週刊 横濱80’s

hama80s.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:山下町( 36 )


2016年 06月 12日

山下町95番地 同發菓子工場

 現在、開港道とシルク通りに挟まれた山下町95番地に、壁に「同發菓子工場」と書かれた蔦に覆われた鉄筋コンクリートの古びた建物があります。

c0247059_0434956.jpg


c0247059_044692.jpg
-写真①-
*1982年撮影


 どう見ても「戦前に建てられたらしい」ことは一目瞭然なのですが、「実際にいつ建てられたのか?」ということを調べてみても、1994年刊の中区解体新書に「真偽のほどはわからないが昭和10年ごろの建築といわれている」と記されている以外は、建築マニアの方のサイトを見ても「なんか古い建物があるね」と出ているだけ。

 そうなると「いつ建てられたのか?」をどうしても知りたくなるのが人情というもので、いろいろと無い知恵を絞って考えてみると、建物の建設時期が判明→その時にその場所に居た者が施主→施主の職業=建物の建設目的、という具合に芋づる式に判明するのではないか、と考えたワケです。

 ということで、1985年発行の中区史の山下町のページに掲載されている山下町街並図に、この建物らしき物が記載されていることから昭和5年以前に建てられたものと推測できることから、それ以前の写真を探してみたものの見つからず。

 調査早々に手詰まりとなったワケですが、ある日、国立国会図書館デジタルコレクションで1927年(昭和2年)に横浜市港湾部が出版した「横浜の港湾」という本を眺めていると、巻頭ページに昭和2年5月に現在の東洋船舶信号所から本町通りを写したパノラマ写真があるのを発見。

 さらにこの書物は、2年後の1929年(昭和4年)に改訂版が出版され、内容は同じなのですが巻頭ページの写真が昭和3年10月に同じ場所から撮影された新しい写真に差し替えられていて、さらにその5年後の1934年(昭和9年)に横浜市土木局が出版した「横浜港」という書物に同じ場所から昭和9年夏頃に撮影された写真があるのを発見。

 そこで「これら三枚の写真を比較してみれば、建設時期が判明するのでは?」ということで、本町通りと露亜銀行の建物を目安にして山下町95番地あたりの見当をつけて拡大してみると↓

c0247059_236291.jpg
-写真②-
*昭和2年の本町通りは区画整理前の震災前の状態、昭和3年は区画整理工事中で昭和9年はほぼ現在の形に
ちなみに右下の写真は参考として横浜都市開発記念館のWEBサイト
WEBアルバム「横浜グラフ」-昭和9年の横浜-より五月後半「五月晴れの空からヨコハマを漫歩する」から


「ビンゴ!!!」と喜ぶ前に写真②について少し解説しておきます。

 左上の昭和2年5月に撮影された写真でシーベルヘグナー生糸倉庫の右に見えるのが日本大通の旧三井物産生糸倉庫と事務所棟で、そのさらに右手の開港記念館の尖塔の手前に見える白いビルは、窓の数や形と翌年に撮影された写真に写っていないことから、商工奨励館が建つ前に同所にあり震災で内部が焼失したアメリカ領事館が、その手前にあった竣工直前に同じく被災した中央電話局が建て替えの為に取り壊されたことで姿を現したもので、そのさらに右手に見えるのが建設途中の県庁旧庁舎で、本町通りは震災前の狭い通りのままで、山下町側の本町通りの両側には震災前に建てられた旧露亜銀行しかビルがありません。
 
 そして右上の昭和3年10月に撮影された写真では、この年に竣工したユニオンビルが95番地の右手に姿を現し、本町通りは鋭意拡幅工事中で、この写真が撮影された昭和3年10月に竣工した県庁旧庁舎にはまだ足場らしき物が確認出来る状態で、その下に見えるのが建設真っ最中の昭和4年竣工のライジングサン石油本社ビル

 左下の昭和9年の撮影時期は不明ですが、光線具合から個人的には7月くらいに撮影された写真だと思うのですが、とにもかくにも遠景が霞んで不鮮明ですがシーベルヘグナー生糸倉庫の右手にはチャータード銀行のビルが建ったことで三井物産が見えなくなり、本町通りその他にはヘルム商会のヘルムハウスアパートメント以外の有名処の建物はすべて出そろった形となっています。

 ちなみに右下の航空写真は、建物の位置を確認するのに参考にしました。

 ということで話を戻すと、昭和2年(1927年)に撮影された写真には現存している同發菓子工場の建物と同じ特徴を有する建物が写っているものの、翌年以降に撮影された写真に写っている建物の窓(写真①の面の二階の窓)が写っていないことから、この建物は昭和2年5月の時点では建設中だったと考えられ、そうなると遅くともこの年の夏までには竣工していたはず、という仮説が成り立ちます(前年の大正15年こと昭和元年の写真があれば決定的なんですが……)

 そうなると次なる問題は昭和2年当時に、この建物がある山下町95番地には「誰が居たのか?」ということですが、横浜開港資料館が発行した開港のひろば・第59号 「横浜の外国商館」展余話 時計の輸入商社に「山下町95番地に1887年(明治20年)から1931年(昭和6年)まで生糸の輸出と時計の輸入製造販売を行っていたスイス系商社のナブホルツ商会(Nabholz & Co→註:ナボールともナボルツともナボーツとも表記している書物もある)」という記述があります。

 そこでさらに"ナブホルツ商会"について調べてみると、山下町95番館のナブホルツ商会は在浜外国系生糸業者の中では最大手のひとつに数えられていたようなのですが、ネットで検索して出て来たのは前記の開港資料館の会報と、大阪時事新報の記事(神戸大学電子図書館システム・大阪時事新報1923/9/23より )だけ。

 この記事は、震災後に横浜の主だった生糸商達がこぞって神戸に移転して、それを受けた神戸市が震災で機能不全に陥った国内唯一の生糸積出港だった横浜港に取って代わるべく当時、京都にあった生糸検査場の神戸移転を政府に働きかけ、このことに危機感を持った横浜蚕糸貿易商同業組合が1923年(大正12年)9月19日に「今後、海外に向かって貿易の目的をもってする生糸の購入輸出行為及びその幇助を他市場又は港湾においてなしたる者には組合は永久絶対に売買取引を謝絶する←原文のまま。要するに横浜から追放する、すなわち日本の生糸市場からの追放を意味する」(1925年発行「横浜復興録」より)という恫喝まがいの決議文を発表したことに対して、「笑止千万、片腹痛いわ!!!」という神戸側の反応を報道した物。

 しかしあの手この手で東京築港と開港に関して61年もの長きに渡って妨害工作を繰り広げてきた横浜港湾マフィア(この場合の「マフィア」は反社会的集団を意味する物では無く、「結束の固い集団」という意味で、当時の横浜の政財官界の事を指す私の造語ですwww)がこの程度のことで白旗を揚げるワケがなく、このあと政府に対してあの手この手であれやこれやと画策を巡らし、最終的に「震災前と同様に国内の生糸積出港は横浜港一港で行う」ということに決定。

 これにより神戸で生糸貿易を再開出来るものと思っていた生糸商たちは、急遽、横浜に戻らざるを得なくなったものの、この時の横浜市内は横浜港を含めてどこもかしこも焼け野原と瓦礫の山。

 このため国は、震災で倒壊焼失した生糸検査場と付属倉庫を北仲通5丁目に、そして山下町224番地に輸出絹織物検査場をそれぞれ大正15年(1926年)までに再建し、震災で発生した火災により横浜に在庫していた生糸は昨年に取り壊された日本大通の旧三井物産生糸倉庫に保管されていた物以外はすべて焼失し多大の損失を被った反省と、大手生糸商社は自社の在庫量などを秘匿して取引を有利に進める為に自前の生糸倉庫を所有する慣習があったことから、横浜で生糸貿易を再開するために取るものも取りあえず事務所を神戸に残したままで、はたまたバラックの仮事務所の隣りに鉄筋コンクリート造りの防火構造の生糸倉庫を相次いで建設しています。

 ということでこれらの話を総合すると、この建物が建てられたと推測される昭和2年こと1927年当時に山下町95番地に所在していたのは、生糸輸出と時計の輸入製造を営んでいたスイス系商社のナブホルツ商会であり、ナブホルツ商会には耐火構造の生糸倉庫を建設する理由があることから、山下町95番地の同發菓子工場として使われている建物は、1927年(昭和2年)にスイス系商社のナブホルツ商会によって建てられた耐火構造の生糸倉庫である……可能性がきわめて高い、ということになります(ナブホルツ商会か建物を施工した会社による資料文献が無い限り、あくまでも推測の域を出ませんが……)
  
 その後、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発したアメリカでの生糸価格大暴落の煽りを受けて(昭和4年の横浜港の生糸輸出額が当時の金額で5億7千万円だったのに対して翌年昭和5年は2億9千万円と約半分にまで落ち込みその後、回復することはなかった←昭和9年「横浜港概覧」より)、1931年(昭和6年)以降、ナブホルツ商会の名は歴史の表舞台から姿を消し、代わって山下町95番地の新たな主となったのが、当時、絹、人絹織物の輸出を行っていたインド系商社のキシンチャンド・チェララム商会、ジ・ラムチャンド商会、ウトマル・エンド・アスダマル商会の三社。

 この三社がそれぞれ一棟づつ建物を分け合ったのか、はたまた共同で使用していたのかについては定かではありませんが、これらのインド商社も第二次世界大戦により横浜から撤退し、 その後、1952年(昭和27年)に横浜市の要請により山下町95番地の現在、同發の事務所として使われている建物を、キシンチャンド・チェララム商会が店舗兼住宅として使用し云々かんぬん……続きはこちら(開港のひろば 127号)をご一読下さいということで以下省略。

 ちなみに撮影当時、建物の壁には会社名らしきものが複数書かれていますが↓

c0247059_23231025.jpg
-写真④-
*文字部分を拡大


アクメ・ファスト・フレート(旧露清銀行跡のアクメ貿易と同一と思われる)、バーナム・ワールド・フォワーディング(戦前に山下町76番地で絹製品などの輸出を行っていたボーマルブラザース商会と思われる)、インターコンチネンタル・トランスポート(?)、あとの6つは判読不能ですが、とにもかくに名称から考えるとすべてインド系商社のようなので、この建物が1970年代前半に現所有者に売却されるまではこれらの企業によって共同使用されていたものと思われます。

 最後に、蛇足になりますが仮に山下町95番地に現存する古びた建物が、本当にナブホルツ商会の生糸倉庫だったとすると、日本大通の旧三井物産生糸倉庫と、北仲通5丁目の帝蚕倉庫の辛うじて残っていた最後の一棟が取り壊された(帝蚕倉庫事務所横に"復元保存"するそうですが「オリジナルを壊しておいて"保存"もヘッタクレもあったもんじゃない!!!」と思うのははたして私だけなのでしょうか???)いま、横浜市内において唯一現存する戦前に建てられた生糸倉庫、ということになるのですが……。




[PR]

by yokohama80s | 2016-06-12 00:01 | 山下町 | Comments(0)
2016年 01月 31日

山下町92番地 横浜繊維

 中華大通りと開港道の分岐から開港道を加賀町署方向にテクテク歩いて、当時、オープンしたばかりのホリデーインこと現在のアスターホテルを過ぎて、中華街パーキングの先のマンションの隣りの、現在、コインパーキングがある場所に↓

c0247059_21111381.jpg


c0247059_21112181.jpg


の、戦前建築臭がプンプンする怪しい建物がありました。

 ということで、撮影当時の住宅地図を見てみると、山下町92番地・横浜繊維K.Kとあります。
で、今度はその会社名で検索すると、現在、コインパーキングがある場所の隣りに本社を構える昭和21年創立の麻製品などを販売する会社と判明。

 さらに掘り下げて調べてみて判明したのは、この建物は撮影当時は横浜繊維の倉庫として使われていた建物のようで、その後、これらの写真を撮影してほどなくして取り壊され、跡地は現在まで駐車場となっています。

 ただこの建物は、どう見ても戦前建築のようなので、例によって国土地理院の空中写真地図検索サービスから昔の航空写真を見比べてみると、1944年と1946年、1947年の戦中から終戦直後に撮影された航空写真に該当建物と思われる建造物が写っていて、その後、1981年の写真まで同一の建物を確認できることから戦前に建てられた建物であることは確かなようです。

c0247059_2335764.jpg
*1947年撮影の航空写真から
(赤い四角が写真の建物……だと思われます)


 そこで近代デジタルライブラリーで横浜市役所勧業課が編集した横浜市商工案内を紐解いてみると、戦前の山下町92番地には、欧州への絹織物を輸出していた合名会社森友貿易商会、米国製化粧品の輸入と雑貨の輸出入を行っていたS.アイザック商会、屑糸、自動車タイヤなどの輸出入を営んでいたスゾール・ロンボウ商、外国人が経営していた洋食レストラン、不動産屋、ベルギー領事館とチェコ領事館があったようです。

 蛇足ですが、S.アイザック商会のシャチョーさんがチェコ領事をされていた関係から、戦前のチェコ領事館はS.アイザック商会に間借りしていたそうです(戦前、横浜にあった領事館の多くがこのパターンだったようです)。

 という話はひとまず置いておいて話を元に戻すと、昭和5年以降継続して92番地を所在地にしていた会社は、S.アイザック商会とチェコスロバキア領事館のふたつなので、この建物はS.アイザック商会関連の建物と考えるのが妥当なようです。

c0247059_21114215.jpg


c0247059_2112717.jpg
*建物の床面の高さがシルク通りと同じ高さになています。


*写真はすべて1981年撮影。





*来月2月のUP予定
2月 7日: 金沢区幸浦・海辺の散歩道
2月14日: 金沢シーサイドライン
2月21日: 根岸町2丁目 スナック伽風豆虫
2月28日: NASUGB BEACH AREAとPX

[PR]

by yokohama80s | 2016-01-31 00:10 | 山下町 | Comments(2)
2016年 01月 24日

中華街・中山路

 中華大通りから中山路を関帝廟通り方向に進むと、エキゾチックなコンクリト塀が続き↓

c0247059_2057180.jpg
*①


その先にあるのが、山下町140番地の横浜華僑総会↓

c0247059_20572038.jpg
*②


c0247059_20573278.jpg
*③


 でエキゾチックなコンクリート塀の向かい側の146番地には↓

c0247059_20584380.jpg
*④


c0247059_20585872.jpg
*⑤


寂れた感じの飲み屋さんが軒を並べ↓

c0247059_2332411.jpg
*⑥


c0247059_2059133.jpg
*⑥


でさらに進むと関帝廟通りと交差して↓

c0247059_20594938.jpg
*⑦


さらにその先の太平道に向かう途中に↓

c0247059_21165561.jpg
*⑧
(山下町130 能登屋)


c0247059_2105875.jpg
*⑨


中華街には不釣り合いな「ふぐちり」「どぜうなべ」というのぼりに縄のれんが。

そして同潤会アパートの裏手あたりには↓

c0247059_211121.jpg
*⑩


c0247059_2112642.jpg
*⑪


民家が建ち並んでいました。


*写真はすべて1982年撮影。



[PR]

by yokohama80s | 2016-01-24 00:10 | 山下町 | Comments(2)
2016年 01月 17日

中華街・市場通りと香港路

 以前、中華街というタイトルで中華街の各通りの写真をアップしたのですが、その記事で「市場通りと香港路の写真は無い」としたのですが、その後、撮影当時の住宅地図を入手して照合してみた結果、市場通りと香港路で撮影されたと判明した写真がゴッソリ出て来たので、今日はそれらの写真を↓

 ということで、現在の中華街大通り、まずは撮影当時の中華大通りから香港路に入ると、当時流行ったグルメ漫画で取り上げられたことで昼食時になると入店待ちの行列が出来ていた某中華料理屋をすぎた山下町147番地にあった美容院↓

c0247059_17303760.jpg
*①


そしてしばらく行った通りの左側の138番地に↓

c0247059_17352468.jpg
*②


で関帝廟通りに出る手前くらいに↓

c0247059_17384928.jpg
*③


c0247059_17385934.jpg
*④


c0247059_1739492.jpg
*⑤


c0247059_1740114.jpg
*⑥


複数の建物を倉庫というかなにかの食品関係の加工場として利用していたと思われる建物が連なっていました(1978年の住宅地図を見ると関帝廟通りの127番地にあった生利中華食品雑貨行関連の施設だったようです)

 ということで、香港路から関帝廟通りに出ると、その先の太平道方向へは行けないので関帝廟通りを左に折れて今度は市場通りに入って太平道方向に進んだ通りの左側133番地にあったクラシカルな民家↓

c0247059_17442076.jpg
*⑦


そしてその先の126番地にも↓

c0247059_17445970.jpg
*⑧


というように、撮影当時の市場通りの関帝廟通りの先は、一戸建てのバラック造りの民家が多かったように記憶しています。

*写真はすべて1982年撮影



[PR]

by yokohama80s | 2016-01-17 00:12 | 山下町 | Comments(0)
2016年 01月 10日

中華街大通り

 中華街大通りとは、加賀町警察署前の善隣門から本町通りの朝陽門までの中華街の中心的な通りで、撮影当時のガイドブックには「中華大通り」と表記されています。

 ということで善隣門から朝陽門までの中華街大通りの左側の写真を↓

c0247059_17214462.jpg
*①萬珍樓


c0247059_17232988.jpg
②廣新楼


c0247059_17233973.jpg
③照宝


c0247059_17234987.jpg
④聘珍樓


c0247059_1723578.jpg
⑤有昌


c0247059_17241065.jpg
⑥栄興号


*写真はすべて1982年撮影





c0247059_17241981.jpg

[PR]

by yokohama80s | 2016-01-10 00:12 | 山下町 | Comments(0)
2015年 10月 25日

山下町58 ライジングサン石油ビル

 本町通りを谷戸橋方向に向かう途中にある山下町交差点のカド、山下町58番地の現在、タワーマンションが建っている場所にかつてあったのが"シェル石油横浜ビル"こと"旧ライジングサン石油ビル"。

 ちなみにライジングサン石油とは、現在の昭和シェル石油の前身にあたり1833年(天保4年)ロンドンでアジア産の貝殻を扱うサミュエル商会として開業し、1876年(明治9年)に横浜に進出し1900年(明治33年)に石油部門を独立させてライジングサン石油が営業開始。

 そして1923年(大正12年)の関東大震災により本社を神戸に移転し、1929年(昭和4年)に山下町58番地に本社新築落成、というようなことが、昭和シェル石油HPに書かれています。

 となると、「震災後に本社を神戸に移転」とあるのは、一時的なものだったのでしょうか?
そのあたりのことはよくわかりませんが、とにもかくにもこのビルは、戦時中、アメリカに避難している時に、本土空襲の指揮を執ったカーチス・ルメイに協力して焼夷弾の効果実験用日本家屋を設計したことで知られるアントニン・レーモンドによる3階建てのモダンな感じのオフィスビルで、私はてっきり戦後になって建てられたビルだと思っていました。

 ということで、建設当時の姿をご覧になりたい方は、こちら(1931年建築時代・第19号/近代デジタルライブラリー)をご参照下さい。

c0247059_18413889.jpg


c0247059_18414873.jpg


c0247059_18415867.jpg


c0247059_1842977.jpg


*写真はすべて1981年撮影。






*来月、11月のUP予定
11月 1日: 川崎市営埠頭
11月 8日: 東京電力川崎火力発電所
11月15日: 千鳥町 コンビナート
11月22日: 千鳥町 タンク
11月29日: 東扇島

[PR]

by yokohama80s | 2015-10-25 00:11 | 山下町 | Comments(0)
2015年 10月 18日

山下町204 ストロングビル

 ストロングビルとは、2007年まで大桟橋通りと福建路のカドにあった1938年(昭和13年)に、ストロング商会により建てられた3階建てのビルのこと。

 ちなみにこの建物は、2007年に横浜市認定歴史的建造物の指定を受けていますが、1938年(昭和13年)に建てられた本来のストロングビルは2007年に取り壊され高層ホテルに建て替えられているので、正しくはダイワロイネットホテル横浜公園が横浜市認定歴史的建造物に指定されているということになります。

 ちなみに横浜市がこの建物を認定歴史的建造物に指定した理由が、「新たに建築された建物の低層部に建築当時の設計図に基づいて外壁を忠実に復元」したからなんだそうな……って、「"新たに建築"しちゃったら歴史的建造物にならないんじゃないの?」といういたって素朴な疑問が???
  
c0247059_18161013.jpg


c0247059_18162287.jpg


c0247059_1731283.jpg


c0247059_1731469.jpg


c0247059_17313638.jpg



*写真はすべて1981年撮影。



[PR]

by yokohama80s | 2015-10-18 00:05 | 山下町 | Comments(0)
2015年 10月 11日

山下町256 ウインクレル商会

 その昔、関内駅南口から西の橋に至る通りに、中華街から延びる海河道がぶつかる所のカド、山下町256番地の現在、21階建てのマンションが建っている場所に歴史的建築総目録データーベースによると大正15年、西暦に直すと1926年に建てられたとされるクリーム色に塗られ所々コンクリートがはがれ墜ちた廃屋然とした倉庫がありました。

 現在、同所にあるマンションが1997年築とのことなので、それ以前までは、京浜東北線で横浜方面から石川町へ行く時の左の車窓(逆方向なら右手)に見えたので、記憶にある方も多いのではないでしょうか。

 この古ぼけた倉庫は、1885年(明治18年)に雑貨の輸出入を行う会社としてドイツ人により山下町居留地245にて創業したウインクレル商会が、第一次世界大戦で一時撤退したのちに山下町256番地に移転し、震災により焼失したことにより再再建(?)された建物なのだそうです……というようなことが、こちらの企業情報のページに出ていますのでご興味のあるムキをご参照ください。

c0247059_1875838.jpg


c0247059_188713.jpg


c0247059_1881869.jpg


c0247059_1882610.jpg


c0247059_1883767.jpg


*写真はすべて1981年撮影。




 
[PR]

by yokohama80s | 2015-10-11 00:08 | 山下町 | Comments(0)
2015年 10月 04日

山下町280番地 旧露亜銀行横浜支店

c0247059_1335596.jpg
 

 ↑の重厚な建物は、1921年(大正10年)に露亜銀行横浜支店として建てられたのですが……露亜銀行については、こちらの拙記事(山下町・上町前編)と重複するのでそちらをどうぞ、ということで以下省略。

 ということで、この建物の来歴をザックリと書き出すと

1921年(大正10年):旧露亜銀行横浜支店として山下町51番地2-乙に建てられる
1926年(大正15年):露亜銀行が日本から撤退
1926年(大正15年)~:J.H.モーガン設計事務所(昭和3年に自らが設計した75番地のユニオンビルに移転)
1928年(昭和3年)~1931年(昭和6年)ごろまで:横浜市瓦斯局(その後、山下町250番地に移転)
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年):ドイツ領事館が山下町256番地のウインクレル商会1階より移転しドイツの敗戦まで使用
1945年(昭和20年)~:アメリカ銀行などの進駐軍関係の機関が使用
1959年(昭和34年)~:横浜入国管理事務所
1979年(昭和54年)?~1996年:警友病院別館(所在地の番地が51-2から警友病院と同じ47番地に)
1996年~2011年:県所有の空家
2011年~現在:結婚式場「la banque de LoA”バンク・ド・ロア”(所在地の番地が280番地に)。

ということで、詳しいことをお知りになりたいムキは、ググればゴッソリ出てきますので、これまた以下省略、ということで(笑)

c0247059_1333242.jpg


c0247059_1334240.jpg


c0247059_13468.jpg


c0247059_1341665.jpg


c0247059_1342563.jpg


c0247059_1343457.jpg



*写真はすべて1981年撮影。



[PR]

by yokohama80s | 2015-10-04 00:15 | 山下町 | Comments(0)
2014年 08月 31日

大さん橋通り

これまで4週に渡って取り上げてきた山下町は、開港当初から開けていた地区と言うか、旧永代借地の欧州人商業地区と、清国人地区と言った感じの場所になりますが、今日は明治に入って埋立造成が完了した新埋立地、今で言うと中華街の長安道の西側から横浜公園裏手の大さん橋通り沿いをお送りします。

ということで兎にも角にも震災前までは、106番地~231番地あたりの堀川通り沿いには船員相手のチャブ屋がビッチリ軒を並べ、その周りと現在は埋め立てられた派大岡川沿いに日本人や中国人の住居や店舗、会社事務所、石炭置き場、外国商社の倉庫が並び、大さん橋通り側には出遅れた(?)海外商社や比較的小規模の商社などの事務所があったそうです。

ところが震災でこれらはすべて倒壊し、堀川沿いのチャブ屋は小港と大丸谷に移転し、跡地には主に日本人の住居や店舗が建ち、海河道と大さん橋通りに挟まれた205、207、209、222,226のブロックには北仲通の生糸検査場から移転してきた絹織物検査場や、横浜絹布倉庫(のちに帝蚕倉庫と合併)などが、大さん橋通り側には海外商社の事務所ビルが建てられました。

まあ簡単に言ってしまうと、山下町のこのあたり一体は震災後に発展した新興地区と言っても良いのかもしれません。

ということで、今日、最初の写真は204番地の主に雑貨の輸出入を行っていたストロング商会によって1938年(昭和13年)に建てられたストロングビル↓。

c0247059_16274924.jpg
①204番地・ストロングビル


c0247059_1628261.jpg
①204番地・ストロングビルのウラ


次は、ストロングビルと通り(福建路)を挟んで隣りにあった205番地のタチカワブラインド↓。

c0247059_16302719.jpg
②205番地・タチカワブラインド


この建物は、ストロングビルと同じく、比較的最近まで現存していた為に、検索すると画像がドッと出てきますが、屋根が瓦屋根なのにそれ以外は洋風というその特徴的な造りから、戦前に建てられたものだろうとするサイトが大部分なのですが、実はこの建物は正真正銘の戦後建築。

国土地理院の地図・空中写真検索サービスで終戦後の航空写真を見ると、この建物があった205,207、209、222、224、226番地の区画には、のちに花園橋病院となる絹繊維検査所以外に建物が無い更地になっています。

でその後の航空写真を漁ってみると、1949年の写真にはもともとここに倉庫を設けていた横浜絹布倉庫の跡を継いだ帝蚕倉庫の倉庫があるだけ。
で、1956年の写真に該当する場所にそれらしい建物が写っていることから、1950~55年の間に帝蚕倉庫の事務所棟として建てられたものと思われます(確証はありませんが)。

ということで、話の流れで海河道沿いの209番地に1949年(昭和24年)に建てられた帝蚕倉庫山下町倉庫↓。

c0247059_1646334.jpg
③209番地・帝蚕倉庫山下町倉庫


別の写真に写っている看板には、資材、洗剤、ドライアイスと出ているのですが、どういう意味かはわかりません。

ということで、福建路の一本派大岡川側(現在、首都高がある場所)の通りに82年くらいまであったのが↓

c0247059_16553149.jpg
④224番地・花園橋病院別館


c0247059_16554683.jpg
④224番地・花園橋病院別館


1926年(大正15年)に県立輸出絹織物検査所として建てられ、その後、商工省直轄の商工省横浜輸出絹織物検査所、戦後は花園橋病院、撮影当時は花園橋病院別館だったボロボロのビル。 

で一回、大さん橋通りに出て 撮影当時にはすでに埋め立てられた派大岡川沿いの通りとのカドにあったのがヨーロッパやアメリカ、オーストラリアに生糸や絹織物を輸出していたチャールズ・ルドルフ商会によって建てられた254番地のデスコビル↓。

c0247059_17125848.jpg
⑤254番地・デスコビル


c0247059_17131552.jpg
⑤254番地・デスコビルの玄関ドア


なぜにしてチャールズ・ルドルフ商会が建てたのにデスコビルと言うのかについては定かではありません。

撮影当時にはすでに埋め立てられて首都高がほぼ完成していた派大岡川沿いに堀川方向、というか石川町駅方向に歩いて行くと、海河道が合流するカドの256番地にあったのが1926年(大正15年)に建てられたウインクレル商会↓。

c0247059_17211948.jpg
⑥256番地・ウインクレル商会(表側)


c0247059_17213425.jpg
⑥256番地・ウインクレル商会(ウラ側)


このウインクレル商会は、居留地時代に横浜で設立された数ある外国人商社のひとつに過ぎなかったのですが、現在ではこれら商社の大部分が解散消滅したり、創業者の出身国や、はたまた香港を初めとした他のアジア諸国や、日本国内の他都市などに拠点を移したりしている中で、今も横浜を拠点にしている数少ない(唯一の?)横浜発祥欧米系商社です。

ってことで、この建物は根岸線に乗って関内方面から石川町方面に向かう車窓の右側に、ハマスタと高校の間にあった……というか見えた黄色味が強いベージュ色の古ぼけた倉庫なので見覚えのある方も少なくないのではないでしょうか。

このどこからどう見ても倉庫にしか見えない建物は、1935年まで空き部屋だった1階部分がドイツ領事館として使われていたそうなのですが、この建物には通り沿いに倉庫の出入り口しか無く、建物裏手の海河道側にどう見ても通用口にしか見えない出入り口(二枚目の写真に写っているヤツが唯一の出入り口)があるだけで、実際にこの建物を見たことがある人は「かつてこの建物にドイツ領事館が置かれていた」、なんて言われてもにわかには信じられないと思います。

まあ贔屓目に言えばいかにもドイツ的な質実剛健で合理的な造りの建物と言えなくもありませんが……。


*写真はすべて1981年撮影。





*9月のUP予定
9月07日: 旧横浜市営工業地帯(新興線沿線)
9月14日: 首都高速1号線 生麦ジャンクション
9月21日: 大黒埠頭・大黒大橋
9月28日: 首都高大黒大橋地組立ヤード

               
                
                 
[PR]

by yokohama80s | 2014-08-31 00:03 | 山下町 | Comments(2)