2016年 06月 05日
現在、アメリカへ行こうと思い立ったら、極端なことを言えばパスポートさえ持っていれば最寄り駅から羽田行きのバスに飛び乗れば9時間後にはサンフランシスコ(桑港)に着いているという時代。 しかし横浜港が太平洋航路の表玄関として華やかだった頃の海外旅行は、当然、船によるもので片道↓ *1927年(昭和2年)頃の航路図(昭和2年刊・米国旅行案内より) の日数を要したうえに、その費用も「月収百円、年収1200円」と言われた時代に、「ホノルルまで一等船室料金250ドルに1050円支払った(当時は一等、二等船室の料金はドル建てでその日の正金銀行のレートで円に換算した金額を支払った)」(1934年出版「ハワイの印象」より)と高額だったことから、この時代の海外旅行は政治家、外交官、官僚、軍人、教員、医師、商社員、技術者、宗教関係者などによる視察や赴任、研修、出張と、貴族や資産家子息による留学などに限られていました(1924年/大正13年以降は排日移民法により幾つかの例外はあるものの建前上は移民目的でのアメリカ入国は禁止されていた)。 ちなみに写真①の地図を見ると、ヨーロッパへの最短ルートは東京~下関(写真①の地図では「長崎」となっている)~ソウル~ハルピン~モスクワ~パリの16日間コースだった(実際には敦賀~ウラジオストック~ハルピンの方が半日~1日程度早かったが、途中で馬賊の襲撃に遭ったので当時はこのルートは存在しないことになっていた)のですが、当時のソ連は基本的に政府関係者以外には入国ビザを発給しなかったうえに通過ビザの取得も難しく(山ほどの書類を提出させられたとか)、さらにハルピンからモスクワに着くまでの約7日間は列車に乗りっぱなしのうえに、その間は風呂にも入れないという状態。 かと言ってオーソドックスに神戸(横浜or門司)からロンドン行きの船でマルセイユまでのルートだと、、あちらこちらに数日おきに入出港を繰り返して42日(当時、イギリスに向かう人もマルセイユで下船してしまうのでさらに一週間ロンドンまで乗船する"酔狂"な人は常に数人程度だったとか)も要し、また当時の船には冷房設備が無かったことから(今で言う"冷風扇"的な物はあったらしい)インド洋を通過するときの暑さによる不快さは尋常でなかったとか。 ということで、現在の感覚から言うとちょっと意外に思えるのですが、この頃に日本とヨーロッパとを頻繁に行き来していた商社員や外交官(駐在武官も含む)などは、横浜からサンフランシスコまで船で行き、そこから大陸横断鉄道でニューヨーク、そして今度は大西洋を横断してリバプールまでの24日間コース(横浜~シアトルの場合は21日)を利用するのが一般的だったそうで、有名どころでは白洲次郎が商社員時代に渡欧する時(ヨーロッパ諸国に鮭缶を売り歩いていたらしい)にこのルートを頻繁に利用していたそうですし、ヨーロッパの任地に赴く外交官やその家族は、往路にアメリカ経由で渡欧したら復路はシベリア鉄道で、あるいはその逆ルートで渡欧帰国するように役所から指示されていたそうです(取り立てて用も無く時間的余裕がある時には欧州航路を指定されたとか)。 また当時の視察団や個人の旅行の場合は、どうせ高額な旅費を費やしてアメリカへ行くのならついでに東回りでヨーロッパも、はたまたどうせヨーロッパに行くのならついでに西回りでアメリカも、というように実質的な世界一周旅行とするケースが多かったようです(有名どころでは作家の徳冨蘆花など) ということで、サンフランシスコ航路に浅間丸級三隻とシアトル(沙市)航路には氷川丸級三隻がそれぞれ就航し、客船黄金期と称される昭和5年頃に個人が観光目的でアメリカに渡るにはどのような準備が必要だったのかを、Googleブックスで公開されている昭和3年(1928年)版日本郵船「桑港航路案内」 と、国会図書館デジタルコレクションで公開されているこの頃の渡航案内(現在のガイドブック的な物)や旅行記から再現してみたいと思います。 さて、海外旅行に行くとなれば、とにもかくにもパスポートとビザが無いと乗船券が買えない(予約金さえ支払えば予約することだけは出来た)のですが、これらに関しては現在と似たり寄ったりなので以下省略。 次は渡米する船の予約ですが、基本的に船室の等級は船室がある位置と部屋の広さや設備によって決定されたのですが、ややこしいことに一等船室の場合は料金表などに記されている料金はその船で一番部屋数が多い部屋の料金で、実際には船室がある位置と広さ、設備、通風や採光状態により部屋ごとに料金が異なっていました。 そこで昭和4年にサンフランシスコ航路に就航した浅間丸を例にとると、 昭和5年刊・日本郵船会社五十年史より浅間丸の姉妹船である秩父丸(浅間丸、龍田丸とエンジンが違う為に煙突が一本に変更されている)の内部図に船内配置を大雑把に書き加えてみました。 ブリッジ(操舵室)下のボートデッキとラウンジ、喫煙室などの一等船客用公室があるA甲板を挟んでB、C甲板に一等船室のシングル、ツイン、ツイン+ソファーベッドの2~3人用のそれぞれバス付きが33室、バス無しが61室の合計94室、船内で一番動揺の少ない船体重心部にあたるC甲板中央部前よりにベッドルーム、リビングルーム、バス、トイレ、付添人室付きの一等特別室が左右両舷に2室づつ合計4室設けられ(写真③左上)、 *写真左上より時計回りに、龍田丸一等特別室のリビングルーム 沙市航路・日枝丸の一等一人部屋(キャビンクラス) 豪州航路・賀茂丸の二等四人部屋 沙市航路・氷川丸の三等コンパートメン室 *龍田丸と日枝丸の写真は「昭和5年刊・日本郵船会社五十年史」より、賀茂丸の写真は「昭和11年刊・日本郵船豪州航路案内」より、氷川丸の写真は2016年撮影 B、C甲板後部にシングルベッドと上段に使わない時には壁に収納するプルマン式ベッドと、さらに部屋によってはソファーベッドを備えた2人用、3人用、2~4人用の二等船室(写真③右下)が30室、その下のD甲板後部とE甲板前後部にバンクベッドと呼ばれる作り付けの二段ベッドを一部屋に2~4台設置した三等コンパートメント(写真③左下)が52室あり、浅間丸型以外の船にはかつての三等大部屋(その昔は船倉のようなところにゴザを敷いていた)にバンクベッドをズラッと並べた三等オープンや、さらに二等船室を三等コンパートメント仕様に改装して二等と三等の中間の料金設定にしたツーリストクラス(シアトル航路の氷川丸型には初めから二等船室がなく代わりにツーリストクラスが一等と三等の間に設定されていた)や、一等船室の部屋を簡素にして従来の一等と二等の中間の料金設定にした特二等、はたまたキャビンクラス(写真③右上)と呼ばれる船室もあり、船室の等級によって乗船口から食堂、トイレ、浴室、喫煙室、ラウンジ、遊歩甲板などがそれぞれ別個に設けられ、一等船客は乗員区画以外なら船内どこへでも行けたのに対して、二等船客は一等専用区画に立ち入ることが出来ず、三等船客に至っては船室と三等公室(食堂、浴室、トイレ、喫煙室)以外はB甲板最後部の三等遊歩甲板しか立ち入ることが出来ませんでした。 また客室料金には朝昼晩三食の食事代が含まれていて、一等船客はC甲板中央部の4~5人がけのテーブルが並んだ200人収容のドレスコードがある専用食堂で洋食フルコースが出され、二等食堂は一等と同じく基本4人がけのテーブルで一等船客とほぼ同じメニューだったもののドレスコードが無く、三等船客は長方形の12人がけの長テーブルが4~5台並べられた三等食堂が前後2カ所に設けられ、乗船券購入時に和食か洋食かを選択し(中国人向けに中華もあった)、大正5年発行の「大正渡米」によると三等和食のある日のメニューは、朝食に梅干し、ショウガ漬けとご飯と味噌汁、昼食は魚の干物、タクアンにご飯と味噌汁、夕食がスルメのスジ切り入り根菜の煮込み、ワカメの酢の物にご飯と味噌汁で、これでは当然足りないので大正6年発行の「最新海外渡航案内」では「三等船客は果物、菓子、福神漬、缶詰の他に大根とおろし金を持参するとよい」と書かれています。 さらにこの時代は、船室等級によるヒエラルキーがアメリカの移民法によって入国の際にも適用され、 例えば一等船客は近所の病院で貰った無病証明と身元証明書を提出するだけでアメリカに入国出来たのに対して、二等三等船客は出港前に出港地の県庁において出港日ごとに指定された日に、結核や精神疾患、眼病、寄生虫(主に十二指腸虫こと現在で言うところの鉤虫)などの検診を受けることが義務づけられ、三等船客はさらにサンフランシスコ到着時に湾内のエンジェル島入国管理施設に1泊2日で一時隔離され(移民の場合は2泊3日)、問題が無いことが確認されて初めて入国が認められ、このときに入国を拒否された者(入国不適格者)が出た場合には、その者をアメリカまで乗せてきた船会社に一人につき千ドル、当時のレートで約4千円ちょっと、今の価値に直すと約2千万円という高額の罰金が科されました。 このためチケットの購入は建前上は検診の義務が無かった一等船室はパスポートとビザがあれば最寄りの乗船したい船会社の本支店で購入出来たのに対して、二等三等船室については港の近くで"各国汽船乗客取扱所"とか、"乗船切符及旅客荷物取扱所"、はたまた"船客取扱所"という看板を出していた通称”汽船問屋(その昔は”移民宿”とも"外航旅館"とも呼ばれていた)”こと正式名称”二等三等船客取扱人”と呼ばれた↓ *「大正12年刊・渡米の栞」に掲載されていた弁天通5-71にあった長野屋旅館の広告 のような昭和5年頃には関内周辺に17軒あった旅館が横浜出港分の二等三等船室を一括して販売し、出港前検診やビザの取得などについても「手続に不慣れな者が三々五々来られるより一団となって来てくれた方が効率的」という受入側の都合から、これらの旅館が乗船までに必要な渡航手続全般の周旋も一括して請け負っていました。 そこで二等三等船室を利用する場合は、出港前検診の受診申し込み期日である出港4日前の正午までに”汽船問屋”に投宿し、各種必要書類に記入して寄生虫検査の為の検便容器を貰い、出港3日前の午前中に旅館の番頭さんに引率されて現在の桜木町駅北改札口を出て道路を挟んで真正面(現在、ペンギンマークの冷蔵庫屋さんのビルがある場所)にあった神奈川県海外渡航者検査所に行き、 *桜木町2丁目にあった神奈川県海外渡航者検査所(大正15年刊・神奈川県震災衛生誌より) まず性病、精神疾患、結核、眼病検査が行われ、これらにパスすると中身入りの検便容器を提出してその日の検診は終了。 そして検便検査にパスすると検査の翌日の午後、すなわち出港2日前に”健康証明書”が発行され、これを提示することでようやく乗船券を購入することが出来ました(以上、大正12年「渡米の栞」、大正14年神奈川県刊「統計時報第6号-海外渡航者-」、昭和9年「北米遊学案内」ほかより)。 この時、家から領事館や渡航者検査所などに通える二等船室希望者は、近くの船会社の本支店でチケットを購入することもできたのですが、その際に”健康証明書”が必要だったことから、ほとんどの場合は適当な”汽船問屋”に出向いて船室の予約申し込みをすると同時に、その他諸々の手続きの周旋を依頼していたようです。 というような事情から乗船券を購入するまでと、アメリカ入国時の手間暇や船内での不自由さなどを考えると、渡米に際して二等、三等船室を利用するメリットはほとんどなく、大部分のガイドブックでは「アメリカへの渡航は帰りは三等でも構わないが、どうせ大枚はたいて渡米するのだから行きは一等船室を利用するべし(昭和9年「北米遊学案内」)」としています。 そしていよいよ出港当日。 当時は渡米する者は、使用する船室の等級に関わらず出港当日(昭和3年くらいまでは前日も受け付けていたようですが、その後は当日のみの受付となったようです)に、大桟橋入口にある水上警察署に出頭して”なりすまし渡航”を防ぐ為のパスポートの本人確認が行われ(←現在の出国審査にあたるモノで氏名、年齢、職業、渡航目的、渡航先などを聞かれた)、これを受けないと例えチケットを持っていても乗船することができませんでした。 この審査については、すでに”汽船問屋”に宿泊しているのなら、旅館の番頭さんが水上署経由で船内まで引率してくれるのでなんの心配も無いのですが、東京近辺に住んでいる人は当時、サンフランシスコ航路出港日に東京駅と四号岸壁がある横浜港駅間で運転されていた"ボートトレイン"を利用しよう、と考えるのが自然の成り行きというもの。 *水上署入ってすぐにカウンター(1982年撮影) *横浜港駅旅客乗降場プラットホーム(1981年撮影) 例えば震災後にボートトレインが再開された昭和3年だと、東京駅を13:05に出て四号岸壁前の横浜港駅に到着するのが出港の約1時間前の13時56分、四号岸壁と水上署の往復に約20分、水上署での審査に10~15分程度と考えるとざっと見積もって出港の20~30分前には戻って来られる計算になります。 しかしサンフランシスコ行きが出港する日の水上署は査証を貰う人でてんやわんやの大騒ぎだったうえに、四号岸壁に行けば行ったで客船見物の野次馬で押すな押すなのカオス状態、さらに船に乗ったら乗ったで今度は乗船客と見送り客とで船内がごった返しているという状態(当時は乗船券購入時に船会社に必要な数を申し出れば見送り客用の乗船券を発行してくれた)で、人をかき分けかき分け乗船したら出港までのわずかな時間で自分の船室に託送した荷物が滞りなく届いているかを確認しなければならず(今も昔も荷物は行方不明になるもの……???)、、それに引き替え桜木町駅まで電車で行って駅で荷物を船会社に預けて手ぶらで水上署経由で船まで行く方が、乗船時間を自分で調整出来るので時間的にも心理的にも余裕を持てるように思えます。 この点について当時の書物を紐解いてみると、どの本も「横浜港へは東京駅からの臨時列車(ボートトレイン)が便利」と書く一方で、「出港当日は何かとバタバタするから前日から横浜に宿泊するように」とか、「乗船当日は水上署での審査があるから横浜港には出港の4~5時間前に着くように」とか、「出港当日は混雑を避ける為に出港2時間前に乗船するように」というように、ボートトレインで四号岸壁に直行していたら実現不可能なことが書かれているし、旅行記には皆一様に「電車で桜木町駅に行って……」という例ばかりで、ボートトレインを利用して乗船したと覚しき例は、政治家、官僚などによる視察団として渡米した人くらいしか見当たりません(多客期や大人数の視察団が乗船する時には水上署員が四号上屋まで出張することもあったようです)。 どうやらボートトレインは、もっぱら見送り客と客船見物の観光客によって利用されていて時間的余裕の無さから一般の乗船客からは敬遠されていた、というのが実際のところだったようで、その後、このことが理由だったのかどうか、また変更された時期も定かではありませんが、昭和4年10月の浅間丸処女航海の時には、横浜港駅への到着時間が出港約1時間前から約1時間42分前(東京駅12:30発横浜港駅13:18着←1998年・「太平洋の女王 浅間丸」より)となっています。 と言うことで、出港当日に自宅から横浜港に向かう人は、乗船開始が出港2時間前の13時からなので、午前中のうちに水上署での審査を済ませられるように(審査開始は午前9時から)京浜電車(現在の京浜東北線)で桜木町駅まで行き、駅で荷物を船会社に預けて(正確にはジャパンエキスプレスに預けるのですが)、人力車かタクシーで水上署経由で四号岸壁に行くのがベストという結論に至ります(昭和2年「米国旅行案内」によると人力車80銭、タクシー1円80銭だった)。 そんなこんなで、ようやく船に乗り込み15時になるとサンフランシスコ行きの船は横浜港を出港し、あこがれのハワイ航路をハワイに向かって一直線 *四号岸壁を離岸する浅間丸(昭和5年刊・日本郵船株式会社五十年史より) ……かと思い行きや、船は港外に出ると一旦停船し(一説によると本牧沖あたりだったらしい)「乗客はパスポートと乗船券を持ってデッキに集合するように」という船内放送があります。 これは水上警察署員によるパスポートの本人確認と、密航者の船内捜索が行われる為で(←毎回必ず数人の密航者が見つかったとか)、乗客は風が吹こうが雨雪が降ろうが、寒かろうが暑かろうが天候に関わらず、また船室の等級に関わらず2時間ほど吹きさらしのデッキで待たされ(さすがに浅間丸クラスになると三等船客以外は一等、二等ラウンジで待たされたようです)、捜索を終えた警察官(と密航者?)がボートで本船から離れると、ようやくハワイに向けて”Bon voyage”となりました。 *(昭和5年刊・日本郵船株式会社五十年史より)
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| 2016-06-05 00:07
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