2015年 05月 03日

東京港 -プロローグ編-

 今月20日は東京港の開港記念日なのですが、その昔、東京港の築港と開港を巡って、当時の東京市と横浜市との間で半世紀余りに渡って仁義なき戦い・東京港湾篇(?)とも言えるような壮絶(?)な闘いが繰り広げられていたという事実を知る人は少ないのではないでしょうか。

 ということであれやこれやをザックリまとめると(この文量でもザックリですのでその点ご了承下さいまし^^)、まだ横浜港に現在の象の鼻に東西波止場、山下公園前にフランス波止場の2つの荷揚場しか無く増大する貿易量に対応する必要から港湾整備が国家的急務となっていた頃。
 当時の政府内で横浜築港計画が財政問題からすったもんだしていた時に、当時の東京府知事が、「早晩、東京湾ヲ開キ横浜港ヲ此ニ移スヨリ善ナルハアラズ」とぶち上げた「東京築港に関する意見書(東京築港建議論または東京港築港論とも言う)が府議会に採択されたのが時を遡ること今から135年前の1880年(明治13年)のこと。そして翌1881年(明治14年)に内務省のお雇い外人ムルドルの東京築港計画案を内務省に上申。

c0247059_19205374.jpg
*地図①/東京市史稿・港湾編3より

 
 これにより横浜築港問題が、「東京と横浜のどちらに本格的な港を作るか」という問題に拡大して、さらに政府内ですったもんだの駆け引きが繰り広げられたものの、東京築港を強力に推し進めていた東京府知事が1882年(明治15年)に急逝したことにより東京築港論がトーンダウンし、さらに数キロ沖合まで水深1.8mの浅瀬が続く墨田川河口部を水深7~8m浚渫して、人工島を造成して、港湾設備を建設するという、当時としては異例なほどの大規模な工事に要する費用もネックになり、1888年(明治21年)に横浜に本格的な港湾を整備することで話は決着し東京築港論は自然消滅。

 その後もさまざまな東京築港案が出ては消えてを繰り返し、東京築港建議論から20年後の1900年(明治33年)に、ようやくフランス海軍省の港湾技師ルノーの案を基にした計画案を市会で可決。
 この計画は、羽田沖に漏斗状の港門を設けた芝浦沖から全長8キロ余りに及ぶ堤防を築き、その内陸側を2~3千トンクラスの船が航行可能なように浚渫し(約7~9m)、その時に発生した土砂で品川沖に人工島を築き、そこに港湾施設を整備しようというもの(↓の左側の地図⇒いわゆる品海築港案はたまた市会決議案とも計画立案者の名前をとって古市案ともいう)

c0247059_14485860.jpg
*地図②/東京市史稿・港湾編4、5より左が1900年・明治33年に市会決議された品海築港案、右が1920年・大正9年に作成された築港基礎案。
ちなみに築港基礎案では現在の豊洲と晴海に1千トン×49隻が同時に接岸可能な内貿岸壁と
海岸3丁目~目黒川河口に5万トン×10隻が同時に接岸可能な客船岸壁
目黒川河口~羽田に3千トンクラス×34隻が同時に接岸可能な外国貿易岸壁を20年かけて整備する計画だった。


 そして1901年(明治34年)に、この計画による築港の認可と国庫補助の請願を内務省に提出するとともに、衆議院に東京築港に関する建議を提出しそれが可決されたものの、港が芝浦沖に出来ることによる衰退化を懸念した旧江戸湊の日本橋、京橋地区の住民や回漕業者、好漁場だった羽田、芝浦の漁民、この頃、国家事業として大桟橋と新港埠頭の整備真っ最中だった横浜市などから次々と反対の声が上がり、さらにこの計画実現を積極的に推し進めていた港湾行政を所管する逓信大臣経験者の当時の東京市会議長が暗殺されたことにより東京築港計画はまたしても自然消滅の憂き目に。

 それでもめげない東京市は、「とりあえず自分たちで航路の浚渫と埋立地の造成だけでも先にやっちゃおうぜ(開港と築港を別におこなう=開築分離案」と、東京市独自の事業として隅田川口改良工事と称した実質的な東京築港事業に着手したのがさらに5年後の1906年(明治39年)のこと。

c0247059_1862667.jpg
*①写真のあたりの旧海岸通4丁目は東京港修築事業・第8号埋立地(芝浦八号地)として1931年から埋立造成が開始された。
(1986年撮影)


 それと同時に東京市は、内務省に事業認可と国庫補助の請願を何回も提出し、1910年(明治43年)に内務省港湾調査会により第二種重要港湾(国からの補助を受けて自治体が整備する港のこと)の指定を受けたものの、現在の価値に置き換えると1億円以上の公費をつぎ込んだ横浜市によるマスコミ、経済界、学識経験者、国会議員、官僚、大臣までをも抱き込んだ反対運動……というよりも妨害工作により、東京市の国庫補助の請願は提出するたびに握り潰されることに(「東京市の予算でやるんなら勝手にどうぞ」ということだったらしい)

 そうこうするうちに1923年(大正12年)に関東大震災が発生し横浜港が壊滅的な被害を被ったのに対して、東京港はほぼ無傷だったことから(壊れるような物がもともと無かったという見方も出来る)国内外から援助物資や復興資材を積んだ3千トンを筆頭にした百隻以上の船が一挙に来港したものの(日本郵船は震災後に横浜、神戸、長崎と上海を結んでいた定期航路を休航させ、3628トンの阿蘇丸を初めとした6隻を神戸、清水~芝浦間に支援物資や支援要員などの輸送に従事させた)、当時の東京港は財政問題から当初の工事規模を大幅に縮小し5百トンまでの船が入港出来る水深しか無かったことから、船舶が満潮を利用して入港し潮が引く直前に港外に待避するという座礁覚悟の"冒険的入津"を行い、さらに上屋設備も無かったことから陸揚げされた援助物資は露天に野ざらし雨ざらしという状態に。

 この事態を重く見た東京市は、1926年(大正15年)に現在の海岸2丁目の隅田川口改良工事で建設された物揚場があった場所に、上屋設備と2~3千トンクラスの船が同時に6隻接岸可能な日の出桟橋を震災応急埠頭施設として整備したことから、なし崩し的に「やっぱり東京にもちゃんとした港が必要だよね」という雰囲気になり、東京港修築事業が1927年(昭和2年)に内務省港湾調査会の承認を受け事業に着手したのが1930年(昭和5年)のこと。

c0247059_1638829.jpg
*②震災応急埠頭施設として建てられた日の出桟橋4、5号上屋(1987年撮影)


c0247059_17443542.jpg
*③こちらも同じく日の出桟橋2号上屋(1987年撮影)


 この計画は当初の計画はひとまず忘れて(あくまでも「ひとまず」で本心は20年かけて地図②右のように整備する腹づもりだった)、現在の海岸1丁目(竹芝桟橋)、2丁目(日の出桟橋として供用済み)、3丁目(芝浦岸壁)に繋船岸壁と上屋施設と臨港鉄道を整備して震災前の時点ですでに出船入船でパンク状態だった横浜港の補助港として、横浜港が持て余していた5~6千トン以下の外航船(東京市の抜け目ないところは、当時の外航貨物船はこのクラスが世界標準だったこと)と1千トン未満の内航船(当時の内航船の主流もこのクラスだった)を受け入れるという、表向きは横浜港を立てつつも「スキあらば……」という意図が見え隠れする名付けて"開港しちゃえばこっちのもんだ作戦(?)"。

 ところがまたしても粘着質の横浜市から横やりが入り、相変わらず国庫補助は受けられず、さらに防諜上の理由から外国船舶の入港が禁止されたうえに、東京港に出入り出来る外航船は満州、中華民国、関東州航路に制限されることに(その後、軍の南方進出に伴って蘭印=現在のインドネシア、仏印=現在のベトナム・ラオス・カンボジア、フィリピン、タイ、マレー=現在のマレーシアが追加される)

 というような紆余曲折はあったものの、1932年(昭和7年)に6千トンクラスの船7隻が同時に接岸可能な芝浦岸壁↓が

c0247059_17351729.jpg
*④芝浦埠頭建設時に建てられた芝浦4号上屋(1986年撮影)


1934年(昭和9年)には3千トンクラスの船が同時に3隻接岸可能な竹芝桟橋が完成↓。

c0247059_153941.jpg
*⑤隅田川口改良工事第三期第一号埋立地こと竹芝地区に最初に建てられた冷蔵倉庫(1986年撮影)


 ということで東京に本格的な埠頭が建設されることが明らかになると、横浜市の抗議運動はその方針を「築港反対」から「開港反対」にスイッチし、「取扱貨物の7割を東京港に取られたら横浜港は立ちゆかない(東京港には中国方面からの外航船しか利用出来ないし、当時、中国方面から横浜港を経由して東京へ向かう貨物は横浜港の貨物取扱量の3割に過ぎなかった)」、「東京開港は港湾を生命とする横浜市民を衰滅せしめ百万市民の生活権を根底より破壊するの暴挙なり(昭和15年横浜市会決議文より)」、「外国人が船のマストに登って皇居を見下ろしたり写真を撮ったり出来る場所に港を作ることなど国民は誰一人として容認しない!昭和15年・横浜市会事務局「東京開港反対に関する市会意見」より、横浜市会において東京港開港反対の意見書提出の採択決議に対する某市会議員の賛成演説⇒……???)などと、あの手この手で横やりを入れ続けた結果(横浜市側の主張は明治以降、なんら変わらないので昭和15年の抗議を引用しました^^)、東京港は埠頭設備が完成したにも関わらず外航船を直接受け入れるのに必要な開港指定の勅令(当時は開港の勅令が無いと1隻ごとに免許申請をしないと外航船の受け入れが出来なかった)がいつまで経っても下りないという事態に。

 このことを昭和8年・港湾研究会編「繁栄大東京の危機 東京築港問題」は、「(横浜市の抗議は)正に寝耳に水であり、恰も産業ギャングの襲来である-(中略)-恰も横槍を突っ込むような、横浜市側の態度は、我が五百萬都民にとっては、普通常識を以て考へ得ざる恐るべきギャング政策の脅威を感ぜざるを得ない」と記し、1942年・昭和17年に東京市が発行した「開港記念東京港誌」では、「東京港と開港との因縁」と題して横浜市との築港と開港を巡る確執についてわざわざ一章21ページを割いていることからも、横浜市による粘着ぶりが如何ほどのものだったかを窺い知ることが出来ます。

c0247059_192668.jpg
*当時は曳船が写真の物より小型の艀を18隻前後繋いで京浜間を行き来していた。
(1982年・新山下橋より撮影)


 参考までに当時、横浜港で取り扱う輸出入貨物のうち約7割が艀によって京浜間を行き来していて、1923年(大正12年)に横浜市横浜港調査委員会によってまとめられた「横浜港調査委員会参考資料. 第1輯 横浜港ニ於ケル運漕艀舟(この書物は、大正9年に貿易協会で行われた講演である有名な法学者の「ロンドンから荷物を取り寄せた時に送料明細を見たらロンドン~横浜の運賃よりも横浜~東京の運賃の方が高くて驚いた」という発言が物議を醸したことに反論すべくまとめられたのですが……)」によれば、金物1トンあたりの運賃が横浜~ロンドン20円、横浜~シアトルが10円に対して、横浜~東京の艀輸送時にかかる諸経費込みの運賃総額が8円~12円(前述の書物には、意識的なのか無意識なのかは定かではありませんが明細はあっても合計金額が出ていないので電卓片手に自分で計算しました)。

 しかも京浜間約30キロを曳船が艀を18隻曳いて7~10時間要し、これに横浜での通関待ちに3日から最長で20日、東京での陸揚げ待ちに5日前後が加わることから、横浜に着いた本船から荷物を艀に積み替えて陸揚げして通関して再び艀に積んで東京で陸揚げするまでに通常でも1週間から10日掛かり、さらに当時は"羽根田洲"と呼ばれていた多摩川河口部左右両岸は数キロ沖合まで砂洲が続いていたことから、艀は普段から風波が強い沖を迂回しなければならず、これにより海難事故が頻発し、また天候不良により月に7~8日は艀の航行が出来ないなどによる荷役作業の遅れから本船の出港が大幅に遅れたり(繋船料が余計にかかった⇒横浜は神戸、大阪よりも繋船料が割高だった)、はたまた横浜での荷役を諦めて次の寄港地で東京向けの荷役を行ったり(東京までの輸送手段の手配と運賃が必要)、初めから横浜港を避けて神戸や大阪に向かう船もあり(東京から出荷される輸出雑貨の6割が神戸、大阪で船積みされていた)、これらによる東京市側の損失は現在の価値に直すと年間約350億円以上に達し(これは東京港が開港すれば負担の必要が無くなる金額でもあった)、それが東京の物価高騰まで招いていたそうな。

 このような現実があるにも関わらず横浜市は、「東京開港を不要ならしめる」ことを目的に震災で中断していた第三期拡張工事として整備中だった内貿用の高島、山内両埠頭、外貿用の瑞穂埠頭の工事を再開し、同時に京浜間の艀輸送問題の責任を東京側に転嫁して東京港築港と開港を阻止すべく横浜市復興会が、「京浜間に運河を開削する方が東京築港に巨費を投じるより遙かに経済的だ」という主旨の京浜運河開墾意見書を1923年(大正12年)に時の政府に提出大正14年・横浜復興録編纂所「横浜復興録」より)。ちなみに京浜運河の鶴見側の工事は1913年(大正2年)から浅野系の東京湾埋立会社によって開始され、1928年(昭和3年)までに鶴見川河口左岸から横浜港の境界だった川崎の扇町沖までの防波堤建設と、その内側に1万トンの船の航行と錨泊が可能な運河を開削し、その時に発生した土砂で造成した埋立地への工場用地と専用岸壁の建設を完了しており一人ほくそ笑んでいたところ(?)、東京市側から思わぬ反撃に遇うことに。
  それが1936年(昭和11年)に東京府会、市会により承認された横浜に対する意匠返しとも取れる東京側の京浜運河建設工事
 
c0247059_23494520.jpg
*地図③/左が東京市史稿・港湾篇5より1924年(大正13年)の内務省案、右が1934年(昭和9年)横浜市土木局「横浜港」より横浜港平面図を部分拡大した実施案
そもそも京浜間の艀の安全航行が目的なのでキモの部分は羽田沖をショートカットするバイパス運河。
ところがその後の実施案からは削除された、ということは、京浜間の艀輸送云々は考慮されていないということ。


 もともと京浜運河の東京側は、震災後に内務省により地図③左のような計画案が作成され1927年(昭和2年)に東京港修築とセットで承認されたものの折からの金融恐慌のあおりを受けて立ち消えとなり(当時、「京浜運河よりも東京港を!」だった東京市は慢性的な財政難もあり東京港修築に予算を配分することに決定し1930年・昭和5年に東京港修築事業に着手したのは前述の通り)、1928年(昭和3年)に京浜運河会社(この会社は京浜運河開削の為に大正6年に設立されたものの内紛により休眠化していたのを浅野グループが買収した昭和2年・帝国興信所日報部 編 財閥研究 第1輯より)が東京府と神奈川県に対して事業免許を申請したものの大森沿岸漁民との漁業交渉がこじれにこじれたことにより棚上げとなり、それを今度は東京府と神奈川県が直轄事業として実現させようという話なのですが、それはあくまでも世を忍ぶ仮の姿。
 どうやらこの話は国力増強を図りたい政府・内務省と、川崎、芝浦、大森地区に工場を誘致したい神奈川、東京の両府県、浚渫と埋立地造成を先にやってしまいたい東京市の思惑が一致して四者間で話が進められたようで、その計画は品川から川崎まで総延長16キロ弱(東京側約10キロ、川崎側約6キロ弱)の防波堤を築き、その内側を横浜側と同じく1万トンの船舶(内務省案、京浜運河会社案はともに2千トンだった)が航行可能なように浚渫し、この時に発生した土砂で芝浦から大森の海岸を埋め立てて工場を誘致しようという、京浜運河に名前を借りた実質的な東京港拡充工事(1940年.昭和15年に東京港拡充工事と京浜運河建設はセットで内務省の承認を受ける)
 
 これにはさすがのモンスタークレーマー横浜市も、かねてから「東京港より京浜運河を!」と訴えてきた手前もあるし、すでに同じ規格で京浜運河の横浜側を作っちゃってるし、錦の御旗もチラホラ見え隠れしているし、ということもあり、これまでのように条件反射的に反対するワケにもいかず、その対応には苦慮したようで「運河が完成して京浜間の艀輸送が安全便利になれば東京開港を諦めさせることが出来るから大いに結構じゃないか」、「いやいや1万トンの船が航行可能ってことは築港ではないのか」、「京浜運河開削には賛成なんだが東京の計画はなんか胡散臭いし……」と、侃々諤々の議論が交わされたものの昭和11年・横浜商工会議所「京浜運河に関する協議会」より)決着を見ないまま、1938年(昭和13年)に神奈川県により川崎側で、翌年には東京府により芝浦側で相次いで工事に着手(その後、戦争により事業中止になり、終戦により京浜運河建設そのものが事業廃止に)
 
 これを契機に錦の御旗を掲げた東京市は一気に攻勢に転じ、1939年(昭和14年)から政府と国会に対して「早期開港」の意見書、建議書、陳情書を矢継ぎ早に提出し、これに対して横浜市側も「開港反対」の意見書、建議書、陳情書で応じるという陳情合戦が繰り広げられたものの、1941年(昭和16年)3月に時の大蔵大臣と逓信大臣が横浜市側の代表者を何回か呼び出して「東京港開港の必要性」を説いて説得にあたったものの横浜市側はこれに一切応じず。その後も、横浜市側と政府とでたびたび折衝が行われ、最終的に当時、横浜市の財政を圧迫していた震災復興事業として起債した米貨公債返済問題に関して政府が補助金を支出することと引き替えに開港反対の矛を収めることを提案したのに対して、横浜市側は態度を軟化させたものの最終合意には至らず。そこで政府は、5月1日に再び横浜市側の代表者を呼び出して、その場で東京港開港を決行する旨を通告し、その日のうちに「東京港開港」が閣議決定され、東京港築港論から61年後の1941年(昭和16年)5月20日にようやく東京港に開港指定の勅令が下り、この日をもってめでたく東京港は開港することに(以上、昭和17年・東京市「開港記念東京港誌」より

 ちなみに東京港開港時のパンフレット(東京みなと館「開港時のパンフレット」) の表紙には、「見よ我等の東京港」と大書きされているのですが、開港までの経緯を考えるとこの文言は明らかに横浜市に向けての当て付けだと解釈するのが妥当なように思われます(笑)。

 こうしてようやく東京港は開港にこぎ着けたものの、この年の12月8日に日本海軍による真珠湾攻撃で太平洋戦争の火ぶたが切られ東京港拡充事業は中断の憂き目に。

c0247059_23361324.jpg
*⑥1962年に造成された品川内貿埠頭
右に見えるガントリークレーンがある所が1967年に日本初のコンテナ埠頭として整備された品川コンテナ埠頭(1986年撮影)


 そして1945年(昭和20年)に終戦を迎え、横浜港と同様に東京港も米軍により接収されたものの、いち早く接収が全面解除され、戦争で中断していた港湾整備を着実に進め、さらにいち早くコンテナ化に対応し、2013年の統計では外貿コンテナ取り扱い個数は第二位の横浜港を遙か下に見るダントツの全国第一位(横浜と三位名古屋とは僅差なので抜かれるのは時間の問題)、貿易額でも第三位の横浜港に大差を付けた全国第二位(第一位の名古屋と共に二港独走状態)の日本を代表する港となっています。

  
*参考資料
横浜都市発展記念館・横浜開港資料館編「港を巡る二都物語」
東京みなと館-東京港アーカイブ-
ハマ発ニュースレター第21号

以下、近代デジタルライブラリーより(記事中で紹介しなかったもの)
大正15年・東京市「東京市史稿港湾編第4」
昭和2年・東京市「東京市史稿港湾編第第5」
昭和5年・時事新報社経済部編「新日本の工業地帯」
昭和6年・浅野文庫「父の抱負」
昭和16年・帝都日日新聞社「世に知られざる問題の真相」
昭和16年・東京市「昭和16年度版東京市政概要」
そのほかたくさん

ちなみにゼンリンバーチャルミュージアム⇒「公開地図一覧」⇒「昭和中期」⇒「日本図」⇒「1927 東京湾埋立会社埋立地並京浜運河埋立計画平面図」とクリックしていくと、計画当初の京浜運河の平面図を閲覧することができます。






[PR]

by yokohama80s | 2015-05-03 00:10 | 東京・川崎 | Comments(0)


<< 海岸1丁目 ニチレイ芝浦工場      南仲通5丁目 ダイワビル >>