2013年 10月 20日
三井と言えば言わずと知れた、三菱、住友、安田と共に四大財閥と呼ばれていましたが、戦前までは三井倉庫ではなく「東神倉庫」と名乗っていました。 ということで、ちょこっと歴史を紐解いてみると、東神倉庫の発祥は1909年(明治42年)に三井銀行倉庫部から独立した会社で、戦前には、同じ財閥系の三菱、住友を凌駕し、三井財閥の銀行、物産、鉱山と共に三井直営事業として重要な地位を占めていた、という大企業で(←というようなことが昭和11年発行の「財閥三井の新研究」なる本に書かれています)、1942年に東神倉庫は三井倉庫に改称して現在に至る、という次第。 そして新港埠頭内には旧東神倉庫の建物が左突堤(西突堤)側に生糸上屋、B、F、K、L、Mの6棟あり、↓は、 左突堤の付け根部分の米軍接収区域にあった、「白くて大きな倉庫」こと、戦前の主要輸出物だった生糸を保管していた旧東神倉庫こと三井倉庫生糸上屋。 とにかくデカイ! あまりにも巨大なので、全景を撮影することを初めから諦めています(笑) ↑は、6号岸壁側から。 写真奥の生糸上屋に、アーチが口を開けていますが、昔の地図を見ると、貨物線の線路が倉庫を貫通するように敷かれていて雨に濡れることなく貨物の積み卸しが出来るようになっていたようです。 また上の写真だと文字が消えかかっていて見難いですが、壁の上の方には「TOJIN WAREHOUSE」と書かれています・・・・・・ということは、三井倉庫に改称する1942年以前のままということになります。 そして画面左のノコギリ屋根の建物が旧東神倉庫こと三井F号倉庫で、撮影当時は米軍の"NAVY COLD STORAGE FACILITYS YOKOHAMA"こと直訳すると、「海軍横浜冷蔵貯蔵施設」として、同じ区画内にあった生糸上屋、三井B、F倉庫、新港倉庫A号倉庫ともども、みなとみらい計画で再開発されるまで接収され、生糸上屋内では冷蔵ガス(どのようなガスなのかは不明です冷媒のことだと思います)の製造が行われていました(入り口にそのような表示があっただけで実際のところはどうだかわかりません)。 米軍が生糸上屋と並んで建っていた旧船舶給水所こと横浜冷蔵倉庫との間に渡り廊下的なものを構築して棟繋がりにしてしまった為に↓ 裏から金網越しに見ることしか出来なかったのですが、もともとこの生糸上屋は東神倉庫の横浜支店が併設されていたので、1階部分にはいかにも事務所的な窓があるのですが、戦後この倉庫を接収した米軍により、壁には穴が開けられ、あちらこちらから電線やらパイプやらが内部に引き込まれていました。 ↑上屋のモルタルが剥がれ落ちた壁からレンガ壁が顔を覗かせています。 震災前の設備配置図にも同所に東神倉庫の生糸上屋があったことから、もしかしたら震災で崩壊を免れた部分を利用してこの倉庫を新築したのか、ただたんに耐火性を高めることを目的に鉄骨と鉄骨の間の壁にコンクリートではなくレンガを積んだのか・・・・・・ とにもかくにも、この生糸上屋を見ただけで、当時の三井が生糸貿易にどれだけ力を入れていたかをうかがい知ることができます。
by yokohama80s
| 2013-10-20 00:03
| 新港埠頭
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