2014年 08月 24日

山下町211番地

関帝廟前の四つ辻から福建路を横浜公園方向に歩いて行くと、ひとつ目の交差点の先にある駐車場に↓

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の、焦げ茶色の廃墟然とした建物が現れます。

倉庫にしては建物の幅が狭いし窓が多いし、かと言って事務所にしては窓が小さいし外光を遮る鎧戸があるし、何かの店だったとしても勝手口風の小さな入口が建物正面にあるだけで、店舗らしい入口は見当たらないし???

ということで、裏手に回ってみると↓

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建物の中心部に階段の踊り場らしい窓があり、二階の窓は両サイドに寄っている、ということは、正面の入口を入った正面に階段があり、中二階の踊り場で左右に分かれて二階へ至る、という構造なのでしょうか?

そうするとこの建物が倉庫だった可能性は低くなりますが、一方で「事務所の窓に頑丈な鎧戸を付ける必要性はあるのだろうか?」という疑問が。

ということで、今度は建物正面に回ってみると↓

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「う~ん、ますますわからん!」

シャッターがある正面入口と思われる開口部の右横に、看板らしきモノを取り付けていた跡があるし・・・・・・↓

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そういえばウラに当時、水町通りと、相生町と、石川町に店があったイタリアンレストランの看板があったけど、どう見てもレストランという感じじゃないし・・・・・・

「う~ん???」ということで、この建物のまわりを見回してみると、この建物の隣りには↓

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ナゾの建物と同時期くらいに建てられたと思われる物置、というか車庫風の建物があり、さらに左手には煙突がポツンと立っていて(一枚目の写真左側にちょこっと写っています)、さらに左手・・・・・・というか、駐車場入って正面には↓

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倉庫なのかビルだったか記憶が定かではありませんがその建物に接するように、切妻屋根の建物があった跡↓

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がクッキリ残っています。
ということは、なぞの廃屋の目の前にかつては別の建物があったということ。

「う~ん、わからん」ということで、今度は建物に近づいてよ~く観察すると、ガラス窓が二重になっていて室内側のガラス窓にはステンドグラスが↓。

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って、まさか占領時代のイリーガルのアングラチャブ屋?

まあ当時、そのての店は当局のご指導に従って(?)すべて本牧あたりでお行儀良く営業していた、などという話はあり得ない話ですし、需要がある所に供給ありですし、その昔は福建路のあたりには米兵相手の飲み屋が軒を並べていたそうですし、昼でも外光を遮れる鎧戸とステンドグラス、ということで撮影当時は「イリーガルなアングラチャブ屋」ということでひとり納得していました。

ということで、今回、改めて調べてみると、戦前の横浜市三千分一地形図には、この場所には横浜市の水道局が、そして手前というか地久門側の213番地には建設局があり、該当すると思われる建物も記載されています。

さらに1944年以降の航空写真を見てみると、解像度が悪い写真ですが辛うじて該当の建物らしいものが確認できますし、1947年の写真にはハッキリクッキリ写っているのが確認出来ることから、この建物は戦前に建てられたということが判明しましたが、戦後の航空写真を見ると、建物の正面にはゴチャゴチャと別の建物が林立状態。

でこちらの中区解体新書の8~9ページにこの場所にあった煙突(一枚目の写真の左側に煙突の上部が写っています)のことが書かれていますが、そこにこの建物がかつて水道局の事務所だったことと、1994年当時はウラに看板が掛かっている某イタリアンレストランの倉庫として使われていたことが書かれています。

しかし水道局の事務所として建てられたとしたら、鎧戸をピッタリ閉めて外光を遮断出来るような構造にする必然性や、窓の大きさなどに疑問が残るし、倉庫だったとしても資材を出し入れするには出入り口が狭すぎるし、かと言ってこの建物が水道局関連の建物だったことは歴然とした事実ですし、それよりもなによりも問題は、終戦後からこの建物が某レストランの倉庫になるまでの間、いったい何に使われていたのか、ということ。

う~ん、イリーガルなアングラチャブ屋説には自信があったのですが、とにもかくにも建物が現存していない現在となっては、あれやこれやの真相はすべて歴史のブラックホールに吸い込まれてしまったワケで・・・・・・。

ということで最後に蛇足ではありますが、上記の中区解体新書にはこの建物に「銃撃の後が残っている」と書かれているので探してみたのですが、確かに建物の壁に開いた穴が確認出来ます。
しかし詳細に見ると、一般的に銃弾は堅いコンクリートに当たった瞬間に潰れるので漏斗状の穴が開くものなのですが、これらの穴は形状がキレイなことや、穴の角度がどう見てもほぼ水平なことから、何かを取り付ける為にドリルなどで人為的に開けられたモノと思われます。

あえて言えば、建物正面右隅の一階と二階の間に二つある粘土をヘラです~っと掻いたような跡が機銃掃射の痕・・・・・・かもしれないね、という感じ。

まあ当時は(今も?)、古い建物の壁に穴が開いていると、なんでもかんでも「戦争中の機銃掃射の痕」にされてましたけどもね。

ちなみに現在、この場所にはマンションが建てられています。


*写真はすべて1981年撮影。



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by yokohama80s | 2014-08-24 00:04 | 山下町 | Comments(2)
Commented by 酔華 at 2014-08-25 21:58 x
私は毎日、この小屋の横の極細路地を通って仕事に通っていました。
最初の頃は何も使われていなかった様子だったのが、
いつのまにかローマステーションの倉庫風になっていました。
私もこの建物と煙突、そしてゼンリンマンション、古い民家が気になっていたのですが、今も残っているのは後者の2つだけ・・・
Commented by yokohama80s at 2014-08-26 00:23
酔華さん
図書館に行って住居地図を見ればたぶん一発で正体が判明すると思うのですが、横着をしてまだやってません(笑)
航空写真を見ると多分、48~49年から70年代前半くらいまで、運送会社の倉庫だったのだろうと思われます。



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