週刊 横濱80’s

hama80s.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:山下町( 34 )


2016年 01月 24日

中華街・中山路

 中華大通りから中山路を関帝廟通り方向に進むと、エキゾチックなコンクリト塀が続き↓

c0247059_2057180.jpg
*①


その先にあるのが、山下町140番地の横浜華僑総会↓

c0247059_20572038.jpg
*②


c0247059_20573278.jpg
*③


 でエキゾチックなコンクリート塀の向かい側の146番地には↓

c0247059_20584380.jpg
*④


c0247059_20585872.jpg
*⑤


寂れた感じの飲み屋さんが軒を並べ↓

c0247059_2332411.jpg
*⑥


c0247059_2059133.jpg
*⑥


でさらに進むと関帝廟通りと交差して↓

c0247059_20594938.jpg
*⑦


さらにその先の太平道に向かう途中に↓

c0247059_21165561.jpg
*⑧
(山下町130 能登屋)


c0247059_2105875.jpg
*⑨


中華街には不釣り合いな「ふぐちり」「どぜうなべ」というのぼりに縄のれんが。

そして同潤会アパートの裏手あたりには↓

c0247059_211121.jpg
*⑩


c0247059_2112642.jpg
*⑪


民家が建ち並んでいました。


*写真はすべて1982年撮影。



[PR]

by yokohama80s | 2016-01-24 00:10 | 山下町 | Comments(2)
2016年 01月 17日

中華街・市場通りと香港路

 以前、中華街というタイトルで中華街の各通りの写真をアップしたのですが、その記事で「市場通りと香港路の写真は無い」としたのですが、その後、撮影当時の住宅地図を入手して照合してみた結果、市場通りと香港路で撮影されたと判明した写真がゴッソリ出て来たので、今日はそれらの写真を↓

 ということで、現在の中華街大通り、まずは撮影当時の中華大通りから香港路に入ると、当時流行ったグルメ漫画で取り上げられたことで昼食時になると入店待ちの行列が出来ていた某中華料理屋をすぎた山下町147番地にあった美容院↓

c0247059_17303760.jpg
*①


そしてしばらく行った通りの左側の138番地に↓

c0247059_17352468.jpg
*②


で関帝廟通りに出る手前くらいに↓

c0247059_17384928.jpg
*③


c0247059_17385934.jpg
*④


c0247059_1739492.jpg
*⑤


c0247059_1740114.jpg
*⑥


複数の建物を倉庫というかなにかの食品関係の加工場として利用していたと思われる建物が連なっていました(1978年の住宅地図を見ると関帝廟通りの127番地にあった生利中華食品雑貨行関連の施設だったようです)

 ということで、香港路から関帝廟通りに出ると、その先の太平道方向へは行けないので関帝廟通りを左に折れて今度は市場通りに入って太平道方向に進んだ通りの左側133番地にあったクラシカルな民家↓

c0247059_17442076.jpg
*⑦


そしてその先の126番地にも↓

c0247059_17445970.jpg
*⑧


というように、撮影当時の市場通りの関帝廟通りの先は、一戸建てのバラック造りの民家が多かったように記憶しています。

*写真はすべて1982年撮影



[PR]

by yokohama80s | 2016-01-17 00:12 | 山下町 | Comments(0)
2016年 01月 10日

中華街大通り

 中華街大通りとは、加賀町警察署前の善隣門から本町通りの朝陽門までの中華街の中心的な通りで、撮影当時のガイドブックには「中華大通り」と表記されています。

 ということで善隣門から朝陽門までの中華街大通りの左側の写真を↓

c0247059_17214462.jpg
*①萬珍樓


c0247059_17232988.jpg
②廣新楼


c0247059_17233973.jpg
③照宝


c0247059_17234987.jpg
④聘珍樓


c0247059_1723578.jpg
⑤有昌


c0247059_17241065.jpg
⑥栄興号


*写真はすべて1982年撮影





c0247059_17241981.jpg

[PR]

by yokohama80s | 2016-01-10 00:12 | 山下町 | Comments(0)
2015年 10月 25日

山下町58 ライジングサン石油ビル

 本町通りを谷戸橋方向に向かう途中にある山下町交差点のカド、山下町58番地の現在、タワーマンションが建っている場所にかつてあったのが"シェル石油横浜ビル"こと"旧ライジングサン石油ビル"。

 ちなみにライジングサン石油とは、現在の昭和シェル石油の前身にあたり1833年(天保4年)ロンドンでアジア産の貝殻を扱うサミュエル商会として開業し、1876年(明治9年)に横浜に進出し1900年(明治33年)に石油部門を独立させてライジングサン石油が営業開始。

 そして1923年(大正12年)の関東大震災により本社を神戸に移転し、1929年(昭和4年)に山下町58番地に本社新築落成、というようなことが、昭和シェル石油HPに書かれています。

 となると、「震災後に本社を神戸に移転」とあるのは、一時的なものだったのでしょうか?
そのあたりのことはよくわかりませんが、とにもかくにもこのビルは、戦時中、アメリカに避難している時に、本土空襲の指揮を執ったカーチス・ルメイに協力して焼夷弾の効果実験用日本家屋を設計したことで知られるアントニン・レーモンドによる3階建てのモダンな感じのオフィスビルで、私はてっきり戦後になって建てられたビルだと思っていました。

 ということで、建設当時の姿をご覧になりたい方は、こちら(1931年建築時代・第19号/近代デジタルライブラリー)をご参照下さい。

c0247059_18413889.jpg


c0247059_18414873.jpg


c0247059_18415867.jpg


c0247059_1842977.jpg


*写真はすべて1981年撮影。






*来月、11月のUP予定
11月 1日: 川崎市営埠頭
11月 8日: 東京電力川崎火力発電所
11月15日: 千鳥町 コンビナート
11月22日: 千鳥町 タンク
11月29日: 東扇島

[PR]

by yokohama80s | 2015-10-25 00:11 | 山下町 | Comments(0)
2015年 10月 18日

山下町204 ストロングビル

 ストロングビルとは、2007年まで大桟橋通りと福建路のカドにあった1938年(昭和13年)に、ストロング商会により建てられた3階建てのビルのこと。

 ちなみにこの建物は、2007年に横浜市認定歴史的建造物の指定を受けていますが、1938年(昭和13年)に建てられた本来のストロングビルは2007年に取り壊され高層ホテルに建て替えられているので、正しくはダイワロイネットホテル横浜公園が横浜市認定歴史的建造物に指定されているということになります。

 ちなみに横浜市がこの建物を認定歴史的建造物に指定した理由が、「新たに建築された建物の低層部に建築当時の設計図に基づいて外壁を忠実に復元」したからなんだそうな……って、「"新たに建築"しちゃったら歴史的建造物にならないんじゃないの?」といういたって素朴な疑問が???
  
c0247059_18161013.jpg


c0247059_18162287.jpg


c0247059_1731283.jpg


c0247059_1731469.jpg


c0247059_17313638.jpg



*写真はすべて1981年撮影。



[PR]

by yokohama80s | 2015-10-18 00:05 | 山下町 | Comments(0)
2015年 10月 11日

山下町256 ウインクレル商会

 その昔、関内駅南口から西の橋に至る通りに、中華街から延びる海河道がぶつかる所のカド、山下町256番地の現在、21階建てのマンションが建っている場所に歴史的建築総目録データーベースによると大正15年、西暦に直すと1926年に建てられたとされるクリーム色に塗られ所々コンクリートがはがれ墜ちた廃屋然とした倉庫がありました。

 現在、同所にあるマンションが1997年築とのことなので、それ以前までは、京浜東北線で横浜方面から石川町へ行く時の左の車窓(逆方向なら右手)に見えたので、記憶にある方も多いのではないでしょうか。

 この古ぼけた倉庫は、1885年(明治18年)に雑貨の輸出入を行う会社としてドイツ人により山下町居留地245にて創業したウインクレル商会が、第一次世界大戦で一時撤退したのちに山下町256番地に移転し、震災により焼失したことにより再再建(?)された建物なのだそうです……というようなことが、こちらの企業情報のページに出ていますのでご興味のあるムキをご参照ください。

c0247059_1875838.jpg


c0247059_188713.jpg


c0247059_1881869.jpg


c0247059_1882610.jpg


c0247059_1883767.jpg


*写真はすべて1981年撮影。




 
[PR]

by yokohama80s | 2015-10-11 00:08 | 山下町 | Comments(0)
2015年 10月 04日

山下町280番地 旧露亜銀行横浜支店

c0247059_1335596.jpg
 

 ↑の重厚な建物は、1921年(大正10年)に露亜銀行横浜支店として建てられたのですが……露亜銀行については、こちらの拙記事(山下町・上町前編)と重複するのでそちらをどうぞ、ということで以下省略。

 ということで、この建物の来歴をザックリと書き出すと

1921年(大正10年):旧露亜銀行横浜支店として山下町51番地2-乙に建てられる
1926年(大正15年):露亜銀行が日本から撤退
1926年(大正15年)~:J.H.モーガン設計事務所(昭和3年に自らが設計した75番地のユニオンビルに移転)
1928年(昭和3年)~1931年(昭和6年)ごろまで:横浜市瓦斯局(その後、山下町250番地に移転)
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年):ドイツ領事館が山下町256番地のウインクレル商会1階より移転しドイツの敗戦まで使用
1945年(昭和20年)~:アメリカ銀行などの進駐軍関係の機関が使用
1959年(昭和34年)~:横浜入国管理事務所
1979年(昭和54年)?~1996年:警友病院別館(所在地の番地が51-2から警友病院と同じ47番地に)
1996年~2011年:県所有の空家
2011年~現在:結婚式場「la banque de LoA”バンク・ド・ロア”(所在地の番地が280番地に)。

ということで、詳しいことをお知りになりたいムキは、ググればゴッソリ出てきますので、これまた以下省略、ということで(笑)

c0247059_1333242.jpg


c0247059_1334240.jpg


c0247059_13468.jpg


c0247059_1341665.jpg


c0247059_1342563.jpg


c0247059_1343457.jpg



*写真はすべて1981年撮影。



[PR]

by yokohama80s | 2015-10-04 00:15 | 山下町 | Comments(0)
2014年 08月 31日

大さん橋通り

これまで4週に渡って取り上げてきた山下町は、開港当初から開けていた地区と言うか、旧永代借地の欧州人商業地区と、清国人地区と言った感じの場所になりますが、今日は明治に入って埋立造成が完了した新埋立地、今で言うと中華街の長安道の西側から横浜公園裏手の大さん橋通り沿いをお送りします。

ということで兎にも角にも震災前までは、106番地~231番地あたりの堀川通り沿いには船員相手のチャブ屋がビッチリ軒を並べ、その周りと現在は埋め立てられた派大岡川沿いに日本人や中国人の住居や店舗、会社事務所、石炭置き場、外国商社の倉庫が並び、大さん橋通り側には出遅れた(?)海外商社や比較的小規模の商社などの事務所があったそうです。

ところが震災でこれらはすべて倒壊し、堀川沿いのチャブ屋は小港と大丸谷に移転し、跡地には主に日本人の住居や店舗が建ち、海河道と大さん橋通りに挟まれた205、207、209、222,226のブロックには北仲通の生糸検査場から移転してきた絹織物検査場や、横浜絹布倉庫(のちに帝蚕倉庫と合併)などが、大さん橋通り側には海外商社の事務所ビルが建てられました。

まあ簡単に言ってしまうと、山下町のこのあたり一体は震災後に発展した新興地区と言っても良いのかもしれません。

ということで、今日、最初の写真は204番地の主に雑貨の輸出入を行っていたストロング商会によって1938年(昭和13年)に建てられたストロングビル↓。

c0247059_16274924.jpg
①204番地・ストロングビル


c0247059_1628261.jpg
①204番地・ストロングビルのウラ


次は、ストロングビルと通り(福建路)を挟んで隣りにあった205番地のタチカワブラインド↓。

c0247059_16302719.jpg
②205番地・タチカワブラインド


この建物は、ストロングビルと同じく、比較的最近まで現存していた為に、検索すると画像がドッと出てきますが、屋根が瓦屋根なのにそれ以外は洋風というその特徴的な造りから、戦前に建てられたものだろうとするサイトが大部分なのですが、実はこの建物は正真正銘の戦後建築。

国土地理院の地図・空中写真検索サービスで終戦後の航空写真を見ると、この建物があった205,207、209、222、224、226番地の区画には、のちに花園橋病院となる絹繊維検査所以外に建物が無い更地になっています。

でその後の航空写真を漁ってみると、1949年の写真にはもともとここに倉庫を設けていた横浜絹布倉庫の跡を継いだ帝蚕倉庫の倉庫があるだけ。
で、1956年の写真に該当する場所にそれらしい建物が写っていることから、1950~55年の間に帝蚕倉庫の事務所棟として建てられたものと思われます(確証はありませんが)。

ということで、話の流れで海河道沿いの209番地に1949年(昭和24年)に建てられた帝蚕倉庫山下町倉庫↓。

c0247059_1646334.jpg
③209番地・帝蚕倉庫山下町倉庫


別の写真に写っている看板には、資材、洗剤、ドライアイスと出ているのですが、どういう意味かはわかりません。

ということで、福建路の一本派大岡川側(現在、首都高がある場所)の通りに82年くらいまであったのが↓

c0247059_16553149.jpg
④224番地・花園橋病院別館


c0247059_16554683.jpg
④224番地・花園橋病院別館


1926年(大正15年)に県立輸出絹織物検査所として建てられ、その後、商工省直轄の商工省横浜輸出絹織物検査所、戦後は花園橋病院、撮影当時は花園橋病院別館だったボロボロのビル。 

で一回、大さん橋通りに出て 撮影当時にはすでに埋め立てられた派大岡川沿いの通りとのカドにあったのがヨーロッパやアメリカ、オーストラリアに生糸や絹織物を輸出していたチャールズ・ルドルフ商会によって建てられた254番地のデスコビル↓。

c0247059_17125848.jpg
⑤254番地・デスコビル


c0247059_17131552.jpg
⑤254番地・デスコビルの玄関ドア


なぜにしてチャールズ・ルドルフ商会が建てたのにデスコビルと言うのかについては定かではありません。

撮影当時にはすでに埋め立てられて首都高がほぼ完成していた派大岡川沿いに堀川方向、というか石川町駅方向に歩いて行くと、海河道が合流するカドの256番地にあったのが1926年(大正15年)に建てられたウインクレル商会↓。

c0247059_17211948.jpg
⑥256番地・ウインクレル商会(表側)


c0247059_17213425.jpg
⑥256番地・ウインクレル商会(ウラ側)


このウインクレル商会は、居留地時代に横浜で設立された数ある外国人商社のひとつに過ぎなかったのですが、現在ではこれら商社の大部分が解散消滅したり、創業者の出身国や、はたまた香港を初めとした他のアジア諸国や、日本国内の他都市などに拠点を移したりしている中で、今も横浜を拠点にしている数少ない(唯一の?)横浜発祥欧米系商社です。

ってことで、この建物は根岸線に乗って関内方面から石川町方面に向かう車窓の右側に、ハマスタと高校の間にあった……というか見えた黄色味が強いベージュ色の古ぼけた倉庫なので見覚えのある方も少なくないのではないでしょうか。

このどこからどう見ても倉庫にしか見えない建物は、1935年まで空き部屋だった1階部分がドイツ領事館として使われていたそうなのですが、この建物には通り沿いに倉庫の出入り口しか無く、建物裏手の海河道側にどう見ても通用口にしか見えない出入り口(二枚目の写真に写っているヤツが唯一の出入り口)があるだけで、実際にこの建物を見たことがある人は「かつてこの建物にドイツ領事館が置かれていた」、なんて言われてもにわかには信じられないと思います。

まあ贔屓目に言えばいかにもドイツ的な質実剛健で合理的な造りの建物と言えなくもありませんが……。


*写真はすべて1981年撮影。





*9月のUP予定
9月07日: 旧横浜市営工業地帯(新興線沿線)
9月14日: 首都高速1号線 生麦ジャンクション
9月21日: 大黒埠頭・大黒大橋
9月28日: 首都高大黒大橋地組立ヤード

               
                
                 
[PR]

by yokohama80s | 2014-08-31 00:03 | 山下町 | Comments(2)
2014年 08月 24日

山下町211番地

関帝廟前の四つ辻から福建路を横浜公園方向に歩いて行くと、ひとつ目の交差点の先にある駐車場に↓

c0247059_17222915.jpg


の、焦げ茶色の廃墟然とした建物が現れます。

倉庫にしては建物の幅が狭いし窓が多いし、かと言って事務所にしては窓が小さいし外光を遮る鎧戸があるし、何かの店だったとしても勝手口風の小さな入口が建物正面にあるだけで、店舗らしい入口は見当たらないし???

ということで、裏手に回ってみると↓

c0247059_172241100.jpg


建物の中心部に階段の踊り場らしい窓があり、二階の窓は両サイドに寄っている、ということは、正面の入口を入った正面に階段があり、中二階の踊り場で左右に分かれて二階へ至る、という構造なのでしょうか?

そうするとこの建物が倉庫だった可能性は低くなりますが、一方で「事務所の窓に頑丈な鎧戸を付ける必要性はあるのだろうか?」という疑問が。

ということで、今度は建物正面に回ってみると↓

c0247059_17225643.jpg


「う~ん、ますますわからん!」

シャッターがある正面入口と思われる開口部の右横に、看板らしきモノを取り付けていた跡があるし・・・・・・↓

c0247059_17255284.jpg


そういえばウラに当時、水町通りと、相生町と、石川町に店があったイタリアンレストランの看板があったけど、どう見てもレストランという感じじゃないし・・・・・・

「う~ん???」ということで、この建物のまわりを見回してみると、この建物の隣りには↓

c0247059_17231773.jpg


ナゾの建物と同時期くらいに建てられたと思われる物置、というか車庫風の建物があり、さらに左手には煙突がポツンと立っていて(一枚目の写真左側にちょこっと写っています)、さらに左手・・・・・・というか、駐車場入って正面には↓

c0247059_17233284.jpg


倉庫なのかビルだったか記憶が定かではありませんがその建物に接するように、切妻屋根の建物があった跡↓

c0247059_17234616.jpg


がクッキリ残っています。
ということは、なぞの廃屋の目の前にかつては別の建物があったということ。

「う~ん、わからん」ということで、今度は建物に近づいてよ~く観察すると、ガラス窓が二重になっていて室内側のガラス窓にはステンドグラスが↓。

c0247059_17261014.jpg


って、まさか占領時代のイリーガルのアングラチャブ屋?

まあ当時、そのての店は当局のご指導に従って(?)すべて本牧あたりでお行儀良く営業していた、などという話はあり得ない話ですし、需要がある所に供給ありですし、その昔は福建路のあたりには米兵相手の飲み屋が軒を並べていたそうですし、昼でも外光を遮れる鎧戸とステンドグラス、ということで撮影当時は「イリーガルなアングラチャブ屋」ということでひとり納得していました。

ということで、今回、改めて調べてみると、戦前の横浜市三千分一地形図には、この場所には横浜市の水道局が、そして手前というか地久門側の213番地には建設局があり、該当すると思われる建物も記載されています。

さらに1944年以降の航空写真を見てみると、解像度が悪い写真ですが辛うじて該当の建物らしいものが確認できますし、1947年の写真にはハッキリクッキリ写っているのが確認出来ることから、この建物は戦前に建てられたということが判明しましたが、戦後の航空写真を見ると、建物の正面にはゴチャゴチャと別の建物が林立状態。

でこちらの中区解体新書の8~9ページにこの場所にあった煙突(一枚目の写真の左側に煙突の上部が写っています)のことが書かれていますが、そこにこの建物がかつて水道局の事務所だったことと、1994年当時はウラに看板が掛かっている某イタリアンレストランの倉庫として使われていたことが書かれています。

しかし水道局の事務所として建てられたとしたら、鎧戸をピッタリ閉めて外光を遮断出来るような構造にする必然性や、窓の大きさなどに疑問が残るし、倉庫だったとしても資材を出し入れするには出入り口が狭すぎるし、かと言ってこの建物が水道局関連の建物だったことは歴然とした事実ですし、それよりもなによりも問題は、終戦後からこの建物が某レストランの倉庫になるまでの間、いったい何に使われていたのか、ということ。

う~ん、イリーガルなアングラチャブ屋説には自信があったのですが、とにもかくにも建物が現存していない現在となっては、あれやこれやの真相はすべて歴史のブラックホールに吸い込まれてしまったワケで・・・・・・。

ということで最後に蛇足ではありますが、上記の中区解体新書にはこの建物に「銃撃の後が残っている」と書かれているので探してみたのですが、確かに建物の壁に開いた穴が確認出来ます。
しかし詳細に見ると、一般的に銃弾は堅いコンクリートに当たった瞬間に潰れるので漏斗状の穴が開くものなのですが、これらの穴は形状がキレイなことや、穴の角度がどう見てもほぼ水平なことから、何かを取り付ける為にドリルなどで人為的に開けられたモノと思われます。

あえて言えば、建物正面右隅の一階と二階の間に二つある粘土をヘラです~っと掻いたような跡が機銃掃射の痕・・・・・・かもしれないね、という感じ。

まあ当時は(今も?)、古い建物の壁に穴が開いていると、なんでもかんでも「戦争中の機銃掃射の痕」にされてましたけどもね。

ちなみに現在、この場所にはマンションが建てられています。


*写真はすべて1981年撮影。



[PR]

by yokohama80s | 2014-08-24 00:04 | 山下町 | Comments(2)
2014年 08月 17日

中華街

先週の段階で、中華街19ストリートのうちシルク通り、蘇州小路、開港道、南門シルクロード、媽祖小路の5つをUP済みなので、今日は残り14ストリートを一気に・・・・・・と行く前に、写真に写っている建物の番地は撮影時のメモ書きが元になっていますので、該当の建物の所在番地や通りが実際と違っている、などということも有るかと思いますが、そのあたりのことは笑ってお許しくださいまし。

また表向き「中華街は牌楼と呼ばれる門の内側」と定義づけられているようですが、各通りの始点終点については「ここからここまで」と明確に定義づけられているようでも無いので(私が知らないだけ?)、横浜中華街のHPエリアマップを参考に独断と偏見と思い込みと願望(?)をもとに私が勝手に決めたものであることと、写真に写っている建物、店舗の番地は撮影時のメモ書きがもとになっていますので、実際の番地と異なっている可能性があることを始めにお断りさせていただきます。




(6)中華街大通り→善隣門~本町通りの朝陽門まで
c0247059_1653435.jpg
*①153番地・萬珍樓(写真の店舗は2002年に火事で焼失してしまったそうです)

 
私の記憶が確かなら、写真の萬珍樓は、現在、中華街で営業している店では、1884年(明治17年)開業の聘珍樓に次いで古い店(1892年・明治25年開業)になるようです(・・・・・・と思います)。
まあそのあたりのことは、みなさん各自でお調べ頂くとして、店頭にある金文字、これ、招牌(ショウハイ)と呼ばれるモノでその店のキャッチフレーズを示しているもの。

萬珍樓の場合は、1892年(明治25年)にこの場所で店を開いて以来、 「包辦酒席(ホウベンシュセキ)」という招牌を店先に掲げているのですが、この意味は簡単に言ってしまうと「料理全般なんでもお任せ」といった感じ。

蛇足ではありますが、この萬珍樓の店内には、かつて123番地、今で言うと太平路と南門シルクロードのカドにあった、ピアノ造りでヤマハ(山葉)と双璧をなしていた伝説の周ピアノ製アップライトピアノが置いてあるそうです(By 横浜ミストリー及びリンク参照)。




(7)広東道→長安道の加賀町警察署わき~開港道まで

c0247059_1134885.jpg
*②151番地近辺の広東道側


c0247059_113588.jpg
*②151番地近辺の広東道側


この通りは、中華料理店が店を並べる中華大通りの裏通りで、大通り沿いの大店を裏から見ることが出来て、さらに観光客もいないし、なんか「中華街」という雰囲気満点の通りで、いつも大通りを歩かずにこちらの通りを歩いていた記憶があります。

ちなみに↑の写真は、当時、大通りの151番地にあった金陵またはその近辺の店のウラ側のようです。
       



(8)上海路→南門シルクロードの隣りの通りで大通り~関帝廟通りの山下町公園前まで

c0247059_1724717.jpg
*③186番地・大勝パーマ

 
写真は1959年(昭和34年)開業の、ありし日の大勝パーマ店(注:建物は現存しています)。

その通りを挟んで反対側の斜め向かいにあったのが↓

c0247059_0342510.jpg
*④192番地・李華飯店(高張提灯が中華料理店というよりも遊郭といった感じ)


そういえば現在の料理屋さんは今風の建物になっていますが、撮影当時には写真のような中華風神社仏閣建築というか、見方によっては遊郭建築風の外観の料理屋さんが多かったように記憶しています。




(9)北京小路→大通りの市場通り門の北~開港道と広東道の合流まで

確か大通りとのカドに当時、ビートたけしが好んで(?)被っていた頭でっかちのおたふくの仮面(?)とかチャイナドレスやら竹カゴなどを並べていた店あり(違ったかな?))、通りの両側に間口が狭い小規模低価格で美味しい料理を出す店が建ち並んでいて、当時、このあたりをウロウロする時には必ず昼食に寄っていた店もこの通りにありました。
ただこの通りにたどり着く頃には、ハンガーノック寸前が常でしたので写真はありません(笑)




(10)市場通り→大通りの市場通り門~関帝廟通りまで、はたまた堀川通りの市場通り橋まで

その昔、朝市が開かれていたことから名付けられた"市場通り"。

通りにあった魚屋店頭の、生きの良さそうなワタリガニこと上海カニを撮った記憶が鮮明に残っているのですが……???
とにもかくにも店頭に並んでいる品物や、看板に注意を払わなければ、フツーの駅前商店街という感じでした。




(11)香港路→市場通りの隣りの通りで広東道~関帝廟通りまで

この通りには雰囲気のある店舗が多かったのですが、なにぶんにも某有名中華料理屋(というか今もありますが)の行列が平日でも凄く、さらに狭い通りに人が溢れかえっていたので、とてもじゃありませんが立ち止まって呑気に写真なんか撮影できる状況ではありませんでした……と記憶しています。




(12)中山路→さらにその隣りの通りで、開港道~関帝廟通りまで、はたまた太平道まで、いやいや面倒だから堀川通りまでだ(?)

c0247059_17452284.jpg
*⑤140番地・華僑総会


c0247059_17443694.jpg
*⑥139番地・お気軽な店ルビー


この通りは、その昔、堀川に向かって左側に米兵相手の飲み屋がズラッと軒を連ねていたことから、米兵たちから"ハッピーアベニュー"と呼ばれていたそうで、撮影当時も小さなバーやらスナックやらが関帝廟通りまでズラッと軒を並べていました。

で通りの右側には、獅子舞で有名な(?)中華学院があり、その敷地の中山路側には華僑総会の建物があり、上の写真の撮影時がちょうど国慶節の頃だったので民国系のポスターが貼られています。
確か当時の正式名称は、「中華民国留日華僑総会」だったかと・・・・・・。

そういえば当時は、国慶節の頃になると、あちらこちらに台湾こと中華民国の国旗が掲げられていましたっけ↓。

c0247059_1534944.jpg
*⑦187番地・南門シルクロードのオリエンタルH隣りの第一伸栄ビル


c0247059_18504818.jpg


余談ですが、この通りに関しては写真がある程度の数あるので、後日、日を改めてUPしたいと思います。




(13)関帝廟通り→地久門~天長門まで(中華大通りの一本南に平行している通り)

c0247059_17584795.jpg
*⑧127番地・生利中華食品雑貨行


c0247059_1758057.jpg
*⑨131番地・理髪トミ


この通りについても所々に写真のような、「らしい」店や建物がありましたが、通りを歩いていると中華街なのに日本そば屋があったり、縄のれんの店があったり、写真屋とか薬局、パーマ屋、床屋などが店を並べ、中華料理屋もあるには有りましたが、大通り周辺の店のような観光客相手というより、どちらかというと地元の人相手、と言った感じだったように記憶しています。

ということで、この通りを歩いていると、中華街を歩いているというよりも、どこにでもあるフツーの商店街を歩いているような錯覚にとらわれた印象があります。
そういえば撮影当時は、この通りは関帝廟通りではなく、新通りと呼ばれていたような気が・・・・・・?





(14)長安道→海河道の加賀町警察署前というかウラの三叉路から善隣門、地久門を左手に見ながら太平道にぶつかる五叉路まで、はたまた西の橋まで。

c0247059_1833912.jpg
*⑩203番地・加賀町警察署


長安道と海河道を分ける場所に建っていたのが加賀町警察署

現在は新築されていますが、新築にあたり建物の向きがひっくり返ったという事実を気にする人は少ないようですが、当時は警察署正面左手の通りが長安道で、右側が海河道になります。

ということで、長安道をズイズイ進むと、通りの右手に中土木事務所があり、撮影当時にはこんなの↓

c0247059_1810516.jpg
*⑪246番地・中土木事務所前


がなんの説明書きもなく歩道脇にチョコンと置かれていました。

実はコレ、この写真を撮る数週間前だか、数ヶ月前だかに、山下町37番地(現在、合同庁舎があるところ)から発掘されたての居留地時代の下水管で、断面が卵のような楕円型であることから"卵形管"と言うそうです。




(15)太平路→長安道と五叉路(堀川通りの中央病院前交差点から?)~南門シルクロード

c0247059_1812197.jpg
*⑫168番地・同潤会アパート


太平路と長安道が交差する所にあったのが同潤会山下町アパート。
これについては同潤会山下町アパート同潤会山下町アパート一号館同潤会山下町アパート二号館と、過去に三回取り上げていますので「以下省略」ってことで。

さらに同潤会山下町アパートの先にはこんなのもあったりして、よく通りましたが印象としてはどこにでもある商店街のウラ通り、といった感じでした。 

 


(16)海河道→加賀町警察署北交差点から堀川通りまで

c0247059_18335854.jpg
*⑭200番地・山下ビル


加賀町警察署の右側の通りが、大さん橋通りに平行する裏通りにあたる海河路なのですが、この通りには、再来週、「大さん橋通り編」としてまとめてUPするウインクレル商会とか、帝蚕倉庫山下町倉庫などがありました。




(17)北門通り→善隣門~大さん橋通りの北門まで

c0247059_18212365.jpg
*⑬199番地・サパークラブ グランドパレス


海河路の加賀町警察署西交差点を右に、というか大さん橋通りの方、というか北門の方に向かうと、大さん橋通りとの中間あたりにあったのが、すでに閉店していたサパークラブ グランドパレス。

最近ではあまり耳にすることは無くなりましたが、サパークラブとは一言で言えば高級なキャバレー、はたまた高級クラブ、もっと具体的に言えばぶったくられるのが前提のキャバレー……みたいな……?

でこのグランドパレスは、1963年ごろに加賀町警察署のすぐ裏手にも関わらず、いわゆる「仁義なき戦い横浜編」のような事件の舞台になり、その後しばらく「中華街は物騒な所」という悪印象を横浜市民に与える一因になったとかならなかったとか。

 


(18)西門通り→善隣門~西門まで

この通りも、看板に書かれている漢字が中華チックな程度で、どちらかというと太平道と同じく「どこにでもある商店街はずれ」と言った感じでした。




(19)福建路→関帝廟通りの地久門から大さん橋通りまで

この通りは、関内駅から中華街に向かうときのメインルートのような感じで、常に人通りの多い通りでしたが、通り沿いには駐車場しかなかったような気がします。

詳しくは来週のお楽しみということで。

ということで、撮影当時の80年代初め頃は中華料理店軒を連ねたいわゆる中華街、という感じだったのは長安道、中華大通り南門シルクロード、関帝廟通りの内側にギュッと凝縮されていて、そこから一歩離れるとどこにでもあるごくごくフツーの商店街とその裏通りと言った感じでした。


*写真はすべて1981年撮影。




お断り:番地および所在地が間違っている可能性大ですので目安程度にお考えください。

[PR]

by yokohama80s | 2014-08-17 00:05 | 山下町 | Comments(2)