2013年 03月 24日
80年代当時、大桟橋通りの日本大通入り口交差点の角、三井物産ビルがあるブロックの山下町側の現在、一階にコンビニのあるビルが建っている角地に奇妙な建物がありました。 一階部分の窓枠のすぐ下まで地中に埋まって半地下状態になっているので、一階半建てとでも言うのでしょうか??? それだけならまだしも、この半地下部分は建物左側はコンクリート造りの1階部分より先は屋上(?)に、右側部分にはコンクリート造りの1階部分に接続するようにトタン張りの小屋(?)を建て増しした状態で、それぞれ隣の建物間際まで伸びています。 要は、半地下部分の方が1階部分より大きいというヘンな構造の建物でした。 そこでちょっと調べてみたのですが、日本建築学会のデーターベースでは「アメク貿易(「アクメ」の誤植と思われる)、明治35年築、レンガ造」とあり、中区史ではこの建物の写真に「旧露清銀行」というキャプションが付けられています。 そこで今度は「露清銀行」でググると、どうやらこの建物は1902年(明治35年)にロシア、フランス、清により設立された露清銀行の横浜支店として建設されたもともとは地下一階地上二階建て煉瓦造りドーム付きの建物で↓ 1910年(明治43年)に露清銀行がフランス系の北方銀行と合併し露亜銀行と改名し、1921年(大正10年)に山下町51番地(現280番地)に現存するかの有名なバンク・ド・ロアの建物に移転した、っと。 その後にこの建物の主となったのが、1905年(明治38年)に横浜に支店を開設したドイツ系の独亜銀行なのですが、この銀行がいつからこの建物を使用するようになったのかは不明です。 ただ第一次大戦で、日本がドイツに宣戦布告したのに伴って大蔵大臣が独亜銀行に閉鎖命令を出したという1916年(大正5年)の新聞記事に、この銀行の所在地として震災前の日本大通17番地に該当する山下町180番地(1928年/昭和3年に分町するまでは、現在の日本大通は山下町170~184番地だった←正確には160番代後半あたりからなのですが、まあ「おおまかに」ということでご勘弁をw)と記されていることから、どうやら露清銀行が露亜銀行になったのを機に露亜銀行がこの建物を出て、入れ代わりに独亜銀行が支店を構えたものと考えるのが妥当なようです。 そして関東大震災により元の建物が上の写真の半地下の窓枠より上の部分(元の建物の基礎部分になるそうな)から上が跡形もなく崩壊し、その後、残った半地下部分(写真でいうと半地下室の窓の上方にあるチューブ状の飾りより下が明治35年築で半地下室部分は建設当時のままの状態だったそうです)の上部にコンクリート造りの1階(2階?)と玄関を再建したそうな。 しかし独亜銀行は1930年(昭和5年)に横浜支店を閉鎖し、1932年(昭和7年)の神戸支店閉鎖をもって日本から撤退しているので、再建された建物を独亜銀行が使用していたか否かについて定かではありません。 とにもかくにも県立図書館のHPから見ることができる1937年(昭和12年)の地番・地目・地籍・地価・所有者名などを記載した横浜市の土地宝典によると、日本大通17番地の土地所有者は独亜銀行ではなく、後に取り壊される時のこの建物の主だった朝日生命に吸収合併される日本共立生命の所有となっていることから、とにもかくにも独亜銀行撤退後は保険会社に所有権が移ったものと思われます。 そして終戦後は焼け野原となった関内地区一帯に設けられた車両置き場を管理していた米軍の横浜モーターコマンドのオフィス→1948年~1952年までの間は米軍の兵卒向け娯楽施設クロスロード・クラブ→再び元の保険屋さん→上の写真の看板が出ている某婦人服輸入商社→再び元の保険屋さん→1987年頃に取り壊されて現在のビルに建て替えられる、という流れになります(「建物の使用者が」という意味で所有者は前述の生命保険会社だったと思われます)。
by yokohama80s
| 2013-03-24 00:02
| 日本大通
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