週刊 横濱80’s

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カテゴリ:山下町( 36 )


2012年 12月 23日

同潤会山下町アパート一号館

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*1981年撮影


さて、今週と来週は年末蔵出し総特価市(?)として、前回のプレビュー版に続き、同潤会山下町アパートの詳細バージョンを二回に分けてお送りします。

ということで、今回は二棟あった山下町アパートの西側にあった"ロ"の字型の方、新築時は1Fが店舗兼住居と世帯者用住宅で、2F、3Fが独身者向けアパートとして建てられた同潤会山下町アパート一号館。

ちなみに80年代当時の正式名称は、ただの「山下町アパート(アパートメントとの説もアリ)一号館」。

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*1982年撮影


上の写真は南側の三連アーチの入り口。

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*1981年撮影


もともとは三つとも中庭に通じていたはずなのですが、撮影時には左のアーチ部分に管理事務所が、右側には物置が作られていて真ん中だけが通り抜けすることができました。

ということで、真ん中のアーチをくぐって中庭に。

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*1981年撮影


ちょうど影になっていて良く見えませんが、画面左側にブランコと鉄棒がありました。

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*1982年撮影


上の階に行く階段がどこにあるのやら・・・・・・

ちなみに昭和初期の同潤会の事業報告書によると、山下町アパートには世帯住宅(新婚さんおよび家族用)として各部屋にコルクを下張りしたフローリング床に押入れ、鏡付き洗面台、下駄箱、帽子掛け、表札、暖房用ガス(暖房設備そのもではなくガスストーブ用のガス栓のことのようです)、水洗トイレ、流し、食器棚、調理台、かまど(今で言うガス台のこと)とダストシュートが完備されたキッチン付きの6畳+3畳の2Kから、8畳+4畳半+3畳の3DKまで全9タイプと(風呂については新築時の入居者が希望した場合についてのみ設置されたようです→山下町アパートがそうだったのかは定かではありません)、独身者住宅として共同の炊事場兼流し兼洗面台、トイレと入居者用食堂が完備された3畳~8畳までのワンルームが9タイプ(平たく言うとまんま学生寮とか会社の独身寮的なモノ)、さらに通りに面した一階部分には店舗付き住宅として土間(店舗スペース)+6~8畳一間の1Kから、6畳+4畳半の2Kまでの全4タイプの合計21タイプの部屋があり、昭和10年当時の家賃が世帯向けが一ヶ月12円10銭~21円(約6万~11万円弱)、独身者向けが6円50銭~13円50銭(約3万~7万円弱)、店舗兼住宅が23~45円(約12万弱~23万円弱)で、昭和2年に山下町アパートが新築された時の入居希望者が募集戸数148戸(山下町アパートは全158戸あった)に対して404件の申し込みがあり、一説によるとその後も常に空き部屋待ちの状態だったそうです。

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*1981年撮影(”ロ”の字と”コ”の字の間の部分から”ロ”の字館を見るの図)


戦前の資料などを見ると、初めにも書いたように一号館の2F、3Fは独身者向けのワンルームが連なっていたはずなのですが、窓に干された洗濯物を見ると、どう見てもワンルームには・・・・・・???

同潤会から経営を引き継いだ住宅営団が、終戦後に解散した時に、地元の不動産会社がまるごと買い上げて分譲したとの話を聞いたことがあるので、付加価値を上げるために独身者用ワンルームの壁をぶち抜いて世帯向けにリフォームして売りだしたのか、はたまた数部屋を買い上げた人がそうしたのか、それとも本来、共用スペースである廊下ごと数部屋買い上げてしまった(廊下の両側に部屋が並んでいた上に、要所要所に防火扉が設置されていた)人がいたのか実際のところはナゾです。

なにせ写真を見てもおわかりのように、現在の共同住宅という概念では考えられないくらいフリーダム状態ですから(笑)



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by yokohama80s | 2012-12-23 00:03 | 山下町 | Comments(0)
2012年 12月 16日

山下町25番地 旧インドクラブ

私は「横浜とインド」と言われて一番最初に連想するのは、その昔、横浜名店街にあったカレーハウス・リオなのですが(ちなみに私的にはジョイナス移転後のリオは同名他店だと理解しています)、実際、横浜とインドとのつながりは意外に深く、横浜が開港した時にイギリス人などと共にインド人商人たちも横浜にやって来て、1893年に日本郵船によりムンバイ航路が開設されるとさらに多くのインド人商人たちがやって来て主に絹織物の輸出を手がけていたのだそうです。

そしてインド人商人の増加を機に、横浜のインド人の商業上の利益保護を目的とし「横浜印度商協会」が設立され、この会の建物が震災前までは山下町275番地に設けられ、震災後に山下公園前の県民ホール、ニューグランドの一本裏の水町通りの1軒おいた左隣にインペリアルアパート、右隣には警友病院みなと寮がある山下町25番地1に移転。

その建物が↓

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「インド人クラブ」はたまた「インドクラブ」、「インディアンクラブ」と呼ばれたこの建物で、この建物と隣の旧警友病院みなと寮↓

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の裏手にテニスコートがあったそうです(ということがコチラに出ていますw)。

ということは、この建物と軒を接していた旧警友病院みなと寮も、元々はインドクラブ関連の建物だった、ということなのでしょうか?

そこでざっくりと調べてみると、昭和5年の地図にこの建物と思われる記載があることかや、保険代理店業務を行っていたスタントン商会がこの場所を所在地としていたことなどから推測すると、この建物は昭和5年までにスタントン商会によって建てられた……ということのようです(真相は不明ですが)。

などという近代建築マニア的な話よりも、私が興味を引かれたのが石積のバルコニー兼玄関部分です。

見れば見るほど、石積みの玄関兼バルコニー部分に「取ってつけた」感を感じるのは気のせいなのでしょうか?

確かに「これが東インド会社風だ」と言われればそういう気もしないでもないのですが、私としては、敢えてあと付け説を唱えたいと思います。

と言ってみたところで、すでにこの建物は取り壊されてマンションに建て替えられている今となっては、あまり意味の無い話ではありますが・・・・・・

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*石積玄関部分と母屋の接続部。なんかアヤシイ!


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*飾り部分は、光沢の具合からもしかして大理石でしょうか?


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*写真はすべて1981年撮影


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by yokohama80s | 2012-12-16 00:04 | 山下町 | Comments(2)
2012年 10月 14日

山下町24 互楽荘アパート

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*陽の当たり方から言うと写真左手方向が県民ホールかと・・・・・・


かつてちょうど県民ホールの裏手に、現在のワークピア横浜がある場所に互楽荘アパートという1932年(昭和7年)に建てられたコの字型の小洒落た三階建てのアパートがありました。

しかし当時は今のようにネットなどというものもなく、「震災復興の為に同じ山下町の中華街の裏手にあった同潤会アパートとほぼ同時代に建てられたアパート」などということを知るよしもありませんでした。

そのうえ水町通りという場所柄なのか、前述の同潤会アパートに比べるとなんとなく小洒落てて高級感が漂っているし、手入れも行き届いているし(この当時、公式非公式を問わず取り壊しが決まっている建物は人が居ようが居まいが関係なく荒れるに任せていた)、ということで、私的には今にでも取り壊されそうな同潤会アパートの方が優先順位が高く、互楽荘に関しては記録的なカット以外はまったく撮影していない、という体たらくぶり。

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「ちゃんと撮っておけば良かった」と、今さら後悔しても時すでに遅しというヤツですが・・・・・・

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*奥にチラッと見えるのが居住者用共同浴場の建物(本町通り側入口から)


それはそれとして、この互楽荘は、震災前に同所に支店を出していた東京の金巾(カネキン=敷布・肌着・シャツなどに用いられた薄地の平織り綿布のこと )問屋が1932年(昭和7年)に建てたもので、不動産広告風に言うと「6畳3畳~10畳8畳の2Kトイレ付き、中庭に居住者専用共同浴場完備、電話暖房光熱入浴費女中代その他コミコミで家賃は月45~75円(現在で言うと¥225,000~¥375,000。ちなみに同潤会山下町アパートの同じく二間の家賃は10~21円/月)」みたいな、当時としては「超」が付く高級賃貸アパート。

さらに従来の長屋的賃貸アパートとは違う近代アパートということをウリにする為に、「家主不在」、「居住者相互経営」などを売り文句にして、保証金を入会金、家賃を会費と称していたとか。

ただ家賃が家賃なので、当時ここに入居出来たのは、県庁などの部長さんクラスとか病院の院長さんだとかのセレブな方々だったそうです、というようなことがこちらに詳しく書かれています。

*写真はすべて1981年撮影。


*戦前戦中戦後を通じて互楽荘は山下町24番地に、ヘルムハウスは53番地に存在し、後にも先にも互楽荘がヘルムハウスと呼ばれたことはありません。
ちなみに米軍接収当時、互楽荘は「互楽荘ビレット」という名称の軍属宿舎として、ヘルムハウスは同じ名称で高級将校用宿舎(のちに婦人部隊宿舎として使用されていたとの説もあり)として使用されました。



*更新情報
2014年8月10日
本文に互楽荘の情報と、写真5枚、地図情報に互楽荘以外の建物の位置を追加しました。

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by yokohama80s | 2012-10-14 00:08 | 山下町 | Comments(0)
2012年 09月 30日

山下町224番地 花園橋病院別館

かつては下を大岡川が、現在は首都高の車が流れている花園橋を渡り、大桟橋通りの2ブロック目手前を右に入った所に写真の花園橋病院別館がありました。

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上の写真を見て「こんな病院ちょっといやだ」と思った方、ご安心下さい。

写真の建物はあくまでも花園橋病院別館で、この建物と通りを挟んで真向かいの旧ウインクレル商会の裏手にあたる所にちゃんとした病院がありました。

ということで今回、この記事を書くにあたり「その後、この病院はどうなったのかな?」と思いストリートビューを覗いてみると、本館、別館共に該当の場所にはマンションらしきビルが建っていて病院の影も形もありません。

そこで今度はググッてみると、なにやら花園橋病院は1998年にM&Aにより某病院チェーンに買収され、その後、2002年に伊勢佐木町近くの廃業した高層ホテルを改装し病院名を変更して移転したとのこと。

ということで現在、花園橋病院は跡形もなく消えてしまったワケですが、かつて病院があった場所の隣に建てられたビルに病院を買収した法人が開設した診療所がありますので、それがかつてここに病院があった名残ということになるようです。

さらに地元不動産会社団体のHPに、そこに加盟している某社の沿革に「昭和30年に花園橋病院を買収した」と出ているのと、Wikiの1960年(昭和35年)に発生した「横浜歌謡ショー将棋倒し事故」の欄に負傷者の搬入先として名前が挙がっているだけで、後にも先にも花園橋病院の名前は出てきません。

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そこで今度は「花園橋病院はいつからあったのか?」ということを調べてみると、横浜市三千分一地形図で見ると、昭和39年版の224番地の建物に「花園橋病院」との記載があるのですが、それ以前の地図には「花園橋病院」の記載はなく、変わりに該当地の該当の建物には昭和25年版には「横浜繊維製品検査場」、昭和7年版には「輸出絹織物検査場」との記述があります。

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ただ戦前と戦後(昭和39年=1964年)とでは建物の形状が違うので、国土地理院の地図空中写真検索サービスの空中写真で見比べてみると、一番古い1944年から1977年までの空中写真で同じ形状の建物を確認することができます。

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そうなると撮影当時、「花園橋病院別館」だった建物は戦前から存在することになるので、こんどは「輸出絹織物検査場」について調べてみると、1930年(昭和5年)刊行の帝都復興史なる書物に、「生糸検査場の付帯施設として輸出絹織物検査場を大正5年に北仲通6丁目に建設したが震災で全壊。その後、大正15年に山下町に新たに建設。初めは県営だったが1927年(昭和2年)に商工省の管轄となり国営となる」とあります。

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また昭和5年度版「横浜商工名鑑」には山下町224番地に横浜輸出絹織物検査所の記載があることから、これらを総合すると写真を撮影した当時に「花園橋病院別館」だった建物は、1926年(大正15年)に神奈川県営の輸出絹織物検査場として建てられ、その後、1927年(昭和2年)に国営化されて商工省輸出絹織物検査場となり、昭和30年前後に建物が民間に払い下げられて花園橋病院に。

その後、1970年頃に花園橋病院は別館向かい側に建てられた新館に移転し、旧輸出絹織物検査場の建物は、どのような経緯かは不明ですが「片岡ビル」という賃貸ビルとなったものの、これらの写真を撮影した1980年頃には「片倉ビル」から花園橋病院別館となり病院の車庫兼倉庫として使われたものの、1981年~1982年に建物は取り壊され、現在、同地に建っているマンションの建設が始まり現在に至る、ということになるようです。

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*ビル正面の右端に、写真のような煙突があるちょっと不思議な建物でした。


*写真は三枚とも1981年撮影


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by yokohama80s | 2012-09-30 00:02 | 山下町 | Comments(2)
2012年 08月 26日

山下町 下町あたり

「山下町」と言った時に、多くの人がイメージするのは山下公園だと思いますが、実は意外に広い町で、西を走る大桟橋通りと首都高、南は元町との境の堀川に囲まれた一帯になります。

実はこのあたりが、開港当時の外国人居留地にあたり、今で言うと本町通りあたりを境に海側を上町と言って西洋人が多く居住し商社、商店が軒を並べ、中華街側は下町と言って主に清国人が多く住んでいて後に中華街が形成されました。

そして終戦後から1960年(昭和35年)まで、上町あたりが米軍に接収され、接収解除後の再整備が遅れたこおかげで、このあたり一帯には震災後に再建された海外商社のビルや倉庫が80年代頃には数多く残っていました。

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*1981年(山下町215近辺の中華料理屋の裏)


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*1981年(山下町212近辺の倉庫の壁に残されていた米軍接収時代の名残)


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*1982年(山下町95・旧外国人商社でこの時には某有名中華料理屋さんのお菓子工場だったかと・・・・・・)


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*1981年(山下町211・中華料理店の駐車場に建っていた廃屋)


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*1981年(山下町25近辺のタクシー会社の壁に干されていた料金収納袋)


山下町にあった、互楽荘アパート、同潤会アパートなどの集合住宅や、警友病院、シェル石油ビル、デスコビル、ストロングビルなどの戦前の海外商社ビルのすべてが今は無く、高層マンションなどに建て替えられてしまいました。


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by yokohama80s | 2012-08-26 00:07 | 山下町 | Comments(0)
2012年 04月 29日

山下町168 同潤会山下町アパート

同潤会アパートと言うと、今で言うURの走りのような団体が関東大震災の復興支援の一環として主に東京、横浜に建てた、当時としては超モダンなアパート群のこと。

当時の私のつたない知識では、80年代頃にはその大部分が取り壊されて、表参道、代官山や上野近辺という、東京都内にだけしか残っていないものと思っていました。

ところが中華街あたりから、地図も持たずに行き当たりばったりに適当に歩いていたところ、目の前にザラザラコンクリートにアーチをふんだんにあしらい、中庭があるコの字型とロの字型の古めかしい蔦がびっしりからまった焦げ茶色のいかにも年季が入ったアパートが......。

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*1982年撮影


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*1981年撮影


「同潤会アパートのようなヤツが横浜にもあったんだ」と、呑気に撮影し家に帰ってから地図を見てみたら、なんと同潤会アパートそのものでした(笑

でいろいろ調べてみたら、横浜市内には山下町の他にも、この頃には米軍のベイサイドコートの北側で今は市営住宅がある新山下2丁目あたりに新山下町アパート(鉄筋コンクリートの集合住宅ではなく文化住宅の集合体だった)が、平沼一丁目のスイミングセンター(この当時にはスイミングセンターはここではなくて旧スカイビル横にあった→子供時分に私も通っていました)の隣(地図で見ると左上、方角でいうと北西)のマンションがあるあたりに平沼町アパートなどがあったようで、80年代に横浜市内に現存していた同潤会アパートは山下町と平沼町の二カ所だけでした。

余談ではありますが、これらの同潤会アパートは建設当時は賃貸で、戦時中に今のURの前身でもある住宅営団に管理が引き継がれ、終戦後に営団が解散すると横浜市に、そしてさらにその後、居住者に払い下げられたのだそうです。

そのような経緯があった為なのか、居住者が自分が住む部屋に思い思いに手を加えた結果

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*すべて1981年撮影 


この一種独特な雰囲気が醸し出されているという次第。

しかし1981年当時、すでに大部分の部屋が空き屋となっていて、その後ほどなくして取り壊されて小洒落た高層マンションに立て替えられてしまいました。     

*同潤会山下町アパートにご興味のある方は同潤会山下町アパート一号館同潤会山下町アパート二号館もあわせてどうぞ。
   


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by yokohama80s | 2012-04-29 00:10 | 山下町 | Comments(0)