週刊 横濱80’s

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カテゴリ:新港埠頭( 50 )


2013年 10月 27日

新港埠頭 三井LM倉庫

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*1987年撮影(画面左が12号岸壁)


新港埠頭内の倉庫は、各岸壁に併設されている保税上屋には岸壁番号を英数字で、内陸部の上屋にはイロハ(保税倉庫以外の官設倉庫にイロハを割り振った説や、木造倉庫にイロハを付けた説もあり)、民間倉庫にはアルファベットが番地代わりにそれぞれの倉庫1棟ごとにつけられました。

ちなみに赤レンガ倉庫は、例外的に赤レンガ2号倉庫が乙号煉瓦倉庫、赤レンガ1号倉庫が甲号煉瓦倉庫、6号岸壁と7号岸壁の間にハ号、現在の赤レンガ2号倉庫の道路一本隔てた新港橋側に、のちに三菱倉庫となったロ号倉庫が、そして民間倉庫は新港倉庫がA号、C号、D号、E号、三井倉庫こと東神倉庫がB号、F号、K号、L号、M号各倉庫が埠頭内に散らばっている、という状態。

ここで察しの良い方はお気づきだと思いますが、イロハには「イ」が欠けているし、アルファベットではG、H、I、Jがなぜか欠番になっています。

イロハの方は木造の保税倉庫のことのを指していたようで、戦前の新港埠頭設備図では確認できるものの私が撮影を開始した80年頃にはすべて取り壊されて露天の貨物置き場となっていました。

一方、民間倉庫に割り振られていたアルファベットのG~Jまでが欠番の理由については・・・・・・よくわかりません(笑)

ということで、基本的に棟続きではない限り、棟ごとにアルファベットが割り振られたはずなのですが、このLM倉庫に関しては↓の写真の右手前の事務所の奥に

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*1987年撮影(画面左が東神K号倉庫こと撮影当時は三井倉庫、右が三井LM倉庫)


もう2棟、合計3棟の倉庫がノコギリ屋根の棟繋がりになっていましたが、どの倉庫の扉にも↓

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LMと書かれていました。

ということは、LとMの二文字あるということは、もともとここには倉庫が二棟あったことを示しているのですが、新港埠頭建設当時や震災前、震災後、戦後それぞれの設備配置図ではそのような事実が確認出来ませんし、震災前に撮影された航空写真を見ても撮影時と同じ建物の配置になっているように見えます。

なんか良くわかりません、ナゾです(笑)

まあ今となっては、そんなコトを気にする人はいないと思いますが・・・・・・





*11月のUP予告

11月 3日: 山下町118  南海洋行
11月10日: 大黒町13   横浜さとうのふるさと周辺
11月17日: 新山下3丁目 米軍新山下住宅地区
11月24日: 小港町 A.Avenue

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by yokohama80s | 2013-10-27 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 10月 20日

新港埠頭 旧東神倉庫生糸上屋

三井と言えば言わずと知れた、三菱、住友、安田と共に四大財閥と呼ばれていましたが、戦前までは三井倉庫ではなく「東神倉庫」と名乗っていました。

ということで、ちょこっと歴史を紐解いてみると、東神倉庫の発祥は1909年(明治42年)に三井銀行倉庫部から独立した会社で、戦前には、同じ財閥系の三菱、住友を凌駕し、三井財閥の銀行、物産、鉱山と共に三井直営事業として重要な地位を占めていた、という大企業で(←というようなことが昭和11年発行の「財閥三井の新研究」なる本に書かれています)、1942年に東神倉庫は三井倉庫に改称して現在に至る、という次第。

そして新港埠頭内には旧東神倉庫の建物が左突堤(西突堤)側に生糸上屋、B、F、K、L、Mの6棟あり、↓は、

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*1987年撮影(左が11号上屋、道路の向こう側にあるのが生糸上屋)


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*1983年撮影(手前の小屋が横浜港駅の計量台でその奥が生糸上屋)


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*1982年撮影


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*1986年撮影



左突堤の付け根部分の米軍接収区域にあった、「白くて大きな倉庫」こと、戦前の主要輸出物だった生糸を保管していた旧東神倉庫こと三井倉庫生糸上屋。

とにかくデカイ!

あまりにも巨大なので、全景を撮影することを初めから諦めています(笑)

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*1985年撮影(手前が三井F号倉庫、奥の高い建物が生糸上屋)


↑は、6号岸壁側から。

写真奥の生糸上屋に、アーチが口を開けていますが、昔の地図を見ると、貨物線の線路が倉庫を貫通するように敷かれていて雨に濡れることなく貨物の積み卸しが出来るようになっていたようです。

また上の写真だと文字が消えかかっていて見難いですが、壁の上の方には「TOJIN WAREHOUSE」と書かれています・・・・・・ということは、三井倉庫に改称する1942年以前のままということになります。

そして画面左のノコギリ屋根の建物が旧東神倉庫こと三井F号倉庫で、撮影当時は米軍の"NAVY COLD STORAGE FACILITYS YOKOHAMA"こと直訳すると、「海軍横浜冷蔵貯蔵施設」として、同じ区画内にあった生糸上屋、三井B、F倉庫、新港倉庫A号倉庫ともども、みなとみらい計画で再開発されるまで接収され、生糸上屋内では冷蔵ガス(どのようなガスなのかは不明です冷媒のことだと思います)の製造が行われていました(入り口にそのような表示があっただけで実際のところはどうだかわかりません)。

米軍が生糸上屋と並んで建っていた旧船舶給水所こと横浜冷蔵倉庫との間に渡り廊下的なものを構築して棟繋がりにしてしまった為に↓

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1983年撮影(左が日本冷蔵倉庫、右が生糸上屋)


裏から金網越しに見ることしか出来なかったのですが、もともとこの生糸上屋は東神倉庫の横浜支店が併設されていたので、1階部分にはいかにも事務所的な窓があるのですが、戦後この倉庫を接収した米軍により、壁には穴が開けられ、あちらこちらから電線やらパイプやらが内部に引き込まれていました。

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*1986年撮影


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*1986年撮影


↑上屋のモルタルが剥がれ落ちた壁からレンガ壁が顔を覗かせています。

震災前の設備配置図にも同所に東神倉庫の生糸上屋があったことから、もしかしたら震災で崩壊を免れた部分を利用してこの倉庫を新築したのか、ただたんに耐火性を高めることを目的に鉄骨と鉄骨の間の壁にコンクリートではなくレンガを積んだのか・・・・・・

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*1983年撮影


とにもかくにも、この生糸上屋を見ただけで、当時の三井が生糸貿易にどれだけ力を入れていたかをうかがい知ることができます。



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by yokohama80s | 2013-10-20 00:03 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 08月 25日

新港埠頭 十二号上屋

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*1983年撮影(左が12号岸壁。右が三井LM倉庫)


新港埠頭12号岸壁は、現在のワールドポーターズ西端のあたりにあった全長93m、千トンクラスの船が一隻停泊可能の新港埠頭では一番短い岸壁でした。

と言っても、もともと新港埠頭造成当初は12号岸壁の万国橋側に13号岸壁があったのですが、震災前には13号岸壁は艀から貨物を積み卸しするスロープ状の物揚場に改築され、震災で9号から12号岸壁および新たに作られた旧13号岸壁の物揚場、要は簡単に言ってしまうと新港埠頭の西側岸壁全体が海に向かって崩壊。

その後の復旧工事で、崩壊した岸壁の先に擁壁を設けて崩壊した岸壁を埋立てて、さらにその先に桟橋を構築し復旧当時には9~10号岸壁は"横桟橋"と呼ばれ、そして12号岸壁には7、8号上屋を小ぶりにした同タイプの鉄筋コンクリート製上屋が1930年(昭和5年)に建てられ、一説によると高島埠頭の供用が開始されるまでは国内航路の定期航路の客船(小笠原や北海道方面へ向かう千トン未満の貨客船)が発着していたという話がある一方で、昭和10年前後の書物には「新港埠頭は12岸壁、11隻停泊可能」となっていることから、この頃には一番規模の小さい12号岸壁が岸壁として使用されなくなっていた可能性もありますが、どちらも裏付けは取れませんでした。

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*1983年撮影


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*1983年撮影


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*1983年撮影


ちなみに旧13号岸壁物揚場には1962年(昭和37年)に、旧13号岸壁から大岡川河口に幅約80m、長さ約260m(現在のみなとみらい16街区あたり)が一文字地区として埋め立てられ、そこを流通拠点とすべく数棟の民間倉庫が建てられました。

しかしもともと計画性を欠いていたのか、はたまた想像力に欠けていたのか、それともその双方なのかは今となっては知るよしもありませんが、もともと一文字地区は敷地が狭かったために、その後ほどなくして流通拠点は山下埠頭造成とともにそちらに移ってしまい80年代の一文字地区は開店休業状態。

そしてみなとみらい整備計画によりコスモワールドやスーパー銭湯があるあたり一帯が埋め立て造成されて新港埠頭は現在のような形になった、という次第。

ということで話を80年代ごろに戻すと、12号岸壁にも他の岸壁と同じように上屋が併設されていたワケですが岸壁延長が100mに満たず、さらに背後には旧東神LM倉庫こと三井LM倉庫があった為に、12号岸壁は海側も背後も余裕の無いきっちきちの状態。

という事情からなのかこの12号上屋は、80年代後半にいつの間にやらコソッと取り壊されて気がついた時には何もないタダの更地になっていました。

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*1987年撮影


で12号上屋の写真を改めて見ると、ちょっと興味深い発見が。

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*1983年撮影


もともと新港埠頭内のそれぞれの岸壁に建てられていた上屋には、それぞれ上屋の番号を意味する「No.〇〇」という文字が壁に描かれていたのですが、どういうワケか12号上屋は「No.12」の表示が、上の写真のようにアルファベットの「O」の下に横棒と点が二つ描かれています。

ということで「他の上屋はどうだっただろう?」とコンタクトプリントを確認してみると、当時、現存していた1~3号、5~6号と左突堤の8号上屋は、一般的な「No.」なのに対して↓

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*1983年撮影(6号上屋。右に旅客ホームがチラッと見える)


左突堤の左側(西側はたまた三菱造船側、今で言うとみなとみらい側)の9~11号上屋には12号上屋と同じように「O」の下に横棒と点が二つ描かれていました↓。

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*1983年撮影(9号上屋)


「ナンバー」をアルファベットで表記する時に「O」の下にに横棒を入れて「№」とすることもありますが(最近は見かけませんが、昔の人はよく「O」の下に横棒を入れていた)、Oの下の横線のさらに下に点が2つというのは私はこの例しか見たことがありません。

私にはこの「O」が、かつて埠頭内にレールが張り巡らされていて、貨物を移動させるのに使用していたトロッコ(いわゆる人力軌道で、基本的にレールにはカーブが無く直角に交差するようになっており、方向を変えるには角々に設置されていた象の鼻で発掘された転車台を使用していた←このような施設を作ったものの実際にはほとんど使われることが無かったようで、震災後の復旧計画をまとめた書物には「軌道施設は使用状況を考慮して復旧はしない」と書かれています)を抽象化しているように見えるのですが(横棒と点二つがトロッコで、「O」が荷物ネ)・・・・・・

なぜ9~12号上屋のナンバー表示だけが「O」の下に横棒+点二つなのかは今となっては知る由もありませんが、私には、この「ナンバー」には当時の人たちの「洒落っ気」と、ある種の「心理的余裕」が表れているような気がします。





*9月のUP予定
9月 1日: 海岸通3丁目 エヴェレットスチームシップ横浜支店
9月 8日: 海岸通2丁目 ニューピータースグリル
9月15日: 海岸通1丁目 ジャパンエキスプレスビル
9月22日: 海岸通1丁目 現・HAMA CAFE(マリン商会)
9月29日: 海岸通1丁目 大桟橋入口界隈

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by yokohama80s | 2013-08-25 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 08月 18日

横浜港駅小口貨物積卸場

先週は、横浜港駅の旅客昇降(乗降)場こと旅客ホームでしたので、今週はそこから南西に90mの、現在、あかいくつバスの赤レンガ倉庫バス停がある場所にあった小口貨物積卸場こと荷物用ホームを。

こちらについては以前、プレビュー版というか、なんというかで外観の写真をご紹介していますので、そちらも合わせてご覧下さい。

ということで、横浜港駅の小口貨物積卸場は、関東大震災後に「構内貨物ノ小口扱或ハ混載貨物取扱ノ利便ニ資センガ為適当ノ場所ニ貨物積卸場一ヵ所ヲ設置ス(大正14年大蔵省営繕管財局・営繕事業年報より)」として、先週の旅客用ホームとほぼ同時期に新港埠頭の貨物ヤード内に造られました。

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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1984年撮影


ちなみに恥ずかしながら私は、四号上屋の存在を知るまでは、あまりの立派さと状態が良かったことから、こちらの方がメインの旅客用プラットホームで、先週取り上げたホンモノの旅客用ホームを臨時用のモノか、旧ホームだとばかり思っていました(笑)

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*1981年撮影


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*1981年撮影


それはともかく、今は郵便にしろ宅配便にしろ、トラック輸送が主体になっていますが、80年代初頭くらいまでは、郵便や小包、新聞、雑誌などは鉄道輸送が主体で、時刻表にも荷物列車の時刻が出ていたり、夜行列車などには「〒」マークが描かれた荷物車が必ず連結されていて、これらの列車が到着する駅では、長距離列車が着くたびに荷物車から郵便袋を列車に横付けした台車にポンポンポンポン放り投げる光景や、今では市場以外ではお目にかかれない"ターレ"が台車を引っ張ってホームを所狭しと走り回る光景や、テルハクレーンに吊り下げられた台車がガタン、ガタンと音を立てて頭の上を移動する光景などがフツーに見られました(東口駅舎が取り壊されるまで横浜駅の東海道線ホームに台車用のエレベーターがあったような気が・・・・・・もしかしたら他の駅とごっちゃになっているかも???)。

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*1982年撮影


ということで話を元にもどしますと、そういうことからこの荷物用ホームは、国際航路の客船や貨物船に載せる郵便物や小包を扱っていたのだと思いますが、80年代に入った頃にはすでに船便による国際郵便物はコンテナが使用され、かつては船積みされる郵便物でごった返していたと思われるプラットホームは、屋根付きの貨物置き場となっていました。

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*1984年撮影


で、ふと「なぜにしてほぼ同時期に造られ、どちらも貨物置き場として使用されていたはずなのに、旅客用ホームと荷物用ホームとで、保存状態に雲泥の差が生じてしまったのだろう?」と思って、よくよく考えてみると保存状態が悪くボロボロだった旅客用ホームは当時は国鉄の管理下にあり(書類上は1987年の国鉄民営化までひらたく言えば"駅"、正確には乗客が乗り降り出来る信号所だった)、荷物用ホームは1982年に横浜港駅が廃止されたことにより横浜市の管理下で貨物置き場として使用されていました。

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*1987年撮影


となると荷物用ホームの方は、もしガツンとフォークをぶつけたりしようものなら横浜市から即座に「弁償せい!」とお咎めを受けたのに対して、本来なら貨物を置くことは御法度だった旅客用プラットホームに内緒で貨物を置いたところで当時の国鉄は、そんな細かいことまでいちいち気にしていられるような状態では無かったので破損してもそのまんま・・・・・・ということが、保存状態の差となって表れていたものと思われます。

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*1987年撮影


それならそれで旅客用ホームは、右突堤に海保施設を設ける限りブツ切り状態になるのは初めからわかっていたワケですから、こちらの荷物用ホームはそのまま残してビヤガーデンとかオープンカフェとか屋台村とかにすれば、少なくとも駐車場にしておくよりもはるかに魅力的な施設のように思えるのですが、みなとみらい計画が着工された時はちょうどバブル真っ盛り。

この頃は、行政が税金を湯水の如く浪費してなにかにつけて「なんとか博」と銘打ったイベントを開催するのが流行でしたから(現在、財政赤字を抱えている自治体の大部分が、この頃に大規模イベントを開催して大赤字を出して、それがいまだに祟っている)、きっと当時の横浜市にとっては歴史的建造物を後世に保存することよりも、横浜博覧会と称する意味不明のイベントのパビリオンを作ることの方がよっぽど重要だったのでしょうね・・・・・・きっと(笑)

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*1982年撮影




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by yokohama80s | 2013-08-18 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 08月 11日

横浜港駅旅客昇降場

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*2012年撮影(こちらの写真は東京側から撮影)


 今現在、海保の海上防災基地手前・・・・・・というか、工作船展示館の脇に、震災により倒壊した四号上屋再建に伴って、「第四号上屋引込線ヲ本線トシテ客車ヲ運転セシムル関係上同上屋前ニ幅員2間延長77間余ノ旅客乗降場一ヵ所ヲ新設ス(昭和9年大蔵省営繕管財局発行「営繕事業年報. 第1輯・大正14年度」より抜粋)」ということで、1928年(昭和3年)に建設された旧横浜港駅プラットホーム・・・・・・とされる"建造物"が存在します↑。

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*2012年撮影


 ちなみに当時は渡米する時には出港前に大桟橋の入口にある水上警察署に出頭してパスポートの本人確認をして査証を貰わなければ乗船出来なかったのですが、ボートトレインが四号岸壁の横浜港駅に着くのが出港の1時間30~45分前で、四号岸壁から水上署まで徒歩で往復20分ですので、通常なら問題無く乗船出来るようにも思えます。

 ところがサンフランシスコ行きの船が出港する日は、水上署の窓口はこの査証を貰う人が殺到して大混雑する為に、東洋汽船がサンフランシスコ航を運行していた時は出港が正午だったことから前日から受付をしていましたが、大正15年に合併により郵船がこの航路を引き継ぎ出港時間が15時に変更されると、水上署での査証交付も当日のみとなり、ボートトレインで横浜港駅に直行しても出港までに戻ってこられない可能性がありました。

 実際に国会図書館デジタルコレクションで当時のガイドブックを紐解いてみると、「四号岸壁へは東京からのボートトレインが便利」と書いてある一方で、「あれやこれやの面倒な種手続きをすべて丸投げ出来る移民宿に二等三等船室利用者は出港一ヶ月から5日前、一等船室利用者は出港前夜までに投宿すべし(二三等船客には出港4日前に実施される健康診断の受診が義務づけられていた)」とか、「出港当日は出港の4~5時間前には横浜港に行くように」とか、なかには横浜駅や桜木町駅から水上署経由で四号岸壁までの人力車とタクシーの料金を紹介している本もあります。

 また実際に横浜から渡米した人によって書かれた旅行記などを見ても、「ボートトレインで横浜港まで行って乗船したと」と記述した物は見当たらず、大部分の旅行記には「桜木町駅で下車して波止場に向かった」と書かれています。

 また昭和10年の中区勢概要に記載されている横浜港駅での乗降客数を見ると、一列車あたりの平均乗降客数は横浜港駅で列車を降りた人が311人、東京駅へ向かった人が278人でその差が33人。

 さらに横浜と同じく郵船の欧州航路出港日に京都~神戸港駅間に臨時列車が運行されていた神戸港駅の場合は乗降客数の差が75人でこの差について大正14年度版神戸港大観では、「降車人員に比較して乗車人員の少なきは、客船出帆後当市見物の傍ら所要を辨ずる者があるが為なり」としています。

 そんなこんなで四号岸壁からサンフランシスコ行きの船が出港する日に運転されていたボートトレインの乗客のうち乗船目的の乗客は、渡米に際して何かと便宜が図られていた政府関係の視察団や海外赴任その他の公務で渡米する人くらいなもので、利用者の大多数は見送り客と客船見物の観光客だったようです(あくまでも昭和3年から16年頃までの話です)

  と言う話はひとまず置いておくとして↑の案内板には、「-前略-保存利用にあたり傷んでいた上屋は新材料で復元しています」と書かれていることから、現存しているプラットホームは全長77間余、約140mのうち、(実際には東京側30間、約55mの所で幅5間、約9mほどプラットホームが途切れていて、そこにプラットホームを横切る形で四号上屋脇から右突堤中央道路に合流する港内道路が通っていました)東京側30間、約55mの部分を、そのまま保存しているのか・・・・・・と思いきや、写真をよ~く見比べてみると↑↓

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*1981年撮影(ホームが途切れている側から東京方向を見る、の図)


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*1981年撮影


オリジナルのホームには柱が6本あるのに対して、現在あるホームには4本しかありません。

 幸いなことに、このての古い建築物は和式洋式を問わず今は亡き尺貫法を元に作られているので、柱の数や梁の数を数えるとたちどころに寸法がわかってしまう、という優れモノ。
ということで、細かい部分は都合良くはしょってしまうと、結局のところオリジナルの屋根は2間間隔で梁が設置されていて、柱と柱の間に梁が2つあるから柱と柱の間隔は6間スパンなので、柱5本×6間=30間(注:昭和9年版の横浜税関設備図では29間となっていますが当記事では実測値の30間を使用しています)でそれに1間1.81818mを掛けると54.5454mになるので、面倒なんで四捨五入すると約55m。

 で現在のプラットホームには柱が4本で、同じように計算すると両端の柱の間が18間で32.72724mで四捨五入すると約33m。
なにげに22mも短くなってるじゃないか、ということで航空写真その他で計ってみても、やはり約32mしかありません。

 ということで、何か他にも違う所はないだろうか、と鵜の目鷹の目で新旧比べてみると屋根そのもののみならず屋根を支えている鉄骨の柱も↓

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*1981年撮影


とある書物によればオリジナルではないそうですし、そうなると柱がプラットホームに埋め込まれているうえ、全長も短くなっていることから、プラットホームそのものもオリジナルではないし、さらに元々は床面は通常の半分の厚さの俗に言う「はんぺんレンガ」↓

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*1981年撮影(六号上屋側から見る、の図)


が敷かれていたのに現存している方はただの石材タイルだし、東京側ホーム先端の形状も私の記憶では現在のように弧を描いたものではなく直線だったしetc,etc,etc・・・・・・
さらにこの旧横浜港駅プラットホームと称する建造物は、臨港線の現存する鉄橋を含む新港埠頭内に現存している遺産群がこぞってリストアップされている経産省が定める近代産業遺産認定リストに記載されていませんし、ハリボテだろうがなんだろうが建設当時の部材をどこかしらに使用していればオッケーというように、めちゃくちゃハードルが低い横浜市が定めた「認定歴史的建造物」の認定も受けていないという不思議???

 となるとこう言ってはなんですが、「これっていったいなにを保存しているの?」という素朴な疑問が・・・・・・???


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*1982年撮影(なぜかいつ行ってもホームの上にある秤)


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*1983年撮影(四号岸壁側プラットホームの五号上屋側)


 私は1987年以降、2012年まで新港埠頭に足を踏み入れていないので、オリジナルの旧横浜港駅プラットホームが、その後どのような経緯を辿って現状のような姿になったのかは知りませんが、現存しているプラットホームを見ると、一度、キレイサッパリ取り壊して整地していたら、そこから震災前にあった税関事務所の土台の遺構が出て来たので、慌てて公園に仕立てることにして急遽、現在のように"新築"したのだろう、と思われます。

 と言うのも、初めから保存するつもりなら取り壊した四分の三の部分から幾らでも程度の良いパーツを取ることができたはずですし(道路側はボロボロでしたが線路側は比較的綺麗な状態を保っていました)、わざわざ作り直すにしてもオリジナル性を尊重するのが常識のはず。

 まあ百歩譲ってプラットホームを保存しようという姿勢は評価したいところなのですが、すぐ近くに見事に復元された赤レンガ倉庫2棟が歴然と存在しているワケで、そうするとこの旧横浜港駅プラットホームと称されるモノの"残念さ"が一層際立ってしまうワケで、正直なところ「もうちょっとやりようがあったんじゃないの?」と思わざるを得ません。

お断り
1934年(昭和9年)に横浜市土木局発行の「横浜港」に掲載されている「横浜税関設備図」によると、横浜港駅旅客昇降場の東京側プラットホームの長さは29間(約53m)、通路部分が5間(約9m)、四号上屋側のプラットホームが42間(約74m)、プラットホームの幅が2間(約3.6m)とされていますが、当記事においては実測値を採用しました。






*2016/01/23
写真2枚を追加すると共に記事にボートトレインの件を加筆修正いたしました。

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by yokohama80s | 2013-08-11 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 08月 04日

新港埠頭 新港倉庫A号倉庫

万国橋を渡って左側にある港湾局の詰所で入場許可書に記入して(←最初の数回しか申請してませんwww)、いざ新港埠頭に入ろうとすると目の前に横浜港駅のヤードがあるために道が四股に分かれています。

直進すると7~11号岸壁へ向かう左突堤の中央道路、左に直角の折れると1962年(昭和37年)に大岡川河口を埋め立てた一文字地区へ、右に直角の折れると税関庁舎を通って新港橋へ、でもう一本の横浜港駅のヤードに沿った道が↓

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*1982年撮影(二枚の大判コンタクトプリントをパノラマ合成してみました)


赤レンガ、1~3号、4~6号岸壁がある右突堤の中央道路となっていました。

この時、ヤードの向こう側、現在の7街区あたり(右突堤と左突堤の中間部分)の米軍接収区域に、壁の上部に右から読む旧仮名使いで「横濱新港倉庫」と書かれ、

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*1982年撮影


煤けたこげ茶色の、すでに使われなくなって相当の時間が経過していると思われる大きな倉庫がありました。

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*1983年撮影


この建物は、1927年(昭和2年)に建てられた写真の新港倉庫A号倉庫で、もともとみなとみらい計画以前の新港埠頭は、大部分の倉庫が震災後の大正末期から昭和初期に作られ、道路のところどころに石畳が残っていたり、ただでさえ埠頭そのものが一種のタイムカプセルの様相を呈しいましたが、この倉庫の存在がそれをさらに強調していたように思えます。

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*1981年撮影


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*1981年撮影


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*1981年撮影


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*1983年撮影


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*1983年撮影


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*1983年撮影


ちょうど80年代はじめ頃に、みなとみらい計画が具体化し完成予想図なるイメージ図が公表されたのですが、そこには新港埠頭に高層ビルがニョキニョキと乱立したバブリーな想像図が描かれていて、私はそれを見た時には「なんだかなぁ~」と思ったものです。

というのも、この頃、海の向こうでは使われなくなった倉庫をオフィスや、高級ブランド店などの店舗として再利用することが話題になり始めた時で、新港埠頭に行くたびに「この新港倉庫A号倉庫と、その向かいにあった真っ白く塗られた三井倉庫こと東神生糸上屋の2棟をリノベーションしてオフィスとか店舗などにしたら絶対ウケるのになぁ」と思っていたからです。

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*1982年撮影


実際、予算規模の関係から横浜市のように大風呂敷を広げられない地方の港町では、明治から戦前にかけて建てられた石積みやレンガ造りの倉庫を有効利用することで、「歴史ある港町」というイメージを演出して観光客の人気を博しているのに対して、赤レンガ二棟と普段は入れない場所にあるハンマーヘッドクレーンと、旧4号岸壁にある海上防災基地の手前にある「横浜港駅旅客昇降場」と称されたイミテェーションが脈絡もなく点在しているだけの今の新港埠頭は残念ながら・・・・・・

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*1983年撮影





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by yokohama80s | 2013-08-04 00:03 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 12月 09日

新港埠頭 八号上屋

1942年(昭和17年)に発生したドイツ軍艦爆発事故シリーズの最終回。

今回取り上げるのは、爆発事故を起こしたウッカーマルク、トールが停泊していた8号岸壁の8号上屋。

本来、新港埠頭の左右2本ある突堤の左側(西側)の凹部内側の7号、8号岸壁には、もともと1~3号、5、6号岸壁にあった上屋と同タイプの鉄骨波板張りの上屋が建てられていました。

しかし関東大震災で、左突堤の7~12号の上屋は倒壊し、9~12号岸壁は崩壊して水没。

ちなみに近代デジタルライブラリーで見ることができる、1929年(昭和9年)に当時の内務省横浜土木出張所が発行した「横浜港震害復旧報告書」には、ハンマーヘッドクレーンだけが無傷で海面に建っている姿を写した写真を見ることができます(当時の大蔵省の資料には「五十噸定置起重機も含めて埠頭内の全起重機大破につき使用に堪えず」とあるが、内務省の前記資料の写真キャプションには「無事なる五十噸定置起重機」とある不思議?)。

ということで、右突堤の上屋は4号上屋を新築し、それ以外は修復(修復と言っても、さまざまな資料を見るとどうやら元々あった上屋と同一の建物を元々あった場所に復元する、という意味のようです)、7~12号上屋は左突堤の拡幅にともなってすべて新築することになり、7,8、12号上屋の3棟は1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート1階建ての耐火倉庫として作られました(12号上屋はちょっと遅れて1930年/昭和5年竣工)。

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*1987年撮影(右奥が8号上屋、その手前が公衆トイレ、左手前が10号上屋、左奥が9号上屋)


しかし戦時中の1942年にドイツ軍艦爆発炎上事故に被害を受けて7号上屋は倒壊。

一方、8号上屋も全焼の被害を受けましたが、7号上屋が再建されることがなかったのに対して、併設されていた公衆トイレ共々、当時の姿のままで80年代にも存在していたということや、事故当時の時代背景などから考えると、8号上屋が爆発事故で受けた被害はそれほど深刻なモノでは無かったと推測できます。

そういうことから言えば、7号上屋が被害担当艦の如く爆発事故による被害を一身に請け負って倒壊したことと引き替えに、先週の第二分室とともに、この8号上屋も事故後40年経過した80年代にこうして写真に記録することが出来たとも言えるわけで、それを思うと一種、感慨深いものがあります。

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*1983年撮影(8号上屋から万国橋方向を見るの図)


と思うのは今になってからの話で、撮影当時はそのような逸話はまったく知る由もなく、ただ単純にマメにペンキを塗りなおしていた新港埠頭の岸壁沿いにあった他のトタンの波板張りの鉄骨上屋に比べて、この8号上屋は廃墟感に溢れていた為に撮影しただけなのですが・・・・・・(笑)

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*1983年撮影


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*1983年撮影


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*1987年撮影


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*1987年撮影




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by yokohama80s | 2012-12-09 00:02 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 12月 02日

新港埠頭 旧税関第二分室

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*1981年撮影



上の写真の建物は、7号岸壁の付け根部分にちょこんと建っていたのですが、この建物を初めて見たとき、「どうしてこんな所に家があるのだろう?」と思って、ガラス越しに中をのぞき込んだりもしたのですが、この時すでに空き家になって建物内はスッカラカン。

結局、何に使われていたのかわかりませんでした。

万国橋を渡ったところに港湾局が設置した埠頭構内図にも記載がありません。

また米軍がなにかの事務所に使うために建てたにしては立派すぎるし、8号上屋側に米軍式のバラック(コチラの上から4枚目の写真)があったし・・・・・・

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*1981年撮影


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*1982年撮影
(81年の写真では七号岸壁に自由に出入りが出来たのですが翌年にはフェンスが作られ出入りが出来なくなって」しまいました)


というワケで、この正体不明のナゾの建物については撮影後から今まで、なんの建物だったのかがわからなかったワケですが、先週取り上げた、「どうして7号上屋が無かったのか」を調べていた時に、はからずも正体判明。

参考資料として購入した横浜港ドイツ軍艦燃ゆに掲載されていた、爆発による被害状況の地図に、該当の建物があった場所に第二分室の記載が(注:1934年の税関設備図では"貨物係第三分室"とあるが第一分室の記載は無い)。

さらに事故直後に撮影された写真(P118の写真8)に、屋根瓦がキレイに吹き飛ばされてはいるものの、この建物がこのままの姿で写っています。

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*1981年撮影


ということで、あれやこれやと調べてみると、どうやらこの建物は震災後に新港埠頭内に三棟建てられた税関監所のひとつで、横浜港駅旅客ホームの東京側の四号岸壁側に第一分室(注:1934年の税関設備図では"貨物係第二分室"とある)が、生糸上屋の万国橋側に第三分室があったようです。

しかし撮影時に万国橋にあった「ふ頭構内図」によれば、一号分室は元の場所に(確か最近建てられたような2階建ての事務所があった)、11号上屋の万国橋側に第二分室が(物置のような小屋があったような・・・・・・?)記載されています。

となると、この旧第二分室の建物は、震災後に3棟建てられた税関分室の唯一の生き残り、と考えて良さそうです(同じ仕様の建物を3棟建てたという前提ですが)。
蛇足ですが、1978年度版住宅地図では、該当の建物には"Yokohama area security guard office"と記載されていることから、少なくともこの頃までは三井倉庫の生糸上屋、B号、F号倉庫、新港倉庫A号倉庫、七号岸壁を接収していた米海軍の警備員事務所として使われていたようです。
また現在、この建物があった場所は「客船ターミナル」交差点のど真ん中あたりになります。

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*1987年撮影(右奥にあるのが新港倉庫A号倉庫、右手前が日本冷蔵、左手が米軍簡易冷凍庫)


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*1983年撮影


ということで、次回は"ドイツ軍艦爆発事故"第三弾として、爆発したウッカーマルク、トールが係留されていたまさに爆心地にあった"8号上屋編"をお送りします(って、またテキトーに写真をUPするだけですが・・・・・・)。

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*1987年撮影




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by yokohama80s | 2012-12-02 00:04 | 新港埠頭 | Comments(2)
2012年 11月 25日

新港埠頭 七号岸壁

 1934年(昭和9年)に大蔵省営繕管財局が発行した大正14年度営繕事業年報にある「横浜税関陸上設備震災復旧」の項によると、九~十一号岸壁には鉄骨生子板張り(波板トタン張りのこと)の上屋を、そして七号、八号岸壁には鉄筋コンクリート平屋建ての同規模同設計の上屋を建設した、とあります。
 ところが80年代には、8号岸壁には鉄筋コンクリート平屋の上屋があったのに対して、七号岸壁には鉄筋コンクリート平屋建ての上屋などなく、代わりにこの岸壁を接収していた米軍により仮設の簡易冷凍庫が設置されていました。

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*①1983年撮影


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*②1987年撮影


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*③1987年撮影


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*④1987年撮影


 そこであれやこれやの資料を紐解いてみると、横浜市発展記念館のサイトにある1934年(昭和9年)発行の横浜グラフ四月前半の【「練習船」を送り迎へる!!】という写真には、八号上屋と双子の七号上屋が確かに写っています。 
 ところが国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システムの1944年に旧陸軍が撮影した航空写真には、七号上屋があった場所にはノコギリ屋根のバラック倉庫らしき物が写っていて、さらに1946年~1956年に撮影された航空写真には、七号上屋があった場所の左突堤中央道路側に衝立状の壁が確認出来るだけで上屋の姿は影も形も見当たりません。

 そうなると1934年から1945年までの間に七号上屋が何かの理由で取り壊されたということになりますが、戦前~終戦直後にかけてわざわざ頑丈な鉄筋コンクリートの上屋を取り壊す理由が思いつかないし、このあたりは空襲の被害を受けていないし・・・・・・。

 すると1985年に刊行された中区史に、戦時中の昭和17年(1942年)11月30日に八号岸壁で「ドイツ軍艦爆発事故」が起こり上屋が倒壊したという記述が。

しかし普通に考えると、爆発が起きたのが八号岸壁なのだから倒壊した上屋は八号上屋なのでは?

 ということで、この事故の詳細について書かれた光文社NF文庫・石川邦美著「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」を読んでみると、舳先を沖に向けたいわゆる出船状態で八号岸壁に係留中だったドイツ海軍のディトマルシュン級補給船三番艦ウッカーマルク(全長178m、満載排水量20,858トン)が油槽清掃中の不注意から爆発炎上し、亀裂が入った船体から燃料の重油が流出し新港埠頭の左右突堤の五~八号岸壁に囲まれた凹部の内側は火の海に。

 そして爆発した輸送船に並列に、俗に言う"メザシ"状態で係留されていた同じくドイツ海軍の仮装巡洋艦トール(全長122m、排水量3,862トン)の船尾でまさに積み込み中だった多量の弾薬に引火し大爆発が発生(注:両船の全長及びトン数は出典により様々な数字と単位が錯綜しているため、複数存在する数字のうち岸壁長と船の大きさを比較して私の独断と偏見で妥当だと思われる数値を採用したので、目安程度にお考えください)

 これにより六号、七号岸壁に係留中だった船が次々に爆発炎上し、その結果、七号上屋が倒壊、八号上屋その他付近の倉庫が全焼し、ドイツ軍人61人、中国人捕虜36人、停泊中だったドイツ軍艦の整備や岸壁で荷揚げ作業に従事していたり、外国人船員相手に土産物などを売っていた日本人5名の合計102人が犠牲になるという大事故があったそうです。

 さらにこの本には、横浜税関が保管していたという事故直後に撮影された写真が多数掲載されていますが、それを見ると確かに事故が起きたのは8号岸壁で、倒壊したのが七号上屋だということが確認できます。

 そこでこれらの写真に写っている七号上屋の壊れ方や、国土変遷アーカーブの航空写真やネット上で見つけ出した戦後、七,八号岸壁を撮影した写真などを参考に想像力たくましく妄想してみると、八号岸壁に係留されていたウッカーマルクの船体が大爆発を起こしたトールより二回りほど大型だったことや、2船とも海側に船首を向けたいわゆる出船状態で停泊しており、誘爆して大爆発を起こしたのがトールの船尾船倉側、すなわち七号上屋側だったことなどの様々な要因が重なって、仮装巡洋艦が誘爆した時にウッカーマルクが遮蔽板の役割を果たした結果として衝撃波と爆風が七号上屋を直撃し岸壁側の壁と天井が吹き飛ばされて倒壊し、辛うじて倒壊を免れた中央道路側の壁と、八号上屋側と万国橋側の壁1/3が1957年に米軍が簡易冷凍庫を設置するまで取り壊されずに衝立のような形で残され、七号上屋跡地は露天の貨物置き場として使われた、ということのようです。

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*1950年に撮影された航空写真から、壁だけ残された七号上屋
(元の写真はみなとみらい歴史AR・1950年代の横浜港の航空写真から)


 一方、最初に爆発、誘爆した2船が停泊していた八号岸壁の八号上屋は、ウッカーマルクの船体が爆発による衝撃波と爆風を遮ったことにより(爆発による急激な気圧変化により上屋の扉は吹き飛んだものと思われます)、一部損傷を被ったものの修復され、みなとみらい21関連工事により1990年代に取り壊されるまで屋根や壁に修復跡を残したままの姿で現存していました。

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*1987年撮影(右奥が8号上屋、その手前が公衆トイレ、左手前が10号上屋、左奥が9号上屋)


 余談ではありますが、昔、大西洋で通商破壊戦に従事し最大の戦果を挙げたドイツ海軍巡洋艦アドミラル・シェアについて書かれたノンフィクションポケット戦艦という本(冷蔵船デュケサの逸話は秀逸です)を読んだことがありますが、作品中にシェアと共に南大西洋で活動していた仮装巡洋艦トールが、その後、このような運命を辿っていたということや、戦況悪化のためにドイツに戻れなくなったドイツ艦船が日本に協力して太平洋で行動し、その拠点として新港埠頭が使用されていた、という事実と共に(その後、ドイツに無事帰れたのは二隻だけで、残りの船はすべて連合国側により終戦までに撃沈されている)、7号岸壁に上屋が存在しなかった理由に、こんな戦争秘話があったことには正直、驚きを禁じ得ません。

 ということで、5日後に1942年の爆発事故からちょうど70年目を迎えるにあたり、国籍を問わずこの事故で犠牲になられた102名の方々のご冥福を、ささやかながらお祈りしたいと思います。
 
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*⑤1983年撮影(写真右にあるのが旧税関第二分室の建物)


来週は上述した本の118頁に事故直後の写真が掲載されている旧税関第二分室をお送りします(テキトーに写真を何枚かUPするだけですが・・・・・・)



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by yokohama80s | 2012-11-25 00:03 | 新港埠頭 | Comments(0)
2012年 10月 21日

新港埠頭二号岸壁

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*1983年撮影(現在の赤レンガパーク前で、今でも2号岸壁のデッパリが残っています)


昔は新聞の横浜版の端の方に小さな囲み記事で、その日、何時にどの埠頭にどこから来たなんという船が入港するか、はたまたはどこへ向かう船が出港するかが掲載されたくらい横浜港は賑わっていました(大晦日恒例の汽笛大合唱に聞き応えがあったのはこの頃までなのではないでしょうか?)。

しかしすでにこの頃には、日本船籍のいわゆる「マルシップ(MARU SHIP)」は少なく、貨物船といえば船体がグレーに塗られたサビサビでボロボロの中国船が多かったと記憶しています。

ところがこの写真を撮影した時には2、3,4号岸壁に珍しくマルシップが勢揃いしていました。

ちなみにここで言う「マル(MARU=丸)シップ」とは、海外では日本船籍の船名には必ず「○○丸」と付くことから日本船を指す呼び方で、法律上の「マルシップ」とは別の話です、という話は置いておくとして、すでにこの頃には2号岸壁に停泊している船のように、英語を平仮名表記したものや、初めから船名が横文字の便宜置籍船などが主流を占めていました。

ちなみに写真左手の3号岸壁に停泊中の「伏見丸」は、初代の船は欧州航路用の貨客船として1914年に建造され、純日本風の内装が施されていた一等船室がメインの豪華船で、往年の郵船神社船隊(その昔、日本郵船が就航させていた貨客船には神社にちなんだ名前がつけられ、操舵室内の神棚にはその神社の祭神が祀られていた。「伏見丸」の伏見は京都の伏見稲荷にあやかって命名された)の一角を担っていましたが、大戦中の1943年に御前崎近海で米潜水艦の雷撃で沈没しています(戦前、51隻あった日本の大型外航船は氷川丸と日昌丸の二隻以外はすべて撃沈されている)。

ということで、この「伏見丸」は、貨物船として1970年に三菱重工神戸造船所で建造された総トン数10,946トン(偶然なのか意図したものなのか初代の総トン数は10,940トン)、全長158m二代目伏見丸となります。

さらに余談ですが、この船は往年の郵船神社船隊の船名を引き継いでいることや、黒い船体に写真ではわかりにくいのですが白地に赤の二引の日本郵船伝統のファンネルマークが施され、さらに船首形状が右の船のような今時のボテッとしたバルバスバウではなく、昔ながらのシュッとした通常船首なことなどで、個人的には萌えポイントが満点に近い船です(笑)


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by yokohama80s | 2012-10-21 00:08 | 新港埠頭 | Comments(0)