2012年 12月 02日
上の写真の建物は、7号岸壁の付け根部分にちょこんと建っていたのですが、この建物を初めて見たとき、「どうしてこんな所に家があるのだろう?」と思って、ガラス越しに中をのぞき込んだりもしたのですが、この時すでに空き家になって建物内はスッカラカン。 結局、何に使われていたのかわかりませんでした。 万国橋を渡ったところに港湾局が設置した埠頭構内図にも記載がありません。 また米軍がなにかの事務所に使うために建てたにしては立派すぎるし、8号上屋側に米軍式のバラック(コチラの上から4枚目の写真)があったし・・・・・・ (81年の写真では七号岸壁に自由に出入りが出来たのですが翌年にはフェンスが作られ出入りが出来なくなって」しまいました) というワケで、この正体不明のナゾの建物については撮影後から今まで、なんの建物だったのかがわからなかったワケですが、先週取り上げた、「どうして7号上屋が無かったのか」を調べていた時に、はからずも正体判明。 参考資料として購入した横浜港ドイツ軍艦燃ゆに掲載されていた、爆発による被害状況の地図に、該当の建物があった場所に第二分室の記載が(注:1934年の税関設備図では"貨物係第三分室"とあるが第一分室の記載は無い)。 さらに事故直後に撮影された写真(P118の写真8)に、屋根瓦がキレイに吹き飛ばされてはいるものの、この建物がこのままの姿で写っています。 ということで、あれやこれやと調べてみると、どうやらこの建物は震災後に新港埠頭内に三棟建てられた税関監所のひとつで、横浜港駅旅客ホームの東京側の四号岸壁側に第一分室(注:1934年の税関設備図では"貨物係第二分室"とある)が、生糸上屋の万国橋側に第三分室があったようです。 しかし撮影時に万国橋にあった「ふ頭構内図」によれば、一号分室は元の場所に(確か最近建てられたような2階建ての事務所があった)、11号上屋の万国橋側に第二分室が(物置のような小屋があったような・・・・・・?)記載されています。 となると、この旧第二分室の建物は、震災後に3棟建てられた税関分室の唯一の生き残り、と考えて良さそうです(同じ仕様の建物を3棟建てたという前提ですが)。 蛇足ですが、1978年度版住宅地図では、該当の建物には"Yokohama area security guard office"と記載されていることから、少なくともこの頃までは三井倉庫の生糸上屋、B号、F号倉庫、新港倉庫A号倉庫、七号岸壁を接収していた米海軍の警備員事務所として使われていたようです。 また現在、この建物があった場所は「客船ターミナル」交差点のど真ん中あたりになります。 ということで、次回は"ドイツ軍艦爆発事故"第三弾として、爆発したウッカーマルク、トールが係留されていたまさに爆心地にあった"8号上屋編"をお送りします(って、またテキトーに写真をUPするだけですが・・・・・・)。
by yokohama80s
| 2012-12-02 00:04
| 新港埠頭
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