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2017年 05月 14日 ( 1 )


2017年 05月 14日

ジャーマンベーカリーについて・後編

 今週は、ジャーマンベーカリーが銀座で産声を上げてから終焉を迎えるまでをお送りします。

 
 1929年(昭和4年)
 この頃、山下町87番地にも出店する。
*出典:1930・S5 THE DIRECTORY OF JAPAN(どうやらジャーマンベーカリーは商工録類への掲載を拒んでいたようで、商工録類への掲載は東京の店を含めてこれ以外確認出来ません)
*横浜のジャーマンベーカリーは銀座のジャーマンベーカリーとは同名他店という可能性も否定は出来ませんが、かといってそれを肯定する根拠も無い以上、その可能性は極めて低いと判断されます。



1930年(昭和5年)~1935(昭和10年)
 弁天通1-9の角地に、当時としてはモダンなデザインの二階建てで、洋菓子やコーヒー、洋酒の他に昼食や夕食も出すドイツ風コンディトライ(Deutsche Konditorei)と称した実質的なレストランがオープン……したようなのですが、店が存在したこと以外の詳細は一切不明です。

 そこでいろいろな資料を見てみると、昭和6年測図の横浜市三千分一地形図「新港町」でそれらしい建物の記載があることや↓、


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横浜市三千分一地形図「新港町」より


さまざまな商工録によると弁天通1-9には昭和4年に本町4-44に横浜支店が竣工するまで安田銀行弁天通支店があったものの、その後は1-9に所在した商店の記載がないことや、弁天通1丁目を写した写真や絵葉書、航空写真が多数存在するものの、昭和10年以降に撮影された写真までジャーマンベーカリー弁天通店の目印である"飾り卯建"が確認出来ず建物も平屋建てであること。↓

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↑クリックすると拡大します↑


また山下町の店は「The Directory of Japan 1930」でしかその存在を確認出来ないのに対して、弁天通の店については上記のように写真や都市発展記念館のブログ「ハマ発ブログ」20011年12月9日の記事にある証言などでその存在が確認できることから、安田銀行移転後の昭和5年頃に旧安田銀行弁天通支店の建物にジャーマンベーカリーが入り、昭和10年~11年ごろに通りに面した建屋部分を"巨大な飾り卯建"が目印の二階建てのモダンな建物に建て替えたか、または増改築したものと思われます。
*ジャーマンベーカリー銀座店は、文学作品その他に名前が登場するのに対して、弁天通店に関する文献が見当たらない理由は、弁天通りという場所柄を考えると外国人専用として営業していた可能性が高いと考えられます。


戦前の店舗
銀座5丁目7番地(旧銀座尾張町新地17番地、鳩居堂裏すずらん通りの旧カフェー・ユーロップ)
麹町工場(所在地不明)
弁天通1丁目9番地
確認出来たのは以上の三カ所。



戦争中
 資料①でミュラー自らが語るところによれば、「戦時中の銀座店では、店があっても売る物が無く事実上の閉店状態で、昭和19年の空襲により銀座店が焼失したことで山中湖の別荘に疎開した」と述べるに留まり、横浜への進出については一言も言及をしていないのですが、これは当時の状況を考えると不自然に思えます。

 それと言うのも、当時、、山手地区には130世帯430人のドイツ人が住んでいたうえに、弁天通から歩いて10分弱のところにある新港埠頭は、1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟締結以降、連合国による大西洋の海上封鎖を突破して喜望峰周りでドイツからやって来るドイツ海軍の封鎖突破船の日本側受入港(1941年~44年までに20隻あまりのドイツ艦艇が三菱重工横浜船渠に入渠してメインテナンスを受けている)であり、その後、イギリス軍の警戒が厳重を極め帰国が困難となると、これらの艦船は帰国を諦め海上輸送能力に劣る日本の為に東南アジア方面からの物資輸送に従事していて、それら艦艇の拠点となっていました。
 
 これらのことを考え合わせると当時、横浜市内で唯一ドイツ人が経営する本格的なドイツレストランだった弁天通のジャーマンベーカリーが、銀座店も含めて閉店していたとはにわかには信じがたく、これらドイツ人相手に戦時中も営業を続けていたと考えるのが合理的だと思われます。

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで1946年に撮影された空中写真を見ると弁天通店も空襲で焼失したことが確認出来ます。
*第一次大戦時の元捕虜で日本に残留して食料関係の店を経営していたドイツ人は、食材の入手が困難になるまで店の営業を継続したアウグスト・ローマイヤー(本人は昭和17年以降は病に臥せっていた)や、疎開先の長野でパン屋を開業したヘルムート・ケテル、空襲で焼失するまで元町3丁目の汐汲坂入口でデリカテッセンの店を開いていたフランツ・メッガー(Franz Metzger)、店が空襲で焼失するまで神戸港に寄港するドイツ艦艇にパンの供給を行っていたハインリヒ・フロインドリーブ以外の大部分の者が駐日ドイツ大使館付警察武官兼親衛隊保安部代表として派遣されていたワルシャワの屠殺人と異名を取ったヨーゼフ・マイジンガーによる締め付けを恐れて開戦早々に軽井沢や長野県野尻湖畔などに疎開して事実上の軟禁生活を余儀なくされています。これらのことからミュラーが空襲で店が焼けるまで東京に居たということは、そうする必要があったことを物語っています。



1945年(昭和20年)
 日本の無条件降伏により第二次世界大戦終結。

 資料①によると、このときミュラーは、「GHQから戦犯として財産を没収されたうえ営業停止処分を受け自身は軟禁された」と語っているのですが、前述したように「戦時中のジャーマンベーカリー弁天通店はドイツ海軍御用達だった」とすると、それが「ナチスへの戦争協力」と見なされて処分を受けたとことになり話の辻褄が合ってきます。
 しかし留意すべき点は、GHQによる「ドイツ人追放令」が発布されたのは昭和22年で、これは「ナチス関係者」と「ナチス政権掌握後に来日した者」に対する強制送還処分(ユーハイム夫人と長男家族がこれに該当して強制送還されている)であり、戦時中に営業していた店舗に対して営業停止や財産没収、軟禁という処分があったのかについては不明です。

*アウグスト・ローマイヤーは、ナチ党員となってまで戦時中も空襲が激しくなるまで店の営業を続け、また神戸でパン屋を開いていたハインリヒ・フロインドリーブは神戸に寄港したドイツ海軍艦艇にパンの供給を行っていますが、彼らが戦後、GHQより何らかのお咎めを受けたということは無かったようです(それどころかフロインドリーブは終戦直後に店を再開したものの材料が手に入らず3年ほど米軍キャンプでコックとして働いて糊口を凌いでいる)


1949年(昭和24年)
 資料①でミュラーが語るところによると、前年昭和23年に処分が解けたミュラーは、かつての銀座店の焼け跡に店を再建しようとするが、地主が契約期間が残って居る土地を他の店に又貸しした為に銀座店跡地にはすでに他の店が建てられていた。
 そこで訴訟を起こすものの訴えは認められず、やむなく当時の朝日新聞東京本社の裏手、当時の国鉄有楽町駅脇の現在、黄色い看板のドラッグストアがある場所で有楽町店を開店したとのこと。

*終戦後、飲食店の経営が正式に認められるようになったのがこの年から施行された「飲食営業臨時規整法」以降で、これにより安定的に配給が受けられるようになり、この年にそれまで休業を余儀なくされていた戦前に第一次大戦時の元捕虜が開いた食料品店も一斉に営業を再開しています。
*銀座ローマイヤー(昭和24年営業再開)、神戸フロインドリーブ(昭和23年営業再開)、銀座ケテル(昭和24年頃営業再開)、ヘルマン・ヴォルシュケもこの頃に東京都狛江市で店を再開。
*ミュラーの言うことが事実だとすると、資産を没収された人物があのような時代にどうやって店を再開する資金を調達したのかという疑問が生じることや、前述のような社会情勢を考えると終戦後の混乱で自由に商売が出来なかったことを「営業停止(材料が手に入らないからヤミに手を出すと検挙され営業停止になった)」、預金封鎖により銀行から自由に預金を引き出すことが出来なかったことを「資産没収」、戦時中も店の営業を続けていたとしたらGHQによる事情聴取が終わるまで常に居場所を明らかにする必要があったことを「軟禁」とユーモアを交えて例えたのを、資料①のインタビュアーが真に受けてしまっただけのように思われます。



戦後の店舗
1956年(昭和31年)までに開店した店舗(店舗は資料①より、所在地、営業期間はネット情報による)
有楽町ショップ有楽町駅脇/1948年~1998年)
材木町ショップ現在の西麻布3丁目1の六本木通り沿いにあった1階が売店、2階が喫茶店/開店時期不明~1970年頃までに六本木交差点付近に移転)
銀座ビーコンコーヒーショップ日本堂裏の戦前のジャーマンベーカリー旧銀座店があった場所の隣りに出店したジャーマンベーカリーの姉妹店/営業期間不明)
麹町ショップと製菓工場(戦前と同じ場所と思われるが所在地、営業期間不明)
大森ショップ大森駅西口前/開店時期不明~1973年頃閉店との説あり)
横浜元町ショップ元町5-201/1950年代前半に開店~2003年)
田園調布ショップ東急・田園調布駅前/開店時期不明~1998年頃に閉店)
虎ノ門ショップ(所在地営業期間不明)

1956年(昭和31年)以降に開店した店舗
横浜駅名品街ショップ(1階が売店、2階が喫茶店。その後、1973年に名品街がジョイナスに建て替えられたあともジョイナス1階のほぼ同じ場所にあった/開店時期不明~1998年頃閉店)
渋谷特選街ショップ(東急文化会館2階/営業期間不明)
六本木ショップ(材木町店が移転したもの……らしいが六本木交差点付近にあり1階がジャマンベーカリーの売店、2階が同じく喫茶店、3階がジャズ専門のライブハウスが入ったビルにあったこと以外の詳細は不明/1970年頃~閉店時期不明)

 このほかに喫茶店などの店頭にショーケースを置いて商品を販売する一種の委託販売を行っていたところが複数あったようです。 

*戦前の新橋第一ホテル(昭和13年開業の通称:銀座第一、現在の第一ホテル東京)内に"ビーコンコーヒーショップ"があったようなのですが、ジャーマンベーカリーとの関連は不明です。
*ジャーマンベーカリーは、東京地区の店舗は"麻布ジャーマンベーカリー"、横浜地区の店舗は"横浜ジャーマンベーカリー"、姉妹店のビーコンコーヒーショップは"ビーコンコーヒー"というように分社化され、ミュラーが社長を務める港区麻布新堀町7(現在の南麻布2丁目)の(株)インターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニー(IFP)がこれらを統括する本社(運営会社)とされていた。
*南麻布のインターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニーがあったビルにもジャーマンベーカリーの店舗があったようなのですが、「あったらしい」ということ以外は一切不明です。



1977年~1978年
 NHKで、元第一次大戦時の捕虜として日本に収容されその後、神戸市中山手通1でパン屋「フロインドリーブ」(ジャーマン・ホーム・ベーカリーが経営)を開業したハインリヒ・フロインドリーブ(Johann Philipp Heinrich Freundlieb)をモデルにしたTVドラマの放映が開始される。

 このときモデルになったパン屋の運営会社と名称が似ていたことや、神戸の人のなかには「フロインドリーブ」のことを「ジャーマンベーカリー」と呼ぶ人がいたことなどから、「横浜のジャーマンベーカリーがドラマのモデル」とか、「ジャーマンベーカリーとフロインドリーブは創業者が同じ」、はたまた「横浜のジャーマンベーカリーは神戸が本店」、「横浜ジャマンベーカリーの創業者は第一次大戦時の元捕虜」などの諸説が飛び交う。

 これにより多くの人が「戦前にソーセージ屋やパン屋を開業したドイツ人は、おしなべて第一次大戦中に捕虜となり終戦後もそのまま日本に残った人たち」というステレオタイプに陥ってしまったようで(私も偉そうに人さまのことを言えた義理ではありませんが……)、2001年発行の第一次大戦時の習志野俘虜収容所を描いた習志野教育委員会編「ドイツ兵士の見たニッポン」(資料⑪)では、ユーロップ三人衆を紹介した部分で明治屋七十三年史の文章を引用する形で「ユーハイムが去った後のカフェーユーロップは後にヴィルヘルム・ミュラー(習志野)が引き受けジャーマンベーカリーとして再出発した」と、ミュラーが習志野俘虜収容所に収容されていた元捕虜だとしています(ちなみに明治屋の社史には習志野の記載はありません)

日本交通公社発行「交通公社のポケットガイド44 横浜」昭和57年発行第6版より
ジャーマンベーカリー
バウムクーヘンでおなじみの、ドイツ菓子の老舗。1階がケーキの売り場、2階がレストラン。ライ麦パンのオープンサンド、ハンバーガーに人気がある<10:00~20:00、月曜休み>


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*日本交通公社発行「交通公社のポケットガイド44 横浜」昭和57年発行第6版より
ジャーマンベーカリービル1階右側がジャーマンベーカリーの売店、左側がオンディーヌという靴屋(上の地図は左右が逆)、2階がジャーマンベーカリーの喫茶&レストラン、3階がステーキレストラン・ボナンザ


*ドイツ語圏では"Wilhelm Mueller"という名前はありふれた名前のようで、第一次大戦で青島で捕虜になったドイツ人のサイトの名簿を見ると"Wilhelm Mueller"という名前の捕虜が5人、"Willy Mueller"を含めると7人確認出来ます。
*資料⑪の記述の誤りがなかったら、ジャーマンベーカリー創業者のミュラーの名前も、彼が第一次大戦時の捕虜では無かったことも、明治屋との繋がりも知ることは出来なかったワケで、まさに棚からぼた餅、ケガの功名と言うほかありません(藪を突いてみたらヘビが出たとも言えますが……)
*どうやら70年代に入ってから、ミュラー氏の長男(資料②によるとミュラーは日本人の妻との間に長男が一人いて、彼は1963年時点ではジャーマンベーカリーの営業を担当していた)が会社を引き継いだ……ようです。



1990年前後~1998年
 1990年に元町5-201にあった三階建てのジャーマンベーカリーの建物が、現在の上階がマンションの地下1階、地上7階建てのジャーマンベーカリー横浜元町ビル(現・オセアン元町ビル)に建て替えられる。
 また1991年(平成3年)にジャーマンベカリーの運営会社がそれまでの(株)インターナショナル・フード・プロダクツ・カンパニーから(株)ジーウィル、1998年に(株)ジービーと変遷し会社の所在地も川崎市川崎区京町2丁目となる(本社の所在地変更はこれより以前に行われた可能性が高いと思われますが詳細は不明です)



1998年~2003年
 1989年から「横浜が選んだ横浜ブランド「ヨコハマ・グッズ横濱001」の認定が始まり、ジャーマンベーカリーの商品が第一期から2001年を除く2003年第十期まで認定されていたが、2003年を最後にジャーマンベーカリーの名前が見られなくなる。
 このことからジャーマンベーカリーは、2004年までに終焉を迎えたものと思われます。


ということで、今回の調査で判明したことは以上です。


 
参考資料
1956年(昭和31年)実業之日本社「実業の日本9月発売59巻22号 P88-P93 "味で築いた33年 ジャーマンベーカリー社長ウィルヘルム・ミュラー氏の半生"」
1963年(昭和38年)製菓実験社「製菓製パン12月号グラビアページ "菓業人のプロフィール -ウィルヘルム・ミュラー氏-"」
1930年(昭和5年)The Directory of Japan Publishers「The Directory of Japan.for1930」 P517/横浜市立図書館所蔵
④1930年(昭和5年)横浜市「YOKOHAMA 横浜ガイド」 /デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」
1936年(昭和11年)東京商工会議所「東京市内商店街ニ関スル調査」 P155
1937年(昭和12年)横浜商工会議所「横浜市商店街に関する調査」 P91
1937年(昭和12年)東華書荘・石角春之助著「銀座秘録」 P189
1958年(昭和33年)明治屋「明治屋七十三年史」 P49-P50
⑨1982年(昭和57年)日本交通公社発行「交通公社のポケットガイド44 横浜・第6版」 P106-P107/筆者所蔵
1987年(昭和62年)明治屋「明治屋百年史」 P147-P150、P161-P163、P165-P166
2001年(平成13年)丸善ブックス・習志野市教育委員会編「ドイツ兵士の見たニッポン 習志野俘虜収容所1915~1920」 P117-P119/筆者所蔵
2011年(平成23年)光文社NF文庫・石川邦美著「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」 P51-P53、P61、P106/筆者所蔵
2011年(平成23年)文藝春秋文春文庫・吉村昭「深海の使者 新装版第一刷」 P23-26/ 筆者所蔵


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 このブログを初めてはや5年。
実は先々週をもちまして写真の方がネタギレとなりました。
よって誠に勝手ながら毎週の更新は今回をもって最後とさせて頂き、次回からは気が向いたときに不定期更新させて頂きます。
長い間、当ブログをご贔屓下さいましたことに深く感謝いたします。
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by yokohama80s | 2017-05-14 00:00 | その他 | Comments(6)