分の二等三等船室を一括して販売し、出港前検診やビザの取得などについても「手続に不慣れな者が三々五々来られるより一団となって来てくれた方が効率的」という受入側の都合から、これらの旅館が乗船までに必要な渡航手続全般の周旋も一括して請け負っていました。

 そこで二等三等船室を利用する場合は、出港前検診の受診申し込み期日である出港4日前の正午までに”汽船問屋”に投宿し、各種必要書類に記入して寄生虫検査の為の検便容器を貰い、出港3日前の午前中に旅館の番頭さんに引率されて現在の桜木町駅北改札口を出て道路を挟んで真正面(現在、ペンギンマークの冷蔵庫屋さんのビルがある場所)にあった神奈川県海外渡航者検査所に行き、

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-写真⑤- 
*桜木町2丁目にあった神奈川県海外渡航者検査所(大正15年刊・神奈川県震災衛生誌より)


まず性病、精神疾患、結核、眼病検査が行われ、これらにパスすると中身入りの検便容器を提出してその日の検診は終了。

 そして検便検査にパスすると検査の翌日の午後、すなわち出港2日前に”健康証明書”が発行され、これを提示することでようやく乗船券を購入することが出来ました(以上、大正12年「渡米の栞」大正14年神奈川県刊「統計時報第6号-海外渡航者-」昭和9年「北米遊学案内」ほかより)

 この時、家から領事館や渡航者検査所などに通える二等船室希望者は、近くの船会社の本支店でチケットを購入することもできたのですが、その際に”健康証明書”が必要だったことから、ほとんどの場合は適当な”汽船問屋”に出向いて船室の予約申し込みをすると同時に、その他諸々の手続きの周旋を依頼していたようです。

 というような事情から乗船券を購入するまでと、アメリカ入国時の手間暇や船内での不自由さなどを考えると、渡米に際して二等、三等船室を利用するメリットはほとんどなく、大部分のガイドブックでは「アメリカへの渡航は帰りは三等でも構わないが、どうせ大枚はたいて渡米するのだから行きは一等船室を利用するべし昭和9年「北米遊学案内」」としています。

 そしていよいよ出港当日。
 
 当時は渡米する者は、使用する船室の等級に関わらず出港当日(昭和3年くらいまでは前日も受け付けていたようですが、その後は当日のみの受付となったようです)に、大桟橋入口にある水上警察署に出頭して”なりすまし渡航”を防ぐ為のパスポートの本人確認が行われ(←現在の出国審査にあたるモノで氏名、年齢、職業、渡航目的、渡航先などを聞かれた)、これを受けないと例えチケットを持っていても乗船することができませんでした。

 この審査については、すでに”汽船問屋”に宿泊しているのなら、旅館の番頭さんが水上署経由で船内まで引率してくれるのでなんの心配も無いのですが、東京近辺に住んでいる人は当時、サンフランシスコ航路出港日に東京駅と四号岸壁がある横浜港駅間で運転されていた"ボートトレイン"を利用しよう、と考えるのが自然の成り行きというもの。

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-写真⑥- 
*水上署入ってすぐにカウンター(1982年撮影)


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-写真⑦- 
横浜港駅旅客乗降場プラットホーム(1981年撮影)


 例えば震災後にボートトレインが再開された昭和3年だと、東京駅を13:05に出て四号岸壁前の横浜港駅に到着するのが出港の約1時間前の13時56分、四号岸壁と水上署の往復に約20分、水上署での審査に10~15分程度と考えるとざっと見積もって出港の20~30分前には戻って来られる計算になります。

 しかしサンフランシスコ行きが出港する日の水上署は査証を貰う人でてんやわんやの大騒ぎだったうえに、四号岸壁に行けば行ったで客船見物の野次馬で押すな押すなのカオス状態、さらに船に乗ったら乗ったで今度は乗船客と見送り客とで船内がごった返しているという状態(当時は乗船券購入時に船会社に必要な数を申し出れば見送り客用の乗船券を発行してくれた)で、人をかき分けかき分け乗船したら出港までのわずかな時間で自分の船室に託送した荷物が滞りなく届いているかを確認しなければならず(今も昔も荷物は行方不明になるもの……???)、、それに引き替え桜木町駅まで電車で行って駅で荷物を船会社に預けて手ぶらで水上署経由で船まで行く方が、乗船時間を自分で調整出来るので時間的にも心理的にも余裕を持てるように思えます。

 この点について当時の書物を紐解いてみると、どの本も「横浜港へは東京駅からの臨時列車(ボートトレイン)が便利」と書く一方で、「出港当日は何かとバタバタするから前日から横浜に宿泊するように」とか、「乗船当日は水上署での審査があるから横浜港には出港の4~5時間前に着くように」とか、「出港当日は混雑を避ける為に出港2時間前に乗船するように」というように、ボートトレインで四号岸壁に直行していたら実現不可能なことが書かれているし、旅行記には皆一様に「電車で桜木町駅に行って……」という例ばかりで、ボートトレインを利用して乗船したと覚しき例は、政治家、官僚などによる視察団として渡米した人くらいしか見当たりません(多客期や大人数の視察団が乗船する時には水上署員が四号上屋まで出張することもあったようです)

 どうやらボートトレインは、もっぱら見送り客と客船見物の観光客によって利用されていて時間的余裕の無さから一般の乗船客からは敬遠されていた、というのが実際のところだったようで、その後、このことが理由だったのかどうか、また変更された時期も定かではありませんが、昭和4年10月の浅間丸処女航海の時には、横浜港駅への到着時間が出港約1時間前から約1時間42分前(東京駅12:30発横浜港駅13:18着←1998年・「太平洋の女王 浅間丸」より)となっています。

 と言うことで、出港当日に自宅から横浜港に向かう人は、乗船開始が出港2時間前の13時からなので、午前中のうちに水上署での審査を済ませられるように(審査開始は午前9時から)京浜電車(現在の京浜東北線)で桜木町駅まで行き、駅で荷物を船会社に預けて(正確にはジャパンエキスプレスに預けるのですが)、人力車かタクシーで水上署経由で四号岸壁に行くのがベストという結論に至ります昭和2年「米国旅行案内」によると人力車80銭、タクシー1円80銭だった)

 そんなこんなで、ようやく船に乗り込み15時になるとサンフランシスコ行きの船は横浜港を出港し、あこがれのハワイ航路をハワイに向かって一直線

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-写真⑧- 
*四号岸壁を離岸する浅間丸(昭和5年刊・日本郵船株式会社五十年史より)


……かと思い行きや、船は港外に出ると一旦停船し(一説によると本牧沖あたりだったらしい)「乗客はパスポートと乗船券を持ってデッキに集合するように」という船内放送があります。
 
 これは水上警察署員によるパスポートの本人確認と、密航者の船内捜索が行われる為で(←毎回必ず数人の密航者が見つかったとか)、乗客は風が吹こうが雨雪が降ろうが、寒かろうが暑かろうが天候に関わらず、また船室の等級に関わらず2時間ほど吹きさらしのデッキで待たされ(さすがに浅間丸クラスになると三等船客以外は一等、二等ラウンジで待たされたようです)、捜索を終えた警察官(と密航者?)がボートで本船から離れると、ようやくハワイに向けて”Bon voyage”となりました。

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-写真⑨- 
*(昭和5年刊・日本郵船株式会社五十年史より)


 
 


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by yokohama80s | 2016-06-05 00:07 | その他 | Comments(0)
2016年 04月 24日

出船入船

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*1984年・新港埠頭(出港に備えて貨物ハッチを閉めるの図)


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*1987年・東扇島埠頭(出港する木材運搬船)


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*1987年・川崎市営埠頭(岸壁の旗は国際信号旗の"November"を使用した停船位置指定旗と呼ばれ接岸時のブリッジの位置を示しています)


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭(出港に備えてスロープを上げる自動車運搬船)


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭



*来月5月のUP予定
5月 1日:日本カーフェリー
5月 8日:浮島公園
5月15日:浮島つり園
5月22日:川崎市港湾局浮島処分場
5月29日:浮島町

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by yokohama80s | 2016-04-24 00:10 | その他 | Comments(0)
2016年 04月 17日

船のポートレート

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*1982年・新港埠頭


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*1982年・山下埠頭


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*1982年・山下埠頭


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*1982年・山下埠頭


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*1982年・大桟橋


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*1982年・新港埠頭


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*1984年・新港埠頭


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・東扇島埠頭


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*1987年・大桟橋

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by yokohama80s | 2016-04-17 00:07 | その他 | Comments(0)
2016年 01月 03日

小樽 1982年

 ある日、押し入れをゴソゴソやっていたら、長年行方不明だった80年代初頭の小樽を撮影したネガが出て来たので、80年代の小樽と横浜を温故知新的に比較してみるのも面白いかも、ということで今回は新年特別企画として横浜を遠く離れて小樽の色内地区の写真をお送りしたいと思います。

 蛇足ながら、小樽の色内("いろない"と読みます)地区というのは、横浜で例えると海岸通1丁目の開港広場交差点あたりと言った感じでしょうか。

  ということで一説によれば上野駅をモデルにして建てられたとされていますが、その昔。東口にあった三代目横浜駅駅舎を知っている横浜市民は異口同音に「昔の横浜駅を小さくした感じだ」と口にする(……だろうと思います、たぶん)小樽駅(ちなみに横浜駅三代目駅舎がが1928年昭和3年、上野駅駅舎が1932年昭和7年、小樽駅駅舎は1934年昭和9年に建てられました)から海の方へ下る坂道が通称"駅前通り"こと"中央通り"で、この通りの坂道を下って手宮線の踏切を渡った先にあったのが↓


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*①岡島薬局 
駅前通り拡張に伴い取り壊される



1907年(明治40年)に建てられた木造の岡島薬局。

 蛇足ですが、↑の写真の建物の前の道路が石畳なので「この頃の中央通りは石畳だったのだろうか?」と思って航空写真その他で調べてみると、なぜかこの建物の前の部分だけに往時の石畳が残っていたんだそうな。
 ということで、↑の岡島薬局があるブロックの中央通りと色内大通りが交差するカドにあったのが↓

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*②北海経済新聞社ビル
道路拡幅(駅前通り)に伴い斜め後方に曳家移設される(現存)



1930年(昭和5年)に建てられた旧安田銀行小樽支店こと、当時は北海経済新聞社ビル。

「なんか見覚えがあるなぁ?」と思うのも道理で、なにやら安田銀行は支店を建設するときにその土地土地の敷地の広さに応じて寸法を変えただけの同じ設計図を使い回していたんだそうな。
 「どうりで馬車道あたりで見た記憶があるんだな」ということで旧安田銀行小樽支店と交差点を挟んで斜め向かいに建っていたのが↓

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*③④井淵ビル
1992年に中央通り拡幅工事に伴い取り壊される


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*④井淵ビル・その2


1897年(明治31年)に建てられた旧小樽銅鉄船具合資会社こと井淵ビル。

 実は写真の建物はあくまでも最終形態で建てられた当時の第一形態は↓

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*明治末から大正初め頃に撮影された第一形態


その後、3階部分と塔屋を建て増しした第二形態に変化して↓

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*昭和初期頃に撮影された第二形態


最終的に一階部分のアーチと屋上の塔屋などが無くなり、レンガ壁をモルタルで塗り固めたり、その他諸々の改修がなされて最終形態になったそうです……というのは、今になっての後付け知識で、撮影当時は「おっ、なんかいい雰囲気!」と言う感じ。

 そして↑の写真の左側に写っている通りをさらに1ブロック進むと、小樽運河に架かる中央橋にたどり着きます。

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*⑤小樽運河倉庫群 (現存)

 
 ここは今や小樽の一大観光名所となっていて、「小樽運河」で検索すると↑の写真と似たような写真がゴッソリと出て来ますが、撮影当時は人っ子一人居ないという状態でした(そもそも当時は冬に呑気に観光している酔狂な人なんかいなかった)。

 ちなみに写真手前から、築年不明の北日本倉庫港運倉庫、切り妻部分が運河を向いている建物と奥の二階建てのレンガ倉庫が1925年(大正14年)築の旧篠田倉庫こと当時は大同倉庫、その隣りが一棟に見えますが実は真ん中で仕切られている1924年(大正13年)築の小樽倉庫一号、二号倉庫となります。

 ということで今度は運河沿いに建ち並ぶ石造りの倉庫を左に見ながら↓

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*⑥撮影場所不明
(扉には「◯に高い」倉庫№1と書かれています)


1ブロック北上すると道は竜宮通りとぶつかり、そのカド手前にあったのが↓

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*⑦大家倉庫 (現存)


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*⑧大家倉庫・その2


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*⑨大家倉庫・その3


1891年(明治24年)に建てられた大家倉庫。

 ちなみにこれらの石造りの倉庫は、正確に言うと「木骨石造建築」と呼ばる木造の骨組みの壁部分に、防火目的に厚さ15センチのパネル状の軟石を張り付けた物で、撮影当時には小樽運河沿いにズラ~ッと建ち並んでいました。

 ということで↓の写真の倉庫もそのひとつで

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*⑩二葉倉庫(所在地不明)


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*⑪二葉倉庫・その2


 色内2丁目交差点付近にあった鎧戸に花菱のレリーフがあしらわれた二葉倉庫。
と言っても撮影当時、小樽にはそこかしこに二葉倉庫があったようですし、現在、写真の倉庫に該当する倉庫が見当たらないことから、運河を半分埋め立てて道道を建設した時に取り壊された倉庫のひとつだろうと思われます。

 ということで今度は色内2丁目交差点を左におれて小樽駅に戻る途中の竜宮通りにあったのが↓

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*⑫中一商会 (現存)


1920年(大正9年)に建てられた木造三階建ての旧戸羽商会こと撮影当時の中一商会。

 ということで撮影当時の小樽は、1965年(昭和41年)にその計画が明らかになった道道臨港線建設に伴う小樽運河埋立の是非を巡り計画を推し進める行政と経済界と、「運河は小樽の文化遺産だ」として反対する市民との間で「小樽運河戦争」と言われるくらい激しい議論が10年の長きに渡って繰り広げられたものの、1982年(昭和57年)に、「建設する道路の車線を減らして幅40mの運河のうち山側を半分埋め立てる」という妥協案が半ば強引に決められ埋立工事が開始されます。

 しかし小樽市は、市民からの反対を無視したということに後ろめたさを感じたのか、はたまた何か思うところがあったのか、翌年の1983年(昭和58年)に歴史的建造物と歴史的な街並みの保存を目的とした「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」を策定し、小樽市内に現存する歴史的建造物と古い建物が織りなす歴史的景観の保存に乗り出します(横浜市が「認定歴史的建造物」を策定したのは1988年(昭和63年)、歴史的な景観の保存に乗り出したのは2015年)

 そして1992年に、歴史的建造物と歴史的な街並みの保存と共に、総合的な都市景観の保全を目的とした現行の「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」に改訂し、同時に小樽市内に現存している歴史的建造物2,357棟を調査し、これから主要な物を508棟を選び現地調査を実施し、この中から保全すべきものを「小樽市登録歴史的建造物」として登録し所有者にその旨を通知し、所有者の同意を得られた2015年現在75軒を「小樽市指定歴史的建造物」に指定した、ということがこちらに書かれていますが、「小樽市指定歴史的建造物」に指定された75軒以外にも、所有者によって自主的に、はたまた結果的に現存及び保存されている建物が相当数存在しています。

  
*写真はすべて1982年撮影。



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by yokohama80s | 2016-01-03 00:09 | その他 | Comments(0)