週刊 横濱80’s

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カテゴリ:山下町( 34 )


2012年 10月 14日

山下町24 互楽荘アパート

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*陽の当たり方から言うと写真左手方向が県民ホールかと・・・・・・


かつてちょうど県民ホールの裏手に、現在のワークピア横浜がある場所に互楽荘アパートという1932年(昭和7年)に建てられたコの字型の小洒落た三階建てのアパートがありました。

しかし当時は今のようにネットなどというものもなく、「震災復興の為に同じ山下町の中華街の裏手にあった同潤会アパートとほぼ同時代に建てられたアパート」などということを知るよしもありませんでした。

そのうえ水町通りという場所柄なのか、前述の同潤会アパートに比べるとなんとなく小洒落てて高級感が漂っているし、手入れも行き届いているし(この当時、公式非公式を問わず取り壊しが決まっている建物は人が居ようが居まいが関係なく荒れるに任せていた)、ということで、私的には今にでも取り壊されそうな同潤会アパートの方が優先順位が高く、互楽荘に関しては記録的なカット以外はまったく撮影していない、という体たらくぶり。

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「ちゃんと撮っておけば良かった」と、今さら後悔しても時すでに遅しというヤツですが・・・・・・

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*奥にチラッと見えるのが居住者用共同浴場の建物(本町通り側入口から)


それはそれとして、この互楽荘は、震災前に同所に支店を出していた東京の金巾(カネキン=敷布・肌着・シャツなどに用いられた薄地の平織り綿布のこと )問屋が1932年(昭和7年)に建てたもので、不動産広告風に言うと「6畳3畳~10畳8畳の2Kトイレ付き、中庭に居住者専用共同浴場完備、電話暖房光熱入浴費女中代その他コミコミで家賃は月45~75円(現在で言うと¥225,000~¥375,000。ちなみに同潤会山下町アパートの同じく二間の家賃は10~21円/月)」みたいな、当時としては「超」が付く高級賃貸アパート。

さらに従来の長屋的賃貸アパートとは違う近代アパートということをウリにする為に、「家主不在」、「居住者相互経営」などを売り文句にして、保証金を入会金、家賃を会費と称していたとか。

ただ家賃が家賃なので、当時ここに入居出来たのは、県庁などの部長さんクラスとか病院の院長さんだとかのセレブな方々だったそうです、というようなことがこちらに詳しく書かれています。

*写真はすべて1981年撮影。


*戦前戦中戦後を通じて互楽荘は山下町24番地に、ヘルムハウスは53番地に存在し、後にも先にも互楽荘がヘルムハウスと呼ばれたことはありません。
ちなみに米軍接収当時、互楽荘は「互楽荘ビレット」という名称の軍属宿舎として、ヘルムハウスは同じ名称で高級将校用宿舎(のちに婦人部隊宿舎として使用されていたとの説もあり)として使用されました。



*更新情報
2014年8月10日
本文に互楽荘の情報と、写真5枚、地図情報に互楽荘以外の建物の位置を追加しました。

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by yokohama80s | 2012-10-14 00:08 | 山下町 | Comments(0)
2012年 09月 30日

山下町224番地 花園橋病院別館

かつては下を大岡川が、現在は首都高の車が流れている花園橋を渡り、大桟橋通りの2ブロック目手前を右に入った所に写真の花園橋病院別館がありました。

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上の写真を見て「こんな病院ちょっといやだ」と思った方、ご安心下さい。

写真の建物はあくまでも花園橋病院別館で、この建物と通りを挟んで真向かいの旧ウインクレル商会の裏手にあたる所にちゃんとした病院がありました。

ということで今回、この記事を書くにあたり「その後、この病院はどうなったのかな?」と思いストリートビューを覗いてみると、本館、別館共に該当の場所にはマンションらしきビルが建っていて病院の影も形もありません。

そこで今度はググッてみると、なにやら花園橋病院は1998年にM&Aにより某病院チェーンに買収され、その後、2002年に伊勢佐木町近くの廃業した高層ホテルを改装し病院名を変更して移転したとのこと。

ということで現在、花園橋病院は跡形もなく消えてしまったワケですが、かつて病院があった場所の隣に建てられたビルに病院を買収した法人が開設した診療所がありますので、それがかつてここに病院があった名残ということになるようです。

さらに地元不動産会社団体のHPに、そこに加盟している某社の沿革に「昭和30年に花園橋病院を買収した」と出ているのと、Wikiの1960年(昭和35年)に発生した「横浜歌謡ショー将棋倒し事故」の欄に負傷者の搬入先として名前が挙がっているだけで、後にも先にも花園橋病院の名前は出てきません。

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そこで今度は「花園橋病院はいつからあったのか?」ということを調べてみると、横浜市三千分一地形図で見ると、昭和39年版の224番地の建物に「花園橋病院」との記載があるのですが、それ以前の地図には「花園橋病院」の記載はなく、変わりに該当地の該当の建物には昭和25年版には「横浜繊維製品検査場」、昭和7年版には「輸出絹織物検査場」との記述があります。

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ただ戦前と戦後(昭和39年=1964年)とでは建物の形状が違うので、国土地理院の地図空中写真検索サービスの空中写真で見比べてみると、一番古い1944年から1977年までの空中写真で同じ形状の建物を確認することができます。

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そうなると撮影当時、「花園橋病院別館」だった建物は戦前から存在することになるので、こんどは「輸出絹織物検査場」について調べてみると、1930年(昭和5年)刊行の帝都復興史なる書物に、「生糸検査場の付帯施設として輸出絹織物検査場を大正5年に北仲通6丁目に建設したが震災で全壊。その後、大正15年に山下町に新たに建設。初めは県営だったが1927年(昭和2年)に商工省の管轄となり国営となる」とあります。

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また昭和5年度版「横浜商工名鑑」には山下町224番地に横浜輸出絹織物検査所の記載があることから、これらを総合すると写真を撮影した当時に「花園橋病院別館」だった建物は、1926年(大正15年)に神奈川県営の輸出絹織物検査場として建てられ、その後、1927年(昭和2年)に国営化されて商工省輸出絹織物検査場となり、昭和30年前後に建物が民間に払い下げられて花園橋病院に。

その後、1970年頃に花園橋病院は別館向かい側に建てられた新館に移転し、旧輸出絹織物検査場の建物は、どのような経緯かは不明ですが「片岡ビル」という賃貸ビルとなったものの、これらの写真を撮影した1980年頃には「片倉ビル」から花園橋病院別館となり病院の車庫兼倉庫として使われたものの、1981年~1982年に建物は取り壊され、現在、同地に建っているマンションの建設が始まり現在に至る、ということになるようです。

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*ビル正面の右端に、写真のような煙突があるちょっと不思議な建物でした。


*写真は三枚とも1981年撮影


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by yokohama80s | 2012-09-30 00:02 | 山下町 | Comments(2)
2012年 08月 26日

山下町 下町あたり

「山下町」と言った時に、多くの人がイメージするのは山下公園だと思いますが、実は意外に広い町で、西を走る大桟橋通りと首都高、南は元町との境の堀川に囲まれた一帯になります。

実はこのあたりが、開港当時の外国人居留地にあたり、今で言うと本町通りあたりを境に海側を上町と言って西洋人が多く居住し商社、商店が軒を並べ、中華街側は下町と言って主に清国人が多く住んでいて後に中華街が形成されました。

そして終戦後から1960年(昭和35年)まで、上町あたりが米軍に接収され、接収解除後の再整備が遅れたこおかげで、このあたり一帯には震災後に再建された海外商社のビルや倉庫が80年代頃には数多く残っていました。

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*1981年(山下町215近辺の中華料理屋の裏)


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*1981年(山下町212近辺の倉庫の壁に残されていた米軍接収時代の名残)


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*1982年(山下町95・旧外国人商社でこの時には某有名中華料理屋さんのお菓子工場だったかと・・・・・・)


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*1981年(山下町211・中華料理店の駐車場に建っていた廃屋)


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*1981年(山下町25近辺のタクシー会社の壁に干されていた料金収納袋)


山下町にあった、互楽荘アパート、同潤会アパートなどの集合住宅や、警友病院、シェル石油ビル、デスコビル、ストロングビルなどの戦前の海外商社ビルのすべてが今は無く、高層マンションなどに建て替えられてしまいました。


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by yokohama80s | 2012-08-26 00:07 | 山下町 | Comments(0)
2012年 04月 29日

山下町168 同潤会山下町アパート

同潤会アパートと言うと、今で言うURの走りのような団体が関東大震災の復興支援の一環として主に東京、横浜に建てた、当時としては超モダンなアパート群のこと。

当時の私のつたない知識では、80年代頃にはその大部分が取り壊されて、表参道、代官山や上野近辺という、東京都内にだけしか残っていないものと思っていました。

ところが中華街あたりから、地図も持たずに行き当たりばったりに適当に歩いていたところ、目の前にザラザラコンクリートにアーチをふんだんにあしらい、中庭があるコの字型とロの字型の古めかしい蔦がびっしりからまった焦げ茶色のいかにも年季が入ったアパートが......。

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*1982年撮影


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*1981年撮影


「同潤会アパートのようなヤツが横浜にもあったんだ」と、呑気に撮影し家に帰ってから地図を見てみたら、なんと同潤会アパートそのものでした(笑

でいろいろ調べてみたら、横浜市内には山下町の他にも、この頃には米軍のベイサイドコートの北側で今は市営住宅がある新山下2丁目あたりに新山下町アパート(鉄筋コンクリートの集合住宅ではなく文化住宅の集合体だった)が、平沼一丁目のスイミングセンター(この当時にはスイミングセンターはここではなくて旧スカイビル横にあった→子供時分に私も通っていました)の隣(地図で見ると左上、方角でいうと北西)のマンションがあるあたりに平沼町アパートなどがあったようで、80年代に横浜市内に現存していた同潤会アパートは山下町と平沼町の二カ所だけでした。

余談ではありますが、これらの同潤会アパートは建設当時は賃貸で、戦時中に今のURの前身でもある住宅営団に管理が引き継がれ、終戦後に営団が解散すると横浜市に、そしてさらにその後、居住者に払い下げられたのだそうです。

そのような経緯があった為なのか、居住者が自分が住む部屋に思い思いに手を加えた結果

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*すべて1981年撮影 


この一種独特な雰囲気が醸し出されているという次第。

しかし1981年当時、すでに大部分の部屋が空き屋となっていて、その後ほどなくして取り壊されて小洒落た高層マンションに立て替えられてしまいました。     

*同潤会山下町アパートにご興味のある方は同潤会山下町アパート一号館同潤会山下町アパート二号館もあわせてどうぞ。
   


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by yokohama80s | 2012-04-29 00:10 | 山下町 | Comments(0)