週刊 横濱80’s

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カテゴリ:本牧・小港・新山下( 23 )


2016年 02月 28日

米軍横浜海浜住宅地区 その2

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*写真はすべて1981年撮影。




*来月3月のUP予定
3月 6日: 元浜町4-28 尾張屋食堂
3月13日: 北仲通
3月20日: 南仲通
3月27日: 弁天通

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by yokohama80s | 2016-02-28 00:06 | 本牧・小港・新山下 | Comments(3)
2014年 10月 05日

本牧埠頭 シンボルタワー

なにやらWikiによると
横浜シンボルタワーは、横浜港に出入りする船舶のための信号所と市民の憩いの場を兼ね備えた、横浜港のシンボルとして建設が開始され1986年(昭和61年)7月に完成した。この施設は本牧ふ頭突端と大黒ふ頭突端とを線で結んだ場合の、横浜港と東京湾との境となる位置に所在しており、横浜港に入出航する船舶の管制や、近隣を航行する船舶へ海上交通情報を提供するなど航路標識として大きな役割を担っている。
また塔の上部には展望台(地上36.5m)が設置され周辺全てが見渡せるようになっており、高い位置から横浜港湾の様子を覗く事ができることから、市内の隠れた名所となっている。なお展望台への入場は無料だが、エレベーターなどは無いため約140段の階段を数分間ほど歩いて登る必要がある。」
とな(面倒なのでコピペしました^^)

「ふ~ん、そうなんだ」と言ったところですが、完成当時は「またヘンなモノをこさえて」と言った感じでした。

なにせ場所が場所なもので、完成当時は、路上に縦横無尽に台切りされたシャーシを縫うようにして(夜間、コンテナ埠頭に迷い込んだ車が、路上に台切りしてあるシャーシに激突する事故が頻発したので最近はシャーシの路上での台切りは無くなりましたが)、ようやくたどり着けるという辺境の地(?)でしたからあそこは↓。

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①D突堤入口・鈴江コンテナヤード


ちなみに上の写真の背景に写っているデリックやクレーンは、当時の港湾カレッジこと現在の港湾職業能力開発短期大学の校舎屋上に設置されている(「た」?)訓練用デリックとクレーンです。


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②本牧建材埠頭のセメントサイロ その1



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②本牧建材埠頭のセメントサイロ その2



当時は、D突堤のヘリに沿ってシンボルタワーに向かう道路があったような気が・・・・・


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③現在の本牧ターミナルオフィスセンター脇のコンテナヤード



↑「こんなとこ通っていいのかなぁ?」と言った感じの所を通り抜けて、そんなこんなでようやくだっだ広いけど車が一台も居ない駐車所に到着↓。


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もうちょっと近づいて↓


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なにやらタワーてっぺんのポールに信号旗が・・・・・・
確かアレは、"U旗"では???
ってことは「あなたは危険に向かっている」という意味に・・・・・・

まあ沖を航行する船舶は、陸上施設に揚がっている信号旗なんか気にしないと思いますがね。

ってことで、今度は正面から↓。


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お次は横に回り込んで↓


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な~んだ信号旗はちゃんと二枚揚がってるじゃないか、みたいな。

"U"と"W"だから、"I wish you a pleasant voyage"こと「御安航を祈る」って意味ですが、もともと陸上施設に掲揚されている信号旗は運動会の万国旗みいたいなものですから何を揚げようが問題ない・・・・・・と思います。

というのもそもそも国際信号旗というヤツは、それぞれの旗にアルファベットの符牒が割り当てられ、それを一枚~三枚組み合わせることで船舶同志の連絡に使うもので、昔は信号旗の上げ下げでコミュニケーションを図っていましたが、無線技術が発達した現在ではもっぱらその船が現在どのような状態かを示す目印的な役割と、儀式的な意味合いで使われているようです。

ということで、余談ではありますが横浜港(川崎港を含めた京浜港)に入港してくる船は、"進路信号旗"と呼ばれる国際信号旗を複数枚組み合わせた旗をマストに掲げています。

この進路信号旗は各港によって組み合わせが決められていて、いちおう川崎港と横浜港をひっくるめた京浜港では、こちらのようになっていて、それを見ればその船がどの岸壁に向かっているのかが一目でわかる、という仕組み。

逆に、出港するときには、次に向かう国の国旗を掲げています(横浜から出港する船の場合は次の寄港地が日本国内というケースが多いのでたいていは日の丸が揚がっていますが)、ということで興味のお有りになられるムキは、入出港する船のマストをご注目するのも御一興かと。


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写真はすべて1986年7月30日撮影。




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by yokohama80s | 2014-10-05 00:04 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2014年 07月 27日

新山下 コンテナ街道周辺

今月は新山下月間をお送りしているワケですが、そのラストを飾るのは(?)堀川に架かる山下橋から千代崎川の小港橋に至る撮影当時は"コンテナ街道"と呼ばれていた主要地方道山下本牧磯子線近辺の写真。

まあ当時は、新山下橋がすでに開通していて、本牧埠頭へ向かう海コンやらトラック類はそちらにまわり、通称"コンテナ街道"のこのあたりの交通量はガッツリ減っていましたが・・・・・

それはともかくとして、今日の最初の写真は、その名もズバリ"YOKOHAMA SHIPS LAUNDRY"↓。

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①現在、跡地は高齢者用賃貸マンションになっているようです。


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②当時ですら懐かしいかつての名車"いすゞベレット"


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③SHIPS LAUNDRYの店先でオブジェと化したナゾの機械


なにやら横浜は西洋クリーニング店発祥の地だそうで、詳しい経緯はこちらをどうぞということで、とにもかくにも1865年に元町5丁目に西洋式の洗濯を習得した某氏が第一号店を開店したところ居留地の外国人に大好評。

で機を見るに敏な人たちや、山手の外国人の家に使用人として雇われ、そこで西洋式洗濯法を習得した人達が次々に店を開店させ一気に洗濯屋が増えたそうな。

ちなみに""SHIPS LAUNDRY"とは、その昔、船内での淡水使用が制限されていた関係から、入港した船から持ち込まれる航海中に溜まりに溜まった洗濯物を専門に引き受けていた洗濯屋さんのこと。

現在では、大抵の船に造水器が装備され基本的に淡水の使用制限が無くなり、さらに最近の客船には船内にクリーニング工場が装備されている(船内にコインランドリーを備えたフェリーも存在する)ので、"SHIPS LAUNDRY"というのは単なる名前だけになってしまっていますが・・・・・・

ということで順序が逆になりましたが、そもそも新山下一帯はもともとは山手のガケ下から先は波がザブンザブンしていた所を、1915年(大正4年)頃から工場誘致を目論んだ浅野総一郎一派によって埋め立てが開始されたものの、目論見は見事に外れ(?)造成後も葦が生い茂った湿地が広がっていたんだとか。

そんな時に、関東大震災が発生し家を失った被災者救済の為に空き地だった新山下2丁目一帯に仮設住宅が建てられ、その後、同潤会により道路沿いに二階建ての店舗兼住宅と、それに直行する形で、同じく二階建てで一棟に四世帯が入居可能な長屋が合計280世帯分と公設の食堂、浴場、質屋と公園が作られました。

で、もともとこれらの住宅群は、入居者に経済的余裕が出来た段階で、一棟四世帯から二世帯、はたまた一戸建てに簡単に改築出来るように設計されている為に、一棟一棟が間隔を置いて建てられていたのですが、戦後の混乱期にその隙間にさらに家を建ててしまったり、もともとの家屋を増改築してしまったり、挙げ句の果てには山手の崖下の国有地に無断で家屋を建ててしまったりと新山下二丁目はあっという間にカオス状態に。

聞くところによると2000年代前半くらいまでこのような状態だったそうなのですが、さすがに「これじゃ災害時の安全性が確保できない」ということで、横浜市が「不良住宅地区解消」と銘打って以前の建物をすべて取り壊して現在では鉄筋コンクリートの立派な市営団地が建っています。

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↑の建物は自信を持って「同潤会住宅」ではないと言えますが、撮影当時には新山下1丁目、2丁目の山手の崖下側には、このての木造住宅が隙間無くびっちり建ち並んでいました。

さらにコンテナ街道の一本裏手の通りには、小さな町工場が点在し↓

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軒先に水を張ったパレットが置いてあり、なぜかいつ通ってもアヒルがぷかぷかしていたり↓

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⑥始終バタバタやるものだから辺り一面水浸し


そして↓のような

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食堂があったり、その脇にはなぜか消防ホースを巻き取る台車がホース無しの状態で置かれていたりと↓

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下町風情満点です。

そしてコンテナ街道沿いには倉庫が建ち並び↓

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⑨新山下2丁目交差点の運河側カドにあった追浜倉庫


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⑩同上


かつての商店街の名残があったり↓

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⑪運河を渡った向こう側の産業道路脇にあった靴屋さん(なんでこんな所に靴屋が?)


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⑫見晴トンネル入口交差点


で、見晴トンネル交差点の先から新山下3丁目となり、そこには金網の向こうにベイサイドコートがあり、さらに歩いて行くと、道路の向こう側に↓

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石川組の事務所があり、その先の小港橋を渡るとエリア1に至ります。

*写真は1981年撮影。



③④⑥は1丁目か2丁目のどこかです(笑)



*来月8月は山下町特集を順次UPします。

8月 3日:上町前編
8月10日:上町後編
8月17日:中華街
8月24日:山下町211番地ナゾの廃屋
8月31日:大さん橋通り

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by yokohama80s | 2014-07-27 00:04 | 本牧・小港・新山下 | Comments(3)
2014年 07月 20日

新山下 旧貯木場周辺

1934年(昭和6年)に横浜市土木局が発行した「横浜港」という書物によれば、「横浜港は外材特に米材の輸入を以て著名なる港であるが従来完全なる貯木場の設備なき為当業者が不便を感ずるのみでなく最も苦痛とする所であったので云々かんぬん」ということで、横浜市により起工昭和5年、竣工昭和8年、総工費120万円で造成されたもので、「この貯木場は水陸の連絡至便の位置にあるを以て東京への廻送、本船よりの荷役等極めて好都合である」と自画自賛するほどの出来映えだったようです。

まあ撮影当時の貯木場は、すでに開店休業状態で、ただの溜め池化していたかと記憶しています。

ということで今週は、製材所などを誘致するために旧貯木場を取り囲むように造成されたあたりの写真を↓

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①この倉庫は、リノベーションされて現在もオリエンタルフードだかシーフードだかのレストランとして利用されているようです。


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②その裏手にあったクレーン


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③こんな倉庫や・・・・・・


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④こんな倉庫があったり・・・・・・


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⑤貯木場といえば製材所


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⑥Y.C.Cの隣りの岡本造船のそのまた隣りの新港倉庫のサイロ


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⑦そのまた隣りの大洋漁業のタンクその1


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⑦大洋漁業のタンクその2


*写真はすべて1982年撮影。



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by yokohama80s | 2014-07-20 00:06 | 本牧・小港・新山下 | Comments(2)
2014年 07月 13日

新山下 はしけ溜まり

新山下のはしけ溜まりは、新山下橋(1979年竣工)を渡った先の堀川河口~新山下ランプ交差点間の道路下の岸壁部分にあったもので↓、

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*ちょうど画面左に写っているのが建設中の首都高の新山下ランプ。


もともとは、当時は現役バリバリだった旧貯木場を補完する為に設けられた貯木場なのですが、金沢木材埠頭が建設されたことと、原木輸入の減少により、いつの頃からか係船場所が無くなったはしけが放置されるようになり、80年代頃には貯木場というよりもただのはしけ溜まり・・・・・・というよりも、「はしけ捨て場」と呼んだ方がふさわしい状態になっていました。

ということで、余計な能書きはここまでとして写真の方をド~ンということで↓

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*いったい何にどう使うのか不明な巨大鉤爪


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*はしけ その1


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*はしけ その2


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*はしけ その3


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*作業台船 その1


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*作業台船 その2


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*作業台船 その3


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*作業台船 その4


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*フジツボなどの貝類が付着して白くザラザラになったはしけ


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*はしけ その3


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*はしけ その4


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*使用意図および使用方法が不明の錘・・・・・・だと思います。


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*杭打ち船の一種だと思います。


当時、この場所に繋がれていたはしけの大部分が、すでに役目を終えたもので、現役バリバリのはしけは、堀川河口の対岸、山下埠頭側に整然と繋がれていました↓。

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*写真はすべて1982年撮影。




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by yokohama80s | 2014-07-13 00:03 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2014年 07月 06日

新山下ヨットハーバー

山下公園からテクテクテクテク本牧方向に歩いて山下橋交差点で左に折れて、そのすぐ先の山下埠頭入口交差点で右に折れて、首都高高架の下に潜り込むような形で昇って行く新山下橋を渡り・・・・・・(中略)・・・・・・とにもかくにも新山下の旧木場を右に見ながら・・・・・・(中略)・・・・・・とにもかくにも新山下のドン詰まりの大小さまざまなヨットが繋がれたヨットハーバーにたどり着きます。

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*1982年撮影


今やテレビのロケとかなんやらかんやらで横浜の名所となっていますが、80年頃には「そんな所にヨットハーバーなんかあるの?」という感じでした。

ということで、例によってあれやこれや調べてみると、ヨットハーバーの正式名称は「横浜クルージングクラブ」というそうで、その起源は1893年(明治26年)に小港町1丁目で英国人がヨットクラブを開設した時まで遡るのだそうです。

で1934年(昭和9年)に、1940年(昭和15年)開催予定だった東京オリンピックのヨット競技会場として、現在の本牧大黒臨港道路・新山下3丁目の本牧埠頭A-1バース突堤付け根というか、R357ベイブリッジ下道というか、運送会社のシャーシプールがあるあたりに建設されたヨットハーバーに移転(このあたりの経緯については、横浜市史資料室情報誌「市史通信」18号に詳しく出ていますのでそちらをご参照下さい)。

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*昭和39年版横浜市三千分一地形図より


戦前戦後を通じて、近くに大学のヨット部合宿所が作られたり、はたまた戦時中は外国人女性の収容所(男性は根岸競馬場に収容された)となったり、本牧埠頭埋め立てに伴って山下埠頭対岸の堀川河口の貯木場内の現在地に再移転したりと、時代に翻弄されつつも現在まで生き残ってきた由緒あるヨットハーバー・・・・・・だそうです。

でどうやらY.C.Cこと横浜クルージングクラブが発足したのが1979年(昭和52年)とのことですので、それ以前の名称は、どこを見ても「ヨットハーバー」としか出ていないので、もしかしたらそれが正式名称なのかもしれません。

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*1982年撮影(掘っ立て小屋にソファーが置いてあるだけなのにある種の貴賓さを感じてしまうのは私だけ?)


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*1982年撮影(うち捨てられた木造ヨット・・・・・・それともレストア用?)


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*1984年撮影


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*1984年撮影


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*1984年撮影(上の2枚の写真、「もしや?」と思って合成してみたら見事に繋がっちゃいました^^)









           
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by yokohama80s | 2014-07-06 00:06 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2014年 02月 23日

首都高速湾岸線 本牧JCT付近

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*①新山下2丁目 現・新山下ランプのあたり


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*②新山下3丁目 現・見晴橋交差点付近


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*③新山下3丁目 現・鴎橋交差点付近


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*④鴎橋交差点から約60m地点


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*⑤新山下3丁目 本牧埠頭A突堤基部付近


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*⑥新山下3丁目 本牧埠頭A突堤基部付近


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*⑦新山下3丁目 本牧埠頭A突堤基部付近


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*⑧新山下3丁目 本牧埠頭A突堤基部付近


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*⑨新山下3丁目 本牧埠頭A突堤基部付近



まあこれらの写真に関しては、特に説明する必要はないかと思いますが、いちおうタイトルでは便宜上、湾岸線の本牧ジャンクションとしましたが、正確には「首都高速狩場線 新山下~本牧ジャンクション」ということになる・・・・・・ようです。

と言うのも、開通当時は、ラジオの交通情報や道路地図その他では、石川町JCTまでが横羽線、狩場線と湾岸線の分岐点が本牧JCTとなっていたような・・・・・・いやいや3路線が石川町JCTを境にしていたっけ・・・・・・というように、当時は石川町JCT~本牧JCTの区間は、横羽線だったり、狩場線だったり(石川町から先を狩場線という人は少なかったような気がします)、湾岸線だったりと、人によってマチマチだったと記憶しています。

というよりも、当時は、そういう細かいことを気にする人は居なかったかと(笑)

*写真はすべて1987年撮影




*3月のUP予定
3月 2日 : 新港埠頭 横浜海上保安本部専用桟橋
3月 9日 : 関内 本町通り
3月16日 : 本町四丁目39番地 三丸本町ビル
3月23日 : 山下町1番地 シルクセンタービル
3月30日 : 日本大通11 旧横浜商工奨励館

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by yokohama80s | 2014-02-23 00:03 | 本牧・小港・新山下 | Comments(0)
2014年 02月 02日

新山下1丁目 珈琲の店・みなと

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写真①


むかしむかし、1980年ごろの旧コンテナ街道(新山下橋が出来るまでの話)こと主要地方道・山下本牧磯子線の山下橋交差点の堀川を渡ったところ・・・・・・というか、現在のドンキ・・・・・・というか、当時はバンドホテルの道路を挟んだ反対側・・・・・・というか、海側(正確に言うと新山下運河)に写真の小さな喫茶店がありました。

この喫茶店は、なかなかの立地に恵まれていて、店内からの眺めが素晴らしかった、という記憶があります。

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写真②


ということで、ストリートビューで現在の姿を見てみると店はすでに無く、跡地は駐車場になっているようです。

「う~ん残念!」

喫茶店は無理でも、バーにでもすれば「素晴らしい夜景が見られる店」とかなんとか評判になったと思うのですが・・・・・・???

で、この喫茶店のあるあたりから小港方向を見ると↓

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写真③


バンドホテルとは道路を挟んで向かい側とは思えない光景が広がっています(今も、ですが)。

バンドホテルの向かいの狭い路地に釣り宿ビッシリ、というのは、なかなかどうしてシュールな光景ですが、この一角は、横浜開港に伴い現在の元町地区に強制移住を強いられた旧横浜村の人たちのうち、当時の堀川河口で漁業を営んでいた人たちが、大正初期に始まった新山下地区の埋め立て造成に伴い再移住して形成された、いわゆる生粋の旧横浜村村民が住む一角、ということになるようですが、かと言っても現在、この地にお住まいの方に"横浜村民"の末裔の方が如何ほどおいでになられるかは不明です(*^▽^*)

それはそれとして、バンドホテル側の歩道を歩いていると存在には気がつかないほど、ひっそりとたたずんでいるこの一角は、元町、山下町というバタ臭いヨコハマとは異空間の、ある意味で横浜本来の姿を今に伝えている場所なのではないでしょうか。

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写真④(港の見える丘公園から見た新山下1丁目。右手の薄っぺらなマンションから海沿い左側)


*写真はすべて1982年撮影。



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by yokohama80s | 2014-02-02 00:02 | 本牧・小港・新山下 | Comments(9)
2013年 11月 24日

小港町 A.Avenue

小港町の歴史その他もろもろの事は、中区史そのほかに出ていますので、興味のある方はご自分でググッって下さい、ということで以下省略(笑)。

とにもかくにも今日のタイトル、「A.Avenue」というのは、エリア1正面入口にあった案内板に山下橋から磯子に至る「横浜市主要地方道82号山下本牧磯子線」に該当する通りを「A.Ave」と表記していたので、それにならいました↓。

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*1982年撮影


ということで、先週のBAYSIDE COURTSを過ぎて小港橋を渡ったところの、現在でいうと小港橋交差点の山手警察署に向かって右側、現在の小港南公園あたりがちょうどエリア1の一番北側にあたり、そこにあったのが↓

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*①1981年撮影


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*②1982年撮影


L字型の木造校舎風の建物。

この一角に、同じような木造校舎風の建物がもう1棟あり、聞いた話では昔の米軍病院かなにかだったそうですが真偽のほどは定かではありません。

とにもかくにも撮影当時はご覧のように廃墟状態。

で通りの反対側の北方町側には、煙突が2本そびえ立つ金網で囲まれた巨大な工場風の建物がありました↓。

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*③1982年撮影(北方町側にあったプレハブ)


撮影当時は、てっきり米軍のゴミ焼却場だと思っていたのですが、後年になって海浜住宅地区一帯に暖房用蒸気を供給するためのボイラー施設と判明。

なにやら名称はBOILER HOUSE(ボイラーハウス)だったとか(「そのままやん」みたいな^^)。

そしてその先の道路を挟んで隣、小港町2丁目交差点の北方町側に現・モーリスガレージこと当時のモーリス商会↓があり、

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*④1982年撮影(写真右側のコンクリート塀がボイラーハウス)


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*④1981年撮影


さらに50mほど行ったところの、現在のイトーヨーカ堂の建物のど真ん中を貫くようにエリア1の中心部を横断する道路(たぶんこれがC.Aveだと思います)があり↓

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*⑤1981年撮影


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*⑤1981年撮影


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*⑤1982年撮影


さらに50mほど行ったところの北方町側に↓

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*⑥1982年撮影


知る人ぞ知る"Ricksha Room(リキシャルーム)"がありました。

今回、写真をシゲシゲ見ていて初めて気がついたのですが、リキシャルームの「リキ」って"Riki~"じゃなくて"Ric~"なんですね、まあ別にどうでもいい話なんですが(笑)

それはともかく撮影当時、ちょうどこの頃、「遅咲きの新人」などとして話題になっていた柳ジョージ(正確には"新人"では無いのですが)関連で、雑誌などでこの店の外観の写真はよく目にしていたので、反主流を旨とする私(?)は取り敢えずこのワンカットしか撮っていません(笑)

でここから山手警察署を左に見ながらさらに100mほど進むと、本牧通りとぶつかる山手警察署前交差点に到着し↓

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⑦1982年撮影(山手警察署前交差点のPX側にあった黄色い消火栓)


その突き当たりの向かって右手側、すなわち麦田方向にガソリンスタンド、左手側の間門方向にはPXがありました。






*12月のUP予告
12月 1日: 山下埠頭 KDD丸係留施設
12月 8日: 新港埠頭 三号岸壁の階段
12月15日: 新港埠頭 防衝工
12月22日: 山内埠頭 市場大橋
12月29日: 横浜ベイブリッジ 1984年8月~1988年2月

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by yokohama80s | 2013-11-24 00:04 | 本牧・小港・新山下 | Comments(2)
2013年 11月 17日

新山下3丁目 米軍新山下住宅地区

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*①1981年撮影(独身下士官用宿舎。写真右奥には見晴トンネルの入口が写っています)


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*②1982年撮影(閉鎖された正面ゲート)


もともと新山下一帯は、工業地帯を誘致することを目的にして、1915年(大正4年)から1941年(昭和16年)にかけて、それまでの海岸線だった山手のガケ下部分を埋め立てて造成された町なのですが、震災前までは釣り宿が数件あるだけで辺り一面には葦原と湿地が広がっていたんだそうな。

そして震災後に空き地だった新山下地区の山手のガケ下あたりに被災者を一時的に収容するための応急住宅が40戸建てられ、その後、新山下2丁目一帯に同潤会により戸建住宅280戸が建てられたそうです。

その後、戦時中に一番最後に造成が終了した新山下3丁目の小港町との境界付近の山側一帯に、兵器弾薬以外の雑多のモノが収納されていた海軍倉庫が作られ

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*③1981年撮影(現在、NTTのちょうど向い側にあった旧海軍倉庫のゲート)


終戦後は米軍により接収され通信大隊地区として使用されていましたが、1952年(昭和27年)に関内、伊勢佐木町などを接収解除する代わりに新山下、小港町の山側崖下に代替施設を建設することが決定。

そして新山下3丁目一帯に独身将校及び下士官用宿舎と、軍人、軍属とその家族の出入国時の一時宿泊所として鉄筋コンクリート4階建ての宿泊施設7棟、将校クラブ、図書館、医療施設その他10棟の計17棟、隣接する小港町側の旧海軍倉庫跡に陸軍エンジニアセクション(Yokohama U.S.Army Engineer)の兵舎を始めとした付属施設が作られ、これらの施設を総称して米軍新山下住宅地区こと"SHINYAMASHITA DH-AREA"はたまた"BAYSIDE COURTS"と呼ばれていました。

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*④1981年撮影(三角屋根のバラックはエンジニアリングセクションの宿舎や事務所として使われていたそうです)


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*⑤1981年撮影(BOILER HOUSEの裏)


そして1982年(昭和57年)に新山下住宅地区は日本に返還され、現在は跡地に市営とURのマンションが建てられています。




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by yokohama80s | 2013-11-17 00:06 | 本牧・小港・新山下 | Comments(2)