週刊 横濱80’s

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カテゴリ:新港埠頭( 50 )


2014年 06月 08日

ハンマーヘッドクレーン・その二

国立国会図書館近代デジタルライブラリーで、新港埠頭建設当時のあれやこれやの写真が掲載されている大正6年に大蔵大臣官房臨時建築課が発行した「横浜税関新設備写真帖」という本を見ると、その中に、竣工当時のハンマーヘッドクレーンの写真も掲載されているのですが、それを見ると何か違和感が・・・・・・

なんかオリジナルの方が華奢な印象が・・・・・

80年代に撮影した写真と比べてみると、どうやら凹型鉄骨2本を使って元々の骨組みをサンドイッチするように補強してした為(特にカスガイ部分を頑丈に補強している)に竣工当時の華奢な印象から、現在の方がガッチリ頑丈に力強く踏ん張ってそびえ立っているように見えます。

もうちょっとわかりやすく言うと、写真の水平方向の鉄骨が建設当時のオリジナルの姿・・・・・・だと思います。

それはともかく、なにやら現在、某大学の校舎だか教室だか、芸術家向けのアトリエだかなんだかに使われている建物(昔の上屋を利用しているとするサイトもあるようですが、あれらはすべてみなとみらい再開発の時に新築されたモノ)を今年中に取り壊して、跡地が「ハンマーヘッドパーク」とやらになるんだとか・・・・・・って、この名前を初めて聞いてから10年近く経つような気がするのですが、いまだに青写真すら出てこないというのはどういうことなんでしょうか???

なにかよくわからないのでひとまず置いておくとして、何がどうなるにしても願わくば現在、自由に立ち入りが出来ない左突堤部分を解放し、横浜港の主ことハンマーヘッドクレーンをいつでも好きなときに近くに行って見ることが出来るようにし、さらに可能なら週末とか、それがダメなら月1でも、それすらダメなら季節の変わり目とか、はたまた開港記念月間の週末限定でも構わないのでクレーンのてっぺんまで登れるとか、南大東島でフェリーに乗下船するときのように人が乗ったカゴを吊り下げてグル~ッと一周するアトラクションとかをぜひとも実現して欲しいものです。

一度でいいから、このクレーンのてっぺんから横浜港を、または横浜を見てみたい、と思うのは私だけでは無いと思いますよ・・・・・・たぶん・・・・・・まあ現在でもクレーンが可動状態なら、という前提付きの話ですが。

ということで、前置きが長くなりましたが、今日はハンマーヘッドの鉄骨祭り(?)を↓

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このプレートって、もしかしてみなと博物館に展示してあるヤツ?


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*写真はすべて1987年撮影。



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by yokohama80s | 2014-06-08 00:05 | 新港埠頭 | Comments(0)
2014年 06月 01日

ハンマーヘッドクレーン・その一

新港埠頭の左突堤先端部にある通称ハンマーヘッドクレーンは、正式名称を50トン定置式電気起重機といい、1914年(大正3年)イギリス製(銘板には"1913"となっている)で、50トンジャイアントカンチクレーンとも言うそうです、などという細々した話はこちらにも書きましたので、ご興味のあるムキはそちらをどうぞ。

ということで、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで大正4年刊行の「横浜税関新港設備概要」の起重機に関する記述を見ると、ハンマーヘッドクレーンの基礎部分は岸壁とは別誂えで設置されていることや、クレーン自体はイギリス製ではあるものの実際に組み立てたのは石川島播磨重工(当時は石川島造船所で現在のIHI)であること。

はたまた試験では65トンまで吊り上げたとか、イギリスからのクレーン部分の購入に95,555円(今で言うと約10億円弱)、基礎工事に5,066円(5千万円くらい)、据え付け組立に7,930円(8千万円くらい)の合計108,551円(今で言うと10億円ちょっと)費やしたなどということや、完成当時の写真まで載っています(ありがたや~ありがたや~)。

さらに大正14年度 大蔵省営繕局営繕事業年表」には、関東大震災により「50噸定置起重機ヲ始メ全部大破シテ使用ニ耐エズ」と書かれているにも関わらず、昭和4年に内務省横浜土木事務所が刊行した「横浜港震害復旧工事報告」に震災直後のハンマーヘッドの写真があり↓

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それを見ると実際には基礎部分が岸壁とは別に海底の岩盤層にガッチリ造られていたためにクレーン自体が陥没崩壊した岸壁にポツンとほぼ無傷と見える姿が写されていますし、さらにハンマーヘッドクレーンの修復工事の工期が8日間だったとも書かれています。

ということは、震災によるクレーン自体の被害はほとんど無かったものと考えて良さそうです。

そしてその後も、このクレーンはその場に仁王立ちを続け、震災の被害の様子やその後の復興の様子、さらに大戦中に八号岸壁で発生したドイツ軍艦爆発事故を間近で目撃し、横浜に甚大な被害をもたらした横浜大空襲やその後の米軍による接収、そして戦後復興、みなとみらい再開発と、横浜港の歴史、というよりも横浜の歴史をずっと見守り続けてきた、と言っても過言ではありません。

そういう点から考えると、このハンマーヘッドクレーンは、横浜港の主と言っても良い存在なのではないでしょうか。

ということで、今週と来週はハンマーヘッッドクレーンをまとめてド~ン、ということで、今週はクレーン全体かアーム部分が写っているモノを・・・・・・。

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*1984年撮影


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*撮影年の記載の無い写真はすべて1987年撮影。




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by yokohama80s | 2014-06-01 00:07 | 新港埠頭 | Comments(2)
2014年 04月 06日

新港埠頭 九号岸壁

 新港埠頭・九号岸壁は、左突堤の北側・・・・・・というより、今風に言えばみなとみらい側の先端部の岸壁で(正確には九、十、十一号岸壁は桟橋になっていて横桟橋と呼ばれていた)、最近になって横浜市が「大桟橋の過密化解消」と銘打って、「かつて欧州航路の客船が発着していた歴史ある九号岸壁に客船ターミナルを整備する」と発表したあの九号岸壁です・・・・・・って、もともとあそこはみなとみらい21整備の時に作られた客船ターミナルがあったような気も・・・・・・???

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*昭和9年・横浜税関設備図より


 まあそれはそれとして、「かつて欧州航路の客船が発着していた歴史ある九号岸壁云々」と言われても、後にも先にも新港埠頭で客船に対応している岸壁は四号岸壁だけで、クイーンメリー2の例(横浜寄港に際してベイブリッジをくぐれないために旅客設備が無い大黒埠頭に着岸したら乗客の不評を買って船会社から「もう横浜には行かない」と言われてしまった件)を見るまでも無く今も昔も客船は旅客設備が完備した岸壁を優先的に使用するのが世界の常識だし、客船に対応した桟橋、岸壁が有るにも関わらずそこをあえてそこを使用しなかった、という話はちょっと合点が行かない話なのでいろいろ調べてみると、確かに1934年(昭和9年)に内務省横浜土木出張所が刊行した「横浜港と其修築」「現在の港湾設備」には、「四号岸壁は北米航路の優秀大型船("優秀船"とは大型客船を意味するのでは無く、客船、貨物船を問わず建造当時の最先端、最高峰の技術を用いて建造された船のこと)の発着場とし、第九、十、十一の連続岸壁は同じく欧州航路日本船が主として使用す」と書かれています。

 これは震災前の横浜港は需要に供給が追いつかず、この頃すでに四号岸壁を割り当てられていた北米航路の船ですら時として沖合に錨泊し乗客が通船で乗船することを余儀なくされていたことを念頭にしていたことと、欧州航路には国内外13の船会社が25航路に合計176隻(うち貨客船72隻)を定期就航させてしのぎを削る大激戦区(そのうち国内船会社は2社4航路22隻うち貨客船1航路10隻)であるうえに、国策として国内船会社に欧州航路に定期船を就航させた手前(命令航路と呼ばれ当時の逓信省により運航期間、便数、隻数、船齢その他が細かく定められていた)、あれやこれやと優遇措置を講じる必要があったことなどから、一種のホームアドバンテージとして新港埠頭横桟橋を欧州航路用として国内船会社が優先的に使用出来るように便宜を図ったものだと考えられます。

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*1987年撮影(戦前から変わらない風景、と言っても上屋の色が変わったり石畳の上にアスファルトが敷かれたりしていますが)


 これを額面通りに解釈すれば、「欧州航路の客船は九号岸壁から出ていたんだな」とも思えますが、前述したように今も昔も"客船は旅客設備がある岸壁を使用する"という万国共通の不文律が存在します。

 そこで当時の欧州航路(旅客航路はロンドン航路のみで、リバプール航路、ハンブルグ航路は貨物航路だった)の運航スケジュールを見ると、例えば昭和5年の横浜発ロンドン行きの船は横浜を出港すると、翌日2日目に四日市港、3日目の午前に大阪港、同じ日の午後に神戸港に入港し、その翌日の午後に神戸港を出港し、横浜を出港してから5日目の午前中に門司港内に錨泊して6日目に出港して上海に向かうというスケジュール(神戸までノンストップの便もありその場合は、神戸に翌日入港し二日間停泊した)

 このためこの航路を運航していた日本郵船では、「渡欧船客の特典」として一等、二等船客が希望すれば横浜~欧州の乗船券で、東京、横浜~神戸、門司間を鉄道を利用できる振替乗車券を発行していたために(急行料金や寝台料金は自己負担だった)、横浜から乗船しないで東京を午前中に出る急行で夕方京都で一泊したり、寝台列車で神戸または下関、門司まで行きそこから乗船する人が大部分で、当時の旅行案内書にも「欧州航路は神戸からの利用が便利」と書かれていおり、この頃の旅行記を読むと東京近郊に住んでいても横浜から乗船しないで神戸や門司から乗船する人(荷物だけを横浜から乗せることが可能で一等の場合はあらかじめ荷物を部屋に運び込んでくれた)が多かったようです。

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*1984年撮影(なぜか横桟橋の上屋にはNoの「O」の下に横棒と点がふたつ描かれていた。詳しくはこちらをご参照下さい)


 そうなると「欧州航路の横浜~神戸間は、実質的に旅客が乗船していない貨物船状態で運行されていたのだから旅客設備がない貨物用の九号岸壁から出港した」という理屈も成り立つのですが、この話にはさらに先があり、当時、欧州航路のみならずシアトル、サンフランシスコ向けの北米航路などの横浜~門司間の国内区間、特に横浜~神戸間のみに乗船する国内の利用者が多かったそうで、都内や横浜市内の幾つかの女子高校では修学旅行でこれらの航路を利用して関西方面に行っていたという例もあり、特に2月~6月のハイシーズン期は出港の半年前には予約で一杯というほど盛況だったんだそうな。

 さらに近代デジタルライブラリーやあちらこちらで当時の絵葉書写真を漁ってみると、新港埠頭九号岸壁から欧州航路の貨客船が出港した記録は、九~十一号岸壁が他の岸壁に先駆けて震災復旧工事が竣工した1924年(大正13年)5月下旬から横桟橋に上屋が完成した1929年(昭和4年)頃に撮影されたと思われる物しか見当たらず(あくまでも公開されている物の話です)、また「九号岸壁から乗船した」と記述した書物も見当たらないのに対して、「欧州航路の船に大桟橋(当時の一般的な書物では、大桟橋をたんなる「波止場」あるいは「桟橋」、新港埠頭を「岸壁」と表記することが多かったようです)から乗船した」と書かれた書物が複数あるうえに、さらに決定的なのは横浜みなと博物館の「日本の客船黄金期」のコーナーにある「2つの客船ターミナル -大さん橋上屋-」の説明文に「大さん橋には、北米航路の外国船や欧州航路、シアトル航路、世界一周クルーズなどの客船がつきました(北米航路以外は国内の船会社も大桟橋から発着していた、ということ)とあります。

 これらのことから、横桟橋を利用していたのは主に欧州航路の貨物船と、約四ヶ月の航海を終えてロンドンから帰ってきてドックでの点検整備(復航帰港後から往航出港まで通常一ヶ月前後あった)を終えた船が横桟橋に移動して、そこでその他の整備を行い(十号岸壁に接岸して岸壁からホースを引き込んで清水補給中の絵葉書がある)、出港数日前から貨物の積み込みを行い(横浜からは主に銅、鮭缶などが積み込まれた)、出港前日または当日に大桟橋に移動(今も昔も岸壁を移動することはよく行われていた)して、今度は生糸や陶器などの高級雑貨類の積み込みを行い、出港2時間前から乗客を乗せて午後三時にロンドンに向けて出港。

 また皇族その他のVIPや大規模な視察団などの特別な乗客が乗船する場合は、新港埠頭四号岸壁(この場合には団体専用のボートトレインが臨時運行された)を使用することもあった、というのが実際のところだったようです。

 そうなると「かつて欧州航路の客船が発着していた九号岸壁云々」という話は「ちょっと違うよね」という事になりますが、そんな些細なことよりも「歴史性の継承」云々や、「新港埠頭で客船云々」を語るのなら、なにはともあれ規模も設備も大桟橋より豪華で立派な旅客ターミナルがあった四号岸壁をいの一番に語るべきなのですが、それを言い出すといろいろと都合が悪い大人の事情が・・・・・・

 などという話はここまでとして、要するに「九号岸壁」と言っても後にも先にも↑の、のこぎり屋根の上屋しか無ったので、1960年頃に九号岸壁の防衝工部分に岸壁を延長するように作られた桟橋部分(正確には桟橋ではなくあくまでも「九号防衝工」なんだそうです)の写真を↓

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*1984年撮影


 撮影当時はこの桟橋は、九号岸壁側には内航船が接岸し、八号岸壁側は、当時、横浜海上保安部に配属されていた巡視船のじまの専用桟橋となっていました↓

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*1984年撮影(のじまの甲板は桟橋より低かったので繋船時にはこの踏み台を甲板に置いていた)


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*1987年撮影(右が1962年建造され1989年に解役したPL11 のじま)


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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1987年撮影(銚子海上保安部配属の1980年に建造された当時の新鋭船PL125 巡視船かとり。ちなみに現在も就役中のようです)





*2015/10/20
横浜みなと博物館の大さん橋に関する説明文を追加し、「欧州航路の船は大桟橋から発着した」に記事を加筆修正しました。

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by yokohama80s | 2014-04-06 00:07 | 新港埠頭 | Comments(2)
2014年 03月 02日

横浜海上保安本部桟橋

現在、海上保安庁の横浜海上保安本部は新港埠頭の右突堤部を横浜海上防災基地として占有使用していますが、みなとみらい以前には四号岸壁の防衝工を沖合に延長する形で設置された桟橋を横浜海上保安本部桟橋(竣工当時の正式名称は"遠距離用大型巡視船基地"だそうです)として使用していました。

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①1983年撮影/PL32みうらとPL31いず(両船ともすでに退役)


ということで、この海保専用桟橋が何時くらいに作られたのか、はたまた何時から使用されているのかを、航空写真を漁って調べてみると、昭和初期ごろまでは海保桟橋があった場所には四号岸壁防衝工(現在、八号岸壁のみが現存)があり、まだ桟橋はありません。

で、1944年(昭和19年)撮影の航空写真では、防衝工があった場所に四号岸壁が30mほど延長されただけ(正式名称は桟橋ではなくあくまでも「四号岸壁防衝工」だそうです)で80年代当時のような桟橋はまだありません。

さらに航空写真を漁っていくと、1967年(昭和42年)撮影の写真には変化なし。

で1975年(昭和50年)まで、なぜか航空写真が無く、75年の写真には四号岸壁をさらに約100m延長する形で桟橋が設置されていて巡視船が停泊していることから、どうやら1970年前後に海保用桟橋が作られたようです(注:その後の調査で1968年/昭和43年に造られたことが判明しました)

1984年撮影/1980年(昭和55年)就役の当時の新鋭艦PL04「うらが」こと現・鹿児島海上保安本部所属PLH04「はやと」


ということで、ある日の海保桟橋での光景を↓

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巡視船みうらの出港を見送る家族連れ


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1983年撮影/出港するPL32みうらと繋船中のPL04うらが


巡視船の船名の前に付く「PL」という符号は、Patrovessel Large こと大型巡視船という意味で、「PL」のあとに「H」がついて「PLH」となると、Patrovessel Large with Helicopter=ヘリコプター1機搭載大型巡視船ということになるそうです。

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ただ写真を見る限りにおいては、撮影当時の80年代前半には「PLH」という区分は無かったようです。



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by yokohama80s | 2014-03-02 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2014年 01月 26日

赤レンガ倉庫点描

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*1986年撮影(現・赤レンガ1号倉庫)


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*1984年撮影(現・赤レンガ1号倉庫)


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*1987年撮影(現・赤レンガ2号倉庫2階部分)


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*1987年撮影(現・赤レンガ2号倉庫2階バルコニー部分)


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*1987年撮影現・赤レンガ1号倉庫)


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*1987年撮影現・赤レンガ1号倉庫)


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*1987年撮影(現・赤レンガ2号倉庫2階バルコニー部分)


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*1987年撮影(現・赤レンガ2号倉庫2階バルコニー部分)


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*1987年撮影(現・赤レンガ2号倉庫2階バルコニー部分)






*来月のUP予定

2月 2日 : 新山下1丁目 珈琲の店・みなと
    9日 : 大岡川 弁天橋はしけ溜まり
   16日 : 尾上町通り
   23日 : 首都高速湾岸線 本牧JCT付近
   

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by yokohama80s | 2014-01-26 00:03 | 新港埠頭 | Comments(2)
2014年 01月 19日

市営公共上屋二号倉庫

現在、赤レンガ倉庫二号館として、建物南側1階にはお洒落なレストランやカフェが入っている、撮影当時は「市営公共上屋二号倉庫」、建設当時は、「官設三階建煉瓦倉庫乙号倉庫」、または「横浜税関乙号煉瓦倉庫」ですが、なぜか着工、竣工ともに一号倉庫より早く(着工は1年、竣工は2年、二号倉庫の方が早い)、双子建築にも関わらずこちらは滑り込み明治建築(お時間のあるムキはこちらもご覧下さい)。

なのに撮影当時は、竣工が2年遅かった為に大正建築となってしまった一号倉庫の方は遣われなくなって幾年月、荒れ果てた廃墟状態。

対して二号倉庫は、「辛うじて現役」と言った状態でしたが、一号倉庫の荒れっぷりはまさに「人が住まなくなった家はすぐに荒れる」を絵に描いたようなもので、「やっぱり建物は使わないとね」、と言った感じです。

しかし1986年秋から放映が始まった某刑事ドラマの影響で、保存状態のよかった二号倉庫も一気に落書きだらけに・・・・・・

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*1982年撮影


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*1982年撮影


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*1984年撮影


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*1987年撮影


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*1982年撮影


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*1981年撮影


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*1987年撮影


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*1987年撮影


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*1981年撮影


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*1981年撮影


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*1981年撮影


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*1987年撮影





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by yokohama80s | 2014-01-19 00:03 | 新港埠頭 | Comments(0)
2014年 01月 12日

横浜税関保税一号倉庫北側

さて、ということで今日は、現在の赤レンガ倉庫一号館こと、撮影当時の横浜税関保税第一倉庫の北側、今で言えば二号館と向かい合わせの方、とでも言いましょうか?

とりあえず「そちら側」の写真をまとめてドンということで・・・・・

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*1980年撮影


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*1984年撮影


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*1982年撮影


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*1984年撮影


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*1982年撮影


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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1986年撮影


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*1986年撮影


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*1986年撮影


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*1987年撮影






ということで、来週は赤レンガ倉庫二号館こと市営公共上屋二号倉庫をお送りします。
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by yokohama80s | 2014-01-12 00:03 | 新港埠頭 | Comments(0)
2014年 01月 05日

横浜税関保税一号倉庫南側

現在、赤レンガ倉庫一号館と呼ばれている建物は、1913年(大正2年)3月に竣工した時には、「官設三階建煉瓦倉庫甲号倉庫」、または「横浜税関甲号煉瓦倉庫」、多くの場合はただたんに「甲号倉庫」と呼ばれ、80年代頃には「横浜税関保税第一倉庫」と呼ばれていました(便宜上、ここでは一号倉庫と呼ぶことにします)。

ということで、国会図書館の近代デジタルライブラリーで「新港埠頭 甲号倉庫」とかで検索すると、あれやこれやの本や写真がごっそり出てきますが、そのなかでも興味深いのが1915年(大正4年)に当時の大蔵省大臣官房臨時建設課が著した「横浜税関新港設備概要」の一文。

これによると計画当初は、外貿易倉庫の規範とするべくレンガ倉庫を4棟建設する計画だったものの、当初の想定に反して民間企業の進出が著しかった為に、すでに着工していた現存する2棟のみを建設し、残りの2棟の建設を中止したのだそうです。

私なんぞは単純なものですから、「レンガ倉庫が4棟もあったら、さぞかし壮観な風景だっただろうな」とつい思ってしまうのですが、よくよく考えてみると本来なら一号と二号倉庫は瓜二つの双子建築だったものの、そっくり同じ設計だと二号倉庫のカドが万国橋側の道路を塞いでしまうために、現在のような特徴的な切妻になっているワケで、「狭い新港埠頭内のいったいどこに残り2棟のレンガ倉庫を建てるつもりだったのだろう?」と思わず首を傾げてしまいます。

という話はさて置くとして、本日の本題に入りますが、今回は赤レンガ倉庫一号館こと、撮影当時の横浜税関保税第一倉庫の南側、象の鼻側、はたまた大桟橋側、もうひとつついでに山下公園側の写真を・・・・・・

撮影当時、北側(二号倉庫側)はこんな感じの廃墟状態でしたが、その反対側はバルコニーのトタン屋根には穴が開き、レンガは白いカビに覆われてはいたものの「北側より少しはマシ」と言った感じでした。

まあ簡単に言ってしまえば、現在は二棟ある倉庫が向かい合っている側が"表"のような感じですが、それ以前はバルコニーがある側、要は一号倉庫は南側、二号倉庫は北側が建物の"正面"というか表側でした。

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ということで、余計な能書きはここまでにして、あとは写真をお楽しみ下さい。

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*写真はすべて1980年撮影。





ということで、来週は今日の反対側、「横浜税関保税一号倉庫北側」をお送りします。
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by yokohama80s | 2014-01-05 00:04 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 12月 15日

新港埠頭 防衝工

昔は、今と違ってタグボートの出力が小さかった為に、潮や風に船体が流されて出入港時に船が岸壁に接触したり、はたまた夜間や濃霧時に船が岸壁先端に衝突するという事故が後を絶たなかったそうです。

するとモノがモノだけにお互いタダで済むワケもなく・・・・・・ということで、防衝堤または防衝体、はたまた防衝工と称する車で言うとバンパーみたいなモノが岸壁先端に設置されるようになったそうです。

しかしいろいろと調べてみると、本来、防衝工と呼ばれるモノは、繋船した船が岸壁と接触して船体が損傷することを防ぐために岸壁に設置されたゴム状のショックアブソーバーのことを意味するようで、新港埠頭にある写真のタイプは「船体と岸壁が接触した時の衝撃を和らげる」というよりも先端部に灯台を設置して航行する船に対して岸壁先端の位置を知らせる役目で設けられたようです。

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*夜になると支柱の先がピカピカ光る


新港埠頭では、もともと4号5号、8号9号岸壁の左右の突堤のそれぞれ左右両先端に2個づつの計4個の三角形のコンクリート製の防衝工が設置されていましたが、1944年に撮影された航空写真を見ると4号岸壁の防衝工があった場所まで4号岸壁が延長されているのが確認できることから、また9号岸壁の防衝工は、9号岸壁を延長する桟橋の設置により航空写真を見ると1957年から1967年の間に撤去されたようで、私が写真を撮影した80年代前半の時点では岸壁突端に設置されていた防衝工は、写真の8号岸壁と、5号岸壁の2カ所しか現存していませんでした。

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*画面左、貨物船の奥に5号岸壁の防衝工がチラッと見える


その後、どうやら5号岸壁の防衝工も、右岸壁に海保の海上防災基地を建設する為に例によってコソッと取り壊されてしまったようで、現存する防衝工は8号岸壁のものだけのようで、この防衝工を文化遺産だか近代産業遺産だかなんだかに指定しようとする動きもあるそうです。

しかし80年代にはそのような歴史的価値など知るよしもなく、当時は「立ち入り禁止」「釣り厳禁」という看板があったにも関わらず↓

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格好の釣りポイントとなっていました。


*写真はすべて1987年撮影




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by yokohama80s | 2013-12-15 00:05 | 新港埠頭 | Comments(0)
2013年 12月 08日

新港埠頭 三号岸壁の水辺階段(雁木)

現在、赤レンガパークを海沿いに海保の工作船展示館の方に歩いて行くと、ちょうど旧三号岸壁のクビレの部分にある手すりから身を乗り出して海面を覗き込むと崩れかけたいかにも年代物の海へ降りていく階段(このての階段を「雁木」という)が見えると思います。

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*1982年撮影


この階段は、その昔、横浜にも居た海女さんたちがムール貝を獲りに潜る為に使用していた・・・・・・なんて事実はありません(笑)

とある資料によれば、まだ船が接岸できる埠頭が新港埠頭と大桟橋しか無かった1913年(大正2年)の横浜港への入港船舶数は1,446隻。

そのうち岸壁に接岸して荷物や旅客の積み卸しをしたのが全体の約三割にあたる443隻に過ぎず、残りの七割にあたる1,003隻の船舶は沖合に設置されたブイに繋船しハシケなどで荷役を行っていました。

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*1986年撮影


そこでハシケの荷物を積み卸しする為に物揚場なる場所が作られたのですが、当時の貨物船には少なからず乗客も乗船していたし、船員は船員でせっかく陸のきらびやかな灯りを目の前にしてモンモンとした時間を過ごして再び四方八方海ばかりの航海に出たら精神衛生上の問題(?)が発生してしまうワケです。

さらに代理店やドック関係者などが荷物の積み卸しや、修理作業その他の打ち合わせの為に沖合に停泊している船に行かなきゃいけないし・・・・・・

ということで、こういう時にオカと沖合に停泊した船の間を行き来する為に利用する渡し船こと通船という、ひらたく言えば海上タクシーのようなモノが存在します(今もあります)。

現在は通関の関係で沖合に停泊した船へ行き来する人が通船を乗り降りする場所は決められていますが(80年代当時は西波止場と大桟橋のたもとにあった)、その昔、震災前頃までは、船が入港するやいなや許可を受けている正式な通船や、無許可営業の通船やらなんやらかんやらが、まるで"なにか"にたかるハエの如く一斉に船に集まって、上陸する船客を奪い合ったんだそうな。

そしてそれらの通船に乗った乗客が、「あそこにつけてくれ」と言うと船をそこにつけてくれたんだそうです。

ところが如何せん通船は10トン程度の小型船(そのまた昔は手漕ぎの和船だったからもっと小さかった)の為に、岸壁に船を横付けしたところでオカははるか頭の上。

岸壁をそれこそヤモリよろしくよじ登らないと上陸出来ないワケで、そういうことにならないように設置されているのが写真の階段。すなわち「雁木」とも呼ばれるモノ。

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*1986年撮影


新港埠頭には写真の三号岸壁と四号岸壁の間と、記憶が曖昧なのですが八号岸壁の先端の二ヵ所にあったような記憶があります(私の記憶ほど信用できないモノはありませんが(;^^)ヘ..)。

さらにハッキリしたことはどこにも出ていないし、誰も気にしていないようなのでアレなんですが、震災当時の写真を見ると、三号と四号岸壁の擁壁はさほど被害を受けていないように見えることから、この階段が右突堤が建設された1905年(明治38年)当時のものという可能性も無きにしも非ずかも???(←専門家筋によると、この雁木は新港埠頭創建当時のモノなんだそうです)

まあそれはそれとして、私がこれらの写真を撮影した当時は、出港する船に乗船するハーバーパイロット(水先案内人)が、海からパイロットボートでやって来て上陸する際にこの階段を利用していました(最近の埠頭にはソレ用のハシゴが設置されている)。



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by yokohama80s | 2013-12-08 00:06 | 新港埠頭 | Comments(0)