週刊 横濱80’s

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カテゴリ:新港埠頭( 52 )


2012年 11月 25日

新港埠頭 七号岸壁

 1934年(昭和9年)に大蔵省営繕管財局が発行した大正14年度営繕事業年報にある「横浜税関陸上設備震災復旧」の項によると、九~十一号岸壁には鉄骨生子板張り(波板トタン張りのこと)の上屋を、そして七号、八号岸壁には鉄筋コンクリート平屋建ての同規模同設計の上屋を建設した、とあります。
 ところが80年代には、8号岸壁には鉄筋コンクリート平屋の上屋があったのに対して、七号岸壁には鉄筋コンクリート平屋建ての上屋などなく、代わりにこの岸壁を接収していた米軍により仮設の簡易冷凍庫が設置されていました。

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*①1983年撮影


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*②1987年撮影


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*③1987年撮影


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*④1987年撮影


 そこであれやこれやの資料を紐解いてみると、横浜市発展記念館のサイトにある1934年(昭和9年)発行の横浜グラフ四月前半の【「練習船」を送り迎へる!!】という写真には、八号上屋と双子の七号上屋が確かに写っています。 
 ところが国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システムの1944年に旧陸軍が撮影した航空写真には、七号上屋があった場所にはノコギリ屋根のバラック倉庫らしき物が写っていて、さらに1946年~1956年に撮影された航空写真には、七号上屋があった場所の左突堤中央道路側に衝立状の壁が確認出来るだけで上屋の姿は影も形も見当たりません。

 そうなると1934年から1945年までの間に七号上屋が何かの理由で取り壊されたということになりますが、戦前~終戦直後にかけてわざわざ頑丈な鉄筋コンクリートの上屋を取り壊す理由が思いつかないし、このあたりは空襲の被害を受けていないし・・・・・・。

 すると1985年に刊行された中区史に、戦時中の昭和17年(1942年)11月30日に八号岸壁で「ドイツ軍艦爆発事故」が起こり上屋が倒壊したという記述が。

しかし普通に考えると、爆発が起きたのが八号岸壁なのだから倒壊した上屋は八号上屋なのでは?

 ということで、この事故の詳細について書かれた光文社NF文庫・石川邦美著「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」を読んでみると、舳先を沖に向けたいわゆる出船状態で八号岸壁に係留中だったドイツ海軍のディトマルシュン級補給船三番艦ウッカーマルク(全長178m、満載排水量20,858トン)が油槽清掃中の不注意から爆発炎上し、亀裂が入った船体から燃料の重油が流出し新港埠頭の左右突堤の五~八号岸壁に囲まれた凹部の内側は火の海に。

 そして爆発した輸送船に並列に、俗に言う"メザシ"状態で係留されていた同じくドイツ海軍の仮装巡洋艦トール(全長122m、排水量3,862トン)の船尾でまさに積み込み中だった多量の弾薬に引火し大爆発が発生(注:両船の全長及びトン数は出典により様々な数字と単位が錯綜しているため、複数存在する数字のうち岸壁長と船の大きさを比較して私の独断と偏見で妥当だと思われる数値を採用したので、目安程度にお考えください)

 これにより六号、七号岸壁に係留中だった船が次々に爆発炎上し、その結果、七号上屋が倒壊、八号上屋その他付近の倉庫が全焼し、ドイツ軍人61人、中国人捕虜36人、停泊中だったドイツ軍艦の整備や岸壁で荷揚げ作業に従事していたり、外国人船員相手に土産物などを売っていた日本人5名の合計102人が犠牲になるという大事故があったそうです。

 さらにこの本には、横浜税関が保管していたという事故直後に撮影された写真が多数掲載されていますが、それを見ると確かに事故が起きたのは8号岸壁で、倒壊したのが七号上屋だということが確認できます。

 そこでこれらの写真に写っている七号上屋の壊れ方や、国土変遷アーカーブの航空写真やネット上で見つけ出した戦後、七,八号岸壁を撮影した写真などを参考に想像力たくましく妄想してみると、八号岸壁に係留されていたウッカーマルクの船体が大爆発を起こしたトールより二回りほど大型だったことや、2船とも海側に船首を向けたいわゆる出船状態で停泊しており、誘爆して大爆発を起こしたのがトールの船尾船倉側、すなわち七号上屋側だったことなどの様々な要因が重なって、仮装巡洋艦が誘爆した時にウッカーマルクが遮蔽板の役割を果たした結果として衝撃波と爆風が七号上屋を直撃し岸壁側の壁と天井が吹き飛ばされて倒壊し、辛うじて倒壊を免れた中央道路側の壁と、八号上屋側と万国橋側の壁1/3が1957年に米軍が簡易冷凍庫を設置するまで取り壊されずに衝立のような形で残され、七号上屋跡地は露天の貨物置き場として使われた、ということのようです。

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*1950年に撮影された航空写真から、壁だけ残された七号上屋
(元の写真はみなとみらい歴史AR・1950年代の横浜港の航空写真から)


 一方、最初に爆発、誘爆した2船が停泊していた八号岸壁の八号上屋は、ウッカーマルクの船体が爆発による衝撃波と爆風を遮ったことにより(爆発による急激な気圧変化により上屋の扉は吹き飛んだものと思われます)、一部損傷を被ったものの修復され、みなとみらい21関連工事により1990年代に取り壊されるまで屋根や壁に修復跡を残したままの姿で現存していました。

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*1987年撮影(右奥が8号上屋、その手前が公衆トイレ、左手前が10号上屋、左奥が9号上屋)


 余談ではありますが、昔、大西洋で通商破壊戦に従事し最大の戦果を挙げたドイツ海軍巡洋艦アドミラル・シェアについて書かれたノンフィクションポケット戦艦という本(冷蔵船デュケサの逸話は秀逸です)を読んだことがありますが、作品中にシェアと共に南大西洋で活動していた仮装巡洋艦トールが、その後、このような運命を辿っていたということや、戦況悪化のためにドイツに戻れなくなったドイツ艦船が日本に協力して太平洋で行動し、その拠点として新港埠頭が使用されていた、という事実と共に(その後、ドイツに無事帰れたのは二隻だけで、残りの船はすべて連合国側により終戦までに撃沈されている)、7号岸壁に上屋が存在しなかった理由に、こんな戦争秘話があったことには正直、驚きを禁じ得ません。

 ということで、5日後に1942年の爆発事故からちょうど70年目を迎えるにあたり、国籍を問わずこの事故で犠牲になられた102名の方々のご冥福を、ささやかながらお祈りしたいと思います。
 
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*⑤1983年撮影(写真右にあるのが旧税関第二分室の建物)


来週は上述した本の118頁に事故直後の写真が掲載されている旧税関第二分室をお送りします(テキトーに写真を何枚かUPするだけですが・・・・・・)



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by yokohama80s | 2012-11-25 00:03 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 10月 21日

新港埠頭二号岸壁

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*1983年撮影(現在の赤レンガパーク前で、今でも2号岸壁のデッパリが残っています)


昔は新聞の横浜版の端の方に小さな囲み記事で、その日、何時にどの埠頭にどこから来たなんという船が入港するか、はたまたはどこへ向かう船が出港するかが掲載されたくらい横浜港は賑わっていました(大晦日恒例の汽笛大合唱に聞き応えがあったのはこの頃までなのではないでしょうか?)。

しかしすでにこの頃には、日本船籍のいわゆる「マルシップ(MARU SHIP)」は少なく、貨物船といえば船体がグレーに塗られたサビサビでボロボロの中国船が多かったと記憶しています。

ところがこの写真を撮影した時には2、3,4号岸壁に珍しくマルシップが勢揃いしていました。

ちなみにここで言う「マル(MARU=丸)シップ」とは、海外では日本船籍の船名には必ず「○○丸」と付くことから日本船を指す呼び方で、法律上の「マルシップ」とは別の話です、という話は置いておくとして、すでにこの頃には2号岸壁に停泊している船のように、英語を平仮名表記したものや、初めから船名が横文字の便宜置籍船などが主流を占めていました。

ちなみに写真左手の3号岸壁に停泊中の「伏見丸」は、初代の船は欧州航路用の貨客船として1914年に建造され、純日本風の内装が施されていた一等船室がメインの豪華船で、往年の郵船神社船隊(その昔、日本郵船が就航させていた貨客船には神社にちなんだ名前がつけられ、操舵室内の神棚にはその神社の祭神が祀られていた。「伏見丸」の伏見は京都の伏見稲荷にあやかって命名された)の一角を担っていましたが、大戦中の1943年に御前崎近海で米潜水艦の雷撃で沈没しています(戦前、51隻あった日本の大型外航船は氷川丸と日昌丸の二隻以外はすべて撃沈されている)。

ということで、この「伏見丸」は、貨物船として1970年に三菱重工神戸造船所で建造された総トン数10,946トン(偶然なのか意図したものなのか初代の総トン数は10,940トン)、全長158m二代目伏見丸となります。

さらに余談ですが、この船は往年の郵船神社船隊の船名を引き継いでいることや、黒い船体に写真ではわかりにくいのですが白地に赤の二引の日本郵船伝統のファンネルマークが施され、さらに船首形状が右の船のような今時のボテッとしたバルバスバウではなく、昔ながらのシュッとした通常船首なことなどで、個人的には萌えポイントが満点に近い船です(笑)


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by yokohama80s | 2012-10-21 00:08 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 09月 16日

横浜税関西門

本土側から新港埠頭へ行くには、桜木町駅方向から、または馬車道から万国橋を渡るルートと、関内駅南口からみなと大通りを直進して海岸通りを横切って"クイーン"こと横浜税関庁舎横を通って新港橋を渡る、という二通りのルートがあります。

新港橋ルートで新港埠頭に行くときに、みなと大通りから海岸通りを横切り税関庁舎脇を抜ける時に、税関庁舎の道路を挟んだ反対側に「横浜税関西門監所」という交番のような建物がビルの一角にあり、その脇の道路にはみ出した所に、写真の「横浜税関西門」と書かれた銅板がはめ込まれた門柱があります・・・・・・というよりありました(税関庁舎側にも門柱があったかどうかは記憶が定かではありませんし)。

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*1982年撮影(写真右手の入り口に赤灯があるのが横浜税関西門監所)


しかしよくよく考えてみると、件の門柱は税関庁舎の東側に建っているのに「西門」とはこれ如何に? 

実は1859年に横浜開港を機に、現在、日本大通りから海岸通りを渡った先の広場になっているあたり、80年代には東西上屋があった区画を柿渋が塗られた黒い板塀で囲って、その中に税関の前身である運上所が設けられ、その板塀の西側、現在、海岸通りにある昭和ビルの裏あたりに西門が、また現在の開港広場交差点のジャパンエキスプレスビルと貿易会館の間あたりに東門が設けられたことに端を発しています。

その後、明治政府発足に伴い運上所が税関に移行し、初代庁舎が一旦、現在の県庁の辺りに建設されましたが「海から遠くて不便極まりない」ということで、当時の県庁庁舎が火事により焼失したことをきっかけに、税関庁舎を県庁に譲り、税関庁舎はかつて運上所のあった場所、日本大通りの突き当たりの真正面に移動しました。

そして運命の1923年(大正12年)。
関東大震災により二代目庁舎が完全に崩壊。

この時、税関庁舎再建よりも港湾施設再建が優先された為に、税関庁舎は万国橋を渡った右側の新港埠頭内にあった税関敷地に仮移転。

そして震災から11年後の1934年(昭和9年)にようやく現在地に"クイーン"と呼ばれるようになる庁舎が完成し、海岸通りも現在のように直線化された為に(震災前の海岸通りは現在の税関庁舎のあたりから海側に切れ込んで昭和ビルのあたりで再び現在のルートに戻っていた)、西門は税関裏に移動した、というのがこの門柱に関する歴史的背景のようです。

このことから震災前はレンガや石積みが、震災後はコンクリートが主要な建築材料だったことなどを考えると、この石積の門柱が建てられたのは必然的に1912年以前だろうということになります(←私が勝手に願望を言っているだけですのでお気になさらずに)。

これらのことから道路にはみ出して車線を塞いでいるにも関わらず、80年代にこの門柱が現存していたということは、昔の人はこの門柱の価値を充分に理解していた、と想像できます。

ところが現在、この門柱は撤去されてしまったようです。

確認の為に伝家の宝刀ストリートビューで確認してみても西門門柱は影も形も見当たりませんでした。

確かにあのような柱が道路側にはみ出して建っていたら車の通行の邪魔になるでしょうが、邪魔になると言ったら新港埠頭が港として活気に満ちていた80年代前半の方が遙かに邪魔になっていたはずですし、この頃には"近代遺産"などという言葉も感覚も無かった時代ですから、このような柱くらい壊そうと思えばいつでも壊せたはずです(実際、「邪魔臭い」という理由で、1979年頃に旅客ターミナルこと新港埠頭四号上屋を情け容赦なく取り壊して更地にして貨物置き場にしてしまった)。

それが写真のように80年代当時にも残されていたということに、当時の関係者の方々には「この門柱は残すんだ」という明確な意志があったのではないでしょうか???

少なくとも私にはそう思えます。

それにこの程度のモノを保存するのに、いったいどれだけの手間暇が掛かると言うのでしょう???

この門柱を保存することよりも撤去することを選択した人たちの、その感覚とセンスに私は首を傾げざるおえません・・・・・・という、済んでしまった話を蒸し返すのはここまでにして、「西門があるのなら東門はどこ?」と疑問に思うのは至極当然のことだと思います。


*追記
この税関西門の門柱は、下の方を切断して短くなった形で新港埠頭旅客ターミナル入り口門柱として再利用(?)されています(でもどこにもそのことが書かれていないのはなぜ???)



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by yokohama80s | 2012-09-16 00:06 | 新港埠頭 | Comments(2)
2012年 08月 05日

横浜港駅 荷物用ホーム

旧国鉄・東海道貨物支線こと横浜臨港線の横浜港駅にはプラットホームが二カ所あり、ひとつは言わずと知れた、現在、海保の海上防災基地となっている旧四号上屋のちょうど真ん中あたりまで140mほどあった1928年竣工の旅客用プラットホーム。

現存しているのは海上防災基地の敷地からはみ出した東京寄りの40mほどが、屋根を塩ビに張り替えて「横浜港駅プラットホーム」として保存されています。
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*2012年撮影


そしてもうひとつが、旅客用ホームの約100mちょっと手前(南)のレンガ倉庫の前、現在の駐車場あたりにあった写真の荷物用プラットホームこと小口貨物積卸場です。
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*1984年撮影


このホームも四号上屋や、旅客用プラットホームとほぼ同時期に作られたものと思われますが、撮影当時には、すでに横浜港駅は信号所に格下げされ、旅客用、荷物用ともに屋根付きだったプラットホームは雨を避けられるちょうど良い荷物置き場となっていて、ホームの上と言わず、その周辺には海コンやらホネやら、はたまたザーサイが入った樽↓とか、
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*1982年撮影(さすが中国クオリティー、タガが外れて壊れる寸前のタルばかり)


大きな木箱に梱包された建設機械や、その部品などが乱雑に置かれていて、写真のようにホーム全景を障害物無しに見渡せることができませんでした。
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*1984年撮影


上の写真を撮影した時は、ちょうどお盆休み中だったこともあり、この時だけはまわりがキレイに片付けられていて、運良くこれらのカットが撮影できたと言う次第です。
  

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by yokohama80s | 2012-08-05 00:02 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 29日

横浜港駅 計重台

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*1981年撮影


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*1983年撮影


横浜港の各岸壁を結んでいる旧国鉄の貨物線は、正式名称はただの東海道本線貨物支線で、高島から桜木町駅の下にあった東横浜を経由して新港埠頭の横浜港駅までを通称・横浜臨港線、さらにその先の山下埠頭までを山下臨港線と呼ぶんだそうです。

私はズボラな性格なもので、どれもこれもただたんに「貨物線」と呼んでいました。

それはそれとして上の写真は、十一号上屋の手前にあった鉄道用の計量台。

今でいうとJICAのあたりでしょうか。

要は大きな秤のことで、荷物を積み込む前にここで一両一両貨車の重さを量り、荷物を積み込んだら再び重さを量って、その重量差で荷主に料金を請求するのに使用していたようです。

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*1983年撮影




*2012/09/01 計量小屋の写真を追加しました。
*2012/09/15 計量小屋内の秤の写真を追加しました。
 

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by yokohama80s | 2012-07-29 00:05 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 22日

新港埠頭 石畳

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*1983年撮影(五号上屋南側=万国橋側)


1916年(大正5年)に竣工した当時の新港埠頭内の道路は、万国橋や新港橋方面から二つの突堤の真ん中を通っているような幅員18~21mの幹線道路は24cm×9cmの花崗岩ブロックによる舗石道こと俗に言う所のピンコロ舗装による石畳。

左右の岸壁を東西に結ぶ幅員14~18mの幹線道路は砕石道(現代の感覚で言うと砂利道)、それ以下の幅員の道路は砂利道(現代の感覚で言うと庭園などの遊歩道に見られるような小砂利を敷き固めたモノ)で作られ、上屋脇まで引き込まれていた鉄道線路も路面電車の軌道のように石のブロックで覆い、上屋の周りは45~60cm角の花崗岩パネルが敷き詰められていて、関東大震災後の災害復旧の時も基本的に震災前に道路に敷かれていた石材を再利用し、不足した分を新しく調達したそうです。

しかし80年代の撮影当時には、ピンコロ舗装がされていた幹線道路は、石畳の上からアスファルトで舗装し、路面が痛んでアスファルトが剥がれた部分からピンコロ舗道の路盤が顔を覗かせ(この区間を車で走ると、どんなに徐行して走ってもあまりの振動の酷さで建て付けが悪かったルームランプカバーが必ず落下したものですw)↓。

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*1981年撮影(10号上屋前の中央道路脇にて)


岸壁上屋の周りや歩道は一番上の写真のような丸石やブロック状の板石敷きが残っていて

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*1982年撮影(赤レンガ二号倉庫前にて)


往時を偲ばせていました。

ということで、これらの写真をご覧になればおわかりのように、現在、赤レンガ倉庫のあたりなどに敷かれている石畳のうち、段差が無いキレイなモノはみなとみらい再開発時に新たに敷かれたモノですのでご注意アレ(2号倉庫の中央あたりのモノが昔からある石畳です)。



*2012/09/01 写真を追加しました。
*2013/01/08 一枚目の写真を6号上屋としていましたが、5号上屋と判明しましたので訂正しました。

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by yokohama80s | 2012-07-22 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 15日

PL125 巡視船かとり

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*1987年撮影


この巡視船は、新港埠頭の四号岸壁突端にあった海保専用桟橋ではなく、なぜか九号岸壁の突端にある桟橋に係留されていました。

写真に写っている「PL125」という艦船番号から調べてみたところ、銚子保安部所属の"巡視船かとり"と判明。

クラシカルな舳先の波よけから、「相当、古い船だろう」と思っていましたが1980年建造で今だ現役。

さらにマニアの方のサイトを覗いてみましたら、この船は今でもよく横浜にやってきているようです。

この時も、なにかの用事か任務で横浜にやって来て、「ヨソ者だから」ということで専用岸壁ではなくてここに係船させられたのでしょう......なんてことはなく、ただたんに専用岸壁が一杯だったからこちらに係船したのだと思います。   


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by yokohama80s | 2012-07-15 00:09 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 07月 08日

新港埠頭 米海軍冷蔵施設

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*1983年撮影(左が新港倉庫、真ん中の四棟続きの建物には"NAVY COLD STORAGE FACILITY YOKOHAMA"のエンブレムがある)


現在で言うと新港1丁目4番地、80年代当時で言うと横浜港駅のヤードの北側にあった新港倉庫、三井倉庫、横浜冷蔵庫と、六号岸壁と七号岸壁の突堤を結んでいた道路を挟んで七号岸壁が、終戦後から1994年(平成6年)に返還されるまでの間、冷蔵施設として米海軍に接収されていました。

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*1981年撮影(新港倉庫への引き込み線)


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*1982年撮影(新港倉庫)


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*1987年撮影(七号岸壁/七号上屋は1942年に起きたドイツ軍艦爆発事故により倒壊した)


この一帯の冷蔵倉庫は、接収直後から冷凍船で横浜港へ大量に運び込まれた食料品を、冷蔵貨車に積んで全国の米軍基地に配送するまでの一時貯蔵所としての役割を担っていました。

その後、国内に進駐していた米軍基地は減少し、80年代当時は主に米軍艦船向けの冷凍食品などの保管に使用されていたようです。

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*1982年撮影(左端が横浜冷蔵倉庫、右が三井倉庫、真ん中は二つの倉庫を繋ぐ渡り廊下兼入り口棟)


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*1983年撮影(入り口に掲げてあった看板)


余談ではありますが80年代当時、「あの倉庫では米軍向けのアイスクリームが作られている」という話がまことしやかに囁かれていましたが、アイスクリームを作っていたのは東神奈川、というより京急・神奈川新町駅と旧国鉄(現・JR)の線路の間の神奈川区亀住町に2000年まで操業していたミルクプラント(現・保育園)。

他にも1977年(昭和50年)まで、横浜駅東口北側の旧神奈川駅があったあたり、今で言うとコーヒー会社のビルがあるあたりに米軍のパン工場がありました。

ということで話を元に戻しますと80年代頃は、これらの冷蔵施設への品物などの搬入搬出を行っている様子もなく、接収区域で一番大きな新港倉庫もご覧のように廃墟になっているし、七号岸壁も冷蔵施設が稼働している様子もなく、横浜冷蔵倉庫と三井倉庫の建物の中でコンプレッサーが稼働している音がするだけでした。


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by yokohama80s | 2012-07-08 00:03 | 新港埠頭 | Comments(4)
2012年 05月 13日

新港埠頭八号岸壁 公衆トイレ

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*1983年撮影


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*1983年撮影


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*1983年撮影


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*1986年撮影



 横浜港で客船と言えば、大部分の方が大桟橋の方をイメージされると思いますが、大桟橋よりも設備が充実していて規模も大きな旅客ターミナルが新港埠頭四号岸壁にあり、1960年(昭和35年)に氷川丸が引退してシアトルまでのアメリカ航路が廃止されるまでは、国内船会社用の旅客ターミナルとして使用されていました。

 ということでちょっと新港埠頭についてググってみると、どのサイトを見ても判で押したように「北米航路が四号岸壁を使用し、欧州航路は九号岸壁を使用していた」とありますが、上の写真はそのどちらでもなく八号岸壁の八号上屋の山側(万国橋側)に併設されていた公衆トイレ。

 今も昔も元来、埠頭と言うところは、一般の人が立ち入らない場所であって、そこにあるトイレも当然、「用が足せればいい」的な素っ気ない造りなのに対して、このトイレはまるで公園にあるトイレのような立派なモノで、入り口には正円アーチがあしらわれ、入り口を入った所にはローマチック(?)な手洗い場があり(ロマネスク様式のトイレ???)、埠頭内の他のトイレは男女兼用なのに対して、こちらは男女用が左右にキチンと分けられていて、まるで不特定多数の人が利用することを前提にしているような造りでした。

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*1986年撮影(入口を入って右側が男性用)


中に入ってみると......
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埠頭内の他のトイレは、小便器が無く打ちっぱなしのコンクリートに向かって用を足す方式なのに、こちらはキチンと朝顔がならんでいます。

一方、個室(もちろん男子用の方です)のほうは......
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*二枚とも1983年撮影

普通のくみ取り式のトイレでした(笑   

 で、ご多分に漏れず1923年(大正12年)の関東大震災により新港埠頭も壊滅的な被害を受けたワケですが、 1925年(大正14年)大蔵省営繕管財局が発行した営繕事業年報によると、「歩道には上屋前及び荷役に支障のある場所を除きなるべく街路樹を植えて公衆便所その他の空き地にして、公衆の休憩に便利な場所には植樹をする」ということで、税関埠頭港内に合計6棟、うち新港埠頭構内に4棟の公衆便所が建てられそうで、この文面を見ると、新港埠頭は埠頭が臨海公園の役割も担っていたようです。



*2016/01/27
記事を整理するために、九号岸壁の件を削除し当ブログの「新港埠頭 九号岸壁」に統一しました。

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by yokohama80s | 2012-05-13 18:26 | 新港埠頭 | Comments(2)
2012年 05月 06日

新港埠頭 ハンマーヘッドクレーン

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*1984年撮影


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*1987年撮影


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*1987年撮影


新港埠頭の現在で言うと八号岸壁、撮影当時で言えば八号岸壁と九号岸壁の中間にあった通称ハンマーヘッドクレーン。

正式名称は50トン定置式電気起重機といい、1914年(大正3年)のイギリス製(銘板には"1913"となっている)で、50トンジャイアントカンチクレーンとも言うそうです。

なにやら世界で現存しているこのてのクレーンは全部で17基で、このクレーンは国内に現存している3基のうちの1基なんだそうで、ググってみると「関東大震災にもビクともしなかった」と見てきたかのように記述しているサイトが多いのですが、実際には当時の関係官庁が震災の被害状況を書いた文書によると、「50噸起重機を含め全部大破し仕様に堪えず」となっています。

震災直後の写真を見ると、どうやらハンマーヘッドそのものは倒壊を免れたようですが、ハンマーヘッドが設置されていた岸壁が崩壊水没している様子が写されています(ハンマーヘッドに登って撮影したとみられるカットも存在する)。

となると、あれだけの被害(レンガ倉庫も含めて倉庫や岸壁の大部分が倒壊水没している)があったのに、ハンマーヘッドだけがまったくの無傷、ということは考えにくいので、大なり小なり被害を受けたのは確実だと思われます。

それはともかくとして、撮影した当時は余り活躍する機会がなかったようですが、ごくまれにあたりに吊り掛けモーター独特のうなり声を響かせて作業をしている光景を見ることが出来ました。

現在は、どういう理由か知りませんがアームを海に突き出した状態で停まっていますが、撮影当時はアームを写真のように常に八号岸壁に向けた状態で静止していました。    

私には、撮影当時のようにアームを八号岸壁側に向けている姿が一番かっこよく見えるのですが......。    
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*1987年撮影


*関連記事
2014/06/01 ハンマーヘッドクレーン・その一
2014/06/08 ハンマーヘッドクレーン・その二


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by yokohama80s | 2012-05-06 18:06 | 新港埠頭 | Comments(0)