週刊 横濱80’s

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2013年 05月 19日

高島埠頭の市営上屋

高島埠頭の歴史はちょっと複雑。

まず初めに貨物の取扱量が増加したことにより新港埠頭内の横浜港駅と、初代横浜駅ことその後の東横浜駅が手狭になり、新たな貨物駅を建設するために現在のみなとみらい4,5,6丁目あたりが埋め立てられて広大な操車場を持つ高島駅が作られました。

しかしこの時には、まだ桟橋の類は無く新港埠頭側に荷揚場が設けられていただけで、あくまでも高島駅しかありませんでした。

そして震災前の1921年(大正10年)から、横浜港第三期拡張計画として外貿易用として瑞穂埠頭が、内貿易用として山内、高島の両埠頭の新設整備が始まり、高島埠頭として高島駅の東側の埋め立て工事が始まったものの2年後に発生した関東大震災により工事が一時中断。

その後、工事が再開され現在の旧ジャックモールウエストから東に、当時の海岸線から60度の角度を為す形の長さ約140m、幅約30m、3千トンの船舶二隻が係留可能な一号桟橋が1930年(昭和5年)に完成し、そこに横浜市によって1933年(昭和8年3月)に市営一号上屋が完成。

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*1984年撮影(1933年/昭和8年3月に竣工した市営一号上屋)


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*1984年撮影(市営一号上屋全体)


次いで1933(昭和8年)に、一号桟橋から100mほど北東に、長さ約170m、幅約50m、6千トンの船舶二隻を係留可能な二号桟橋と市営二号上屋が竣工(以上、1934年/昭和9年・横浜港概覧より)。

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*1984年撮影(1933年/昭和8年12月に完成した市営二号上屋正面。凸型の断面が切妻壁に残っています)


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*1984年撮影(市営二号上屋全体)


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*1984年撮影(上屋から海まで2m弱しかない高島埠頭二号桟橋)


ちなみに1934年に横浜市土木局が発行した「横浜港」という書物によると、建設当時の二号上屋は外観が一号上屋とほぼおなじく鉄骨モルタル平屋根で断面が凸型で、上屋内の床面を掘り下げて貨物線の線路が2本引き込まれ上屋の床面がプラットホームとなっていて天候昼夜を問わず作業が出来ることが自慢だったそうです。

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1934年横浜市土木局が発行した「横浜港」より


と、ここでひとつ疑問が。
戦前の書物の写真に写っている二号上屋と、80年代に撮影された写真の二号上屋の形が違うこと。

 そこで国土地理院の地図空中写真検索サービスを漁ってみると、1944年(昭和19年)に撮影された写真の二号上屋は凸型なのが確認出来ますが、終戦後の1947年(昭和22年)の写真を見ると建物の形は凸型のままのものの上屋の南側と北側の一部が損壊し、1949年(昭和24年)の空中写真では建物の形が凸型から切妻型(三角屋根)になっています。

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左が1947年、右が1949年に撮影された空中写真


 どうやら二号上屋は1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の空襲により建物の一部が損壊し、80年代の写真では壁に凸型の跡が確認出来ることから1948年(昭和23年)~1949年(昭和24年)の間に損壊部分の修繕を兼ねて建物上部を凸型から切妻型に改築したようです。

 と言うことで話を戻すと、とにもかくにも高島埠頭は桟橋が二つ出来た段階で、太平洋戦争が勃発したことによりその後の工事が中断。

 戦後になって、横浜港は全施設が米軍により接収され高島埠頭が1947年(昭和22年)に他の埠頭に先駆けて日本に返還されたものの、高島埠頭の2桟橋だけでは横浜港の港湾機能回復にはほど遠く、やむなく出田町埠頭を急遽建設することに。

 さらに1950年(昭和26年)から翌年にかけて港内のブイ、山内埠頭、大桟橋、新港埠頭の接収が解除されたものの、それだけでは港湾機能はまだまだ不足。

 そこで急遽、1954年(昭和29年)に二号桟橋の150m北東に建設されたのが、長さ約190m、幅約70mの三号桟橋と、倉庫内の床面を掘り下げて線路を2本引き込んだ三号上屋(みなと博物館に模型が展示されています)です。

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*1984年撮影(三号桟橋基部にて)


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*1984年撮影


 ちなみに当初の横浜港第三期拡張計画では、三号桟橋の隣にもうひとつ四号桟橋が作られる予定でしたが↓

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1934年昭和9年「横浜港」より表高島及山内町地先内国貿易設備図


三号桟橋を作る時に大型船に対応するために桟橋の間隔と、桟橋自体の幅を広げたら四号桟橋を作るスペースが無くなってしまったようで、本来なら四号桟橋が作られる予定だった場所の根元部分に四号上屋が建てられただけで桟橋は作られることはありませんでした。

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1984年撮影(市営四号上屋)


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1984年撮影(市営四号上屋)


 というように、高島埠頭の桟橋はバラバラの時期に建設された為に新しくなるにつれて桟橋が広くなるという状態に。

 このような事情があった為なのか、1980年頃には船が繋船されていたのはほとんどが一番余裕があった三号桟橋で、一号、二号にはごくたまに艀や内航船が繋がれているだけでした。

 ちなみに戦前は横浜港を発着する北海道その他の国内航路や中国、サイパン、グアムなどへ向かう船は、貨物、客船、定期不定期を問わずここ高島埠頭から発着し、その後、寄港場所が大桟橋に変更される1980年ごろまでは東海汽船の大島航路が一号桟橋から発着していました。

 その後、みなとみらい計画により三本の桟橋は撤去された後に埋め立てられ、現在のみなとみらい地区が作られました。

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*1987年撮影(埋め立てられた一号桟橋と右の建設中の建物は横浜美術館)





*2014年3月1日
二号上屋に関する記述を加筆修正し写真を追加しました。

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by yokohama80s | 2013-05-19 00:05 | 高島埠頭 | Comments(3)
Commented by yokohama80s at 2013-05-25 19:15
トロッピーさん、コメントありがとうございます。

おっしゃるように確かに二号上屋と桟橋端までは2mも無かったかと。

「こんなに狭くてよく作業ができるもんだ」と不思議に思ったものです。

ということで、これからもよろしくお願いします。
Commented by トロッピー at 2014-02-23 00:54 x
二号桟橋の通路画像
ありがとうございます
当時小学生だった私には怖くて仕方がないところでした(笑)
先端は建物が斜めになってるんですよね?
Commented by yokohama80s at 2014-02-23 12:56
トロッピーさん、コメントありがとうございます。

二号桟橋の写真、UPし忘れていたのに気がついて先日こそっと追加しました(笑)。

過去の航空写真などで確認すると、斜めになっていたのは上屋ではなく桟橋のようです。
と言っても私にはまったく記憶が無いのですが・・・・・。


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