2016年 06月 12日
現在、開港道とシルク通りに挟まれた山下町95番地に、壁に「同發菓子工場」と書かれた蔦に覆われた鉄筋コンクリートの古びた建物があります。 *1982年撮影 どう見ても「戦前に建てられたらしい」ことは一目瞭然なのですが、「実際にいつ建てられたのか?」ということを調べてみても、1994年刊の中区解体新書に「真偽のほどはわからないが昭和10年ごろの建築といわれている」と記されている以外は、建築マニアの方のサイトを見ても「なんか古い建物があるね」と出ているだけ。 そうなると「いつ建てられたのか?」をどうしても知りたくなるのが人情というもので、いろいろと無い知恵を絞って考えてみると、建物の建設時期が判明→その時にその場所に居た者が施主→施主の職業=建物の建設目的、という具合に芋づる式に判明するのではないか、と考えたワケです。 ということで、1985年発行の中区史の山下町のページに掲載されている山下町街並図に、この建物らしき物が記載されていることから昭和5年以前に建てられたものと推測できることから、それ以前の写真を探してみたものの見つからず。 調査早々に手詰まりとなったワケですが、ある日、国立国会図書館デジタルコレクションで1927年(昭和2年)に横浜市港湾部が出版した「横浜の港湾」という本を眺めていると、巻頭ページに昭和2年5月に現在の東洋船舶信号所から本町通りを写したパノラマ写真があるのを発見。 さらにこの書物は、2年後の1929年(昭和4年)に改訂版が出版され、内容は同じなのですが巻頭ページの写真が昭和3年10月に同じ場所から撮影された新しい写真に差し替えられていて、さらにその5年後の1934年(昭和9年)に横浜市土木局が出版した「横浜港」という書物に同じ場所から昭和9年夏頃に撮影された写真があるのを発見。 そこで「これら三枚の写真を比較してみれば、建設時期が判明するのでは?」ということで、本町通りと露亜銀行の建物を目安にして山下町95番地あたりの見当をつけて拡大してみると↓ *昭和2年の本町通りは区画整理前の震災前の状態、昭和3年は区画整理工事中で昭和9年はほぼ現在の形に ちなみに右下の写真は参考として横浜都市開発記念館のWEBサイトの WEBアルバム「横浜グラフ」-昭和9年の横浜-より五月後半「五月晴れの空からヨコハマを漫歩する」から。 「ビンゴ!!!」と喜ぶ前に写真②について少し解説しておきます。 左上の昭和2年5月に撮影された写真でシーベルヘグナー生糸倉庫の右に見えるのが日本大通の旧三井物産生糸倉庫と事務所棟で、そのさらに右手の開港記念館の尖塔の手前に見える白いビルは、窓の数や形と翌年に撮影された写真に写っていないことから、商工奨励館が建つ前に同所にあり震災で内部が焼失したアメリカ領事館が、その手前にあった竣工直前に同じく被災した中央電話局が建て替えの為に取り壊されたことで姿を現したもので、そのさらに右手に見えるのが建設途中の県庁旧庁舎で、本町通りは震災前の狭い通りのままで、山下町側の本町通りの両側には震災前に建てられた旧露亜銀行しかビルがありません。 そして右上の昭和3年10月に撮影された写真では、この年に竣工したユニオンビルが95番地の右手に姿を現し、本町通りは鋭意拡幅工事中で、この写真が撮影された昭和3年10月に竣工した県庁旧庁舎にはまだ足場らしき物が確認出来る状態で、その下に見えるのが建設真っ最中の昭和4年竣工のライジングサン石油本社ビル。 左下の昭和9年の撮影時期は不明ですが、光線具合から個人的には7月くらいに撮影された写真だと思うのですが、とにもかくにも遠景が霞んで不鮮明ですがシーベルヘグナー生糸倉庫の右手にはチャータード銀行のビルが建ったことで三井物産が見えなくなり、本町通りその他にはヘルム商会のヘルムハウスアパートメント以外の有名処の建物はすべて出そろった形となっています。 ちなみに右下の航空写真は、建物の位置を確認するのに参考にしました。 ということで話を戻すと、昭和2年(1927年)に撮影された写真には現存している同發菓子工場の建物と同じ特徴を有する建物が写っているものの、翌年以降に撮影された写真に写っている建物の窓(写真①の面の二階の窓)が写っていないことから、この建物は昭和2年5月の時点では建設中だったと考えられ、そうなると遅くともこの年の夏までには竣工していたはず、という仮説が成り立ちます(前年の大正15年こと昭和元年の写真があれば決定的なんですが……)。 そうなると次なる問題は昭和2年当時に、この建物がある山下町95番地には「誰が居たのか?」ということですが、横浜開港資料館が発行した開港のひろば・第59号 「横浜の外国商館」展余話 時計の輸入商社に「山下町95番地に1887年(明治20年)から1931年(昭和6年)まで生糸の輸出と時計の輸入製造販売を行っていたスイス系商社のナブホルツ商会(Nabholz & Co→註:ナボールともナボルツともナボーツとも表記している書物もある)」という記述があります。 そこでさらに"ナブホルツ商会"について調べてみると、山下町95番館のナブホルツ商会は在浜外国系生糸業者の中では最大手のひとつに数えられていたようなのですが、ネットで検索して出て来たのは前記の開港資料館の会報と、大阪時事新報の記事(神戸大学電子図書館システム・大阪時事新報1923/9/23より )だけ。 この記事は、震災後に横浜の主だった生糸商達がこぞって神戸に移転して、それを受けた神戸市が震災で機能不全に陥った国内唯一の生糸積出港だった横浜港に取って代わるべく当時、京都にあった生糸検査場の神戸移転を政府に働きかけ、このことに危機感を持った横浜蚕糸貿易商同業組合が1923年(大正12年)9月19日に「今後、海外に向かって貿易の目的をもってする生糸の購入輸出行為及びその幇助を他市場又は港湾においてなしたる者には組合は永久絶対に売買取引を謝絶する←原文のまま。要するに横浜から追放する、すなわち日本の生糸市場からの追放を意味する」(1925年発行「横浜復興録」より)という恫喝まがいの決議文を発表したことに対して、「笑止千万、片腹痛いわ!!!」という神戸側の反応を報道した物。 しかしあの手この手で東京築港と開港に関して61年もの長きに渡って妨害工作を繰り広げてきた横浜港湾マフィア(この場合の「マフィア」は反社会的集団を意味する物では無く、「結束の固い集団」という意味で、当時の横浜の政財官界の事を指す私の造語ですwww)がこの程度のことで白旗を揚げるワケがなく、このあと政府に対してあの手この手であれやこれやと画策を巡らし、最終的に「震災前と同様に国内の生糸積出港は横浜港一港で行う」ということに決定。 これにより神戸で生糸貿易を再開出来るものと思っていた生糸商たちは、急遽、横浜に戻らざるを得なくなったものの、この時の横浜市内は横浜港を含めてどこもかしこも焼け野原と瓦礫の山。 このため国は、震災で倒壊焼失した生糸検査場と付属倉庫を北仲通5丁目に、そして山下町224番地に輸出絹織物検査場をそれぞれ大正15年(1926年)までに再建し、震災で発生した火災により横浜に在庫していた生糸は昨年に取り壊された日本大通の旧三井物産生糸倉庫に保管されていた物以外はすべて焼失し多大の損失を被った反省と、大手生糸商社は自社の在庫量などを秘匿して取引を有利に進める為に自前の生糸倉庫を所有する慣習があったことから、横浜で生糸貿易を再開するために取るものも取りあえず事務所を神戸に残したままで、はたまたバラックの仮事務所の隣りに鉄筋コンクリート造りの防火構造の生糸倉庫を相次いで建設しています。 ということでこれらの話を総合すると、この建物が建てられたと推測される昭和2年こと1927年当時に山下町95番地に所在していたのは、生糸輸出と時計の輸入製造を営んでいたスイス系商社のナブホルツ商会であり、ナブホルツ商会には耐火構造の生糸倉庫を建設する理由があることから、山下町95番地の同發菓子工場として使われている建物は、1927年(昭和2年)にスイス系商社のナブホルツ商会によって建てられた耐火構造の生糸倉庫である……可能性がきわめて高い、ということになります(ナブホルツ商会か建物を施工した会社による資料文献が無い限り、あくまでも推測の域を出ませんが……)。 その後、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発したアメリカでの生糸価格大暴落の煽りを受けて(昭和4年の横浜港の生糸輸出額が当時の金額で5億7千万円だったのに対して翌年昭和5年は2億9千万円と約半分にまで落ち込みその後、回復することはなかった←昭和9年「横浜港概覧」より)、1931年(昭和6年)以降、ナブホルツ商会の名は歴史の表舞台から姿を消し、代わって山下町95番地の新たな主となったのが、当時、絹、人絹織物の輸出を行っていたインド系商社のキシンチャンド・チェララム商会、ジ・ラムチャンド商会、ウトマル・エンド・アスダマル商会の三社。 この三社がそれぞれ一棟づつ建物を分け合ったのか、はたまた共同で使用していたのかについては定かではありませんが、これらのインド商社も第二次世界大戦により横浜から撤退し、 その後、1952年(昭和27年)に横浜市の要請により山下町95番地の現在、同發の事務所として使われている建物を、キシンチャンド・チェララム商会が店舗兼住宅として使用し云々かんぬん……続きはこちら(開港のひろば 127号)をご一読下さいということで以下省略。 ちなみに撮影当時、建物の壁には会社名らしきものが複数書かれていますが↓ *文字部分を拡大 アクメ・ファスト・フレート(旧露清銀行跡のアクメ貿易と同一と思われる)、バーナム・ワールド・フォワーディング(戦前に山下町76番地で絹製品などの輸出を行っていたボーマルブラザース商会と思われる)、インターコンチネンタル・トランスポート(?)、あとの6つは判読不能ですが、とにもかくに名称から考えるとすべてインド系商社のようなので、この建物が1970年代前半に現所有者に売却されるまではこれらの企業によって共同使用されていたものと思われます。 最後に、蛇足になりますが仮に山下町95番地に現存する古びた建物が、本当にナブホルツ商会の生糸倉庫だったとすると、日本大通の旧三井物産生糸倉庫と、北仲通5丁目の帝蚕倉庫の辛うじて残っていた最後の一棟が取り壊された(帝蚕倉庫事務所横に"復元保存"するそうですが「オリジナルを壊しておいて"保存"もヘッタクレもあったもんじゃない!!!」と思うのははたして私だけなのでしょうか???)いま、横浜市内において唯一現存する戦前に建てられた生糸倉庫、ということになるのですが……。
by yokohama80s
| 2016-06-12 00:01
| 山下町
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