カテゴリ:山下町( 34 )


2014年 08月 10日

山下町・上町後編

横浜中華街公式HPエリアマップによると現在、中華街には命名された通りが全部で19あるそうで、今週は山下町特集第二弾として、その昔に本村通りと呼ばれていた、現在の開港道から南門シルクロードあたりの中華街19通りのうちの5つの通りを。

ということでまず最初は、本町通りの一本裏手からローズホテル(撮影当時はホリデーインと言っていたような?)に突き当たる所までの、その昔、この界隈に生糸商社が軒を連ねていたことから名付けられたシルク通りの、大さん橋通りの角地である89番地にあったのがシーベルヘグナー商会↓。

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①89番地・シーベルヘグナー商会生糸倉庫・・・と思われるカベ


と胸を張って言い切りたいところなのですが、実はこの壁の写真は最近までどこで撮影したのかが分かりませんでした。

「引きの絵も撮っておけよ」という話なのですが、なにぶんこの写真の撮影時はまだ修行中だったものでして・・・・・・。

ということで、コンタクトプリントを見ると、この壁の前に写っているのが中消防署 日本大通出張所で、上の写真があり、その次が旧露亜銀行こと警友病院別館。

そうなると中消防署日本大通出張所から旧露亜銀行へ行くまでの間に、写真の分厚い鉄筋コンクリートの壁の建物があったことになるワケなのですが、どうやらそれに該当するのが1925年(T14)にかのアントニン・レイモンド設計によって建てられたシーベルヘグナー商会生糸倉庫。

さらにあれやこれやと写真を分析してみると、どうやら写真の壁は大さん橋通り側南西角(横浜公園側)の壁で、壁に書かれている駐車禁止のサインは、占領時代に倉庫の隣りにあったJ.H.モーガン設計によって建てられた事務所棟ともども憲兵隊司令部として使用されていた時の名残・・・・・・だと思われるのですが???

でどうやらこの生糸倉庫を含めたシーベルヘグナー商会の建物・・・・・・というか、89番地の区画一帯は、再開発の為に1981年~82にかけて更地にされ、1986年に現在、某化粧品会社の本社ビルとなっているシーベルヘグナービルが建てられ番地が89番地から90番地に変更されたとのことなので、そうなると再撮影しようと思っていくらこのあたウロウロしても見つからなかったことなど、あれやこれやの辻褄が合うということに。

ということで、シルク通りを先に進むと右手に見えてくるのが、あまりの手入れの良さから撮影当時は、「どうせ戦後に建てられた"なんちゃって戦前建築"だろう」と高をくくっていたら、のちに正真正銘の由緒正しき(?)戦前建築ビルだったことが判明した75番地の大沢工業ビルことユニオンビル↓。

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②75番地・大沢工業ビル(旧ユニオンビル)のシルク通り側入口
  
 
もともとこのビルは、1928年(昭和3年)に保険会社のユニオン・インシュランス・ソサエテイ・オブ・カントン・リミテッドの横浜支社ビルとして建てられ、終戦後にニューヨーク銀行→大沢工業と家主が変わり、現在は高層マンションに建て替えられてしまっています。

でこのビルとシルク通りを挟んで向かいの95番地にあったのが・・・・・・というか、今もあるのが同撥菓子工場↓。

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③95番地・同撥菓子工場
 

この建物は現存している為に、あちらこちらのサイトで「ナゾの建物」として取り上げられていますが、1930年(昭和5年)に横浜市商工会議所が発行した横浜商工名鑑によると該当住所には、生糸、絹製品、綿製品などの輸出を行っていた"ナブホルツ商会"と記載されていることから、どうやらこの建物はこの会社の倉庫だったようです。

そして大戦後、1952年頃(昭和27年)に、横浜市によりインド系商社の復帰策が講じられ74番地、95番地(同撥菓子工場の前の現在駐車場になっている場所)、106番地と先週UPした水町通り25番地の海岸教会通り側に店舗兼住宅が建設されたとのことと、建物の壁に複数の企業名が書かれていたことなどから、この倉庫は戦後もインド系商社の共同倉庫として使われ、その後、同撥の菓子工場となった、ということのようです。

記憶が定かではありませんが、撮影時の1981年にはすでに菓子工場となっていたような・・・・・・。

ということで、シルク通りはここで丁字路になっていて、左に行くと本町通り、右に行くと開港道となりますが、文脈の都合上(私の都合でもありますが)、本町通りの横浜天主堂跡交差点~南門シルクロードの天長門までの蘇州小路の82番地にあったのが横浜華僑基督教会↓。

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④82番地・横浜華僑基督教会


極彩色に彩られた、ハデハデな印象の中華街に不似合いなほど地味で瀟洒な教会ですが、現在は今風の建物に建て替えられてしまっているようです。

でこの教会の右手の道、本町通りより一本裏手の堀川通りまでの通りには中華街風の名前が付けられていませんが、昔の長崎町通りの86番地、現在でいうとエスカル横浜の裏側にあったのが、 悲劇の、というかあえて不屈と呼びたくなる米倉商店↓。

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⑤86番地・米倉商店


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⑤86番地・米倉商店
      

と言うのも、この米倉商店は、1877年(明治10)年に元町で創業し欧米向けに雑貨、特に竹製行李やバスケットの輸出で財をなし、創業者の女社長さんは「横浜貿易界の女傑」と言われたほどの有名人だったんだとか。

そして山下町86番地の永代借地を外国人から買い取り、本町通り側に石積み洋館風の2階建て店舗ビルを建て、その隣りに建てた石積み2階建ての自宅棟の完成披露を執り行ったのが震災の二日前。
そして震災により、完成したばかりの立派な石積みの店舗と住宅はあっけなく全壊焼失。

その後、同地に再建を果たすも今度は大戦による空襲で焼失するものの戦後、三度目の復活を遂げ2000年代までこの場所で営業を続けていたそうです。

ちなみに上の写真の建物は、86番地の中華街側に接収解除後に建てられたもので、本町通り側は確か駐車場だったような・・・・・・?

でこの米倉商会ビルの向かいの100番地一帯には、中華街には不似合いな山手あたりにあるような邸宅が↓。

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⑥100番地の豪邸脇にあった車庫
      

ということで、この先で通りが堀川通りにぶつかるので再び大さん橋通りに戻って、日本大通り入口交差点~加賀町警察署北交差点~山下町交番の四叉路までの、震災前までは「本村通り」と呼ばれかつて居留地のメインストリートでもあった開港道へ。 
           
大ざっぱに言うと、この通りより海側が震災前には外国商社などの洋館が建ち並んでいたどちらかというと高級ビジネス街、内陸側、すなわち現在の中華街のあたりが清国人や日本人、山手に住めるほど裕福ではなかったり(?)、船大工などの職人系の欧米人の工房とか住居があったダウンタウン地区だったそうです。

ということで、先ほどの同撥菓子工場とローズホテル(撮影当時はホリデーイン)の間の道と北京小路との三叉路(だいぶ変形した三叉路になりますが^^)の中華街側164番地にあったのが留日広東会館↓。

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⑦164番地・留日広東会館


現在、この会館は、かつて南海洋行があった太平道の118番地に移転しています。

でローズホテル脇を通り過ぎて開港道をテクテク行くと、山下町交番前の中華街のヘソこと開港道と中華大通りと南門シルクロードとの四つ辻に出るので、そのまま朱雀門方向に向かう旧本村通りこと南門シルクロードを行くと↓

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⑧185番地・チャイハネ(撮影当時の店名はわかりません)


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⑨187番地・泉屋袋物店
    

撮影当時の80年代前半は、このような商店やフツーの住宅などが軒を並べていましたが、居留地時代はこのあたりには契約期間が切れたり、はたまた船から逃げ出したり、酔いつぶれて置き去りにされたマドロスこと下級船員たちや、東アジアを流れ流れて横浜にたどり着いたアウトローと言うかデスペラード相手の安宿や酒場(当時は"サロン"とも"あいまい屋"とも"チャブ屋"とも言った)が軒を並べ、その隙間に中国人の大工、ペンキ屋、家具職人などの住居があったそうな。

などという話はさて置くとして、そうこうするうちに106番地のY字路に到着↓。

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106番地・森元歯科医院
    

居留地時代の古い地図を見ると本来、106番地の手前に110番地がありY字路だったのですが、いつの頃かY字路拡張に伴って110番地は消滅してしまったようです、などという話も置いておいて、現在、写真左手の通りが媽祖小路、右手が南門シルクロードとなっていますが、撮影当時は写真左手が南門通りで右手が・・・・・・なんと呼ばれていたのか記憶にございませんが、南門は現在と同じく右手の道の先にありました。

さてここて注目して頂きたいのが、左側の通りと右側の通りの高低差。
左の方が明らかに土地が高く、こちら側が旧横浜村の陸地にあたり、右側の低くなっている方が開港より遡ること62年前に横浜村の住民自らの手によって入江を埋め立てた横浜新田で、このわずかな高低差が上町すなわち欧米人地区と、下町すなわち清国人地区に分けられた理由とされています。

ということで、もともと陸地側だった媽祖小路を堀川通り方向にズイズイ進むと、撮影当時は住宅と住民相手の商店が建ち並んでいました↓。

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⑪104番地・ともの(歩道を見ると南門シルクロードのような???)
 

ということで、来週は残りの中華街の通りをザックリとお送りします。   
 
 
*写真はすべて1981年撮影。




*お断り:番地は撮影当時のメモ書きを元にしていますので該当する建物の実際の所在地と異なっている場合があります。



*2016/03/13:山下町95番地の同撥菓子工場に関する記述を訂正しました。
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by yokohama80s | 2014-08-10 00:07 | 山下町 | Comments(0)
2014年 08月 03日

山下町・上町前編

山下町というのは考えてみれば面白い町で、現在の中華街の開港道から南門シルクロードを境に、そこから海側が上町(ウエマチ)、内陸部がもともと入江だったところを地元住民により開港の62年前に埋め立てた横浜新田で下町と呼ばれていました(常識的には逆ですよね)。

ということで、本町通りから中華街方向を見ると、かすかに下っていて、さらに街路が周りの地区に対して約45度ほど傾いていることから、GPSなどが無い時代には、なんの予備知識も無く、さらに地図も持たずに中華街をウロウロすると、どんなに方向感覚に自信があっても必ず道に迷うという一因になっています。

という話は置いておいて、もっと細かく見ると居留地時代には、本町通りの朝陽門をわずかに中華街側に入った80番地、今で言うとChina Town 80前で開港道、中華大通り、南門シルクロードに分岐する所に立った時に(あくまでも仮定ですので、決して交差点の真ん中で立ち止まらないように)西側、山下公園側に大手海外商社や銀行などが建ち並び、東側には店舗や小規模の商社などが入居する雑居ビル、中華街、そして大さん橋通り側の現在のシルク通り周辺には生糸商社が軒を並べ、80番地より南側の本町通り側から関帝廟通りには船員相手の安酒場やら安宿が密集し、その隙間に中国人の服飾、理容、大工、家具などの職人たちの店や住居があり、堀川通り沿いには造船所や鉄工所、石炭蔵が並び、横浜公園裏手から堀川に挟まれるあたり、今で言うと堀川通りから大さん橋通りと、高校とか中学校のある辺りから福建路、海河道の新居留地には外国商社の倉庫が建ち並んでいたそうです。

ということで、今月は5回に分けて山下町特集をお送りするにあたり便宜上、山下町を①本町通りより海側の商業中枢地区、②旧本村通り(現在の開港道と南門シルクロード)沿いのダウンタウン、③中華街、④福建路、⑤新居留地の五つに分けお送りします。

そんなこんなで今週は、かつての上町地区でも山下公園側から山下町1番地~69番地までの本町通りより海側を、と言っても、現在は区画整理やら大規模開発とやらで番地はグチャグチャになっていますが、80年代頃は、この辺りに限って言えばほぼ居留地時代の番地と一致していました。

ということで↓

まず山下町1番地はすでにUP済みなので割愛して、80年代に入ったころにはすでに山下公園通りには10番地のニューグランドホテルくらいしか”らしい”面影的なモノはありませんでした↓。

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①10番地・ホテルニューグランド


と言っても、この建物は1927年(昭和2年)築で、震災前に20番地にあり横浜のランドマーク的存在だったグランドホテルにあやかってニューグランドと命名されたんだとか。

で山下町の海岸通り沿いは20番地で堀川にぶつかって、再び大さん橋通りに戻って21番地から公園通りの一本裏の水町通りになります。

なにやらこの通りには、道路下に水道管が埋められていたから、"Water Street"こと水町通りなんだとか。

という話はひとまず置いておいて、大さん橋通りから水町通りを堀川に向かって歩いて行くと、ちょうど県民ホールの裏手にあたる24番地のカドにあったのが、1932年(昭和7年)に建てられ、不動産広告風に言うと「6畳3畳~10畳8畳の2Kトイレ付き、中庭に居住者専用共同浴場完備、電話暖房光熱入浴費女中代その他コミコミで家賃は月45~75円(現在で言うと¥225,000~¥375,000。ちなみに同潤会山下町アパートの同じく二間の家賃は10~21円/月)」みたいな、当時としては「超」が付く高級賃貸アパートだった互楽荘

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②24番地・互楽荘アパート(この写真は海岸教会通りから県民ホール方向を見るの図です)


なにやらこのアパートは、震災前に同所に支店を出していた東京の金巾(カネキン=敷布・肌着・シャツなどに用いられた薄地の平織り綿布のこと )問屋が建てたもので、従来の長屋的賃貸アパートとは違う近代アパートということをウリにする為に、「家主不在」、「居住者相互経営」などを売り文句にして、保証金を入会金、家賃を会費と称していたとか。

ただ家賃が家賃なので、当時ここに入居出来たのは、県庁などの部長さんクラスとか病院の院長さんだとかのセレブな方々だったそうです、というようなことがこちらに詳しく書かれています。

でその隣りの24番地にあったのが警友病院みなと寮↓。

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③24番地・警友病院みなと寮


とその隣の同じく24番地のインドクラブこと、1933年(昭和8年)に建てられた旧ダンハムビルこと撮影当時は輸入雑貨店・赤い靴↓。

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④24番地・インドクラブ


このふたつの建物の裏手、海岸教会通り側にインドクラブのテニスコートがあったことや、昔の写真を見るとどちらの建物からでもテニスコート側に行けるようになっていたことから、警友病院みなと寮もインド系商社の建物として建てられたものと考えられます。

でインドクラブから一軒おいた25番地にあったのが、震災後の1930年(昭和5年)に外国人の長期滞在者向け賃貸アパート・・・・・・というか、今で言うところのウイークリーマンション(?)として建てられたインペリアルアパート(現インペリアルビル)。

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⑤25番地・インペリアルアパートメント


これも不動産広告風に言うと、「8畳~10畳相当のベッドルームと、ウォークインクローゼット付きリビングルーム、トイレ併設洋風バスルーム付き。台所無し、替わりに一階に売店(上の写真で言うと右側の部屋→撮影当時は管理人室だった)、レストラン(昭和8年にクレセントグリルが開店するまでは居住者用の食堂だったようです)、バー有り」と言った感じ。

でさらに進むと、ニューグランド本館の裏口と駐車場がありましたが↓

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⑥10番地・ホテルニューグランド通用口


その後、1991年にこの場所にニューグランドの新館(ニューグランドタワー)が建てられました、っと、なにかだんだんぞんざいになってきましたが、さらに進むと堀川にぶつかるので再び大さん橋通りに戻り、今度は海岸教会通りに入ってズンズン行くと、47番地に「おまわりさん専用病院」こと1934年(昭和9年)に建てられた警友病院があり↓

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⑦47番地・警友病院


さらに進むとインドクラブことダンハムビルこと撮影当時は赤い靴の斜め裏、その昔、インドクラブのテニスコートがあった所の隣りに↓

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⑧25番地・バルチャンドビル


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⑨26番地・ホヂソンス商会


などの横浜市によるインド商社進出奨励策の一環として1952年(昭和27年)頃に建てられたインド系商社の建物が4棟並んでいて、その先になぜか今回のテーマとあまり関係が無いけどタクシー会社の営業所があり↓

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⑩27番地・・・・・・だったかなぁ~?


でまたまた堀川に出るので、再び大さん橋通りに戻って今度は本町通りを南下すると、51番地(現280番地)にあったのが、1921年(大正10年)というから震災前に建てられた旧露亜銀行横浜支店こと、撮影当時は警友病院別館↓。

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⑪51番地・旧露亜銀行


この露亜銀行の建物は、震災による倒壊を免れた数少ない建物なのですが、その四角四面のサイコロみたいな形状を見ればそれもうなずけるような気がします。

でこの露亜銀行という銀行は、震災後の1926年(大正15年)に日本から撤退し、その後この建物は、1926年(大正15年)から28年(昭和3年)まで建築家J.H.モーガンの設計事務所などが入居していた貸ビルとして使われ、1935年から終戦までドイツ領事館、終戦後はアメリカ銀行、1959年(昭和34年)から横浜入国管理事務所、1978年(昭和53年)から警友病院別館、1996年に警友病院がみなとみらい地区に移転してから2011年まで15年間県所有のままで空家、2011年に結婚式場「la banque de LoA(バンク・ド・ロア)」としてOPENし現在に至る、と紆余曲折を経て(?)番地も変わったものの、現在も91年前と同じ場所にたたずんでいます。

そして通りをはさんで隣りの43番地カドの53番地には、明治初期にドイツ人カール・ヘルムにより創設され震災後には艀、荷役、回漕、洗濯、外国船会社の代理店、ドック運営でブイブイ言わせていた(?)ヘルムブラザース商会が1938年(昭和13年)に建てた1階が同社本社、上層階が外国人用高級アパート"ヘルムハウスアパートメント(80年代には県警分庁舎として使用されていた)"があり(写真はありません、ごめんなさい<(_ _)>)、そのさらに隣りのブロックのカドの58番地にあったのが1929(昭和2年)に建てられた昭和シェル石油山下町ビルこと、旧ライジングサン石油本社ビル↓。

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⑫58番地・旧ライジングサン石油本社ビル(本町通り側の正面入口)


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⑫58番地・旧ライジングサン石油本社ビル(昔の備後町側入口)


ということで、来週は山下町・上町の中華街側をお送りします。


*写真はすべて1981年撮影。




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by yokohama80s | 2014-08-03 00:06 | 山下町 | Comments(2)
2014年 03月 23日

山下町1番地 シルクセンター

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開港広場前交差点にあるシルクセンターは、そもそも開港当初にイギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会が居留地進出一番乗りをはたしたことにより居留地一番の番地を与えられたことから、英一番館と呼ばれた由緒ある場所。

とにもかくにもこの場所から堀川に向かって20番地までが海沿いに並び、21番地が1番地の裏でさらに堀川にぶつかるまで番号が順番にあてがわれている、というように、この場所がまさに山下町の一丁目一番地。

そしてこの由緒ある場所に、横浜開港100周年を記念して1959年(昭和34年)にオープンしたのが、5階までの低層階にシルク博物館、生糸取引所、各国領事館、輸出入商社や船舶会社、店舗などが入り、上層階にシルクホテルが入ったシルクセンター。

正式名称は「シルクセンター国際貿易観光会館」。

まあ私的には、「横浜で結婚式場と言ったらシルクホテル」みたいな感じでしょうか。

確かにオープン当初は、「横浜を代表するホテルのひとつ」とされていましたが、80年代あたりから山下町にホテルのオープンが相次ぎ↓、

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*写真は二枚とも1981年撮影。


さらに1982年の赤坂のホテル・ニュージャパン火災をきっかけにした消防法改正により、館内にスプリンクラーなどの防火及び消化設備の設置が義務付けられたものの、この頃にはすでに閑古鳥状態だったシルクホテルは、これらの設備設置にかかる費用の拠出が困難だ、ということで1983年に営業を休止。

その後、1998年に旧客室をSOHO用個人事務所として賃貸するオフィスビルとして生まれ変わるまでの15年間、ホテル棟は空き家状態で放置されていたようです。



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by yokohama80s | 2014-03-23 00:07 | 山下町 | Comments(0)
2013年 11月 03日

山下町118 南海洋行

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その昔、太平道の同潤会アパートの前からテクテクテクテク歩くと中山道と出会ったその先に、中華街には珍しい写真のちょいと小洒落た洋館風の建物が在りました。

どうやら現在の地図を見ると、80年代には開港道というか北京小路というか、昔のホリデーインというか、今のローズホテルのはす向かいにあった留日広東会館が現在、この場所に移ってきているようです。

さらに例によって古地図でこのあたりを見てみると、戦前の地図に該当の建物らしきモノの記載があることから、もしかすると戦前に建てられた可能性も無きにしも非ず・・・・・・かもしれません。

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で、写真には正面入口になにやらゴチャゴチャと書かれた看板が出ていますが、それを拡大して読んでみると曰く、

「この建物は1888年生まれで1980年に92歳で逝去したソ連国籍の某の所有であり、当職が遺言執行人の指名を受けてこの建物の管理処分を任されている云々かんぬん。
よって自分の許可無く借家人以外がこの建物に立ち入ったら訴えるゾ」

というようなことが書かれています。

どうやらこの建物は、遺産相続争いの渦中に置かれていたのか、はたまた地上げの嵐に晒されていたようです。

というような生臭い話は置いておくとして、この告知からわかることは、この建物の所有者の方は、1888年生まれということは、1917年に起こったロシア革命の時には29歳だったワケで(終戦後だと60歳前後)、そうなると革命を逃れて横浜にやって来た亡命ロシア人・・・・・・でもソ連国籍のままという点が「?」なのですが、共産党政権が倒れたらロシアに戻るつもりだったのでしょうか?

あと9年で、長年、異国の地で待ちに待ったその瞬間がやって来たのに・・・・・・

などと今頃になって感慨にふけっていますが、実際には戦後になって横浜に来た人かもしれないのにね(笑)

とにもかくにも、当時でも、山手の丘の上以外では目にすることの無かった木造洋館で、個人的にはどこかに移築して保存して欲しかったなぁ・・・・・・などと思ってしまいます。

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*写真はすべて1981年撮影



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by yokohama80s | 2013-11-03 00:03 | 山下町 | Comments(0)
2013年 05月 26日

山下町106 旧森元歯科医院

むかしむかし、山下町の南門通り(今で言うと南門シルクロード)を前田橋(今で言うと朱雀門)方向に歩いて行くと、通りがY字型に分かれているところ(今で言うと南門シルクロードと媽祖小路の分岐)のカドに、小さな歯医者さんがありました。

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*左の通りが今の媽祖小路、右が南門シルクロード


ご覧のように特に由緒正しい歴史ある古い建物なワケでも無く、一見するとなんの変哲もないフツーの歯医者さん。

でも歯医者さんなのに切り文字看板が"歯抜け"状態になっている、というのが妙にツボにハマってしまい、ここを通りかかる度に意味もなくカメラを向けていました(笑)。

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*当時は今の媽祖小路が南門通り、南門シルクロードが前田橋通りと呼ばれていました。


で、いつものように「この歯医者さんは今はどうなっているのだろう?」とストリートビューで覗いてみたら、Y字路の角にはなんかま黄っ黄に塗られて入り口の庇にパンダのハリボテが置いてある奇妙珍妙なお店が・・・・・・

「うわぁ~っ、なんだこりゃ!」と一瞬、引きながらもよくよく見てみたら、昔の歯科医院の建物をそのまま利用して現在はパンダ雑貨専門店になっているそうです。

歯医者さんからパンダ雑貨専門店というのは想定の範囲を遥かに超えていますが(笑)、こういうなんの変哲もない建物が、例えどのような姿であれ撮影当時の姿で残っているのを見るとちょっと嬉しくなってしまいます。

ちなみに現在、この建物の右手に媽祖廟がありますが、これらの写真を撮影した当時はまだ媽祖廟は無く駐車場でした。

*写真は2枚とも1981年撮影。







*6月のUP予定
6月 2日 石川町 亀の橋
6月 9日 麦田町あたり
6月16日 市電通り 前編
6月23日 市電通り 後編
6月30日 本牧2丁目 タイトル未定

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by yokohama80s | 2013-05-26 00:04 | 山下町 | Comments(0)
2013年 05月 12日

山下町203 加賀町警察署

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*1981年撮影


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*1981年撮影



現在、中華街の北、善隣門のあたりにV字型(地図で見ると矢印が南を向いている←正確には南東)の神奈川県警加賀町警察署があります。

しかし写真の1926年(大正15年)築の庁舎は今とは逆向き(矢印が北を向いている逆V字)で、庁舎の左手が長安道、右手が海河道になります。

蛇足ではありますが現在の庁舎が、中華街という場所柄から風水を重んじて建物の向きをひっくり返したのかどうかについては定かではありません(笑)

それはそれとして、なぜにして山下町にある警察署なのに加賀町署なのか、という疑問をお持ちになられる方もおいでになるかと思います。

と言ってもこの件に関しては、横浜開港資料館さんがこのようなモノをUPして下さっていますので、私が拙い文章でズラズラ説明するよりもよっぽどわかりやすいかと存じますので、そちらをご参照下さい(笑)

あえて私が付け加えるとすれば、30ヵ町は町と付いていても一般的な区画ごとに名称をつけたものではなく、馬車道通りの町名のように通りごとに名前を付けたものであり、さらに番地についても公園通りの一番北側にある英一番館(現・シルクセンター)を一番地とし、そこから建物ごとに順番に番号をふり堀川にぶつかるとまた北から南へと、要は内陸に行くほど番号が大きくなるという仕組み。

しかしちょうど山下町の真ん中あたりに、埋め立て順の関係から奇妙な形で中華街がハマり込んでいる為に、中華街のあたりから「南へ行くほど番号が大きくなり堀川にぶつかるとまた北に戻る」という法則が多少崩れますが、それでも震災前までは区画ごとに番地は順番に並んでいました。

ところが震災後に、クネクネ曲がっていて片側一車線だった本町通りその他の道路を拡幅して消滅した番地を、袋小路を解消して区画をひとまとめにした時に出来た所に割り振ったり、さらに1928年(昭和3年)に現在の日本大通が山下町から分町した際に日本大通に割り振られていた番地をあっちこっちに再分配したり、それでも足りないと今度は新たに番地を増やしたりと、あれやこれやとイジりまわした結果として、同じ区画内の番地が連続していなかったり、三桁番地の区画になぜか二桁の番地が紛れ込んでいたり、かと思うと◯◯-◯という一般的な番地があったりという現在の山下町のぐちゃぐちゃゴチャゴチャ番地表示が出来上がりという次第(まあ「町に歴史アリ」ってトコですかな)。

ということでちょっと例を挙げると、現在、結婚式場として現存している旧露亜銀行の現在の住所は山下町280番地なのですが、結婚式場として使用される前の番地は旧居留地時代から山下町51番地で、そもそも280番地は居留地時代には存在しなかった・・・・・・と思うヨ、私が知る限りにおいては。

というように、そんなこんなで当時の人は、わかりにくい番地には見切りをつけて、1899年(明治32年)にすでに廃止されていた30ヵ町の町名の方を日常的に用いていたようで、昭和初期に横浜市が作成した横浜市三千分一地形図の山下町には40年前に廃止されたはずの30ヵ町の町名が番地と共に併記されています(確か震災後の区画整理で二つか三つの通りが消滅しているので、実際には30は無い・・・・・・と思います、数えたことが無いからわからないけどwww)。

ということで、山下町にある警察署に、普段から慣れ親しんでいた旧町名を付けることは、当時の人にしてみればごく自然のことだったのだろうと想像できます。

そういえば横浜には、もともとは代官坂トンネルあたりの山手の丘の上にあったのに移転を繰り返して今は直線で1.6km離れた本牧宮原にある山手警察署とか、同じく移転を繰り返して今は本牧十二天にある北方消防署とか、もともとは現在の桜木町にあったのに合計2回、直線で約2km弱移動した横浜駅(都市の中核となるべき主要駅そのものが移動した例は、国内はおろか世界的に見ても稀なのでは???)なんていうのもありますから、当時のヨコハマの人はそういうこまかいコトを気にしない傾向があったのかもしれません(笑)

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*1981年撮影





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by yokohama80s | 2013-05-12 00:07 | 山下町 | Comments(0)
2013年 03月 17日

山下町254 デスコビル

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 その昔、大桟橋通りを挟んで横浜スタジアムの真向かいの山下町254、現在はホテルが建っている所に、デスコビルという1926年(大正15年)に建てられたちょっとクラシカルな雰囲気のオフィスビルがありました。

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 ところがこのビルに関してググッてみても、中区史の「震災により1階部分が沈下した」という記述と、当時、生糸の輸出と綿花の輸入を行なっていたチャールズ・ルドルフ商会(サルザールドルフ商会)により社屋ビルとして建てられたらしいことと、市内の某運送会社が戦後しばらくこのビルに本社を構えていたこと某有名外国人建築家が設計したということと、あとは近代デジタルライブラリーにある昭和10年ごろの中区勢要覧に掲載されている中区内にあった資本金20万円以上の企業リストにある「シンガーソーイングメシーンコンパニー(リスト表記のまま→シンガーミシンのこと)の所在地がデスコビルの所在地と一致する、ということしかわかりません。

 さらに航空写真などを見ると、この建物は1988年までには取り壊されて現在の建物に建て替えられたようで、これらの写真を撮影した1981年当時にはすでに入居者の立ち退きも完了していたのか、かつて入居者の表札がかかっていたと思われる入り口横には、古ぼけた表札が一枚残された他にはかつて看板を取り付けていた痕跡が残っているだけでした。

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ちなみに上の写真だと看板の文字が読みにくいと思いますのでザックリと書き写してみると↓

DR.A.ALTINBAY
医師 アルテンバイ
2ND FLOOR  TEL (8)2113

と書かれています。

 どうして市内局番がヒトケタの戦前の看板が一枚だけ残されていたのかはわかりません。

 試しに「DR.A.ALTINBAY 」でググッてみると、Japan for Kids:The Ultimate Guide for Parents and Their Children(日本子育て便利帳)なる2000年に刊行された本に、住所がデスコビルになっている同名の小児科医が出ていたものの、電話番号は↑写真と同じ一桁のもの。

 となると、このリストはそうとう昔のモノをコピペしただけという

 どうやら小児科の先生らしいのですが、住所がデスコビルの住所のうえ電話番号は一桁のまま。

となるとこの本のリストは、そうとう昔のリストを丸写ししただけということに・・・・・

 他には、こちらの資料に、看板と同名の外国人医師のインタビュー記事が出ています他に、どうやらこの方は60年~70年代のテレビドラマで変な外人役でご活躍されていた方と同一人物、はたまたご兄弟だとか・・・・・・。

 とにもかくにも、この件についての解明はここまでにして、次なるナゾは、(社)建築学会の「歴史的建築総目録ダータベースでは「大正15年建築とされているものの、1932年(昭和3年)発行の建築時代という書物のアントニン・レーモンド特集では1927年(昭和2年)築、さらに中区史には「震災(1923年/大正12年)で1階部分が地中に埋没した」とされていることから、震災前の時点でこのビルがすでに存在していたことに……

 これに関しては、私のつたない記憶では、このデスコビルはもともと4階建てのビルとして建設されていたものの、竣工直前に震災に遭い1階部分がスッポリと地中に埋没。

 その後、別の建築家が設計し直し(私のつたない記憶だとこの再設計だか構造計算だかをやり直したのがアントニン・レイモンド設計事務所だったような気が・・・・・・???)、傾いてしまった建物の地下を掘り下げて水平にして3階半建て(?)のビルとして大正15年に竣工した、というような話が、なにかの本に書かれていたような記憶があります。

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by yokohama80s | 2013-03-17 00:04 | 山下町 | Comments(0)
2012年 12月 30日

同潤会山下町アパート二号館

ということで、先週の同潤会山下町アパート一号館につづき今回は、新築当時は世帯住宅(家族向け)だったというカタカナの「コ」の字型をしていた二号館です。

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*1981年撮影(コの字の西側、通りに面した一号館側)


「コ」の字の通りに面している面の2階、3階の部屋には、アーチ型の窓があしらわれていて、他の部屋と比べるとちょっと高級感が感じられます。

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*1981年撮影(通り側から「コ」の字を見るの図)


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1981年撮影(コの字の東側)



二号館東側の通りから二番目の階段塔↓。
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*1981年撮影


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*1981年撮影


ちなみに同潤会は、「震災後に建設された公設バラック(今で言う仮設住宅)の解消」と、「不良住宅地区(明治以降、地方からの人口流入によるスラム化が問題になっていた)の改善」を目的に設立され東京、横浜に鉄筋コンクリートのアパートメントを山下町を含めて15ヶ所、今風の洒落た言い方をすればテラスハウス、実際のところは関西などに多い2階建ての文化住宅が連なり、敷地内に公園、集会場、店舗、テニスコートを完備した住宅団地を12ヶ所(横浜には新山下、滝頭、大岡、井土ヶ谷の4ヶ所)に合計1000戸建設した公設の公共団体で現在のURの元となった組織でした。

それが皮肉なことに、建設から半世紀余り経過したら、「スラム化の解消」の為に建設された建物自体が「スラム化云々」などとメディアに取り沙汰されるようになってしまうのですから、これを皮肉と言わずしてなんと言えば良いのでしょうか?

という話は置いておくとして、下の写真は階段を上がってみたの図。

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*1982年撮影


右側のドアが、1927年(昭和2年)竣工時のオリジナルの鉄製ドア。

オリジナルの鍵を失くしてしまったのか、金折に南京錠では同潤会アパートの売りでもあった「建具は堅固にして盗難留守居等の不安なきこと」として、国内の共同住宅では初めて採用された鉄扉も形無し、と言ったところでしょうか。

ちなみに85年発行の中区史によれば、「山下町アパートには現在97世帯が住んでいる」とされていましたが、撮影当時の段階ですでにその半分も住んでいなかったように思います。

すでに一号館一階南側の角部屋には再開発JVの事務所が入ってましたし・・・・・・

ということでこの九龍城砦もかくやという状態だった同潤会山下町アパートは、これらの写真を撮影してほどなくして取り壊され、現在、跡地には高級マンションが建っています。

ということで、今週号で2012年最終号になります。

来年は1月6日から、いつものように毎週日曜日に更新しますのでもよろしくお願いします。

それではみなさん、良いお年をお迎えください。

ちなみに来月は
1/6  本町6丁目 宇徳ビル別館
1/13 山内埠頭 その2
1/20 世界最大級のクレーン船 その2
1/27 中消防署 日本大通出張所

を順次UPしますので、お楽しみに。



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by yokohama80s | 2012-12-30 00:04 | 山下町 | Comments(0)
2012年 12月 23日

同潤会山下町アパート一号館

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*1981年撮影


さて、今週と来週は年末蔵出し総特価市(?)として、前回のプレビュー版に続き、同潤会山下町アパートの詳細バージョンを二回に分けてお送りします。

ということで、今回は二棟あった山下町アパートの西側にあった"ロ"の字型の方、新築時は1Fが店舗兼住居と世帯者用住宅で、2F、3Fが独身者向けアパートとして建てられた同潤会山下町アパート一号館。

ちなみに80年代当時の正式名称は、ただの「山下町アパート(アパートメントとの説もアリ)一号館」。

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*1982年撮影


上の写真は南側の三連アーチの入り口。

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*1981年撮影


もともとは三つとも中庭に通じていたはずなのですが、撮影時には左のアーチ部分に管理事務所が、右側には物置が作られていて真ん中だけが通り抜けすることができました。

ということで、真ん中のアーチをくぐって中庭に。

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*1981年撮影


ちょうど影になっていて良く見えませんが、画面左側にブランコと鉄棒がありました。

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*1982年撮影


上の階に行く階段がどこにあるのやら・・・・・・

ちなみに昭和初期の同潤会の事業報告書によると、山下町アパートには世帯住宅(新婚さんおよび家族用)として各部屋にコルクを下張りしたフローリング床に押入れ、鏡付き洗面台、下駄箱、帽子掛け、表札、暖房用ガス(暖房設備そのもではなくガスストーブ用のガス栓のことのようです)、水洗トイレ、流し、食器棚、調理台、かまど(今で言うガス台のこと)とダストシュートが完備されたキッチン付きの6畳+3畳の2Kから、8畳+4畳半+3畳の3DKまで全9タイプと(風呂については新築時の入居者が希望した場合についてのみ設置されたようです→山下町アパートがそうだったのかは定かではありません)、独身者住宅として共同の炊事場兼流し兼洗面台、トイレと入居者用食堂が完備された3畳~8畳までのワンルームが9タイプ(平たく言うとまんま学生寮とか会社の独身寮的なモノ)、さらに通りに面した一階部分には店舗付き住宅として土間(店舗スペース)+6~8畳一間の1Kから、6畳+4畳半の2Kまでの全4タイプの合計21タイプの部屋があり、昭和10年当時の家賃が世帯向けが一ヶ月12円10銭~21円(約6万~11万円弱)、独身者向けが6円50銭~13円50銭(約3万~7万円弱)、店舗兼住宅が23~45円(約12万弱~23万円弱)で、昭和2年に山下町アパートが新築された時の入居希望者が募集戸数148戸(山下町アパートは全158戸あった)に対して404件の申し込みがあり、一説によるとその後も常に空き部屋待ちの状態だったそうです。

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*1981年撮影(”ロ”の字と”コ”の字の間の部分から”ロ”の字館を見るの図)


戦前の資料などを見ると、初めにも書いたように一号館の2F、3Fは独身者向けのワンルームが連なっていたはずなのですが、窓に干された洗濯物を見ると、どう見てもワンルームには・・・・・・???

同潤会から経営を引き継いだ住宅営団が、終戦後に解散した時に、地元の不動産会社がまるごと買い上げて分譲したとの話を聞いたことがあるので、付加価値を上げるために独身者用ワンルームの壁をぶち抜いて世帯向けにリフォームして売りだしたのか、はたまた数部屋を買い上げた人がそうしたのか、それとも本来、共用スペースである廊下ごと数部屋買い上げてしまった(廊下の両側に部屋が並んでいた上に、要所要所に防火扉が設置されていた)人がいたのか実際のところはナゾです。

なにせ写真を見てもおわかりのように、現在の共同住宅という概念では考えられないくらいフリーダム状態ですから(笑)



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by yokohama80s | 2012-12-23 00:03 | 山下町 | Comments(0)
2012年 12月 16日

山下町25番地 旧インドクラブ

私は「横浜とインド」と言われて一番最初に連想するのは、その昔、横浜名店街にあったカレーハウス・リオなのですが(ちなみに私的にはジョイナス移転後のリオは同名他店だと理解しています)、実際、横浜とインドとのつながりは意外に深く、横浜が開港した時にイギリス人などと共にインド人商人たちも横浜にやって来て、1893年に日本郵船によりムンバイ航路が開設されるとさらに多くのインド人商人たちがやって来て主に絹織物の輸出を手がけていたのだそうです。

そしてインド人商人の増加を機に、横浜のインド人の商業上の利益保護を目的とし「横浜印度商協会」が設立され、この会の建物が震災前までは山下町275番地に設けられ、震災後に山下公園前の県民ホール、ニューグランドの一本裏の水町通りの1軒おいた左隣にインペリアルアパート、右隣には警友病院みなと寮がある山下町25番地1に移転。

その建物が↓

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「インド人クラブ」はたまた「インドクラブ」、「インディアンクラブ」と呼ばれたこの建物で、この建物と隣の旧警友病院みなと寮↓

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の裏手にテニスコートがあったそうです(ということがコチラに出ていますw)。

ということは、この建物と軒を接していた旧警友病院みなと寮も、元々はインドクラブ関連の建物だった、ということなのでしょうか?

そこでざっくりと調べてみると、昭和5年の地図にこの建物と思われる記載があることかや、保険代理店業務を行っていたスタントン商会がこの場所を所在地としていたことなどから推測すると、この建物は昭和5年までにスタントン商会によって建てられた……ということのようです(真相は不明ですが)。

などという近代建築マニア的な話よりも、私が興味を引かれたのが石積のバルコニー兼玄関部分です。

見れば見るほど、石積みの玄関兼バルコニー部分に「取ってつけた」感を感じるのは気のせいなのでしょうか?

確かに「これが東インド会社風だ」と言われればそういう気もしないでもないのですが、私としては、敢えてあと付け説を唱えたいと思います。

と言ってみたところで、すでにこの建物は取り壊されてマンションに建て替えられている今となっては、あまり意味の無い話ではありますが・・・・・・

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*石積玄関部分と母屋の接続部。なんかアヤシイ!


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*飾り部分は、光沢の具合からもしかして大理石でしょうか?


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*写真はすべて1981年撮影


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by yokohama80s | 2012-12-16 00:04 | 山下町 | Comments(2)