カテゴリ:根岸、金沢地区( 5 )


2016年 02月 21日

根岸町3-147 喫茶伽風豆虫

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 JR根岸線を根岸駅で降りて本牧通りというか、横浜市主要地方道82号山下本牧磯子線を間門方向に進むこと800m、約10分で森林公園というか競馬場がある高台、というか旭台に登る道との分岐点にあたる根岸不動下交差点に行き着きます。

 すると看護学校と、現在はマンションが建っている場所に横浜赤十字病院があり、道路を挟んだその向かい側にあったGSと児童遊園に挟まれた所に↑の写真の建物がありました。

 常識的に店名が書かれているはずの場所に、"SNACK"と大書きされていることから、最初は「スナックという店名なのかなあ?」と思ったのですが、よく見てみると店の入口の上に"伽風豆虫"という看板が。

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 普通だと「なんて読むんだろう?」と思いそうなモノなのですが、私はなんとなく「カブトムシと読ませるんだろう」と直感的に思い込んでしまったのですが……???

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*写真はすべて1982年撮影。




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by yokohama80s | 2016-02-21 00:02 | 根岸、金沢地区 | Comments(4)
2016年 02月 14日

金沢シーサイドライン

 金沢シーサイドラインは、簡単に言うとJR根岸線の新杉田駅と京急本線の金沢八景駅間約10.6kmに作られたコンクリートの軌道上をゴムタイヤを履いた車両が無人運転している「標準型新交通システム」という1989年に開業した新規格の鉄道のこと。
でなにやら、"横浜シーサイドライン"が会社名で、"金沢シーサイドライン"が路線名となるんだそうな

 ということで話を、撮影当時の80年代に戻すと、国道357号の中央部分にさまざまな形の橋脚が建ち並び↓

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*①1986年撮影
(R357・第三住宅入り口にて)


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*②1986年撮影
(現在のシーパラダイスマリンゲート付近というか杉田ゴルフ場脇)


その後、橋脚に橋桁が載り↓

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*③1987年撮影
(現在のシーパラダイスマリンゲート付近というか杉田ゴルフ場脇)


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*④1987年撮影
(現在のシーパラダイスマリンゲート付近というか杉田ゴルフ場脇)


駅が出来たものの↓

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*⑤1987年撮影
(市大医学部駅建設現場)


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*⑥1987年撮影
(市大医学部駅建設現場)


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*⑦1987年撮影
(市大医学部駅建設現場)


まわりは空き地だらけ。
正直言って、「こんなんで大丈夫なのか?」と思ったのは紛れもない事実であります。

なにせ周りは空き地と小規模な町工場と海の公園しか無かったのですから。

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*⑧1989年撮影
(現・海の公園柴口駅付近)


ところが後年、「なんでこんなところに人工島を?」という場所が、シーパラダイスになろうとは!!!

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*⑨1988年撮影
(現マリンゲート付近)


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*⑩1988年撮影
(現横浜フィッシャーマンズマリーナ南端部付近)





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by yokohama80s | 2016-02-14 00:03 | 根岸、金沢地区 | Comments(0)
2016年 02月 07日

金沢区・海辺の散歩道

 80年代後半のある日のこと。
横浜港の最南端部に金沢木材埠頭あると知り、「どんなところだろう?」と金沢区まで行ってみたところ取り立てて見るべき物(撮るべき物?)も無いし、ということで、「行けるところまで行ってみよう」と一番、海沿いの道を現在の八景島方面……というか、市大病院方向に行くと、幸浦2丁目に差し掛かった時に見つけたのが↓ 

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*①長浜水路口


 なぜか近くに米軍関係の施設が見当たらないのに、本牧や新山下あたりで良く目にしていた「在日米軍施設」を現す看板が。
「この水路が米軍施設?」と思って調べてみると、横浜市政策局基地対策課のサイトに↓

"水路河口部の沖合にタンカー用の係留設備があり1.5kmほど上流の小柴貯油施設まで水路沿いにパイプラインが敷設され"ていて、2005年に返還されたとのこと。
しかし私の拙い記憶だと、1981年の爆発事故以来、この施設は開店休業状態だったかと……ということはさて置き長浜水路に架かる橋を渡ると↓

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*②海辺の散歩道長浜水路側入口にある休憩所

 
 なにやらすり鉢状の用途不明の施設が。
公園のようなのですが、遊具があるワケでも無し、「ここはなんだろう?」と言った感じなのですが、今さらながら調べてみると、横浜金沢観光協会のサイトで観光スポットのページ

「海辺の散歩道」
八景島マリンゲートから長浜水路口までのびる約3キロメートルの遊歩道で、小高くなった六方石モニュメントのある公園からの東京湾の眺めと、長浜水路沿いの約1キロメートルの桜並木が素晴らしい。
ゆっくり海をみながら散歩のできるコースは見晴らし抜群です。
八景島マリンゲート付近から横浜ヘリポートまでの海岸沿いは釣り人がたくさん。


との記述が。

どうやらこの正体不明の施設が、海辺の散歩道の幸浦側入口ということになるのですが、撮影当時の拙い記憶だと、ここから福浦2丁目までの海沿いは通行止めになっていたような記憶があるのですが……。

 ということで、長浜水路から福浦1丁目までジャンプすると、ここから福浦2丁目までは、堤防と道路の間がちょっとした広場状になっていて、冬の晴れた日には対岸の君津あたりが手に取るように望むことが出来る東京湾に面した防波堤には、平日でも釣り人たちがズラッと竿を並べていました。

 で撮影当時、この公園というか散策路には所々にベンチがあっただけで、施設らしい施設と言えるのは↓

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*③福浦二丁目の近代的な公衆トイレ


ぐらいなもので、ここからさらに300m行くと、そこから横須賀方向というか、海の公園方向というか、今で言うと八景島方向に向かって小高い丘になっていて散策路が続いていました↓。

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*④水際緑地地帯の散策路


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*⑤眼下に三菱重工野球部のグランドが


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*⑥散策路の頂上部その1


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*⑦散策路の頂上部その2


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*⑧横浜ヘリポートその1


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*⑨散策路がヘリポートを越えた所
(写真奥に見えるクレーンが住友造船でそのさらに奥が横須賀)



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*⑩休憩所


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*⑪横浜ヘリポートその2


そして小高い丘を下ると↓

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⑫柴漁港に向かう漁船


写真の右手に造成中の八景島がチラッと写っているのですが、撮影当時は「こんな所に島を作ってどうするつもりだろう?」といった感じで、まさか"あんな代物"が出来るとは……。

 ということで、水際緑地地帯入口に戻るのに散策路を逆に辿るのも芸が無いので道路を歩いていると↓

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*⑬福浦3丁目側入口


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*⑭横浜ヘリポート入口


散策路の小高い丘の正体が判明(笑)

 ちなみに1971年(昭和46年)に金沢地先の埋立が始めるまでは、このあたり一帯は海の底で、約1.5km山側のかつて小柴貯油施設があった小高い丘……というか山がかつての海岸線でした。


*写真は1987年撮影。




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by yokohama80s | 2016-02-07 00:08 | 根岸、金沢地区 | Comments(0)
2013年 03月 10日

横浜競馬場

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上の写真は、根岸森林公園・・・・・・というより、第2コーナーを抜けてバックストレートに入ったあたりから見た横浜競馬場こと根岸競馬場のスタンドこと馬見場。

向かって左側の塔が3つある小ぶりの建物が今も現存する1929年(昭和4年)に建てられた7階建てで4,500人収容の一等馬見場、右側の塔が2つの大きい方が1988年(昭和63年)に取り壊された12,000人収容の二等馬見場。

ということで、横浜競馬場こと根岸競馬場の沿革などはWikiを見て頂くとして、ちなみに昭和初期頃の入場料が右側の二等馬見場で2円ということですから今で言うとだいたい10,000円くらい、一等馬見場が5円ですから約25,000円とかなり高額。

このため一般庶民には敷居が高かったので、機を見るに敏な人たちがレース開催日になると第一コーナー奥のコースを見下ろせる山元町5丁目あたりの高台斜面にヤグラを組んで板を渡してゴザを敷いて、一人5銭(現在の250円ぐらい)の私設観覧席を作って結構な人気だったとか。

で、お高かったのは入場料だけではなく、馬券も単複各一枚20円(現在の約100,000円くらいで、この券一枚で12レース各1回づつ投票できたそうな)と高額だった為に、当時、違法だったにも関わらずその場で仲間を募り見ず知らずの者同士が数人で一枚の馬券を購入し、レース中は馬券を持っている者が勝ち馬券を持って逃げ出さないように大の大人が数人で仲良く(?)手を握り合っていたそうな。

さらに興味深いのが1レースの配当金に200円(今のレートで約100万円くらい)という上限が設けられていたことで、もしそのレースで200円以上の配当が出た場合には、超過分は「特配(特別配当)」と称して、そのレースの馬券購入者全員(といっても馬券を捨てなかった人)に均等に分配されたこと。

ということで、1940年(昭和15年)の4月27日~5月12日にかけて8日間開催された春季競馬の成績表なるものを見ると、特配が出たレースが9レースありほぼレース開催日1日に1回特配が出たという計算に。

ちなみに4月27日には、第7レースで2円50銭(約1万3千円くらい)、第8レースで14円50銭(約7万3千円くらい)と2レース連続で特配が出て、仮にこの2レースの馬券を買った人は予想がはずれても約9万円弱を手に出来た、という次第(さすがに馬券と入場料が高いから元は取れませんが)。

これらのことや、さらに神奈川県内の自動車登録台数が2千台に満たない時代(ちなみに現在は約4百万台弱)に、レース開催日の桜木町、日ノ出町、根岸一帯は、競馬場へ行く車、帰る車で渋滞した(当時は道路が狭かったということも多分に影響していると思いますが)という逸話から、この時代の競馬はギャンブルというよりも、セレブな方々の社交場という色合いが強かったようです。

しかし戦雲急を告げ始めた1943年に横浜競馬場も閉鎖され丸ごと海軍に売却され、それ以降は、文壽堂印刷工場として観覧スタンド内において海軍向けの地図、海図などを、戦後は米軍向けに地図、部隊報告書、名刺、請求書その他の書類の印刷を行っていたそうです(詳しくは横浜市史資料室の情報誌「市史通信」をご参照ください)。

さてここで文壽堂(ブンジュドウと読む)などという聞きなれない名前が出てきたので、アレやコレやと調べてみると、この会社は元をたどると1880年(明治13年)創業の輸入文具問屋で、その後、銀行や商店などが顧客に配る手帳(名入り手帳)の製造販売で大当たりし、当時はどの手帳も裏表紙を開けると「日本洋式手帳開祖横浜馬車道文壽堂」という文句が印刷されていたとかで、この会社の社長さんは立志伝中の人として当時は有名だったんだそうな。

そしてその後、印刷出版業にも手を広げ、前述のように根岸競馬場のスタンド内を印刷工場にして、千人以上の従業員を擁して、戦時中は海軍、戦後は進駐軍向けの印刷を一手に引き受けていたものの、1948年に戦時中に印刷用紙などを不正隠匿していたカドで摘発を受け(商売敵の妬みやっかみ逆恨みなどによりハメられた、との説アリ)、この結果、この2年後に米軍の印刷業務から外された文壽堂は敢え無く倒産。

この結果、戦前は立身出世の人として有名だったシャチョーさんは三浦半島某所に引きこもり、終戦直後の混乱期に路頭に迷うこととなった約千人もの従業員の再雇用問題に関する請願書が、当時の国会に提出されるくらいの大問題に発展したそうな。

そして文壽堂撤退後は、スタンド内部は米軍の住宅管理司令部に、馬場はモータープール、コース内側がゴルフ場、スタンド前がニートナットクラブと称した遊園地として使用されていたそうです。

という長い長い前置きはここまでにして、これらの写真を撮影した時は、根岸住宅地区の一部が返還されたと聞いて、こちら方面というか、高台というか、いわゆる山手方面は当時、私が勝手に決めた撮影範囲から外れていたのですが、「どんなモンだかちょいと見物してやろう」という物見遊山気分でイソイソと根岸まで出かけました。

そして森林公園の駐車場に車を駐めて、旧コースを時計回りに歩きはじめたのですが、第5消防署を過ぎたあたりから市道の内側の旧コースにあたる部分(要は第五消防署の並びで現在は米軍ハウスは取り壊されて緑地化されているようですbyストリートビュー)には米軍住宅が立ち並び↓

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さらにそのうえそれらの家には人が住んでいる気配がムンムン状態で↓、

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「ここって入ってオッケーだよなぁ」などと訝しみながらもさらに歩いて、最終コーナーを抜けたあたりに市バスの転回場が↓

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どうやらここが米軍根岸住宅地区の入り口のようですが↓

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私の記憶が確かなら、当時は、道路脇にフェンスがあっただけで、このての施設入り口に付き物の警備員の詰所も無ければゲートも無し。

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しかし目指すスタンド廃墟はもうちょっと先。

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スタンドのそばまで行こうと思えば行けそうな雰囲気でしたが、誰が見ても「ここからは米軍用地だよ」というのが明らかな状態だし、スタンド近辺は人の気配がムンムンだし、これではさすがに素知らぬ顔をして忍び込むとナニかとカドが立ちそうな気配を感じて、ちょっと遠慮してフェンス沿いの雑草をかき分けながら接近したのですが↓

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*写真はすべて1984年撮影。


ここまでが限界でした(笑)

もっとよく撮りたかったら、山元小学校の方からグル~ッとスタンドの裏手に回り込むとか、毎年7月だか8月のフレンドシップデーになぬ食わぬ顔で紛れ込むとか(現在もマメに第七艦隊のツイッターを見ているとアレやコレやのこのてのイベントの入場申し込みを行なっています)、という手もあったのですが当時は、「数年以内に根岸住宅地区は池子に全面移転する」という話がまことしやかに囁かれていたもので、「別に慌てなくてもあとでゆっくり撮ればいいや」くらいにしか思っていなかったもので・・・・・・

二等馬見場が取り壊されることを知っていたら多少のキケンは顧みず(笑)取る物も取り敢えず再チャレンジしたのですが・・・・・・




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by yokohama80s | 2013-03-10 00:02 | 根岸、金沢地区 | Comments(4)
2012年 07月 01日

第五消防署

横浜根岸住宅地区こと通称・根岸ベース、はたまた根岸キャンプ、英語では......忘れました(正解はエリアX)。

まあそれはそれとして、旧根岸競馬場跡地の根岸森林公園の外周を右回りにテクテテク歩くと、根岸旭台交差点のあたりで道路右手に消防署があります。

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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1984年撮影


*1984年撮影


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*1984年撮影


建物には「FIRE STATION No.5(第五消防署)」の文字と、ガレージには古めかしいいかにもアメリカンな消防車が↓

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*1984年撮影


聞いた話では、この消防署はあくまでもアメリカ海軍の消防署で、米軍根岸キャンプの400戸余りの米軍住宅の消防を担っていて、例え消防署近くの日本人の家が火事になって119番しても、ここの消防車は出動しない建前になっているのだそうです。

でも火事を見たら消したくなるのが世界共通の火消しの性分でしょうから、目の前で家が燃えていたら要請がなくてもここの消防車も駆けつけるとは思いますが、2002年にこの消防署が電気配線のショートから火事を出して、近隣から駆けつけた横浜市消防局の消防車15台でようやく消し止めた、という何かのブラックジョークかと思うような出来事がありました。

なにやら火事により電源が落ちて、消防車が入っていたガレージのシャッターが開けられなかったんだそうです。

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*1984年撮影


上の写真は新港埠頭米軍接収区域にあった、「あなたの火災予防の最高の武器はなんですか?」と書かれた米海軍版火の用心の看板。

"武器"と言うあたりが、いかにも軍隊らしいのですが、第五消防署の最高の武器は「119番」......なんてね(元々、この消防署は米軍住宅地区での初期消火を担っているだけで、イザ火事が発生したら頼まれなくても横浜市消防局が助っ人に馳せ参じる手はずになっている) 
  

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by yokohama80s | 2012-07-01 00:04 | 根岸、金沢地区 | Comments(0)