2012年 09月 30日
かつては下を大岡川が、現在は首都高の車が流れている花園橋を渡り、大桟橋通りの2ブロック目手前を右に入った所に写真の花園橋病院別館がありました。 上の写真を見て「こんな病院ちょっといやだ」と思った方、ご安心下さい。 写真の建物はあくまでも花園橋病院別館で、この建物と通りを挟んで真向かいの旧ウインクレル商会の裏手にあたる所にちゃんとした病院がありました。 ということで今回、この記事を書くにあたり「その後、この病院はどうなったのかな?」と思いストリートビューを覗いてみると、本館、別館共に該当の場所にはマンションらしきビルが建っていて病院の影も形もありません。 そこで今度はググッてみると、なにやら花園橋病院は1998年にM&Aにより某病院チェーンに買収され、その後、2002年に伊勢佐木町近くの廃業した高層ホテルを改装し病院名を変更して移転したとのこと。 ということで現在、花園橋病院は跡形もなく消えてしまったワケですが、かつて病院があった場所の隣に建てられたビルに病院を買収した法人が開設した診療所がありますので、それがかつてここに病院があった名残ということになるようです。 さらに地元不動産会社団体のHPに、そこに加盟している某社の沿革に「昭和30年に花園橋病院を買収した」と出ているのと、Wikiの1960年(昭和35年)に発生した「横浜歌謡ショー将棋倒し事故」の欄に負傷者の搬入先として名前が挙がっているだけで、後にも先にも花園橋病院の名前は出てきません。 そこで今度は「花園橋病院はいつからあったのか?」ということを調べてみると、横浜市三千分一地形図で見ると、昭和39年版の224番地の建物に「花園橋病院」との記載があるのですが、それ以前の地図には「花園橋病院」の記載はなく、変わりに該当地の該当の建物には昭和25年版には「横浜繊維製品検査場」、昭和7年版には「輸出絹織物検査場」との記述があります。 ただ戦前と戦後(昭和39年=1964年)とでは建物の形状が違うので、国土地理院の地図空中写真検索サービスの空中写真で見比べてみると、一番古い1944年から1977年までの空中写真で同じ形状の建物を確認することができます。 そうなると撮影当時、「花園橋病院別館」だった建物は戦前から存在することになるので、こんどは「輸出絹織物検査場」について調べてみると、1930年(昭和5年)刊行の帝都復興史なる書物に、「生糸検査場の付帯施設として輸出絹織物検査場を大正5年に北仲通6丁目に建設したが震災で全壊。その後、大正15年に山下町に新たに建設。初めは県営だったが1927年(昭和2年)に商工省の管轄となり国営となる」とあります。 また昭和5年度版「横浜商工名鑑」には山下町224番地に横浜輸出絹織物検査所の記載があることから、これらを総合すると写真を撮影した当時に「花園橋病院別館」だった建物は、1926年(大正15年)に神奈川県営の輸出絹織物検査場として建てられ、その後、1927年(昭和2年)に国営化されて商工省輸出絹織物検査場となり、昭和30年前後に建物が民間に払い下げられて花園橋病院に。 その後、1970年頃に花園橋病院は別館向かい側に建てられた新館に移転し、旧輸出絹織物検査場の建物は、どのような経緯かは不明ですが「片岡ビル」という賃貸ビルとなったものの、これらの写真を撮影した1980年頃には「片倉ビル」から花園橋病院別館となり病院の車庫兼倉庫として使われたものの、1981年~1982年に建物は取り壊され、現在、同地に建っているマンションの建設が始まり現在に至る、ということになるようです。 *写真は三枚とも1981年撮影
by yokohama80s
| 2012-09-30 00:02
| 山下町
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